昭和の子供のひとり歩き
ちょっとした言葉からそれ以上の何かに気付いたのは、いつの頃だったろうか。
少し前にHSPという言葉を知った。生まれつき「非常に感受性が強く敏感な気質をもった人」という意味で繊細さんとも呼ばれる。
私は人混みが嫌いだ。音にも敏感。ちょっとしたことで飛び上がるほど驚く。他人と共同で何かをするより、一人で黙々と作業するのが好き。物事を深く考えてしまう。正義感が強い。
これはHSPの特徴の一部と言えるだろう。今までそれが原因でまわりと気まずい思いをしてきたのも事実だ。「あなたは重箱の隅を突くような人」と言われたこともある。
今、HSPが認識され気持ちは落ち着いたが、それを自ら発して保険をかけるのも惨めではないか。だが、良かれと思ってしたことを相手がどう思っているのか、ウジウジ悩む自分にも嫌気がさす。
さて、大人になって更に繊細さんになった私の子供時代はどうだったのか。振り返ってみた。
♦記憶
人生100年時代と言われる昨今、遠い道のりのような気もするが今の世の中どうなるかわからない。
仮に100歳まで生きるとして、思い出は泡がはじけるように消えていくのだろう。残った泡も、ところどころが妄想に置き換えられるのかもしれない。
本当のことだと思い込み、子どもたちに追及されれば、ごまかしもする、90歳を超えた母の今に私の未来が重なる。
もし頭の中にUSBが埋め込まれ、記憶が蓄積されたらと想像してみる。良い思い出、悪い思い出、普通の思い出、どれかが何かの拍子に頭に浮かんだら、それはそれで息苦しい日常になるだろう。
♦白黒写真
一番初めの記憶は何だろうか。まぶたを閉じると胸の真ん中がじんわりと温かくなる。実家に残っていた何枚かの白黒の写真が思い浮かぶ。父の死によって同居を始めた母と私。その際の引っ越しで、どこかに紛れ込んでしまった古いアルバムの中にそれはある。
白い枠のやや小さめの写真。お座りができているところを見ると生後半年、秋の終わりである。私は庭に敷かれたゴザの上で短い足を投げ出し、ぷっくりした手でビスケット?を握っている。光の加減か黒光りしたおでこが、やけに目立つ。白黒でも赤いほっぺが想像できて笑ってしまう。
次は、はとバスでの記念写真。全体に霧がかかっているかのような淡い灰色。立派な橋の上、大勢の大人の中で椅子に座っている私。顔を正面に向けた兄に肩を押さえつけられ、それでも半身を乗り出し片足だけが地面に着いている。半開きの口、頭には不似合いなリボン。カメラ目線に必死さが見てとれる。2歳くらいだと思う。隣には子供らの様子に気づかず、一点を見つめる若い母がいる。
この2枚、撮られた時の記憶はない。当たり前だ。それにしても、たった2枚とは・・・いくら下の子だとしても、可哀そうではないか。
そして、近所の「くうちゃん」という女の子と並んでいる写真。そうだ、この頃から私の記憶はよみがえる。
くうちゃんは私より一つくらい下だった。赤いハンテンからセーターの袖が見え、指先をズボンに沿わせピンと伸ばしている。そのズボンの裾は黄色い小さな長靴の中に押し込まれている。上目遣いの小粒な顔で、髪は毛先をあちこち跳ねさせながら肩まで伸びている。
たぶん5歳くらいの私は、兄のおさがりであろうジャンパーを着ている。だが、色は覚えていない。私の脳は、くうちゃんのハンテンや長靴の色のみを記憶していたようだ。
私はジャンパーのチャックをしっかり閉め、短いスカートに毛玉だらけであろうタイツを履いている。前髪をゴムで横止めにして、口をキュッと結び目は笑っている。冬ではあるが暖かな日に、小学校の用務員のおじさんが撮ってくれた。
校舎の壁の前で、凹凸の二人の後ろには切り絵のような凹凸の影がある。写真には写っていないが、くうちゃんの横には広い踊り場の入り口があるはずだ。光にさらされた目で中を覗くと、暗闇が冷え冷えと広がっていた。
近くには給食室もあった。給食室と踊り場を結ぶ通路を薄っぺらな屋根が覆い、もう少ししたら小学生の私が、その下を行き来するようになるのだ。
♦床屋さん
くうちゃんには弟がいた。確か「ゆうちゃん」と呼ばれていた。色黒で、ランニングシャツや半ズボンから出た手足が、棒のように細かった。
ある日の午後、くうちゃんのお母さんは日課の行水に私も混ぜてくれた。垣根もない隣家との隙間は、夏になると石鹸と下水の匂いが混ざったような、モアッとした空気に包まれていた。今思えば下水道はまだ整備されておらず、生活排水は垂れ流しだったのだろうかと考えてしまう。
隙間には、いつでもスノコが敷いてあった。そこに薄黒く変色した木のタライを乗せ、3人がギュギュウ詰めに入れられた。タライは、おばさんが洗濯用に使っていた。
少しすると、おばさんはどこかへ行ってしまった。そして、何がきっかけかわからないが、二人で床屋さんの真似をして、ハサミでゆうちゃんの髪の毛を切ってしまった。ゆうちゃんは、おとなしくされるがままであった。
戻って来たおばさんは、息子の虎刈りにすぐ気付いたが、そこから先は覚えていない。おばさんの激しい怒りに圧倒され、私の記憶は飛んでしまった。
いつもは、にこやかなおばさんであったが、この時ばかりはものすごい剣幕で私の悪さを母に報告しただろう。私が年上だったこともあり主犯は私だと思われても仕方がない。実際にそうだったのかもしれない。
母は消えてしまいたいほど小さくなって、おばさんに謝り私を叱ったことだろう。その流れで、ただ一つ覚えているのは、おばさんがゆうちゃんを床屋さんに連れて行ったら、店のおじさんにひどく怒られたという話である。たぶん子供二人にメチャメチャにされた頭をそれなりにするのが面倒くさく、ちょっと愚痴っただけではなかったろうか。客商売のおじさんが、そんなに怒るとは考えられない。
だが、昔は今のようにお客様は神様ではなかったので、おばさんの言うことも本当だったのかもしれない。
いずれにしても大変なことをやらかしたという戒めに、私に聞かせたかったのだと思う。しかしながら、ハサミのような危険な物を子供の手が届くような場所に置いておいたおばさんにも、非があるのではないだろうか?と今さらながら考えてしまう。
♦小学校
さて用務員のおじさんには、奥さんと二人の男の子がいて住み込みで働いていた。その兄の方は、くうちゃんと同じ歳くらいだったので、よく遊んであげた。
確か「りょうちゃん」と呼んでいた。目が大きく、はっきりした顔立ちで笑った顔にえくぼができた。誰かに似ている。誰だろうと考えていたら、腹話術のお人形に行き着いた。
おじさんには可愛がってもらったのに、一度とんでもないイタズラをしでかした。何を思ったのか、学校のモルタルの正門に白墨で自分の名前を書いてしまったのだ。
左右の平べったい門柱の間にはレールが敷いてあり、戸車の付いた鉄の柵は門柱の裏に隠れていて、そこは四六時中開いていた。
私は肌色のザラザラした表面に、ひらがなで縦に大きくフルネームを書いた。それに気付いたおじさんは、バケツに水を汲んで来て、タワシでゴシゴシこすりながら洗い流していた。
正門前の道を隔てたところに我が家があったので、私は庇のついた薄い板の門に体を隠し頭を傾けながら垣根に紛れて、おじさんの後ろ姿を見ていた。そこで初めて思った。なんで自分の名前を書いてしまったんだろう。息を殺した私はドキドキが止まらず、その悪さが母の耳に入ることを恐れたが、記憶はそこまでしかない。
昔の学校は、いつでも誰でも自由に入れた。正門から中に入ると砂利が敷き詰められ、目の前に丸い植え込みがあった。それを中心に小さなロータリーができていた。
ロータリーの左側には、低くて白い板の柵が芝生の地面を囲っていた。板の先は緩やかに尖り、その連なりが一層芝生の緑に映えた。芝生の真ん中には、やはり白い板を横に張って作られた小さな家が、4本の長い足の上に乗っていた。私はそこを通るたび、白い小さな家が気になった。何年かが経ち、理科の授業で百葉箱であることを知った。
正面の丸い植え込みの中で、まず目につくのは大きな白い岩であった。私は両腕を広げ滑らかな表面にしがみつき、そっと左のほっぺたをくっつけ目を閉じた。背中に感じるお日さまと温まった岩からのぬくもりが体の芯まで伝わるようで、その光はまぶたを通して赤く見えた。
背が伸びるにつれて、岩の上に這い上がっては飛び降りるを繰り返した。いつの間にか友達も増え何人かで遊ぶようになっていった。
岩の後ろ側の土は真ん中が盛り上がり、背の高い丸太のような木が何本もニョキニョキと生えていた。丸太といってもツルツルしているわけではなく、こげ茶色でバサバサしていた。
上の方には深緑の細く長い葉が茂り、ヤシの木のように見えた。それは時が経つにつれ、海に浮かぶ南の島を連想させた。南の島は様々な形の石で囲まれ、子供たちがその上を伝い歩き鉢合わせをすると、ジャンケンをして負けた方が海に落ちた。
大人になって、ヤシに似た木はシュロという名前であることを知った。ヤシ目ヤシ科シュロ属に分類されているそうだ。まるでクイズに答えてから何十年も経って、やっと、「正解です」と言われたような気分になった。
丸い植え込みの向こうには、二階建ての木造モルタル校舎が縦に三棟並んでいた。一番右はロータリーの横まで延びていて、そこには入口があった。入口の奥は、用務員さんの住まいになっていた。
真ん中の校舎には広い玄関があり、扉はいつも開け放されていた。扉の前には、エントランスとでも呼んだらいいのか、そこも同じモルタル造りで地面より少し高くなっていた。両脇には壁のような柱がドーンと構えていて、大げさに言うと古代ギリシャの神殿のようであった。
その右手には竹垣に囲まれた小さな池があり、ほてい草が浮き、赤い金魚がぼんやり見えた。左手の木の下の薄暗がりには、小さな掲示板が立っていた。
私は玄関の近くまで行き、よく中を覗いた。そこは、ひっそりと静まり返っていたが、今にも先生が出てきそうでビクビクした。正面の高いところに、ウミガメのはく製が天に向かって泳いでいるのが見えた。それを囲む漆喰壁の白とピカピカに光って艶のある茶色の柱や横木が、飴色のウミガメとお揃いに見えた。
小学生になると壁のような柱のまわりは「かくれんぼ」や「鬼ごっこ」に使われた。時折、女の子どうしで色々な役になりきり小芝居もした。ちょっとしたはずみで意地悪から泣き出す子もいて、たまに揉めた。特に3人で遊ぶと2対1になり、一人が疎外感を覚えプイと帰ってしまうこともあった。
だが、そんな状況は可愛いもので、これから先何十年も続く女どうしの面倒な付き合いの幕開けに過ぎなかった。とにかく学校の顔である玄関前でも、子供たちはお構いなしに遊んだ。
♦水鉄砲
校舎三棟は板張りの渡り廊下で繋がっていた。真ん中には土足で突っ切れるように2ヵ所の切れ目があった。端にかけては壁を兼ねた下駄箱になっていて、反対側には屋根のない水飲み場があった。
セメントで作られた流し台の裏には、下の方に水道管が横に這っていて、細かい穴がたくさん空いていた。そこは畳2枚分くらいの足洗い場で、穴から出た水は勢いのないシャワーのようで、汚れた足をゆっくりと濡らした。
ある日、私は母が作ってくれた水鉄砲を持って水飲み場へ向かった。母から学校へ行って遊んでくるように言われた。貧乏だったので、家の水は使わせたくなかったのだろう。
水鉄砲といってもマヨネーズの空容器とその真っ赤なフタにキリで一か所穴を開けただけで、水を入れては手で容器を押すという単純なものであった。だが、両手で強く押すと細い水は弧を描いて遠くまで飛んだ。たぶん私のことだからそこだけでは飽き足らず、地面のアリやダンゴムシめがけて放水していたと思う。
その時、白い開襟シャツを着た若い男の先生が、校舎から渡り廊下へ降りてきた。私を見た先生は、「おっ、いいの持ってるね!」と話しかけてくれた。そして、水鉄砲で撃ち合いが始まった。おそらく私は二丁拳銃姿で一丁を先生に貸したのである。
先生は流し台の向こうに隠れ、ひょいと顔を出しては横からマヨネーズの容器を続けざまに押した。いつの間にか男の子達が加わり水場は一変した。笑い声が両側の校舎に反響し更に賑やかになった。
皆、水鉄砲の標的になり水か汗かわからないほど、びしょ濡れになった。それでも、刺すような日差しの中では、焼け石に水であった。
そして、残念なことにあの時の先生の笑った顔が、もうほとんど思い出せなくなった。そればかりか昔出会った若い男の人の顔は、お米を配達してくれるお兄さんの甘いマスクにすり替わって行くのである。
♦校庭
花壇や大きな水槽に囲まれた中庭と、飼育小屋のあるもう一つの中庭のどちらかを通り次の渡り廊下の切れ目を抜けると、黄土色をした校庭が広がっていた。ずっと奥には、裏門が小さく見えた。大人には何でもない距離だが、私には、かなり遠く感じた。
すぐ右手にはプール、左手に大きな砂場と高い鉄棒。その先に低い鉄棒が連なり奥に向かっていた。休みの日には、プールの横で大人たちが野球に興じていた。プールの金網を背にして球を打つ音や、叫び声、笑い声が辺り一面に響き渡った。
学校は、ほとんどが垣根で囲まれ、その内側には何本もの桜の木があった。
花が終わると葉の季節になり、葉っぱの間に糸の絡んだアメリカヒロシトリの塊を見つけゾッとした。
右奥には大きなケヤキの木が2本並んでいた。私はそのゴツゴツとした根元に腰を降ろし、下を這うアリを眺めた。すると、上からカナブンがストンと落ちてきた。ふと傍らを見ると、今までいなかったはずの白黒のカミキリムシが、長い触角を動かしていた。カナブンは死んだように転がり、カミキリムシはヘリコプターのようにふわっと浮き上がると、旋回してどこかへ行ってしまった。
ケヤキの枝は四方八方に広がり、葉は太陽の光を遮ぎるように繁っていた。
その下は風の通り道で、太い幹にもたれていると玉のような汗もすぐに引いた。
目の前には小さな砂場があった。それを囲う板は古びてボロボロになり、土と砂との境を曖昧にしていた。小さな子供たちは山を作ったり穴を掘ったり、思い思いに遊んでいた。砂場はうす暗く、見た目にも涼しかった。
若いお母さんたちは赤ちゃんを抱っこしたり、小さい子を遊ばせながらお喋りを楽しんでいた。冬もこうして集まっていたのだろうか・・・私には夏の光景しか思い浮かばない。
砂場の隣にはブランコが揺れ、私はそれに乗り鉄の匂いのする鎖を握っては、よく指を挟んだ。輪と輪の繋がった部分にほんの少しの皮膚が入り込み、つねられたように痛かった。
他にも回転塔やぶら下がりシーソーとか、楽しいけれど危険な遊具もあった。私が低学年の頃、ぶら下がりシーソーで親指を挟んでしまい、爪が赤紫に変色したことがあった。相当、痛かったと思う。仕事から帰ってきた母が驚いて、電車で一駅先の大きな病院へ連れて行ってくれた。
どのような処置をしたのか忘れてしまったが、看護婦さんが私の親指に包帯を巻きながら、それを手の平から何度もコロコロと落とした。病院を出て「これ巻くのヘタクソだったね」と母に話すと、「指が小さいから巻きにくいんだよ」とあきれたように笑った。
♦犬
私にとっての子供時代は、犬なくしては語れないのでないかと思うほど・・・と言っても、家で飼っていたのではないが、とにかく犬が大好きだった。
①ぺス
物心ついた頃、隣の家にはペスという雑種のメスがいた。ペスは小柄で足が短く不格好で、いつも困ったような顔をしていた。今思えば狸に似ていた気がする。大きな黒い目に小さな耳、薄茶の短い毛はツルツルして、絶対怒らないやさしい犬だった。
ペスは鎖に繋がれることもなく、庭の犬小屋で飼われていた。そして、自由にそこを出て、踏み固められた土の道を歩くことができた。まだ舗装もされていない生活道路である。
私が母の井戸端会議に付き合っていると、その横をペスがトコトコと通り過ぎたことがあった。「ぺス!」と呼ぶと振り向き、頭を低くしてゆっくり近づいて来た。そっと頭を撫でてやると、いきなりゴロンと横になりお腹を出した。それは決して服従ではなく、逆に撫でるよう命令していたのではないだろうか。私は条件反射のごとくサッとしゃがむと、一生懸命両手でさすった。
お隣との境には垣根があり、ペスの土埃が付いたような小屋は、垣根の隙間から手を伸ばせば届くところにあった。
こちら側には父の畑があり、畑の西側は笹が生い茂っていた。途中から他人様の土地と記憶していたが、垣根などなかったので自由に入って遊ぶことができた。
冬の暖かい日、私は笹を倒してその上にしゃがんだ。顔を上げると雲一つない青空が見えた。そのまま乾いた笹の匂いの中で、しばらくじっとしていた。
頭上を通り過ぎる風の下で、私は何を考えていたのだろうか。小さな頭の中で、その日の予定でも立てていたのだろうか。
やがて他人様の土地は、いつの間にか整地され家が建った。
②桃源郷
一度だけ笹を掻き分け探検隊のように歩いて行ったことがある。車1台がやっと通れるくらいの道に出られたが、遠回りをすれば普通の道でそこに来られた。前方は、今でいう家庭菜園のようになっていて、人ひとりが歩けるくらいの通路で囲まれていた。
ある春の日、太陽はまだ真南には遠く、私は白い薄手の長袖ブラウスとチェック柄のグレーの吊スカートで遊びに出かけた。ペスのご主人の家の前を通り左に曲がると、右側の少し奥まったところに、おせんべい屋さんがあった。
人が通れるくらいに開けられたガラス戸の奥に、おじさんがあぐらをかいて座っていた。いつも頭に被った手ぬぐいを後ろでしばり、汗をかきながら何枚もの白く波打った生地を網の上に並べて順番にひっくり返していた。
それを手早く繰返すと、表面がプクッと膨れてところどころが黒く焦げた。ハケで表面にお醤油を塗ると、キツネ色のおせんべいが出来上がった。香ばしい匂いが店の中から外に溢れ一面に漂っていた。
次の角を左に曲がって歩いて行くと、左側に笹藪が見えた。我が家の裏手である。私はその前を通り過ぎようとしてアブラナ独特のむせ返るというか、苦手な匂いに気が付いた。それは、指でつまんだアリから出る匂いに似ていた。
右側の誰もいない畑には、菜の花が一面に咲いていた。黄色い絨毯の上をあふれんばかりのモンシロチョウが、縦横無尽に飛び交う姿に幼い私は圧倒され目を見張った。
足元から湯気が立ち上るような空気の中、白い紙ふぶきがフワフワと舞うような見たこともない光景であった。静けさと春の匂い、温度や湿度、日差しや影、足を止めた私は体中でそれを感じた。
まるで絵本の中から抜け出たような、夢の中にでもいるような・・・ありったけの言い回しで表現しても足りないくらいの素晴らしさであった。
私はその時を忘れてしまうのがもったいなくて、絶対忘れまいと念じた。念じたことを覚えていようと強く意識し、記憶の扉に2つのカギをかけた。
時が経ち、私は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の冒頭を、忘れまいと念じた光景に重ねていることに気が付いた。今も「蜘蛛の糸」を思い出すと、2つの鍵が外れ胸がいっぱいになってしまう。
最近、母の病院の待ち時間にあの場所に行ってみた。やはり家やアパートが立ち並び、昔の面影はなかった。
だが、突然、50年以上前にすぐそばの友達の家で遊んだことを思い出した。小学校の卒業式の謝恩会で落語を披露した男の子である。その演目は忘れてしまったが、なかなか渋い子だったと思う。
その子の家は二階建てで、私は何人かの友達と二階の窓から体を乗り出したところの写真を撮ってもらった。もちろん手擦りがあったが、それは枕でも置いて干せそうな厚みのある形をしていた。
道は舗装されていたものの相変わらず細かった。まわりを見渡しながら歩いて行くと、それらしき家を見つけた。道路に面した二階の窓には思い出の手擦りがあった。掛け替えたかもしれないが、家自体は昔のままであった。
ところで写真を撮ってくれたのは誰だろうか・・・見ていたはずなのに思い出せない。
③ぺスの赤ちゃん
父は勤めの傍ら野菜を作っていた。父が土を耕すと、白で先がオレンジのクワガタの幼虫が出て来て、思わずギョッとすることがあった。
私が近くの丸い石を両手でひっくり返すと、その裏は黒く湿っていて、同時に土の匂いもした。地面は石に合わせてきれいに凹んで、草の根が白く弱々しくつぶれて押し花のように見えた。そこからダンゴムシがウジャウジャと這い出してきたり、ハサミムシがチョロチョロと動き回っていた。
私はアリの巣を見つけては掘り返し、何十匹も慌てふためいて出て来る様を面白がった。「雨だー」と言いながらジョウロで水をかけたり、シャベルの上に一匹のアリを土ごと乗せては、家の縁側まで急いで駆けて行った。
縁の下には、すり鉢状に凹んだアリジゴクの巣がいくつもあった。大きくてきれいな形の巣を選んでアリを落とすと、すぐにサラサラの土が跳ねるように飛んだ。アリは一生懸命這い上がり、飛ぶように脱出した。そんな悪さに飽きると、裏の垣根に近づきペスを呼んだ。在宅時には迷惑そうな顔で、のそ~っと出てきてくれた。
ある日、おばあちゃんだと思っていたペスが、赤ちゃんを産んだ。私は子犬の鳴き声に誘われるように、垣根の隙間を手で広げてお隣に入って行った。そこのおばさんは、いつも着物に白い割烹着を着ていた。垣根越しに私を見つけると、よくお菓子をくれた。
犬小屋には、まだ目も開いていないコロコロと太った灰色っぽい毛並みの子犬が固まって鳴いていた。全部で4,5匹はいただろうか・・・ペスが留守だったので、私は何の考えもなしに行ったり来たりしながら、その子たちをすべて家に持って帰って来た。
物置には、麻袋を被せた餅つきの臼があったので、そこに子犬を乗せた。温かくて小さくて、きっと飽きずに眺め触り続けていたと思う。子犬はおとなしく眠っていたが、私はトイレにでも行きたかったのか、少しそこを離れた。
戻ってみると、ペスがやって来て子犬をくわえて立ち去るところであった。それが何往復かした最後の子だったように思う。私は淡々と戻って行くペスの後ろ姿を、ただ見ているだけであった。
④母のミシン
5歳の頃だったろうか、私は毎日のように一人で出かけた。母は内職に精を出していて、「遊びに行ってくる」と言うと、「人さらいに気を付けるんだよ。知らない人が、お菓子をくれると言っても、ついて行くんじゃないよ」と言うだけで、ほったらかしであった。今のように交通事故の心配をすることもなく、母は私が小学校の校庭にいると思い安心していたのである。
なお、私には「犬さらい」の罪があり、ペスには申し訳ないことをしたと思っている。
母の内職と言えば、黒い鉄の塊のようなミシンを思い出す。正面にアルファベットの文字が入っていた。ジャガーと読めたのは、かなり大きくなってからだろう。
ミシンは細長い木目の天板に乗っていた。天板の左には蝶番がついていて、そこで折り畳みができた、折りたたんだ内側には、長い引き出しが付いていて、丸いつまみを持って開けると、プーンと油の匂いがした。そこには糸が巻かれたボビンやハサミ、ねじ回しが入っていた。
天板の下も鉄でできていた。どのような形で天板を支えていたかは忘れてしまったが、座って足を置くところは、薄い鉄板が太い横棒の上に乗っていた。
横棒を中心にシーソーのように、片足ずつ交互に踏み込むと右側の大きな鉄の輪がクルクルと回った。
ミシン本体の右側にも小さな円盤がついていて、どちらもまわりに溝があった。両方の溝に、輪にした太いゴムのようなベルトがピタリとはまって、大きな輪が回ると同時に小さな円盤も回った。
母が小さな円盤を右手でそっと動かすと、ミシン針が上下に動いた。次に慣れた手つきで、布に針を刺す位置を決めた。やがて鉄板を踏み出すと、その動力はミシン針にまで伝わり、針が見えないほどの速さで厚手の布もダダダダダダダダッと縫い上げた。母は、ミシンは中古だけど馬力があり工業用であることを誇らしげに私に聞かせた。
ミシンを使っていると、ベルトが伸びて空回りすることがあった。動力が針まで届かなくなるので、母はベルトを少し切って短くし、大きなホチキス針のような針金でベルトの両端を繋げた。
たまに短く切り過ぎると、思い切りベルトを引っ張って、大きな輪と円盤に掛けなければならなかった。私はその様子をハラハラしながら見守った。
母は、時々針のまわりや下糸が収まっているところのホコリ取ったり、ミシンのあちこちに油をさした。「穴の開いているところに油をさせばいいんだよ」と何もわからない私に説明してくれた。するとミシンは息を吹き返したかのように軽い音を立てながら働いた。
天気が悪くて遊びに行けない日は、母の隣で天板の端を両手で掴み顎を乗せて針の動く様子を見つめた。私も縫ってみたいとせがんだのか、やがて母が根気よく教えてくれたのだろう。いつの間にかハギレが縫えるようになった。
母が仕事に行っている間に人形の服を縫ったのは、4年生ぐらいからだったと思う。糸調子の目盛りを動かしてひどい縫い目になってしまい、私のブラウスを縫う為に、しばらくぶりでミシンに向かった母にひどく怒られた。あの頃の母に会いたいと思うが、今更ながら老いた横顔を見るのは切ない。
⑤犬のケンカ
小学校の校庭で、私は赤ちゃんを連れて遊びに来ていたお母さんと仲良くなった。赤ちゃんと遊んであげたのがきっかけで、お家にまで呼ばれるようになったのである。そのお母さんと私の母は、私を通して知り合いになった。
ある時、いつものように赤ちゃんの家に向かって道を歩いていると、遠くから犬が三匹、こちらに向かって来るのが見えた。大きな野良犬を先頭に、タッタッタッとリズムよく近づいて来た。私は恐怖で思わず立ち止まり、そのまま動けなくなった。三匹は私のことなど眼中にないかのように横を通り過ぎて行った。私は犬たちがどこへ行くのか、気になりながら見送った。
別の日、赤ちゃんと校庭で遊んでいると、よく会うおとなしい犬がそばに来たので私は頭を撫でた。
すると突然別の犬がこちらに向かって突進してきた。私のそばで、ガオガオ、グルルルルと唸りながら後ろ足で立ち、土煙が上がるような取っ組み合いが始まった。両方の犬は首を激しく振りながら、目ん玉をひんむき牙を出してお互いを噛みつこうとしていた。私はただ驚くばかりだったが、二匹が組み合ったまま離れて行き、何となく右手を見ると親指の爪から血が出ていた。
赤ちゃんのお母さんは、一緒にいたことで、とても責任を感じたのではないだろうか。赤チンを塗って私の母に事情を説明したと思うが、その後も以前と変わらぬ付き合いが続いた。ただ、今更だけど気になるのが狂犬病である。母が私のことを病院に連れて行ってくれたのかはわからない。
⑥テレビ
まだ家にテレビのなかった頃、私はおせんべい屋さんでテレビを見せてもらっていたそうだ。そこには兄弟がいて、よく一緒に遊んでいたのだと思う。ただ正確に言うと勝手に見ていたのかもしれない。
母は最初それを知らず、帰りの遅い私を探しに来て、その後ろ姿に唖然としたらしい。娘が窓の外からよその家のテレビを見ていたからだ。私を不憫に思った母は、なけなしの金をはたいて4本足の白黒テレビを買ってくれた。そのいきさつ、私は全く覚えていない。
その頃、テレビ結婚式「ここに幸あれ」という番組が放送されていて、母が毎週欠かさず見ていたのを覚えている。平日のお昼頃から、映画主題歌として大ヒットした「ここに幸あれ」が流れ、一般人をはじめとする二人が、結婚式を挙げるという感動的な番組だった。事情のある方もいて、母はそれを見てよく泣いていた。私も一緒に見てはいたが、涙がこぼれるわけもでなく、どこかへ遊びに行くことしか頭になかった。
その番組を思い出す度、必ずと言っていいほど、うちわを片手の母のアッパッパ姿が目に浮かぶ。そして、娘は白い木綿のシミーズに帽子をかぶり遊んでくると言って出かけた。
よく思い出すのは、校庭のプールのそばにあった背の高い太い木である。見上げると、真っ青な空に大きくて先がいくつかに分かれた薄緑の葉が、幾重にも重なって見えた。重なったところは光を通さないので濃い緑になった。幹はキリンの模様に似ていた。
何十年も気になっていたので、これを機に調べてみた。この時代を生きてよかったと思うことは、インターネットに巡り合えたことだ。自分には一生縁がないと思っていたパソコンが、生活の一部になってしまった。
まず「まだら模様の木」で検索してみた。いくつも出て来る中で、一緒に葉のついている写真もあったので、すぐわかった。そうそう、プラタナスである。葉の表面にはびっしりと毛が生えているそうだ。確かに葉は厚かった。60年近く前のムズムズするような感触がこの手によみがえる。
ある日の午後、ジリジリと焼けつくような校庭に人の影はなかった。私はプラタナスの根元にしゃがみ、固い地面の上の砂を両手で払うと、拾ってきた太く短い枝で土を掘って丸や四角を書いた。そして、払った砂を集めてその上に落とした。白い砂は少し盛り上がり秘密を隠したが、枝や指を使って図形が現れるまで砂を掻き出した。一人二役で遊んでいたのだろうか、おかしな子供であった。
⑦二匹の猟犬
遊び相手のいない時は、親戚のおじさんの家に向かったことも思い出される。当時、電話の普及はまだ先であったから、「○○子が行きますから、よろしく!」などと母が連絡することもできなかった。それ以前に行き先を告げずに出かけていたのかもしれない。私は、どんな顔をして、どんな言葉で、おじさんの家にお邪魔したのであろうか。
おじさんの家は、いくつかの角を曲がって、子供の足で10分くらいかかったと思う。炎天下、風も人影もないデコボコ道をトコトコと歩いた。
おじさんは、よく写真を撮ってくれた。
髪の毛が汗でおでこに張り付き、日焼けした顔でニッと笑う私。揃えた両膝を少し曲げ、両手をその上にちょこんと乗せ、空気イス状態の白黒写真が残っている。
おじさんにポーズのリクエストでもされたのであろうか。おじさんはと言えば、私をすっぽり収める為にカメラを斜めに構えたのであろう。でき上がった写真を少し傾け、母と一緒に見たことを思い出す。
おじさんの家には、大きくて頑丈そうな檻があった。中には二匹の犬がいた。白黒で体も足も細く、全く可愛いとは思えなかったので、頭を撫でたいという気も起きなかった。おじさんは猟をしていたので、その為の犬であった。
台所の裏には、ブリキのバケツに入った生のニワトリのトサカが置いてあった。それを煮て犬のエサにしていたのだ。今思うと、ニワトリのトサカは赤くてグロテスクで気持ちが悪いが、子供の私はどう思っていたのか、知りたいものである。
犬の散歩には、私もついて行った。二匹は歩いていると、徐々におじさんの前に出てしまうので、おじさんはそれが気に食わないらしく、「後ろ!」と叫びながら思い切り綱を引っ張った。犬の分際で、人間様の前を歩くんじゃない!みたいなことを言いながら、かなり怒っていた。しばらくすると、また犬が前に出て行き、それを引き戻すということを繰り返していた。
おじさんの家には、犬の他に興味の引くものがあった。引き戸の玄関から上がって、座敷に面した長い廊下を直角に右へ曲がると、突き当りにトイレがあった。通常お便所と呼ばれていた時代の和式であったが、手前の軒下には手洗いが吊るされていた。隣には細い竹の棒に手ぬぐいがかけられ、両端を紐で縛って同じように吊るされていた。
またまたネットで調べてみた。手洗いは「吊り手水」と書いて「つりちょうず」と読むのだそうだ。昔と材質は違うが、現在、通販でも売られているということが分かった。
吊り手水は高い位置にあったので、私には使えなかったような気がする。大人たちは吊り手水の下の飛び出た部分を手の平で押し上げ、出てきた水で手を洗っていた。その水は直接地面に落ち、浸み込んでいった。
お便所は北西の位置にあり、ジメジメとした気持ちのいいとは言えない場所にあった。それは我が家も同じで、別名「ボットン便所」と皮肉る時、いくら昭和がよくても、もうあの頃には戻りたくないと思う一因でもある。
トイレで思い出すのは、小学校の外便所である。校庭で遊んでいて、もよおすとそこを使ったが、暗くて臭いし、泥だらけで汚いし、おまけに穴も深くて怖かった。安全第一の学校で、一歩間違えれば危険が潜んでいたことに、今更ながら恐怖を感じる。だが、当時はそれが当たり前で、誰もそんな心配などするはずもなかった。
ところで、中学では水洗便所になった。喜んだのもつかの間、使用後は自分の意志で水を流すことができなかった。ウソのような話だが、水は時間で流れたのである。当然のごとく保護者からの抗議により改善された。
⑧ご飯とお風呂
小さい頃の私は、かなり社交的であった。中でも小学校の校庭で赤ちゃんと遊んであげたというだけで、そのお家まで行きご飯をご馳走になったり、お風呂に入れてもらったりした。
そのお宅には、男の子が二人いた。下の子は小さな赤ちゃんでよく覚えていないが、上の子は色白で目が大きく、クルクルの髪をしていた。おばさんによく似ていたと思う。おじさんもおばさんも女の子が欲しかったらしく、私を可愛がってくれた。
おばさんは細身で背が高く、ポパイに出てくるオリーブオイルみたいな人だった。おじさんは大きな目に太い眉、額にポマードで固めた髪の一筋か二筋が垂れていたような気がする。今思えば、昔の怪獣映画に出ていた俳優のような顔立ちをしていた。そして昔のおじさん定番のシャツにステテコ姿であった。
先日、用事のついでにその家の前を通ってみた。表札の名前が変わっていないことにほっとして、ブロック塀の上からはみ出している柿の木に60年近く前の面影を見た。
家の前にはカーブした細い道があり、今では一方通行になっていた。昔その向こうには、原っぱが広がっていた。毎日毎日、大人も子供も草を踏み倒して通り抜けるので、やがてそこは幅50センチくらいの小道になった。つまりカーブした細い道への近道になったのだ。だが、その原っぱは、もうない。小さな家がいくつも並んでいる。
もう一軒のお宅にも男の子がいた。「あっちゃん」と呼んでいた。あっちゃんは、ひとりっ子でおとなしく、ぽっちゃりしていた。襟付きシャツにチョッキ、半ズボンを履いて、ハイソックスによそ行きみたいな靴が可愛かった。庭先で裸足に運動靴、お下がりのジャンパースカート、おかっぱの私が、あっちゃんの手を取ってすましている写真がある。
一人で歩いていて母の知り合いに呼ばれ、こざっぱりしたお家に上がったこともあった。窓からお隣との境に竹垣が見えた。居間のコタツに入って、バターを塗ってお砂糖を乗せたトーストをご馳走になり、温かい紅茶も飲んだ。
今でもおばさんの顔と名前をはっきり覚えている。失礼ながらE.Tに似ていたと思う。元気でいてくれたら嬉しい。
ちなみに、よそで何かもらったら必ず言うよう母にしつこいくらいに教えられた。今では、よその子に気軽にお菓子をあげることなどできない。孫にさえもアレルギーや虫歯に注意しなければならないので、いちいちその子らの親に聞いてからでないとあげられない。
⑨突撃訪問
やがて、フラフラしていた私も幼稚園に通う歳になった。バスで迎えに来る幼稚園の一年保育である。すると友達も増え更に行動範囲も広くなった。子犬がいると聞けば、友だちの伝手で突撃訪問をしたことがあった。
その家は、火の見櫓の先にあった。火の見櫓には火災の早期発見などの役目があるということだが、5,6歳の子供にでも母は簡単に説明してくれたと思う。それは薄緑の鉄で出来ていて、高い塔のようであった。下から何メートルかはハシゴが付いていた。上の方は、鉄条網で囲まれていたような気もするが、どうであったろう。
私はそこを通ると、ルーティーンのようにハシゴを上がり、まわりを見渡した。今のように高い建物などなかったので、視界が開けて気分がよかった。満足すると、そのまま落ちないように気を付けて降りるだけで、いつ頃までそれを繰り返していたかは覚えていない。
子犬の飼い主のおじさんは、嫌な顔もせず玄関を開けてくれた。冬の頃で外は寒かったが、中は息苦しいような熱い空気に満ちていた。
おじさんの後ろの板張りには、人間の子供もいた。その子の前、畳半分くらいのたたきに段ボールが置かれていて、中には白地に茶の斑点模様の耳の長い子犬が入っていた。確か一匹だった思う。両脇に手を入れて持ち上げたような気もするが、おそらく妄想であろう。
おじさんは、子犬にヨーグルトをあげるところを見せてくれた。私は子犬が羨ましくてたまらなかった。ヨーグルトを食べたことが無かったからだ。それを母に話したかどうか忘れたが、幼稚園か小学校の何かの催しの時、私は初めて自分用のヨーグルトを目の当たりにした。それは瓶に入っていたが、惜しいことにスプーンが用意されていなかった。皆でざわついたが、結局食べたのであろう。味については、思ったほどおいしいとは思えなかったはずだ。
また、他の家の庭先でチーズをもらったことがあった。黄色で透明っぽく、硬くて、石鹸のようだった。どんな味か忘れてしまったが、食べ物とは思えなかった。
⑩雑木林
いつの頃だったろうか、私は何人かの友達と学校の裏手から雑木林へ向かった。近づくにつれオナガドリがギーイ、ギーイと鳴いていた。ずっと平たんな道を通ってきたが、そこから雑木林を分断するように道が下っていた。見上げると、両側から葉のすっかり落ちた木の枝が、トンネルのように頭上を覆っていた。入り組んだ枝の間から日差しは漏れていたが、そこは人通りのない寂しい場所であった。
私たちは雑木林の斜面を使って、思い切り走りまわった。一方の斜面を駆け上がり坂道めがけて駆け降りると、その勢いのまま、もう一方の斜面で同じことをした。キャーキャー叫びながら、ジェットコースターのように惰性で走りジグザグを繰り返した。汗だくになりながら積もった落ち葉を蹴散らし、舞い上がるさまに興奮した。火照った顔に当たる風が気持ちよく、ただ何も考えずに走り続けた。
おそらく以前は坂道などなかったのであろう。平坦な先が崖になっていて、その下まで繋がるように、雑木林の真ん中を切り崩して道を作ったのではないだろうか。その先は車道と交差していた。そこを突っ切ってだいぶ歩くと、用水が蛇行し田んぼが広がっていた。
車道と言っても交通量は少なかった。だが、他の通学路と交差していたところに、初めての手押し信号ができた。その頃、先生に引率され皆で手を上げて横断の練習をしたのを覚えている。それが、今では片側2車線の幹線道路になった。走り回った坂道も同じように片側2車線になり、端にはサッカーチームの寮ができた。
あの頃、その場所は永遠だと思っていた。だが、写真にも残っていない。私の思い出の中だけにある。それでも、用水や田んぼへ向かう道は、ほとんど昔のままだ。
⑪東京の音
私の住んでいるところは緑も多く自然溢れる地域であったが、電車に乗れば数十分で川を超え東京に入れた。が、それは年に一度あるかないかの特別な日であった。
電車は茶色で、油を塗った板張りの床は独特の匂いがした。だが、それは母と買物をする為に近隣の駅までの利用がほとんどであった。ちなみに子供は隣の駅まで10円で行けたような気がする。
その日も電車に乗った。いくつかの駅を過ぎポツポツとした民家が、やがて途切れず灰色のビルへと変わっていく様子を、私はドアの端でガラスにへばりついて見ていた。
高架を走る時は、スローモーションのように景色が流れた。目の前に立ちはだかるビルの窓枠あたりに点々と鳩がとまっていた。そこから離れゆっくりとはばたく鳩もいて、まるで音のない世界を見ているようであった。ガラスにおでこを押し付け見上げると、電線の後ろに薄ぼんやりとした空があった。
ドアの開閉が続くうちに私はあることに気が付いた。ドアが開くたびにゴーッという音が車内に入り込んでくるのだ。頭の中ではその音が再現できるが、どんな音か伝えるのは難しい。何気なく目をつむって両手で両耳を覆ってみた。そうだ、この音に似ている。私の体内から伝わる音である。それは、すべてが混ざり合う東京の音であった。
⑫探検
走りまわることに飽きた私たちは、斜面の上の方から倒れた木の幹に乗って遊んだ。一点で膝を曲げ踏ん張っては両足を延ばすを繰り返し、それはシーソーのように弾んだ。友だちどうし横並びで腕を掴み、落ちないように支え合った。
しばらくすると、それにも飽き、みんなで雑木林の奥へと進んで行った。やがて畑が見えてきたが、その境に木が生えていないところがあった。近くに寄ると地面に大きな穴が空いていた。すぐに底が見えたので、何のためらいもなく降りてみた。湿った土の匂いが鼻をついた。横に少し掘り進めてある不思議な穴であった。
家に帰って母に話すと、「それはムロと言って、お百姓さんがお芋を入れておくところで、ガスが溜まっていたら死んじゃうんだよ」と脅かされた。それからは、穴には入らなかったが探検は続いた。
一度、雑木林で、大きさから犬と思われる死骸を見つけ青くなったことがある。私は、ひとりで落ち葉や笹を掻き分け、ずんずん進んで行き固まった。突然、提灯の骨組みのようなあばら骨が目に飛び込んできたからだ。私は声も出せず一目散に逃げた。その光景が今も目に焼き付いて離れない。
捨て犬も、たまに見つけた。取りあえず、みんなで拾って帰るが、飼える家もなくまた戻しに行くこともあった。白いフワフワの可愛い子犬・・・地面に置いて一目散に走って逃げた。後ろを見ると、楽しそうに追いかけて来て・・・また戻して、逃げて・・・それを繰り返すうちに、子犬は追いかけて来なくなった。
家に帰ると、母から、「ご飯を食べさせてから置いてくればよかったのに・・・」と、なんだか悲しくなるようなことを言われた。何日かして、近所のお肉屋さんで飼われているところを母が見つけた。
⑬ベートーベンとメリー
昔の犬はご飯にみそ汁のエサが定番だった。粗末な小屋、まわりは毛だらけ、地面は穴ぼこだらけ、おまけに臭かった。飼い主公認で自由な犬もいれば、鎖をズルズルと引きずりながら脱走する犬もいた。たまに、縁側のサンダルが片方なくなると、それは犬の仕業であった。
よく鳴く犬もいた。一匹が鳴くとあちらこちらで騒ぎ始めた。そんな時、父は、「うるせ~」と大きな声で怒鳴った。
捨て犬を拾ってくれたお肉屋さんには、近くの家で飼われていた大きな赤茶の犬が、ある目的の為にのそりのそりとやって来た。濃い顔で毛足も長く存在感があった。私は音楽室にかけてあった肖像画のベートーベンに似ていると思った。
私がコロッケを買おうと並んでいると、ベートーベンは道の真ん中で前足を上げて「ちょうだい」とアピールをした。おじさんが根負けして唐揚げかなんかを投げていたが、ギャラリーも結構いたので、そうせざるをえなかったのだろう。ベートーベンは、パクリとダイレクトキャッチをし、悠然と去って行った。
八百屋さんが子犬を飼い始めたこともあった。私はその子を借りて二,三度散歩に行った。丁度歯の生え変わる時期で歯茎がむずがゆかったのか、単に興奮したのか・・・私の「ふくらはぎ」めがけて噛みまくり、逃げても追いかけて来て、そのまま八百屋さんまで走って帰った。白くて可愛い子犬だったが、自分の犬気取りで散歩する夢は、すぐに破れた。
その前後だったか、私が通っていたそろばん教室の隣の家で、子犬が何匹か生まれた。しょっちゅう抱っこさせてもらっていたが、そこのおばさんが、もらってくれる人を探していた。
そんな時、母の知人から子犬が欲しいと頼まれ、私が連れて来て一晩預かることになった。なぜか、メリーと呼んだ。メリーを連れて来たものの、ずっとキャンキャン鳴き続けていた。母犬や兄弟と離され寂しかったのであろう。
母はメリーをボロ布で包み紐で縛ると、そっと私に抱かせた。メリーは安心したのか、そのまま眠ってしまったので、一緒に布団に入った。メリーが自分の腕の中にいるのが嬉しくて、おでこの匂いを嗅いだり、飽きもせず眺めていた。
どのくらいそのままでいたのだろうか、またメリーが鳴き出しボロ布から出てしまった。たぶん一緒に寝ていた父親が、怒り出したはずだ。私はメリーを追いかけようと、布団から足を踏み出したその瞬間、足裏にグニャリとした何かを感じ、そのまま動けなくなった。薄明りの中、畳の上のそれは、想像した通りメリーのウンチだった。
メリーのその後だが、母の知人に渡ったものの、あまりに鳴き続けるので、母犬の元に返したと聞いた。
⑬犬が好きな理由
ペスとの出来事を文章にしたら、それが呼び水になったのだろうか。犬たちとの出会いが、次から次へと思い出された。でも、なぜ私はこんなに犬が好きだったのか・・・改めて考えてみた。
私が生まれた時には、兄は小学生だった。この兄貴、「雨の日は妹がいてもいいけど、天気の良い日はいらない」と言った薄情者である。だから兄と遊んだというか、兄が家にいたという記憶がほとんどない。だが、ふざけて手の甲を舐められたことだけは覚えている。私はピーッと泣きながら手を洗いに行った。
「ワンちゃんに舐められるのはいいけど、人間は嫌だ~」と言いながらゴシゴシ・・・。兄は犬の方が汚いのに・・・なんて言っていたが、私は人間の方が汚いと思っていた。
そんな私の口癖は、「赤ちゃん、いつ生まれるの?」いつも母に聞いていた。「弟が欲しい」楽しみに待っているのに生まれない赤ちゃん。しつこい私に母が何と言って答えていたかは覚えていない。いつしか、その気持ちが犬に向かったのではないかと思うのだ。でも、犬も飼ってもらえなかった。
⑭ピス
そして、もう一匹、忘れられない犬がいる。その昔、道路で焚火は当たり前だった。我が家の垣根はヒバだったので、その手入れで出た枝や落ち葉、紙切れなんかも燃やしていた。今では考えられないことだ。
ヒバは燃やすと独特の匂いがした。もう、どんな匂いだったか思い出せないが、重なった枝から白い煙がモクモクと上がり、それを吸い込んでゲホゲホと咳き込んだり、目に染みて涙が出たり、母と過ごす穏やかな時間が好きだった。
母の知り合いが通ると井戸端会議が始まり、いつの間にか白い毛がフサフサの犬もやってくるようになった。たぶん、スピッツだったのかなぁ・・・いつも笑っているような顔をしていた。私は、その犬をピスと呼んだ。ペスのパクリだったが、なんかアメリカっぽくて可愛いと自己満足していた。ピスは庭にも入れてやった。
ある春の日、私は地面に敷いたゴザの上でままごとをしていた。日の差し込んだ縁側で、箱に入ったヒヨコがピヨピヨと鳴いていた。フタは開いていたような気がする。ピスは鳴き声が気になったらしく、近付いて行くと、縁側にパッと飛び上がり箱に鼻を近づけた。私がびっくりして騒ぐと、母が「大丈夫、何もしないよ」と・・・その通り、ピスはすぐに縁側から降りた。なぜ、母は何もしないとわかったのか、子供心にも不思議であった。
毎日のように、ピスは我が家にやって来た、ところが、ある日事件が起きた。ピスが他の犬に咬まれたのだ。流れるような白い毛に、さらに赤い血が流れ・・・そのコントラストは、何十年経っても忘れることができない。何気ない日常で、その部分だけが大写しになって目に浮かぶのだ。
ピスは縁の下にもぐり込むと横になり、傷口を舐めていたが、その後傷も治り姿を消した。母は味噌汁をかけたご飯をピスに食べさせていたが、どのくらい縁の下にいたかは覚えていない。
それから、どれほどの時間が経ったのかわからないが、私が猟犬のおじさんの家の近くを歩いていた時のことだ。何となく気配を感じ、引き込まれるように知らない家の板塀の下、30センチほどの隙間から中を覗いてみた。広いお庭に一匹の犬が見えた。それは、紛れもなくピスだった。だが、「ピス」と呼ぶこともなく私は歩き出した。
今は板塀の家も猟犬のおじさんの家もなくなってしまった。それは二軒の前の細道が、雑木林の坂道に繋がっていたから。その坂道の先は幹線道路を突っ切っていたからだ。土地開発の為、付近一帯は立ち退きになった。
あの時、私はピスを見た・・・ずっと、そう思っていた。でも、現実のような夢だったのか、妄想だったのか・・・思い出す度わからなくなって、もどかしい気持ちになる。ただ、板塀に塗られたコールタールの匂いを覚えているのだ。
紛らわしい記憶、これからはこんな曖昧と付き合っていくのだろう。
♦猫
小学校低学年の頃、友達の家には、まだ若い白黒の猫がいた。とても可愛くて、ずっと抱っこをしていた。猫は嫌がったが、捕まえてはギュッと抱きしめた。それを何回か繰り返していたのだが、油断した隙にすごい勢いで逃げられてしまった。
私は急いで追いかけ、草むらでじっとしている猫を見つけた。後ろから駆け寄り、両手でお腹の辺りをすくうと、ニョロ~っと何かがくっついてきた。私は、ギャーッと叫びながら猫を放り投げた。猫から出ていたのは長~いウンチであった。猫も、たまったものではなかっただろう。
その頃、兄が鳩を飼い始めた。世間では伝書鳩の飼育が流行っていて、いつの間にか小屋ができた。そこに何羽かの鳩がいたが、やがて雛が生まれた。普通赤ちゃんは可愛いものだが、鳩の雛は可愛いとは思えなかった。灰色の塊に黄色い毛がヒョロヒョロと生えていたとしか覚えていない。
ある時、母が体温計を使おうとして目盛りを見て驚いたそうだ。それが40度を指していたからだ。兄が雛の体温を測って、そのままにしておいたのだが、昔は何度も母からその話を聞いた。その度、懐かしそうに笑っていたが、いつの間にか話題にさえ上がらなくなった。
ある日の朝、兄は鳩を飛ばしたまま学校へ行ってしまった。小屋の上部には戻ってきた鳩が自ら入り、中からは出られないような仕組みがあった。
私が学校から帰ると、母から鳩小屋に猫が入っていると聞かされた。恐る恐る中をのぞくと、一匹の猫が鳩を食べていた。一瞬猫と目が合ったが、驚いたそぶりも見せなかった。淡々と事を進めていく猫と、横たわった鳩のピンと伸びた両足と脚環が、今でもはっきりと目に浮かぶ。
兄がクリと呼んでいた若い栗色の鳩は、瀬戸でできた水飲みの陰にいた。その時の何とも言い難いクリの目も忘れることができない。クリは難を逃れたが、味わった恐怖を思うと可哀そうでならなかった。
世話をする為の扉には鍵がかかっていたので、兄が帰ってくるまでは、どうすることもできなかった。私はますます犬派になった。
♦ウサギ小屋
生き物を襲うのは、猫だけではなかった。
学校の中庭にはウサギ小屋があった。それは校舎に隣接されていたので、ウサギが泥を掘って、校舎の床下まで穴だらけにしてしまったと用務員さんが話していた。
ある朝、野良犬もまわりの地面を掘って、金網の下からウサギ小屋に入ってしまった。父は我が家から50mと離れていない場所で起こった出来事をいち早く察知した。私は起きてすぐにそれを聞いた。ただ事ではない雰囲気だったせいか、見てもいないのに襲われた後の光景が目に浮かんだ。だが、私は野良犬の恐ろしさを知っても、犬が嫌いにはならなかった。
♦サル小屋
大きなウサギ小屋のそばには、小さなサル小屋があった。まわりを板と鉄格子で囲まれた粗末な小屋だった。ところどころ水色のペンキが剥げて、下は黒い土のままだった。小屋には「カニクイザル」と書かれた薄く破れたような板切れが針金で括り付けてあった。そばまで行くと、獣特有の匂いもした。
小さなサルの長いしっぽの先端には毛がなく、自分で剥いたのであろうか、私には赤く痛々しく見えた。人を見るとカッと目を見開き歯をむき出した。鳴き声も聞こえたはずだが思い出せない。私には怖い存在であったが、近所の犬連れのおばさんは、板と鉄格子の隙間から野菜をあげたり、背中を掻いてあげることができた。
ある年のお盆の入り、家には叔父が来て一緒にお墓に行った。サル小屋の前を通り、校庭や山と呼ばれていた雑木林を抜け、そこからお寺までかなり歩いた。たぶん、その一回だけだったと思うが、私は子供用の赤い提灯を持っていた。
帰りも行きと同じ道を通り、サル小屋の前まで来ると、叔父に頼まれ提灯を貸した。叔父は鉄格子の前で、持ち手を左右に動かしユラユラさせた。その瞬間、サルの腕がスッと伸び提灯に掴みかかると、あっという間にビリビリと引き裂き、可愛らしい原型は消え去った。
私は呆気にとられながら、棒を持ったままの叔父が笑いながら謝る姿を見ていた。それからの私の叔父に対する記憶は、サル小屋の前で起こった出来事を境に、ぱったりと途絶えてしまった。次の叔父の思い出は、私が10歳の頃、若くして帰らぬ人となったその時であった。
♦幸と不幸
授業中の私の元へ、母が血相を変えてやってきた。そして、私を連れて母の実家へ行くと、悲しみの中に慌ただしい人の動きがあった。伯母と母が「親より先に死んだら親不孝者」と吐き出すように言うのを聞いた。二人の姉は、弟の死を怒りとともに悲しんでいたのだと思う。
叔父の妻である叔母は、女の子を産んだばかりでまだ病院にいた。叔父は幼い息子とその帰りを待っていたが、就寝中に突然亡くなってしまった。病死ではあるが、何が原因なのか私にはよくわからなかった。
幸と不幸が一度に押し寄せた叔母に、夫の死を伝えたのは医師であった。叔母に関わる者のうち、誰が真実を伝えることなど、できたであろうか。
やがて寝間着に上着を羽織り退院してきた叔母は、一人で立つこともできず両脇を誰かに支えられていた。叔母は顔を歪め崩れ落ちそうになりながら、庭から廊下に上がって来た。出迎えた祖母が、「ママ・・・」と駆け寄りすがるように泣いた。叔母は大きな目に涙をいっぱい溜め、子供のようにベソをかいていた。
その瞬間に見た背景、どうでもいいような庭木の緑をなぜ今でも覚えているのだろうか。
私は叔父の息子を外に連れ出し、手をつないで歩き出した。空は遠くの方まで、雲が重く立ち込めていた。畑に囲まれた一本道のはるか向こうに、土色の田んぼが広がっていた。従弟は私より5歳くらい下で、すぐ癇癪を起こしたが、私が、「帰っちゃうよ」と脅かすとおとなしくなるような子であった。
まわりに人家はまばらで、それもなくなると先はどんどん低くなっていった。やがて一本道からあぜ道へ降り、二人で細い水路をのぞき込んだ。何かいないかとそれに沿って歩きまわった。
そろそろ帰ろうと私は水路をまたいだが、従弟はまたげず、そこでしばらく立ち往生してしまった。私が引っ張って渡らせようとしても、怖がって泣きべそをかいた。ただ困っていると、知らないおじさんが通りかかって「渡りたいのかい?」とか言いながら、従弟をひょいっと持ち上げて反対側に降ろしてくれた。おじさんは何か話しかけてくれたと思うが、覚えていない。私と従弟はまた手をつないで、来た道を戻って行った。
日が経つにつれ叔母は徐々に落ち着き、ほんの少しの笑顔を見せてくれるようになった。そして私は叔母の布団の端に座っていたことも、哺乳瓶に入ったミルクを、「飲んでみるか?」と誰かにからかわれたことも覚えているのに、赤ちゃんを見た記憶がないのだ。しかし、思い出は突然よみがえる。よちよち歩きのその子と小学校の校庭で遊んだあの日が懐かしい。
♦祖父の死
それから少しして、祖父も亡くなった。胃がんの手術で生き延びたのに、屋根の修理でもしようと思ったのか、掛けたハシゴからあおむけに落ちたと聞いた。そして、運悪く地面ではなく庭石の上に落ちたのだと・・・。大人たちの会話から、頭の後ろは神経がいくつも走っていて手術ができないと知った。
病院から戻り客間に寝かされた祖父を見て、私は恐怖に震えた。命の消えた顔の色は青黒く、それだけでは表現できない何とも言えない恐ろしさであった。祖父が着ていた普段着さえ怖くて触れず、祖父を慕って泣くこともできなかった。
祖母と伯母と母は、男二人が急に死んだのは、建て増しした洋館のせいだと言っていた。何かに原因を求めたかったのであろう三人の会話を、子供の私は何気なく聞いていた。
♦物売り
小学校の正門には、時々物を売りに来るおじさんがいた。ほとんどのおじさんが左側の門柱の前で店を広げていた。許可は得ていなかったと思うが、先生や用務員のおじさんに追い払われることもなかった。
①ヒヨコ
下校前になると、誰かが気づいてその情報が流れた。なんと言っても囲いの中の黄色いふわふわのヒヨコは人気があった。ぎっしり詰め込まれていて、仲間の上に乗っかったり、囲いの外に飛び出しそうになったり、ピヨピヨとそれはにぎやかで可愛らしかった。一羽20円くらいだったろうか。ちなみにコロッケは5円と記憶している。
家に帰り母がいる時は、「買って~」と頼んだが、だいたいは、「また死んじゃうからダメ」と・・・たぶん春先のまだ少し寒い時期に売りに来ていたのだろう。一羽で育てるには、ちゃんと温めないと死んでしまうのだと覚えている。おそらく、兄が何回も買って皆天国へ旅立たせていたのだと思う。
ある時、ヒヨコ売りのおじさんが我が家を訪ねてきて、店じまいをした後のヒヨコをちょっと預かってくれないかとお願いされたことがあった。母は承諾し、我が家の門の中へ唐草模様の大風呂敷を入れさせた。私はピヨピヨと声のするヒヨコに興奮し、友達に自慢したい気持ちでいっぱいになった。そして、ヒヨコから離れずにおじさんを待った。
だが、暗くなってもおじさんはなかなか戻って来ず母は心配していたが、やがてそんな心配をよそにニコニコしながら現れた。
おじさんは、私が密かに思っていた通り、お礼にと一羽のヒヨコを出してくれた。私はヒヨコを両手で受け取り、自分の顔を押し付けてみた。お日さまの匂いがした。小さな足踏みが、私の手の平をくすぐった。
また、母と隣の駅のスーパーへ買物に行った帰りに、ヒヨコを買ってもらったことがある。
昔はおせんべいやビスケットをお菓子屋さんで量り売りをしていたが、それを上がギザギザになった白くて薄い紙袋に入れてくれた。ヒヨコもそんなたぐいの袋に入れてもらって、駅の改札に向かった。ヒヨコはお構いなしに鳴いていたので、駅員さんが紙袋の中をのぞき込んだ。苦笑いをしながら、そのまま通してくれた。
ヒヨコのえさは、米ぬかだったような気がする。お米屋さんに買いに行ったか、もらったか、水で溶いてあげた。それと菜っ葉もあげた。ちなみに私はお米屋さんをおとめ屋さんと呼んでいたと母が言っていた。
ヒヨコは珍しく元気に育っていたが、ある夜こたつの中に入れておいた箱の中からピヨピヨと鳴く声が聞こえなくなった。急いで見てみると、底に敷いておいた手ぬぐいの端から糸がほつれて、ヒヨコの体にからまって動けなくなっていた。すぐにほどいてあげたが、だんだん弱って死んでしまった。
死んだヒヨコは恐ろしい。足も体もピーンと突っ張って、小さなまぶたの間から光のないしわしわの黒目が細~く見えた。もう触ることもできなかった。そのまま放っておいたら、いつの間にか父が庭の隅に埋めてくれた。
何年かして、私は性懲りもなく文鳥の雛を買った。暖かい季節だったのだろう。箱に入れ枕元に置いて眠った。次の日起きて雛にエサを与えた。何度も何度も繰り返していたら、母に起こされた。それは夢の中の出来事で、急いで雛を見ると冷たくなっていた。私は声をあげて泣いた。
②カニ
夏になるとカニ売りのおじさんがやってきた。沢ガニより大きくて5センチくらい。赤茶色で、海辺にいるようなカニであった。タライの中でウジャウジャ動き回るカニは、何とも言えない強烈なにおいをさせていた。ケンカでもしたのか、ハサミや足の取れているカニもいた。これも何度か買ってもらえた記憶がある。
私はカニの為に道路や原っぱから大小さまざまな石を拾ってきて、水でよく洗った。兄に指示され、タライの中に大きい石から小さい石へと積み上げ空洞を作り、カニの隠れる場所も用意した。積み上げた石の真ん中辺まで水を張って、ヒバの木の枝をふわりとかぶせてあげた。
えさは、ご飯粒。煮干しかカツオ節も少しやったような気がする。ブクブク泡を吹きながら、両方のハサミでエサを口に運ぶ姿がおもしろくて、飽きずにながめていた。
そんなある日、タライをのぞくと悲惨な光景が・・・脱皮途中で力尽きたのかカニが死んでいた。最初、私は脱皮ということもわからず、2匹いるように見えてびっくりした。母が、栄養が足りなかったんじゃないかと言っていた。ご飯粒をやめて煮干しの量を増やしてあげればよかったと、今では思っている。
また、ヒバの木の枝を伝わって脱走したカニもいた。ある時タライがもぬけの殻になっていて、近くを探しても見つからなかった。2,3日後、用務員さんのところへ遊びに行った兄が、お世話になっているところを発見した。報告を受けた母だったが、用務員さんに言い出しにくく、そのままになってしまった。
③砂絵
砂絵の材料を売りに来たおじさんもいた。今でいう実演販売だ。
我が家の隣は病院であったが、広い敷地の一部を道路から2メートルくらい下げてこげ茶色の木の柵で境にしていた。病院に断ったかどうかわからないが、その柵の前でおじさんは店を広げた。
準備が終わると、筆に水で溶いたのりをつけ色紙に透明な絵を描いた。用意された箱には仕切りがあり、何色かの砂が入っていた。それをお椀ですくい、さらさらと色紙にかけた。また筆にのりを付け、残りの絵を描き砂をかけた。それを繰り返しながら、色紙にはほとんど目もくれず、慣れた手つきで実演した。
最後に色紙をデコピンするように指ではじき余分な砂を落とすと、あっという間にきれいな砂絵ができ上がった。ドヤ顔で色紙を掲げるおじさん。子供たちから歓声が上がった。
覚えているのは、青空と雪をかぶった富士山。まるで魔法のような手さばきに子供たちは目をキラキラさせた。
そんなおじさんのそばで私が砂絵に見とれていたら、いきなり「カワイイね」と言われて、おでこにチューをされた。たぶん6歳頃だったと思う。まるで砂絵の実演のごとく、あっと言う間の早業であった。
汚さにおいて、私の中では「にやけたおじさん>犬」なので心は大いにざわついた。だが、子供のくせに、そこは大人の対応でやり過ごした。泣きもしなければ、自分の袖口でおでこを拭くこともしなかった。悶々としながら家に帰ったが、私は黙っていた。おじさんのしたことを話してはいけないと思ったからだ。
♦怒ってらっしゃる?
私は、幼い頃から人の心の内を探るような性質の子供であった。相手の顔色をうかがい、特に母が黙っていると、自分に対して何か怒っているのではないかと心配になった。
たとえばこんなことがあった。私は学校に持っていくぞうきんを母に縫ってもらうのを忘れていた。その期日が明日だと思い出し仕事から帰って来た母に話すと、疲れた顔で、「なぜもっと早く言わないの」と叱られた。
薄暗い部屋で眉間にしわを寄せ、無言でミシンを踏む母の横に立ち、私はその手先を見つめた。面倒くさいことをさせて申し訳ない気持ちで一杯になり、そこから離れないでいることが母に対しての謝り方だと思った。
お母さんは、もう怒っていないだろうか・・・そればかり考えていると胸が苦しくなって、早く縫い上がるように心の中で数を数えながら祈った。出来上がると、ワーッと声を上げて、父の着古したシャツで作ったぞうきんに頬ずりしながら、大げさに喜んで見せた。
娘が小学生になったばかりだったか、私は何をしていたか忘れたが、娘から突然、「怒ってらっしゃる?」と丸い目をして聞かれた。そのへんてこりんな敬語か、あるいは丁寧な言葉に私は思わず吹き出し、「怒ってないよ」と笑ってみせた。
娘は私の気質を受け継いでいないと思っていた。いつでも自分のやりたいことをやり、自由奔放に見えた。いや、待てよ。私だって子供の頃は同じように生きていたではないか。
やはり娘も自分と同じような感性の持ち主であった。だが、それは薄く娘に伝えられたのかもしれない。
「怒ってらっしゃる?」娘はあっけらかんと私に聞いた。その単刀直入ぶりが羨ましく、可笑しくも清々しかった。
終わり
お読みいただきありがとうございました。
今後も、あふれ出る昭和の思い出を書いていきたいと思います。