序章
夏だというのに、急に風が冷たくなった。
頭上の木々が強風に煽られ、ざわざわと葉擦れの音がする。葉が曇天に舞うのを見て、男は目を眇めた。
崖の上に設置された物見やぐらの手すりを掴み、身を乗り出すようにして目を凝らす。少し離れた海岸で、荒波が岩肌に激突し、海水が白く打ち上げられて千々に散っていくのが見えた。
――どうやら、嵐が来るらしい。
大陸から海を隔てて東に位置するこの島国は、初夏から秋にかけて波が荒れ、他国の人間が近づくことは容易ではない。そのため、この国の住人は自国のことを、神の波に守られた国という意味で「神波国」と呼んでいた。嵐は外敵から国を守る神の加護であるが、時として甚大な被害をもたらす諸刃の剣である。
「チッ、酷くなる前に、あのおんぼろ長屋を補強しなくちゃな。さっさと仕事を終わらせるか」
男は踵を返すと背後の木造の建物へと入っていった。
建物の中は昼間だというのに仄暗い。燃料節約のため、廊下に灯りは設置されていないので、入り口で手燭を受け取ってから暗い廊下を進んだ。床を踏むたび、ぎしぎしと音が鳴る。
廊下の左脇には、男の腕ほどの太さの堅い格子で外界と遮断された、頑丈な居房が並んでいる。そのうちのいくつかには囚人が一人ずつ拘置されており、通り過ぎる男を見上げる者、無反応な者、様々だった。
男が牢番を務めているこの牢屋敷は、都からほど近い上位貴族の領地内の、海に面した高台の上に建っていた。塀で囲われた敷地内には七つの建物があり、身分に応じて収容される牢を分けられている。
詳しいことは聞かされていないが、男が担当しているこの牢に囚われている者は身分に関わらず、衆目に晒してはならないような特殊な背景を持った者だという。
本来なら男女は別々の建物で拘置されるが、この牢では囚人は独房を与えられるため、性別を問わず収容されている。その拘置期間は大抵短く、早ければ一日、長くとも数週間の内に貴族に仕える巫女や巫覡が来て、何処かへ連れていった。
囚人の行先は教えられていないが、知りたいとも思わない。首と胴体が繋がったままでいたければ、好奇心を持たず、与えられた仕事を淡々とこなすのが一番賢いやり方だ。
歩を進めるにつれ、これから向かう居房に収容されている囚人のことを思い出す。徐々に男の胸中に嫌悪感と苛立ちが湧き上がった。
「帰り際に俺の番が回ってくるとは、不愉快な……」
男は顔をしかめて独り言ちた。
最奥の居房の前で立ち止まる。中を照らすため、手燭を僅か上に構えた。
居房の中には小柄な人物がうつ伏せに横たわっていた。長い黒髪はぼさぼさで光を失い、脂じみている。擦り切れた朱色の着物から覗く手足は細く、明かりに照らされた肌は垢と埃で汚れていた。
「おい、起きろ」
嫌悪感が露わな男の声に、横たわっていた人物はピクリと身を震わせた。
「起きろ、さっさと顔を上げるんだ!」
イライラと命令すると、その人物は上半身を起こし、男を見上げた。
まだ幼い少女だ。瘦せこけた頬のせいで、目だけ異様に大きく見える。動いた拍子に眼球が眼窩から零れ落ちてしまいそうだと思った。
少女がここに連れてこられたのは、数日前だった。その時はすでに身体も着物も汚れきっていた。囚人はもちろん、清拭などしてもらえない。少女が身動ぎするたび、汗と頭皮の脂っぽい臭いが鼻をつく。男は思わず顔を背けた。
ここでは、朝餉と夕餉の時間を除く一日二回、牢番が巡回している。そのたびにこの少女の様子も確認するが、居房に入れられて以降、こうして床に伏してぐったりしている姿しか見たことがなかった。
何とも不気味な子だと思う。顔つきは凡庸としているようだが、何せぼさぼさの髪で隠れているうえに、埃と垢で汚れているため、どんな容姿なのかはっきりと判別できない。十歳程度に見えるが、栄養不足で発育不良の疑いがあり、実際の年齢はわからなかった。その黒い瞳には生気がなく、どろりと濁っていて、どこか死んだ魚を彷彿とさせる。
顔を見せたのも束の間、上半身を支え続ける力がないのか、少女はすぐさま床に倒れこんだ。
再びうつ伏せになった少女は、苛立たしげに言った。
「あっちへ行け!」
少女の吐き捨てるような言葉にカッと頭に血が上り、男は足で格子を蹴った。
「餓鬼が、調子に乗るなよ!」
男の怒気に触発されたかのように、少女は顔だけ上げると、肺が破れんばかりの大声で叫びだした。薄汚れた顔は憤怒で歪んでいた。
「うるさい、黙れ! 黙れぇぇぇ!!」
激高したように繰り返す彼女の声には、何とも形容しがたい不気味な響きがあった。
男の両腕に鳥肌が立つ。
「腐芽苦が……!」
男はフンと鼻を鳴らし、そそくさとその場を後にした。