008
『全国学生美術コンクール。佳作。樋口正孝君』
という言葉が、マイクを通じて体育館に響き渡った。
まったく驚きだ。世界は驚きに満ちている。
樋口が美術部だった事も僕は初めて知ったし、樋口の名前がマサタカである事も僕は初めて知った。あまつさえ、いつの間にやら絵画やら何やらをでっち上げ、コンクールになどにそれを送り、賞を受け取るだなんて、想像すら出来なかった。
『なお、樋口君の作品は、職員室の前の掲示板にて一ヶ月間張り出されます』
見に行ってたまるか、畜生。
そこからしばらく、樋口は学校の中の、小さな中心であった。
『別に賞を取りに行った作品じゃなかったんだけどな…まぁ逆にそれが良かったのかもしれないけど。芸術なんて、ホント訳が分かんねぇよ』
僕は樋口に関してはなかなかのスペシャリストであると自負している。しょっちゅう樋口の顔色を伺っていた訳で、樋口がどのような表情を浮かべ、どのように笑うのか、というのは、恐らく本人以上に知っているのではなかろうか?そんな一級樋口ソムリエの僕から言わせると、樋口は流石に、若干浮かれていた。樋口は表情をあまり変えない。樋口は役者の大半がそうである(らしい)ように、自分のどの顔が一番いいのか分かっているようで、自分の一番いい顔が崩れないように、常に顔の表情を固定しているのだ。そして実際、樋口はそれなりにイケメンなのだ。さらにそれが(実はイジメの常習犯ではあるが)絵画の賞やら何やらを取ったものだから、周囲の眼差しは『ただのイケメン』以上のものに変貌していた。この一事をもって、僕は樋口に対する評価を若干改める事になった。樋口が纏っていた、何やら不思議な雰囲気は、樋口が好んで作り上げたものだった可能性が高いと僕は推察する。樋口は自分が周囲にどう見られているのか、重々理解していたのだ。そして今回、恐らく本人にも思いもよらず賞なんぞ貰っちゃった訳だから、いつもは隠そうとしていた自意識が(具体的に言うと【ニタニタ笑い】が)溢れ出てしまっているようだった。そしてそれはつまり、こんな事を言うのはなんだが、僕には樋口の底が見えたような気がしたのだった。ユダヤ人の格言か何かに【どんな人でも、会うと小さくなる】というものがあると聞いたが、ようはそんな感じだった。僕は今、樋口に初めて会ったような気がしたのだった。そして樋口は小さくなった。それは多分、僕にはいい事だったのだろう。僕は数日前に比べて、確実に樋口を軽蔑している。というよりも恐らく僕は、自分の中で樋口の存在を、想像以上に大きなモノと勝手に捉え過ぎていたのだろう。そしてもう一つ僕にとって都合が良かった事はといえば、樋口が学校内で必要以上に目立ってくれたおかげで、僕に近付いてくる事がほぼ無くなったという事だ。このような事になるとは、僕としても夢にも思わなかった。僕は自分が行動を起こさねば、樋口との関係を変化させる事は出来ないと考えていた。しかし、途方も無い根性無しである僕が何もしないでいる間に、樋口はいつの間にやら絵を描いたりなんかしていて、今ではすっかり状況が変わってしまったのだ。なんだか物凄く複雑な気分だった。望んでいたはずの状況の変化が訪れたのである。喜ぶべき状況だ。喜べよ、俺。でも何故だかそこまで喜ぶべきにはなれなかった。
一つ確実に言える事は、僕の人生など、この広大な宇宙の中では枝葉末節であり、何の意味も、価値も、意義もありゃしないという事だ。僕が死んだ後の世界を想像してみる。僕が生まれてこなかった世界を想像してみる。何が変わった?僕がいない事でどんな不都合が生じたっていうんだ?【何も】だ。何も変わりはしない。そしてそれは僕に限った事では無い。多分ベートーヴェンがいなかったとしても、世界はそこまで変わらなかったんじゃなかろうか。ニュートンがいなくても、万有引力は我々を地球に縛り付け、アインシュタインがいなくても、相対性理論は不変の宇宙法則であったはずだ。地球の歴史に確実に名を刻むような偉人達ですらきっとそうなのだからして、僕や、僕だけでは無い、その辺の一般人がこの世に生まれてきていなかったからといって、この世界に何の影響があるだろうか?そんなものは有りはしない。絶対に、誰が何と言おうとありはしない。そんな事はある程度の年齢に達した人間からすれば、誰もが理解している事のはずだ。大昔の人達は、地球の周りを太陽が回っていると思っていた。世界の中心は自分達だと思い込み、地動説を説いたガリレオとかいうおっさんを幽閉した。なんと愚かなのだろうか。昔の人達って本当に馬鹿だったんだねと、多くの人が思っているんじゃなかろうか。
しかし、僕はそうは思わない。
僕から言わせれば、誰にとっても、世界は自分が中心であるべきだ。自分こそが主人公であり、神に選ばれし者であり、自分は大きな事を成し遂げる運命にあると思い込むべきだと思う。でなければ僕のようになってしまう。世界には何の意味もなく、自分には何の価値も無く、無意味に生まれて、無意味に死んでいく。仮にそれが事実だとしても、それを僕達は認めるべきじゃない。全能感と言う名の僕達の手酷い勘違いは、僕達を守る強力なバリアだ。そのバリアを失ってしまった人間は、この残酷な世界の中で、素っ裸で立ち尽くす事になり、いずれは切り刻まれてしまう事になる。例えば僕のように。僕がかつて纏っていたはずのバリアは、この世界の軋轢の中で、徐々に徐々に弱まっていき、そして樋口の登場と共に完膚なきまでに砕け散ってしまった。僕はもう二度と、自分が世界の中心であるなどと勘違いをする事が出来ず、僕を守ってくれていたはずの、あの馬鹿げた根拠の無い自信を、永遠に取り戻す事が出来ないだろう。もしかしたら樋口はその事を知っているのかもしれない。いじめられっ子という連中は意識的にか、無意識的にか、自分が纏っている、勘違いという名前のバリアの重要性を知っている人達なのかもしれない。人間がまるでタマネギのように。一枚一枚皮を剥いでいくと、その中には何も無いという事を知っている連中なのかもしれない。だから僕達のような人間を見つけて、そのバリアを剥ぎ取り、自分のバリアに移し替える。全能感という、強力な、変えの利かないバリアを維持するために、イジメという手段に出るのかもしれない。それがイジメというものの本質なのでは無かろうか。
まぁ、多分違うだろうと思うけど。
しかし人生の戦略的には、連中のやっている事は極めて効果的なのではなかろうかと思う。イジメっ子達はいつまで勘違いし続けるのだろう?恐らくそれは、一般の人間よりも長く、そしてイジメられっ子に比べれば遥かに長い勘違いのはずだ。死ぬ瞬間まで勘違いしているような奴は恐らく最悪のクソ野郎なのでは無いかと想像するが、見ようによってはとても幸福な一生だという事にもなるだろう。それを羨ましいと感じる心が、正直僕の中にも確実にあったりもする。そうとも。イジメられっ子はイジメっ子を憎んでいる。それはきっとその通りだ。全てのイジメられっ子は、イジメっ子を、これ以上無く憎んでいるが、同時に自分がそうでありたいと、欠片も思わないかと言われれば、多分そんな事は無い。弱者をいたぶる事に、何の良心の呵責も感じず、悔しさと悲しさで泣き崩れた相手の顔に対して、笑いながら小便をかけるような仕打ちを平気で行えるようなメンタルが僕にもあれば、どれだけ良かっただろう。確かにコレは不道徳な考え方かもしれないが、でも道徳的に生きたところで、少なくとも、神様はイジメられっ子を決して救ってくれたりしてはくれない。
果たして、屈辱の日々はこのまま終わりを告げるのだろうか?樋口からどうにか逃げるために、旅に出てしまおうかとか、格闘技を習おうかとか、小説家にでもなろうとか、自分の想像の及ぶ範囲で色々考えていた日々が、唐突に終わろうとしていると考えていいのだろうか?僕はそれを望んでいたはずだったはずだ。僕とて高校二年の健全な男子だ。毎朝朝立ちもするし、パソコンで時々エロ動画を検索したりもする。いや、ごめん、悪かった、ハッキリ言おう。毎晩検索している。そんな訳で、この僕にだって、女性に対する性欲や、もっと言えば好みの同級生がいない訳では無い。にも関わらず、僕は神様に『好みの女か樋口との別離か』の二択を突きつけられれば、樋口と別れる方を取る、と、本気で考えていた。それほどまでに希求していた事態が、現在進行系で実現していようとしていた。これは神の恩寵だと考えるべきだろうか?もしかしたら僕の願いが、何かどうにかなって、どこぞの神様に届いたとでも言うのだろうか?この場合、感謝すべきは誰だ?イエスか?エホバか?それとも美の女神というやつか?ヴィーナスか?アフロディテだろうか?彼女達が、僕を憐れみ、自分に出来る最善の策として、樋口に対して賞を受賞するような特別な才能を与えてくれたのだろうか?それならそれで感謝を示すにはやぶさかではないが、神様という人達はどうやらいつもほんの少し感覚がズレているように感じる。例えば樋口ではなく、僕に美術やら芸術やらの才能を与えてくれれば、何やら色々と事態は丸く収まったような気がする訳ですけれども、僕が今まで被ってきた損害と、樋口が獲得した得を比べた場合、なんだかそこにはあまりにも差別があるような気が致しませんかね?それともあなた方は単に、僕のようなカス野郎の願いなどは右から左へ受け流し、賞を取りたいという樋口の望みを叶えてあげただけであると、そういう事だったりするのでしょうか?【天は自ら助くる者を助く】というとあなた方は、簡潔に申し上げますと、ようは何もしないって事なのでしょうか?じゃあ世間に流布されている、あんたらの教えってのは、いったい全体、どう解釈すればいいのでしょう?見ようによってはいじめられっ子は聖なる存在だ。なんてったって僕等は、顔面にパンチされた後で金まで差し出すんだから。『右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ』『悪に対し悪を以って報いてはならない』その教えの忠実なる体現者だ。しかしそんな僕達を、いったい誰が褒める?誰が立派だと言うのか?イジメは犯罪だとか、イジメ問題をどうにかしなくてはいけないだとかいう意見は良く聞くが、イジメられっ子を讃えよだとか、イジメられっ子のように生きようだとかいう意見は聞いた事が無い。何故だろう?などと考えるのは愚問だ。答えはハッキリしている。皆イジメられっ子を心の何処かで軽蔑しているのだ。『あぁはなりたくない』と心の何処かで思っている。右の頬を打たれた後で、左の頬を差し出すのなんて、まっぴらごめんだと思っているんだ。別にそれが悪い事だとは思わない。僕だってそう思う。言いたくないが、イジメっ子とイジメられっ子のどちらかに生まれ変わるとして、イジメられっ子を選ぶ人間は殆ど存在しないだろう。この二択ならば、きっと誰もがイジメっ子を選ぶ。いや、無理に否定する必要は無いよ。だって僕だってそうなんだから。ショートケーキとチーズケーキを選べと言われれば、僕は少し悩む。晩ごはんにカレーと豚汁、どちらがいいかと聞かれても、僕は悩む。でも生まれ変わるとして、イジメっ子かイジメられっ子かという問いに対しては、一片の躊躇も差し挟まない。そもそも、仮にイジメられっ子が善良な存在であると仮定したところで、でもいったい、誰が自分を善良である事を望むだろうか?自分がもし、本当に誰にでもなれるとしたら、その優先順位の一番上に【善良である事】などとする人間は、果たしているのだろうか?正直に言って、僕は、そんな人なんていないんじゃないのかと思う。となると、人間はやはり、生まれながらにして邪悪な存在なのだろうか?というかそもそも、残念な事に、イジメられっ子が善良であるなどという仮定が見当違いなのだろう。じゃあイジメっ子が邪悪だという仮定はどうなのだろうか?何故樋口は美術の賞などと貰い、何故僕はこんなにも惨めなのだろう。