2-10
本来、午前中に座学、午後には実技の修行があるようだが、まだ自分の神通力について詳しく教わっていないため、午後の実技は免除されるとのことだった。その代わり、下女に混じって屋敷の掃除をするように仰せつかった弥胡は、雑巾片手に回廊をうろついていた。
敷地内を歩き回れるのは都合がいい。どこに門があり、何人くらいの衛兵がいるのかなどを、不審に思われない程度に確認しながら歩く。
渡り廊下を通って牛車を保管している車宿の近くに来ると、どこからか鼻歌が聞こえてきた。声の主は男のようだが、辺りを見渡しても人の姿は見えない。じっと耳を澄ませると、弥胡はそれが自分が立っている渡り廊下の屋根の上から聞こえていることに気付いた。
素足が汚れるのもかまわず地面に下り、屋根を見上げて思わず声を上げた。
「あっ!」
屋根の上には、頭に幾重もの布を巻きつけた人物が独りで座っていた。鼻歌に合わせて身体を揺らし、いかにも楽し気である。
(あれは……ダウィル!)
牢に観光に来ていた、あの不思議な男に違いない。門には衛兵、塀には物見やぐらがあるというのに、どうやって敷地内に入ったのか。あんなところに座っているのに、誰も気に留めないのだろうか。
弥胡の視線に気付くと、ダウィルはこちらを振り返った。
「あっ、弥胡!」
嬉しそうに破顔すると、彼はおもむろに立ち上がり、屋根から飛び降りた。
「あぶな……っ!」
背筋がゾッと粟立った弥胡の気も知らないで、彼は優雅に着地すると、唇を尖らせながら腰に手を当てた。
「も~! 急にいなくなるから、探したんだよ!」
「探してたの? わたしを?」
「そうだよ。だって、また会いに来るって言ったでしょ」
それは覚えているが、まさか翌日に訪ねてくるとは思わなかった。しかも、牢から移動させられたのは弥胡の意思ではないのだが、何となく悪いことをしたような気になる。
「ご、ごめん」
「また会えたから赦してあげる。ふふっ」
弥胡の頭を撫でる。髪がくしゃくしゃになるので、できれば止めてほしい。
「今日は綺麗なおべべ着てるんだね。それに、いい匂いもするね。かわいい!」
「あ、ありがとう……」
弥胡はダウィルをじっと観察した。
一昨日はよく見えなかったが、日の下で見ると、彼の肌は白粉をはたいたように白く、程よい厚みの唇は桃色だった。眼窩には相変わらず炎のような鮮緑の光が揺れている。
頭に巻いた布から金色の髪が少しはみ出していて、日差しの中でキラキラと輝いていた。先日と同じように肩に大きな布を巻いているが、その下の着物は見たとこもないような仕立てだった。
この国の着物は大きな布を身体の前で交差させ、上から帯で押さえいるが、彼が着ているものは、体形に合わせて布を裁断し、縫い合わせたようだ。袖がなく、淡い黄色の生地に深緑の糸で精緻な刺繡が施されている。深緑色の袴のようなものは足首が窄まっていて動きやすそうだ。腰には髪と同じ金色の帯を巻いている。
腕や指と同じように、首にも銀の首飾りを多数下げているので、動くたびにシャラシャラと音が鳴る。
(すごい装飾品の数……。重くないのかな)
これだけの銀製品を身に纏っているからには、相当な家の子息なのだろう。神力使いの家の放蕩息子といったところか。
弥胡が顔を引きつらせながら黙っていると、ダウィルは小首を傾げた。
「ん? どうかした?」
「えっと、ここで何してるの? また観光?」
「そうだよ! 弥胡を探していたんだけれど、ついでに色々見学もしたんだ」
「よく見つからなかったね……。どうやってこの屋敷に入ったの?」
「ひ、み、つ!」
ダウィルは片目を瞑って、無邪気に宣う。
侵入方法は教えてくれない。であれば、回りくどく訊くのではなく、核心を突いた方がいいのだろうか。
「……ダウィルは神力使いなの?」
「あっ! 色々学んだんだね? 偉いねえ」
ダウィルは、まるで幼子が初めて歩いたのを見たかのように破顔し、よしよしと弥胡の頭を撫でた。
思わずムッとして声を荒げる。
「あの、はぐらかさないで!」
「え~、そんなつもりはなかったんだけどなぁ」
「ダウィルは神力使いなの?」
「ん~、ある意味そうかな」
「じゃあ、ダウィルもこの屋敷で生活してるの? 神力使いの巫覡なんでしょ?」
「違うよ~! 僕は巫覡じゃない。だから、この屋敷にも住んでいない」
ダウィルは歌うように答える。弥胡の周囲をくるくる歩きまわる様は、舞っているようだった。
「でも、神力使いだって言ったよね?」
「ある意味、って言ったでしょ?」
「それって、どういう意味?」
「んふふ、まだ教えてあげないっ!」
ダウィルは口の両端を上げる。
(……色々教えてくれるって言ったのに)
こちらを揶揄うような態度が気に入らない。眉間に力を入れて口を尖らせると、ダウィルは微笑みながら、指で弥胡の眉間を揉みほぐした。
「も~、怒らないでよぉ。だって、すぐ答えが分かったら、面白くないでしょ?」
「面白いとかそういう問題じゃないと思う」
敵ではなさそうだが、味方なのかも分からない。そういう白黒はっきりしない状態は、落ち着かなくて嫌だ。
「え~、そういう問題だよ。どうしよっかなあ」
ダウィルは顎を人差し指でトントン叩いて何か考えていたが、急に何か閃いたように両手を合わせた。
「じゃあ、こうしようよ! 僕の正体を弥胡が言い当てられたら、ご褒美にいいものをあげる」
「いいもの……?」
「うん。何かは教えてあげないけど、いいものだよ。今日はこれをあげるから、我慢して。え~っと、どこにしまったかなあ」
彼は肩に巻いた布の中に手を突っ込み、何かを探すようにしばらくゴソゴソまさぐった。
「ああ、あった。これこれ! はい、あーん」
ダウィルは油紙に包まれていた揚げ菓子を一つ差し出した。あんなところに物を収納する場所があったのか。
――「あーん」とは、何だろう。
意味が分からずポカンとしていると、開いた口に菓子を無理やり押し込んできた。
「えっ……むぐぐ!!」
仕方なしにもぐもぐと咀嚼する。貧しい家で育った弥胡は、揚げ菓子など食べたこともなかったが、吃驚するくらい美味しい。米粉を練って油で揚げたもののようだ。贅沢な味がする。
思わず目を見開いた弥胡を見て、ダウィルは嬉しそうに微笑む。気持ちが高揚しているのか、双眸の光がより一層強く燃え盛った。腕輪で精気の吸引を制御されていなければ、きっと彼特有の清水のような歓喜を感じられただろと思うと、少し残念になった。
「美味しい?」
こくりと頷くと、もう一つ差し出してくる。今度は自分で受け取ろうとしたが、弥胡の指が菓子を摘まむ前にダウィルの指が弥胡の口に突っ込まれた。ムッとして睨みつけたが、彼は気にする様子もない。弥胡がもぐもぐしている間に、鼻歌を歌いながら菓子をもう一つ取り出して、いつでも突っ込めるように準備している。
結局、菓子が全部なくなるまで給餌され続け、終いには口の端を彼の肩布で拭われた。まるで甲斐甲斐しい妻か、幼子の世話を焼く母親のようだ。
「あーあ、なくなっちゃったぁ……」
ちぇっ、と残念そうに肩を落とす。空になった油紙を肩布の中に押し込むと、ダウィルは名残惜しそうに弥胡の手を掴んだ。
「今日はおやつをあげる時間しかないんだ。また美味しいもの持ってくるから、いい子にしててね?」
どうやら、本気で弥胡を餌付けしようとしているらしい。扱いがまるきり野生動物だ。まあ、美味しいものはいつでも大歓迎だけれど、給餌は遠慮したい。一体何が面白くて、彼は自分を構うのだろう。貧相な見た目だし、愛想がないことも自覚している。
「ちゃんといい子で待ってるんだよ?」
返事がないことに焦れたのか、まるで犬にでも言い聞かせるように、屈んで弥胡と視線を合わせる。わしゃわしゃと頭を撫でられた。
「わ、分かったから」
「ふふっ。じゃーね!」
ダウィルは踊るように身を翻すと、シャラシャラ音を立てつつ歩き出した。車宿の角を曲がる直前で何かを思い出したように立ち止まり、ひらひらと手を振って、今度こそ建物の角に消えていった。
前回と同じく、急に現れては気ままに去っていく。弥胡より年上に見えるのに、天真爛漫で幼さの残るあの態度。まるで穢れを知らない童を相手にしている気になる。
「ダウィル、あなたは一体、何者なの……?」
監視の目をかい潜って牢屋敷に侵入したり、屋根の上で寛いだり。
――巫覡ではないと言っていた。
確かに、神庁で管理されている巫覡なら、力を制御する腕輪をはめられているだろうから、あんなに煌々と輝く双眸は説明が付かない。
――妖人でもないということは、どこかに仕える身分だということだ。
しばらく考え込んで、長い溜息を吐いた。
(ここで悶々と考え込んでいても埒が明かない)
また会いに来ると言っていた。素直に教えてくれないなら、交流を続けて少しずつ彼について探っていくしかない。
「ちょっと、そこの巫女! さぼってんじゃないよ!」
渡り廊下から不機嫌な声が聞こえてきた。弥胡は振り返って声を上げる。
「はーい!」
キュッと雑巾を握り、足早に歩き出した。




