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ハッと格子を振り返ると、男は床に屈みこんだまま、嬉しそうに弥胡を見つめていた。
「ふふっ。かわいいなあ。こういうのって、餌付けっていうんでしょ?」
まるで人を野生動物のように言う。
弥胡はごくりと唾を呑み込んで、恐る恐る訊ねた。
「あ、あなたは……、よ、妖人……?」
男はこてりと首を傾げた。
「妖人? ああ、この国には、エーレムや特殊能力者にも色々呼び方があるんだったね! ちゃんと知ってるよ。何たって、僕は民俗学者だからね!!」
ふふんと笑って、自慢気に胸を逸らす仕草が妙に幼く見える。自信満々に宣言してもらったが、申し訳ないことに、弥胡に理解できる単語はひとつもなかった。
「えーれむ? とくしゅ……? み、みん……??」
「あれ? 君、知らないの? じゃあ、僕が教えてあげるよ!」
男は呆れるでもなく、いそいそと床に胡坐をかいて座り、かしこまった様子で指を一本持ち上げる。何だかちょっと嬉しそうに見えるのは気のせいではない。彼から伝わってくる感情が物語っている。
「エーレムっていうのは、大陸の言葉で、『神力使い』って意味。でも、この国では神力使いも所属先によって呼び方が変わるんだって!」
「……は??」
弥胡は乱暴に知識を与えられたことで混乱していた。『神力使い』なんて言葉は聞いたことがない。
そもそも、弥胡のような平民の子供は字の読み書きすらできないのだ。商人なら読み書きと簡単な計算くらいできようが、漁師の娘だった弥胡には生きていくのに最低限必要な知識しか備わっていないと言っても過言ではない。
もっとも、弥胡は臥せっていることが多かったため、同年代の子供よりものを知らないのかもしれないが。
「国や地域で色々呼び方が違うから、よくこんがらがるんだよね~。あはは! すっごく面倒くさいよね!?」
何の話をしているのかも分からないのに、同意を求められても困る。
困惑が表情に出ていたのか、弥胡の顔を見ると、男はぶふっと吹き出した。
「はははっ、全然分かってないって顔! かわいいなあ」
嬉しそうな彼の声に刺激されたように、ふわりと温かくキラキラした感情が胸から湧き上がった。
――何て心地の良い感情だろう。
弥胡は先ほどから感じていた違和感の正体にやっと思い至った。
他人の感情は、澱んだ池の水に潜るかのように不快に感じることが多いのだが、この男から流れてくる感情は、今までに感じたことがないほど澄み切っているのだ。
それが彼の醸し出す無邪気な雰囲気と相まって、張りつめていた警戒心が徐々に緩んでいった。
「……よく分からなかったけど、つまり、あなたは妖人じゃないの?」
「うーん、まあ、結論だけ言うと、僕は妖人ではないかな」
「じゃあ、あなた、誰?」
「僕の名前? うんとね、ダウィル!」
「ダウィル……」
この国では聞きなれない響きだ。人間か妖人かはともかく、大陸の者で間違いないだろう。先ほども「大陸の言葉で」という言い方をしていたし。
――訊きたかったのは名前ではなく、どこの誰なのかということだったのだけれど。
「君の名前は?」
「……弥胡」
「ヤコ? ふふっ、よろしくね」
人懐っこく微笑むダウィルに、小さく頷き返す。彼は自分を妖人ではないと言った。しかし、灯篭のような目をしているので、確実に人間ではないだろうが、弥胡に対して悪意を抱いていないことは明らかだった。
「――ここで、何をしているの?」
訊ねると、ダウィルはくすぐったそうに笑った。
「何って、見物してたんだよ。この国の人って、どんな風に生活してるんだろうって興味があったからね! 観光、っていうのかな!?」
見物していた、しかも、魚までかじりながら……。まるで見世物小屋にでも立ち寄ったかのような気軽さに面食らう。
しかも、ここは牢屋敷だ。決して気楽に観光に訪れるような場所ではないし、まして市井の人間の生活を見られるような場所ではない。先ほどから、ダウィルの感覚が妙にずれているような気がしてならない。大陸の者と神波国の者の違いなのだろうか。
改めてまじまじとダウィルを見ていると、彼は何かに気付いたように立ち上がった。
「おや。誰かくる気配がするから、僕はこれで失礼しようかな」
ハッとして廊下を見ると、向こうから明かりが近づいてきているのが見えた。
「また来るね、弥胡。君とはもっとおしゃべりしたいし、色々教えてあげたいんだ」
ダウィルがひらひらと手を振った直後、再び暗闇が訪れた。目が慣れずに戸惑っていると、シャラシャラと装身具がぶつかり合う音が、牢の入口の方へと移動を始めた。
「あ……!」
弥胡は手探りで床を這った。格子に手をかけて、可能な限り顔を覗かせる。
彼はここへ見物に来たと言っていたが、どうやって牢番の目をかい潜ったのだろう。このまま行くと、向こうから歩いてくる者と鉢合わせしてしまうのではないか。
冷や冷やしながら見守る弥胡を尻目に、ダウィルは鼻歌を歌いながら進んでいく。そして、とうとうその歌声も聞こえなくなった頃、牢番が弥胡の居房の前までたどり着いた。汗臭い体臭に乗って、へどろのような嫌悪感が流れ込んできて、思わず顔を顰めた。吐き気がこみ上げてくる。慌てて精気の吸引を制御したが、僅かに遅かったようだ。
そんな弥胡を見て、牢番は床に唾を吐いた。
「何だ、起きていやがったのか。近寄るんじゃねえよ、気味の悪い」
嫌そうに吐き捨てて、牢番は来た道を戻っていった。
牢番は確実にダウィルとすれ違ったはずなのに、彼に気付いた様子はなかった。
――あれは、物の怪? それとも、幻だったのだろうか。
床に横たわり、じっと目を瞑る。
ダウィルの歓喜は澄んだ池に浮かぶ蓮の花のように、胸の内にキラキラと咲いた。
(また、来るって言ってたけど……)
その頃、自分は、どこにいるのだろうか――。