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四季伽語  作者: 氷空けい
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勿忘菫


 凍んだ大気の中で、熱が膨らんでいる。盛る熾火が音を立てて爆ぜた。炯々と朱く燃える火を抱き、身は裡から爛れゆく。何もかもを焼べて燃え尽きた後には、ただ、乾いた白い骨だけが遺ればいい。粒子まで砕けて、永えの雪と混ざる。

 伏せた瞼のうらでそんな想像をしていた柊は、ふ、と目を開くと、か細く息を洩らした。赤らんだ鼻先が凍てた呼気でうっすらと白く染まる。硬くなった五本の指をぎこちなく解き、柊は掌を見つめたが、掴んだはずのものはすでに手の中にはなかった。寒さで色を失い、血管の透けて見える皮膚だけが目に映る。

 はらはらと落ちてきた灰雪が冷えた頬を撫ぜ、柊は頭を擡げた。

 樹氷の木立、その陰翳が薄青を帯びている。群がりの合間からは白藍の空が覗き、そこでは月が朧気に光っている。霏々として降る薄片によりその輪郭は鈍くなっているものの、一年を通し、厚い曇天に覆われたこの国では滅多に見かけない月影であった。ほんの微かな月灯りと絶え間のない雪の光が溶け合い、世界が青白く発光している。柊は目を細める。

 奇蹟じみた眺めだった。これが最後だと言わんばかりの風情。

 手を翳し、降り落ちるひとひらに指の背で触れる。ハク、とひそやかに柊は囁いた。響きも、滲みもせず、声は寒さの中で凝るだけ。


 ハク。


 僕はあなたに食べられてしまいたかったのだと、日々、織りを成した想いが今も積もる。あなたが梳いてくれた髪の毛の一本も、あなたを覚えた指先の爪の一枚まで、血肉を余すところなく喰らわれて、あなたに溶けてしまいたかった。骨は遺るのだろうから、あなたのその手で砕かれて、あなたの生きるこの場所の一部になってしまえれば。

 一方で、かなしげに微笑する白い眦、柊を窘める青い眸が思い出された。君は生きてゆくんだよ、柊。雪は降り続いている。視界が白く濁り、柊は目を閉ざした。

 燃えるたび、されどただ灰となるこの恋を、きっと柊は永く捨て去ることができない。瞼にある暗がりで、熾火はなおも燃えている。ハク。舌に馴染んだ名を焼べれば、一層朱く、火は燃えた。幼子の頃、孤独に堪えきれず恋しさのままに泣きわめき、強く呼ばわったみたいに爆ぜながら。ハク。

 ハク。





 百年白雪という。北の最果て、常冬の国にあるその泰山。一年中真白な雪に覆われているので、人はそう呼ぶ。

 柊は、ある年の果つる頃、この山で親に棄てられてハクに拾われた子どもだった。


 当時の齢は五歳のあたりだったろうか。千切ったような灰雪が延々と舞い落ちてくる中、一本の樹氷の根元で、柊は泣いていたのだったと思う。──極寒の百年白雪は容赦なく凍え、柊は、小柄な体躯をさらに縮めて、震えていた。棄てる子を、けれども不憫だとは感じていたのかもしれない、家を出るときに着せられた羽織にはぎゅうぎゅうに真綿が詰められていたが、身を切るように寒かった。餓えてひもじくもあった。けれどそれ以上に、着込んだ衣服に染みついた家の匂いが柊をくるんで押し潰すみたいに寂しさが襲うので、その孤独感がとにかく堪え難かった。叫んでも、叫んでも、雪山せつざんの静謐は揺るぎなく、嗚咽だけが虚しく凝った。

 柊は、霜焼けた手で上着を掻き合わせ、心臓を抱きかかえるように蹲り、父母を呼んだ。おとうさん、おかあさん、さむいよ、おなかすいたよ。疾うに歯の根は合わず、吐いた声はまともな言葉にならなかった。さみしい、かえりたい、ひとりにしないで。むかえにきてよ。音を吸い取りながらこんこんと雪は降り続き、柊の痩せた身体は雪白に埋められてゆくだけだった。肌が強張り、瞼を上げられなくなってゆく。


 青い鱗粉が零れた。ひら、と蝶が舞う。


 朦朧とする意識の中、最初に柊の目が捉えたのは、雪にけぶるような真白な薄衣の裾だった。

 命を抱かず、息吹を知らない百年白雪にあって、風など吹くはずはなかったが、現れた衣は軽やかに揺れた。細い線が動いたと思えば、衣装だけではなく何もかもが真白い奇っ怪な人影が、蹲る柊の顔を覗き込んできた。滑らかな白皙、肩で揃えられた真白い髪。

 瞼も睫毛も凍り、半分も開けられない目で、ぼんやりと柊はその人影を見つめた。

 そろりと手が伸ばされ、柊は頬を撫ぜられた。本当はひどく冷たい手であったのだと思う、けれど凍むる百年白雪で長くおののいていた柊には、輪郭を辿る掌の体温はあたたかく感じられた。たおやかな仕草から慰めと労りが滲んでいたせいかもしれない。柊は安堵した。心が緩み、止まない雪と重なる疲労に堪えきれず、目の前が霞んでゆく。瞼が完全に落ちきる手前、その眸と視線が交わった。

 青い──


(きれい)


 ふっと思った瞬間に、柊の意識はぷつりと切れた。




 その後しばらくの日々を柊はよく覚えていない。

 記憶の断片と後から推し量ったことだけれども──百年白雪を成す樹氷の森の奥深く、ひっそりと佇むおのれの屋敷へ、その人は柊を連れて帰った。凍死寸前だった柊は、それの棲み家で随分長いこと臥せっていた。目覚めることはあまりなかった。殆ど全身と語っていいような範囲が凍傷に罹り痛みで身動きが取れず、ひどい風邪を引いて高熱を出し、心労がたたったせいもあって中々平癒しなかったからだった。死んでいてもおかしくなかったのだと思う。

 生と死、夢と現を彷徨う日々をどれほどか続け、柊がようやっと意識を取り戻した頃には、疾うに灰雪は過ぎて、綿雪がはだれへと変わりゆく時節となっていた。


 熾火が爆ぜる微かな音で、その日、柊は目を覚ました。十分に暖められた部屋の、褥の上できちんと蒲団を掛けられて、柊は寝ていた。木目の天井を見上げ、やたらと重く感じる睫毛を瞬かせる。身体中が鈍い痛みを訴えていたけれども、どうにか肘をつくと、上半身だけを起こした。

 困惑しながら見回した部屋は、柊がそれまで暮らしていた家屋とは全く趣が異なっていた。小綺麗に整えられ、壁や畳に染みなどはなく、調度品もほどよく揃えられている。部屋の片隅には炭の焼べられた火鉢があり、それは小さな音を立てながら熱を放っていた。他にも、藺草のよい匂いがする。

 炭と藺草の香気に混じり、薬草のそれも鼻を突いた。柊が目を遣ると、木の枝と見まごう如く痩せこけた腕に真新しい包帯が巻かれている。柊は褥に掌を這わせた。ぼんやりとした頭が覚醒するにつれ、褥も蒲団も、身に着けている衣服も、みな清潔そうなものだと気づいた。枕元には手拭いの掛けられた水を張った桶や、盆に載せられた吸い口、白湯らしきものまで置いてある。

 自分はどうしたのだったか。戸惑いと共に事物を視線でなぞっていると、部屋の外からぱたぱたと駆けてくる跫音が聞こえた。その音に反応して柊が首を動かすのと同時に、障子の襖が開かれた。そうして顔を合わせたのは、柊よりもいくつか年上だろうと思われる女の子だった。

 少女は、柊を見て瞠目すると、すぐにぱっと表情を明るくした。そして、ひいさま、と勢いよく声を上げる。ひいさま、おひいさま、少女は叫びながらもと来た方へと走っていってしまった。遠ざかってゆく声に呆気に取られ、開け放たれたままの襖を見つめるだけで柊が何の行動も起こせずにいると、しばらくして、その人はやって来た。

 ひら、と薄衣の裾が揺れる。

 百年白雪の匂いがした。


 ぞっとするほど凄艶な容色の、奇っ怪な、真白な女だった。起き上がっている柊を認めた女は、一つ、瞬きをすると、何も言わずに敷居を跨ぎ、部屋へと入ってきた。足裏で畳を擦る音すら立てず、褥の真横で膝をつくと正座をする。彼女はじっと柊を見つめた。柊はたじろいだ。肩で切り揃えられた雪のような髪、赤みの差さない頬、唇にも生色はなく、透けるように白い面の女──。人ではない、と柊は思った。

 百年白雪には、あやかしの女が棲んでいる。

 幼い柊ですら耳にした、有名な語り草である。柊は息を詰めた。女の眼差しはただ凝然と、柊へ向けられている。彼女は何をするでも、言うでもなかった。徐々に居心地の悪さを感じ、柊はやがて、おずおずと彼女の目を見返した。そして思わず、詰めていた息で窒息しそうになった。

 光の加減で銀にもけぶるような長い睫毛の下、嵌められていたのは青い眸だった。雪に濡れたように清んでいる。吸い込まれるみたいだった。きれい、と柊は独りごちる。そういえば、記憶が途切れる間際にもこの眸を見たような気がする。延々と、灰雪が降り続く最中で。

 はたりと柊は思い至った。脳裏に閃く光景があり、寒気が背筋を駆け上がった。戦慄く。そうだ、百年白雪で自分は親に棄てられたのだった。そして、樹氷の下で凍えていたところに、目前の人影が現れたのだ。


「……ぁの」


 渇いた咽喉からひび割れた声が零れた。


「あなたが助けてくれた、の……」


 恐る恐る訊ねた柊に、けれど彼女は口を開かなかった。その代わり、ごく微かに、その青い眸を緩めたのだった。




 ハク、という名は、柊がこのときにつけた。

 理由は至極単純なもので、彼女が百年白雪に棲み、百年白雪と同じ真白を持っているからだった。柊は未だ小さな子どもだった。

 最初は、柊も、少女が呼んでいたようにひいさまと声を掛けたのだが、女が眸に不思議そうな色を灯したので、何となく間違っている気がしてやめた。でもそれならと柊が名を問いかけても、彼女は上下の睫毛を擦り合わせるだけで何も答えない。彼女の表情は頑なで、眦以外の筋を全て凍らせてしまったようだった。柊がいくら待っても決して口許を緩めないので、仕方なく、柊は勝手に女に名前をつけることにした。


 ハク。


 ほろりと柊の口を衝いた音に、青い眸は瞬く。そうして静かに笑んだ。

 柊は目を瞠った。わらった、と胸中で零す。注意深く窺っていないと気づけないほどの些細な仕草だったが、彼女は確かに微笑んだと思う。顔に熱が上る。焦れったい感情が込み上げた。柊はまじまじと彼女を見つめる。青い眸はひどく優しく細められている。

 柊は、相好を崩した。視界が潤んでゆく。


 不安と恐怖、孤独、あるいは絶望であったかもしれない。綯い交ぜになった負の感情が、小さな柊の、小さな心の中で凝っていた。臥せっていた間も、ずっと、白い闇に魘されていた。──凍むる百年白雪、親に置き去りにされた自分。棄てられる予感は前からあった。けれどもいざそのようにされてみると堪えきれないほどつらく、寂しくて、恐ろしかった。泣き声を吸収しながら降りゆく灰雪は、思いもしないほど冷たかった。寒すぎてどうしようもなく、霜焼けを起こした手足を擦り、何度も何度も、息を吐いた。呼吸するたびに肺が軋んだ。声は嗄れてゆくばかりなのに、樹氷の森は鼓膜が痛むくらいにずっと、ずっと静かだった。百年白雪は無情だった。綿の詰まった羽織を掻き寄せ、最後に与えられたぬくみに鼻先を埋めれば、恋しい家の匂いがする。

 別れ際の父母の顔が過ぎる。

 おとうさん。おかあさん。

 ひく、と咽喉が引き攣った。張り詰めていた気持ちが解け、ぼろぼろと涙が零れる。一度溢れるともう止まらず、すぐに柊は火が点いたように泣き出した。わんわんと声を上げる柊を、女の細腕がゆっくりと抱き寄せる。ハク。ハクの体温はひどく低くて、顔を近づけると雪の匂いがした。でも、あたたかいとも思った。柊は安心した。小さく丸めた背を撫ぜるハクの手つきはとても優しくて、だから余計に、涙が止まらなかった。

 慰めに満ちたハクの白い手を、柊は忘れられない。

 子どもの慟哭が響いている。部屋の片隅に置かれた火鉢の中で、熾火がぱちっと音を立てた。




 床上げして包帯も取れ、恢復しても、柊はそのままハクの屋敷で暮らした。今更帰る場所も、行く当てもなかった。

 ハクの屋敷には、柊の他にも子どもがいた。子どもは性別も年齢も様々で、十を過ぎた者もいれば、柊よりも年下の、未だ赤子としか言えないような者もいた。大人と呼べる年嵩の人間はいなかった。屋敷に集う子どもたちは互いに支え合い、協力して生活を営んでいて、明るい笑い声が響くその中で、柊は少しずつ彼らの輪に馴染んでいった。ハクは、ただ黙ってそのさまを見守るだけだった。時には手助けをしたけれど、日頃は一定の距離を保ち、静かに眸を細めていた。

 柊以外の子らはみな、ひいさま、おひいさまとハクを呼んだ。ハクをハクと呼ぶのは柊だけで、当初はそれを疑問に思い、何度か柊もハクに対してひいさまと口にしてみたりした。けれどもそのたびにハクが微かに眸を揺らすので、結局、自分がつけたハクという名で、柊は彼女に親しんできたのだった。 十二年と少しの歳月を、柊は、百年白雪で過ごした。

 その間、一年に一人、多いときは三人よりももっと、ハクは子どもを屋敷へ連れてきた。恐らく、彼らは柊と同じ境遇だったのだと思う。柊より前から屋敷にいた子にも、後から来た子にも訊ねたことはなかったが。なぜなら、ハクに拾われ生家で暮らしたとき以上の恵まれた生活を得ても、どれだけみなと楽しくあたたかな日々を過ごしても、親に棄てられた記憶は柊の中から消えなかったからだった。ふとした拍子に瘡蓋が剥がれるよう、時たまあの日の苦痛と孤独は甦り、柊を苛んで、苦しめた。他の子らもきっと同じだと想像すれば、到底、境遇など聞ける話ではなかったのだ。

 ハクが新しい子どもを連れてくるのと同じ頻度で、いつの間にか、屋敷からは見慣れた顔が減っていった。歳は関係なく、長く暮らす子どもから順々に姿を消してゆくのだった。

 柊は、それを、随分前から知っていた。





 十四のあたりを過ぎてから、柊はたびたび山を下りるようになった。屋敷に住む子どもの中でも古株となり、既に年長の男子であることもあって、誰某から言付けられた用事を山麓の小さな町へ済ませに行くのが、その年頃から柊の役割となっていた。山を下りるのは数ヶ月に一度ほど、大体が備蓄品の調達のためだったが、たまに他の用向きのこともあった。

 じんと耳が痛くなる、百年白雪の静謐から抜けて辿り着く麓の町は、いつも少し澱んだ空気を漂わせている場所だった。夜明け前に屋敷を出て下山すると、町へ到着するのは午睡の終わるあたりで、稀に遅いときは夕刻近かったが、往来はどの日も変わらずそれなりの雑踏があった。柊は、町があまり好きではなかった。幼少の経験のせいに違いなかったが、町の住人に対する警戒心が拭えず、通りを歩くと疲弊せずにはいられなかった。

 用事を片づけたら、すぐに山へと帰る──。柊は頑なにそう決めていて、帰りの登山は毎度夜半だった。それを危ないと思ったことはなかった。百年白雪は夜が更けても雪灯りで明るいため、身なりさえしっかりしていれば歩くことはでき、後は慣れの問題だった。

 それにたとえ途中で挫けてしまったとしても、ハクが必ず迎えに来てくれる。柊はよくわかっていた。

 彼女は決して、山の子どもを見棄てない。




 おまえ、と声をかけられたのは、犇めく人びとの間を縫い、町から山へ帰ろうとしていた道すがらだった。自分が呼びかけられたのだと気づかず、最初は声を無視したのだが、そこのおまえ、ともう一度聞こえて、柊はようやく視線を動かした。見遣った先は大路が切れるあたり、道なりにある家屋の軒下から、柊を凝然と見つめている老婆がいた。否、見つめていると思われる、である。老婆の両目はくすんだ包帯に隠されていた。

 どこへゆくのかと老婆は訊いた。その錆声は洞察の響きを含んでいた。汚れの目立つ薄墨の外套、ざんばらな胡麻塩頭の老婆を見返した柊は、少しだけ眉を顰めた。口を引き結んだ柊に対し、あやかしの女に会ったね、と老婆は続けた。見窄らしい風貌だが背筋はしゃんと伸び、紡がれる声は朗々としていた。白雪の匂いがする、子棄ての山の生き残りか。


「それが」


 柊は、冷ややかな声を吐いた。

 知りながら山を下りないのか、おろかものと、抑揚の浅い叱責が返ってくる。おまえはなにゆえあの山が百年白雪と呼ばれるのか、本当にわかっているのか。咎める老婆を睨み、柊はふいと顔を背けた。黄昏の刻限となり、あちこちで火が灯り始める町を後にして歩き出す。

 祓いの老婆なのかもしれなかった。諭す口調、老熟しきったその響きは、立ち去る柊を憐れむように追いかけた。ここは常冬の国、百年白雪の山麓であるはずなのに、老婆の言葉は凝らずに透る。冴える大気は揺らいで、波紋が広がってゆく。


「あれは常冬の始まり。蝶は死霊の化身だよ」





 それはよくある伽語(トギガタリ)。ひそかにいまも語らるる、神を宿したふたつの仔。

 常冬に鎖される前の国には、一人の女の胎から共に生まれた忌み子がいた。一方は赫い眸の、もう一方は青い眸の。





 百年白雪は子棄ての山だ。柊がそれを理解したのは、屋敷で暮らし始めて二年も経たないうちだったと思う。


 青白く発光する真夜中の山を、柊は黙々と登った。今宵は肌に触れる薄片がひとひらもなく、清んだ大気は普段以上に凛冽とし、寒威は強くぶつかってくる。口許と首を覆う防寒用の襟巻きの隙間から息を吐くと、零れた端から白く凍った。赤くなった鼻を啜り、柊は一歩を踏みしめる。

 雪を踏むと、さく、と鳴った。脆く果敢ない音が続く。柊が歩くたび、足許で結晶が砕けている。耳を掠める響きは、濡れているようでも乾いているようでもあった。音の反響を飲み込んでしまう夜半の百年白雪で、さく、さく、と一定の跫音だけが刻まれてゆく。同じ調子で歩いている。柊はひたに山を登っている。

 不意を突き、頭上の、撓りきった枝からばさばさばさっと雪が落ちてきた。一心不乱に足を進めていた柊は避ける術を持たず、頭のてっぺんからそのまま落雪に遭った。雪が汗の滲んでいる額をひやと撫ぜる。柊は一瞬呆然と立ち竦んだ。ややあって我に返ると、襟巻きから覗く首筋にまで滑り落ちてくる雪を振り払うのも等閑に、背負った荷物を放り投げてその場にうつ伏せで倒れ込んだ。静謐を湛える樹氷の森は、脱力した身体を拒まずに受け止めてくれる。柊は浅く吐息を洩らした。疲れた、と思う。 睫毛に付着した雪の結晶が、瞬くといっそう輝きを帯びた。冷たく光る白雪に頬を寄せ、柊は瞼を下ろす。

 目を閉ざし、山の寂寥に耳を澄ませると、父母を呼ぶ子どもの慟哭が遠く聞こえる気がした。おとうさん、おかあさんと呼ばわっている。さむいよ、さみしいよ。この声は誰のものだろう。棄てられた幼い柊か、それとも他の子どもだろうか。泣き叫び、嗄れた声。樹氷の根で蹲る、襤褸を着た子の姿が脳裏を過ぎる。森を成す樹氷の眼差しはつれなく、広がる雪景色は美しく冴え、そしてどこまでも酷薄だった。寒さで真っ赤に膨れる小さな手。眦を落ちる涙は皮膚に張りついて凍る。ひとときも止まず、雪は降る。降り続く。迎えに来て、独りは嫌だと泣いている、子どもの切々たる声を奪いながら。雪は延々と。


 あやかしの女に会ったね。子棄ての山の生き残りか。


 凍んだ静謐と子の泣く声に被さって、嫌に落ち着いた口振りの老婆の言葉が耳朶に甦った。柊は雪ごと掌を握りしめる。わかっているのかと老婆は柊に問いかけた。わかっている、柊はずっと知っていた。樹氷の森の奥深く、人知れないあの屋敷で、何も気づかずにいられるほど柊は鈍くなれなかった。 この山には、生きているものがいない。一頭の動物もなく、樹氷の森と化している、群生する針葉樹以外の植物もない。川や滝は凍りつき、流れる水はなく、風すら凝って吹くことがないのだ。屋敷の外で火を熾してもすぐに消えてしまう。この山は息吹かず、命を抱かず、生きる術さえ与えない。生きているものはいない。生きているものなどいるはずがない。

 北の最果て、ここは永えの雪山。命あるものを鎖す百年白雪。

 柊はしばれる睫毛を震わせて目を開けた。一筋だけ、涙が零れる。




 気配を感じて、柊は目線だけを動かした。瞬く刹那、青い鱗粉が零れる。それから、見慣れた薄衣の裾が目に入った。


(ハク)


 中々帰らないから心配したのに違いない、やっぱり迎えに来たと柊は思った。白雪の下に凍る悲しみを追憶していた胸中に、ひそやかな清濁の喜びが湧く。

 俯せている柊の傍らで、ハクは膝をついた。雪に倒れ込み、人型ひとがたを押した柊とは異なって、ハクは文字通り雪の上に正座をした。彼女の軽やかな挙措を見つめ、柊は毀れるような息を吐く。柊の顔を覗き込んだハクは、柊の額に掛かる髪を気遣わしげな手つきでそろりと除けた。ほっそりとした氷柱のような指は、そのまま、柊の目尻を撫ぜてゆく。雪と同じ温度の、ひやりとするハクの手が冷え切ったおのれの肌に触れるとき、柊は不思議とあたたかさを憶える。凍えるほど冷たいはずなのに、ハクのその手で柊は熱を知るのだった。

 柊は再び瞼を下ろした。ハクから漂う雪の匂いを嗅ぐ。水のまろやかなそれとは別の、清冽で、凍みる匂い。百年白雪の匂いでもある。屋敷の中にいるときも、時たまそれは鼻腔を掠めることがあった。例えば、暖を取るための火の薫りの間近でも。

 その理由を、柊は知っている。

 ハク、と。ほんの少しだけ上下の唇を触れ合わせ、柊は囁いた。ハク。ハク。あちこちについた雪が払われる。髪を梳かれ、頬を撫ぜられる。愛しげに。きっと愛しげに。ハク。

 ハク。


 百年白雪は子棄ての山だ。山は、命を抱かない。すべからく殺してしまうから、だから人はここへ子どもを棄てに来る。


 屋敷の子らはみな、助からなかった子どもなのだ。


 柊がそれに気づいたのは、ハクに救われた柊が療養し、以降柊の部屋となったあのにだけ、火鉢が置いてあることを知ってからだった。

 きっかけの出来事は定かではない。他の子の部屋へ遊びに行き、柊は寒いと言ったのに、相手が全く平気な素振りをしていたのだったか。それとも、十分に暖められた柊の部屋へ遊びに来た子が、何故だか外にいるときのような厚着をしていたのだったか。何かの拍子に奇妙だと思ったのだ。それで柊は注意深く屋敷の子らを観察するようになり、やがて悟ったのだった。自分以外の全ての子は、みな、既に生きてはいないのだと。

 柊の部屋にある唯一の火鉢は、柊が生身の人間として今も生きているから用意されたもので、他の子どもが屋敷の中にいてもやけに厚着をしているのは、彼らが酷寒の百年白雪で凍えながら死んでいったからだ。屋敷に一人の大人もいないのは当然のことだった。ハクは、棄てられた子を拾う。棄てられた命だけを集めている。

 屋敷で暮らす子どもは、柊を除いてみな、ひいさま、おひいさまとハクを呼ぶ。柊より先にいた子も、後から来た子も。柊だけがそう呼べず、仮初めの呼び名を与えることを許された。それは、柊が生きていて、死した子を連れるあやかしの女の支配下にはいないからなのかもしれなかった。柊は真実、特別な子どもだった。老婆の言ったとおりである。子棄ての山の生き残り。

 けれど、その事実に、決して前向きな感情は浮かばなかった。百年白雪と屋敷の子らについてはっきりと確信を得た日、柊は一人で、声も上げずに泣いた。ただ悲しくて虚しかった。




 柊が役割を担う以前、折を見て山を下りる子どもは毎年いた。だいたい年長の男子か、もしくは長く屋敷で暮らしてきた子で、彼らは今の柊と同じような仕事をしていたらしかったが、ただ、その子は山麓の町から帰ってあまり遠くない頃にいつも姿を消した。時が満ちるのだ、と柊は思っていた。自分が町へ用事を言付けられるようになり、尚更そう感じるようになった。物資を調達する以外の時たまの用向きは、どこそこの家へふみを届けることだったからだ。それを頼むのは、やはり屋敷の古顔の子どもだった。

 届けるのは文ばかりではなかった。否、文字を書ける子が少ないので、文ではない方が多かった。町に下りて頼まれた花を買い、それを軒先に置いてきたこともある。食べ物のときもあった。あるいは衣類のときも。屋敷へ帰り、きちんと届けたことを伝えると、頼んだ子は今まで見たことのないくらい静かな表情でありがとうと笑った。それからしばらく経ち、気づいた頃には、その子は屋敷から姿を消しているのだった。




 雪を拭い、髪や肌に触れている氷のような手へ、自分のそれを伸べる。捉えると、綿雪を握るみたいに柔く包んだ。

 目を開け、柊は起き上がった。くっついていた雪が弾みで落ち、薄片がはたはたとまだらに模様を描く。冷艶な、美しく細い指を取った柊は、ハクを見つめた。ハクもまた柊を見返している。柊よりも余程清らかな青い眸で。

 ハク、と名づけながら、彼女が唯一具えているその青を、柊は深く愛していた。とてもきれいだ。ハクに拾われたあの日から今でもずっと思っている。

 出会ってから一度も、ハクは口を開いたことがない。表情も動かしたことがなかった。喋らないのか、話せないのか、柊は知らない。十二年と少しの歳月、ハクと柊は共通の言語を持ち得ないままだったけれど、それを不便だと感じたことはなかった。ハクの青い眸は決して雄弁とは言えないが、確かに語るからだった。怒りを見せることはあまりない。笑い、困り、心配して、時々寂しそうにする。瞬きの数、眦の加減、細める仕草に、灯る光──。柊はじっと彼女の眸を見つめて、意思を汲み取り、ハクを知ってきた。だから、ハクが心の底から、百年白雪の不憫な子らを慈しんでいるそのことを、柊はよくわかっている。柊自身も大事にされてきたのだから。


 それでもやがて時は満ちる。子どもたちに永遠はない。


 見つめる青い眸に、柊の影が映り込んでいる。柊はほろりと微笑した。雪片で白んだ睫毛を伏せ、つと、繋いだ手を引き寄せる。滑らかな真白の手の甲へ口づけた。

 胸の裡では、熾火が爆ぜているみたいだった。焦れったく燃えている。抱いた熱は柊を爛れさせ、心に醜い痕を残してゆく。火が朱くなるたび、きっとハクを傷つける願いばかりが柊の中で強くなる。あの日柊を慰めたこの冷たくて白い手を、ハクそのものを、恋しく想うがゆえに。ハク。

 時が満ち、子らはゆく。そして柊は、生きている限りいつか山を下りねばならない。その時は予期できないけれど、恐らく子どもと呼べなくなったらだろう。そんなに先の話ではない。誰もが去りゆく。その流れの中で、百年白雪とハクだけがただ永くある。柊には、それがつらい。

 孤独の悲しみは尽きることがないはずだから。

 あなたの一部になりたい。


「ハク」


 なあに、柊。ハクは、そんなふうに青い眸を細める。

 何て愛しい。

 こいしい。


「僕を、食べて」





 忌み子のひとつは赫の皇子と呼ばれ、もうひとつは青の姫と呼ばれた。ふたつの仔を産んだ母は胎から朽ちた。おまえたちは罪あるもの、国のためには殺さねばならないと父は言った。父は国を統べる王であった。

 けれども仔を共に屠れば呪われると誰かが叫び、彼らは別たれる道を選んだ。一方が死すれば、一方は生き存え、国は滅びゆく運命を免れる。ふたつであるから罪なのだと、自ずから決したのは青の姫だった。だが、生き残った赫の皇子は嘆き悲しみ、激昂してそれを認めず、地を離れ、神を宿した仔の去った国は結局父王の代で途絶えた。そして北の最果ては、移り変わる折節を失い、常冬に鎖されることとなる。

 国の失せた蹟の地は不毛となり、人びとは困窮し、貧しさゆえに子を棄てた。土地を見下ろす泰山へ登り、樹氷の下で置き去りにする。泰山はもとより長い冬を頂く銀嶺であったが、それでもかつては美しき四季の移ろいを見せていた。一年を通して雪の融け得ぬようになったのは、常冬に鎖され、子棄ての山と卑しく呼ばれるようになってからのことである。

 泰山で死した子を迎えるのは、あやかしと化した青の姫だとされた。蝶の姿を取るという。子の凍てた血肉を啄んで、喰らった後は骨を砕き、子らを埋葬するのだと。融け得ぬ雪は、棄てられた子どもの骨が砕かれ、雪と共に積もり積もってゆくからだ。人びとはひそやかに語り継ぐ。


 北の最果て、常冬の国にあるその泰山。百年白雪と人は呼ぶ。



 *



 火消し壺へ炭を移し終え、火鉢の灰へ火箸を刺す。未だ燻る熱を見つめ、そろりと息を吐くと、纏めた数少ない手荷物を持って立ち上がった。住み慣れた部屋の匂いを解くように障子を開け放ち、敷居を踏んで、廊下へ出る。ひや、と冷えた空気が裸の足裏を這い、それが名残惜しく思われた。屋敷は静謐に満たされていて、騒々しく駆け回る子らも今日はいない。当然、あやかしの女も姿を見せたりはしないだろう。十三年の歳月の後、彼女に拾われたあの日と同じ、年果つる頃。

 一人外へ出ると、はらはらと灰雪が降っていた。凍てる大気、はあと洩らした吐息は凝る。降り積もる雪白を眺めて、彼女の永き百年を追憶するように、柊は瞼を下ろした。



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