2-5
男たちに連れらて、歩くというよりは、引きずられながら移動すると、前方に大きな建物が見えてきた。屋根が大きく張り出していて、庇が建物の外壁を囲むよう巡らされた板敷の回廊の上まで覆っている。等間隔で木製の灯篭が吊り下げられていた。
(ここは、お貴族様のお屋敷……?)
貧しい生まれの弥胡には、ここがどこなのか、見当もつかなかった。ただ、目に入るもの全部が上等なものであることだけは分る。
建物の入口でまず、履物を脱がされた。付き添いの男に抱えられて階を上がり、そのまま通路を進んで、突き当りにあった、頑丈そうな扉を潜って中へ入る。中には等間隔で戸がいくつも並んでいた。男はその中の一つを開け、弥胡を床の上に降ろした。
「ここから出てはならん」
憮然と言い放つと、男は戸を閉めて去っていった。閂を下ろす音が聞こえたので、閉じ込められたのだろう。
――わたしの身に何が起こっているのか、何故ここへ連れてこられたのか。
訳が分からず、弥胡は部屋の中を見渡した。あまり広くはないが清潔に保たれている。壁は白く塗った土壁で、高い位置に窓があった。格子はないが、あの大きさでは人が通り抜けることはできなさそうだ。
床の片隅には敷物のようなものが置いてある。大きさは大人が一人寝そべっても十分なくらいだ。匂いからしていぐさでできているようだが、見たことがないので、平民には手が出ないような値がするのだろう。敷物のそばには行李と、小さな棚が置いてある。棚の上には木製の木箱が載っていた。
弥胡は力なく床を這って移動し、敷物の上に身を投げ出した。厚みがあるので、床の上に寝転ぶより、断然寝心地がいい。
(ここは、囚人の居房……? でも、囚人の扱いなら、身体を洗われたり、小奇麗な部屋に移す意味はないだろうし)
意図を測りかねていると、戸の外で閂を外す音がした。視線だけ動かすと、部屋の中に入ってきた二人と目が合った。三十路くらいの女と、まだ若い少女だ。
少女の方は弥胡と同じか少し下くらいだろうか。弥胡が着せられているのと同じ白い着物に唐紅の袴を穿いている。色白でふっくらとした顔にはそばかすが散っていた。つり目がちで、何となく猫を彷彿とさせる。この国では珍しい茶褐色の髪を後ろで束ねている。
「まあ!」
少女は非難めいた声を上げた。
「姉巫女が訊ねてきたっていうのに、寝転がって出迎える人がありますか!?」
言うなり、足音荒く弥胡のそばに寄ってきて、力任せに腕を引っ張り上げた。上体を起こして何とか正座すると、少女は満足気に頷いた。
少女の背後にいた三十路くらいの女が顔を顰めた。目の下に黒子のある美人で、白の着物に蜜柑色の袴を穿き、上に青磁色の袿を羽織っている。
「三明、気持ちは分かりますが、ちょっとお待ちなさいな。その子はまだここに連れてこられたばかりで、自分がどういう状況に置かれているのかも理解していないのですよ」
三明と呼ばれた少女は、不承不承といった風に一歩下がった。それを見て女は頷き、弥胡の前に座った。
「まず、畳から下りなさい」
「畳?」
「あなたが座っている、その敷物のことです」
弥胡は言われた通り、寝転んでいた畳から床へ下りて正座した。
「あなたより年上か、在籍年数の長い者の前で畳に座ってはなりません。いいですね?」
穏やかだが有無を言わせない女の声に面食らいつつも、弥胡は頷いた。
「わたくしは桜香と申します。あなたの名前は?」
「……弥胡」
「弥胡。あなたは明日より、ここで巫女として修行し、朝廷に仕えていただきます。今日は疲れているでしょうから、詳しい話は明日、三明から教わってちょうだい」
「朝廷? 巫女って、何? わたしが妖人だから、ここへ連れてこられたの?」
弥胡は眉をひそめた。桜香は涼しい顔で弥胡を見返してくる。
「わたくしにそのような言葉遣いをしてはなりません。わたくしはあなたより、年齢も地位もずっと上なのですよ」
「そんなことを言われても、わたしは高貴な口の利き方なんて知らない」
弥胡が言い放つと、桜香は小さく溜息を吐いた。
「……山に潜んでいたと聞いていますから、仕方のないことなのでしょうけれど、これから口の利き方も学ばねばなりませんね。巫女は祭事にも従事しますから、貴族と接することもありますし」
「巫女が何だか知らないけれど、そんなものになりたくない! わたしは山小屋へ帰りたい」
憎しみを隠さずに桜香を睨みつけると、彼女の背後に控えていた三明が息を呑んだ音が聞こえた。
「あなた、何てことを……!」
桜香は片手をあげて、三明の言葉を制した。
「弥胡、あなたは特殊な力を持っているが故に、保護されました。巫女として登録された以上、ここから出ることはなりません」
「勝手なこと言わないで! 宵慈を殺したくせに!! 返して、宵慈を返してよ!!」
――いきなり山小屋に押しかけてきて、矢を射かけてきたくせに。弥胡を守ろうと必死だった宵慈を殺したくせに。
あの慎ましくも優しい生活が好きだった。優しくて愛しい妖獣と寄り添って暮らしていきたかったのに、何もかも、突然現れた鬼畜に奪われたのだ。こんなもの、保護ではなく、拉致ではないか。
赤黒く染まった宵慈の姿は、今でも瞼の裏に焼き付いている。
悔しくて、憎らしくて、心が破裂しそうだ。
ぼたぼたと涙がこぼれ落ちて硬い床にぶつかって弾けた。ギリギリと奥歯を噛み締めて桜香を睨め付ける。
「わたしの大切な宵慈を奪ったあんたたちを、わたしは一生、赦さないから……!」
「……あなたが狼を飼っていたのは聞きました。ですが、その狼に、こちらの兵士も一人命を奪われているのですよ。それについては何も感じませんか?」
「あいつが先に手を出したんだ! 宵慈はわたしを守ろうとしただけだよ! いきなり襲ってきたくせに、反撃される覚悟もなかったって言うの!?」
宵慈に喉笛を喰いちぎられた兵士は死んだのだろう。彼が味わった苦痛や、残された家族の無念を考えると思うものはある。しかし、相手は武器を持っていて、弥胡の命さえあれば、どんな怪我を負わせても構わないという態度だった。そんな奴が命を落としたと聞いても、罪悪感を覚えるような優しさは、生憎と持ち合わせていない。
桜香は無表情にしばらく弥胡を見つめた後、重い溜息を吐いて立ち上がった。
「少し頭を冷やしなさい。夕餉は運ばせますので、ここでお食べなさい。明日の朝、三明が迎えに来ます」
桜香が三明に目くばせすると、二人は連れだって部屋を出ていった。
部屋に独りになると、畳の上に蹲って泣きじゃくった。嗚咽で息をするのも苦しい。
「宵慈、宵慈……」
こんなところに連れてこられるために、宵慈は犠牲になったのか。
家族には疎まれ、捨てられた。穏やかな暮らしは力づくで奪われて、加害者は保護してやったから感謝して仕えろなどと理不尽を強いてくる。貴い身分の者にとって、弥胡など、配慮してやる義理もない塵以下なのだろう。
(いつかきっと、ここから出てやる。何年かかってもいい)
そして宵慈が最期を迎えたあの場所へ戻り、弔ってやるのだ。
――そのために、今は情報が必要だ。
ここが何処なのか、敵は誰で、自分に何を求めているのか、そして自分には何がができるのか。それを見極めるために、利用できるものは何でも利用してやる。
憎しみを燃やし、固く心に誓った。