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せめて幸せであれ  作者: マセ
7/13

007

 樋口もいた。しかし主犯は佐々木だった。樋口と違って佐々木のパーソナリティはなんともわかり易い。最終的に暴力を使う事を匂わせる事に、佐々木は殆ど躊躇が無い。というか、むしろ人を殴れるならば、今すぐにでも殴りたいと考えているように見える。そういう佐々木の態度は、僕を『あぁ、こりゃ駄目だ』と思わせるには十分なものだった。そして僕にとってこの金を渡す瞬間こそが、人生において一番重要な局面となってしまっていた。好きな異性に告白する人はその告白の瞬間までにどれほどの時間を費やすのだろうか?何日も眠れない夜を過ごし、どのような言葉をその相手に対してかけるべきだろうか?何度も何度も心の中、頭の中でその局面を反芻し、その瞬間に備えるはずだ。そして僕はと言えば、皆様お気付きの事とは思いますが、この瞬間に対して、何度も何度も頭の中でシミュレーションを行ってきていたのだった。しかしそれでも、事が僕の想定の通りに進むような事は無い。昨日の夜の僕の頭の中では、僕の心はまるで無痛症にでもなったかのように何も感じず、まるでティッシュ配りの人のように、樋口に対して金を差し出していた。しかし今の僕の心臓は、壊れてしまうのでは無いのかと思うほどに早鐘を打ち、その心臓から大量に送り込まれてくる体内の血液に邪魔をされて震える手は、制服のポケットから財布を取り出す事すらままならない有様だ。そして目の前にいるのは無表情に僕を見つめ続ける樋口では無く、僕の顔を殴りたくて仕方が無いように見える佐々木だ。僕は震える指先で二枚の野口英世を掴み、佐々木に差し出した。昨日の想定では『ほらよ、持ってけよ』だったが、今日の本番では『これで勘弁して下さい』であった。そして佐々木の返答は『これで勘弁する訳ねぇだろ』であった。佐々木は僕の手の中にあった財布をひったくり、カード類を入れる場所に隠してあったもう一人の野口を発見し、まるで探していた国家機密でも見つけたスパイのように大袈裟に笑った。

 「なかなか悪知恵が働くじゃねぇか」

 そう言った後も佐々木は財布の中身をこれでもかというほど細かく調べ尽くし、何も無い事が分かると小銭入れをパカッと開き、500円と100円をピックアップしていった。そして佐々木がそうやっている姿を、樋口は5人集団の中の最後尾に陣取り、無表情に眺めていた。

 「小細工無く最初から全部出していりゃあ、小銭まで取られる事も無かったんだぜ?」

 へぇ…そうなんだ、知らなかったな。佐々木は僕の財布でペチペチと僕のほっぺたを3回叩くと、軽くなった財布を僕の手に戻した。

 「じゃあな」

 樋口は最後に僕の顔を見ながらそう言い添えた。正直に言うが、この【折り畳んだ1000円作戦】は樋口と相対した時も僕は積極的に行っている作戦だったし、実は【靴下の中にもう1000円作戦】という、まだ誰にも気取られていない秘中の秘も存在していたのだが、樋口は決して、僕の財布の中を調べようとはしなかった。小銭も持っていこうとはしなかった。それは樋口なりの美学でもあったのだろう。小銭を持たない芸能人の話を聞いた事があるが、多分そんな感じだ。ふざけた話には違い無いが、小銭まで持っていく事は、樋口の美的感覚に反するのだ。そして最後に『じゃあな』と言い添える。書類の最後にハンコを押すように。そして佐々木の美的感覚は樋口のそれとは対照的だ。塵も残さず、全てを持っていく。僕ならどうする?僕がカツアゲするならどうするだろうか?『カツアゲなんて卑怯な事はしないのが、僕の美学なんですよ』そうだな。そういう事にしておこう。


 「お前は…」

 晩飯を食べながら唐突に父親が話しかけてきた瞬間、僕の身体はどこぞに潜入していたスパイが警備員に声でもかけられたかのように『ビクゥッ!』っと反応してしまった。僕の身体はどうなってしまったのだろう。もはや他人の一挙手一投足が自分に対する敵対行為のように感じるようになってしまっているのだろうか?まるで常に見つかる事を恐れている家庭内害虫のようだ。どうしてこんな事になった?どうして実の父親が話しかけてくるというだけの事で、まるで沸騰したお湯が満載されているヤカンに間違って触れてしまったかのように身体が反応し、そして心臓はドキドキと苦しいほどに早鐘を打つようになってしまったのだ?もちろんその答えは分かっている。疑いようも無く、その原因は樋口だ。佐々木だ!僕は父親の口から、樋口に関する事、樋口を想起せざるを得ないような言葉が発せられるのを恐れている。そのような質問が投げかけられるのを恐れている。そしてその質問に対して、上手い感じの、事実無根な感じの、『そんな現実は存在しないのに、何を言ってるんだパパったら』といった感じの演技を、上手にする事が出来ないであろう事を恐れている。樋口という触媒を得て、僕は自分がどういう気質の人間なのかという事を、嫌というほど理解させられていた。とっさの事態や、不意打ちのような物事の変化に、僕は決して、上手に反応する事が出来ない。例えばこの前、僕は信号を無視した。二車線ずつの、大通りに面した押しボタン式の信号を、ボタンを押さずに渡ったのだ。しかし、当然それには理由がある。まず車は来ていたが、かなり遠くにいたのだ。僕がボタンを押す事によって、信号が黄色から赤に変わり、そして僕は横断歩道をゆっくり渡り始める事になる訳だが、僕が渡りきった後の、その2秒後くらいに車が信号に到達するくらいの距離だ。即ち、僕は普通に歩いて横断歩道を渡る事が出来るのに、信号が変わるのを待たなければならず、逆に車の方は、踏まなくてもいいブレーキを踏み、待たなくてもいい時間を待つ事になる訳だ。押しボタンが動作する事による電力も無駄に掛かり、車のエンジンが一旦出力を落としてしまい、発進の際に無駄にガソリンが掛かる事になる。地球環境にも良く無い。だからこそ、僕は押しボタンを押さずに、横断歩道をやや早足で渡ったのだ。するとそこで、横断歩道の反対側で待っていた見知らぬおっさんがこう怒鳴り散らしてきた。

 『赤だろうがてめぇ!目ン玉付いてンのか馬鹿野郎!』

 交通ルールは守りましょう。それは分かる。でも僕はその時の僕の考えが間違っているとは今でもそんなには思っていない。だって物事にはケースバイケースという部分があるじゃないか。殆ど全ての車が法定速度を5~15キロほど越えて走っているという事は、誰でも知っている事だ。見ようによってはその方が悪質だ。しかし、その事に関して、誰も特に何も言わない。しかし、僕の赤信号無視には怒鳴り散らしてくるおっさんがいる。あのおっさんは、スクランブル交差点のど真ん中に立って、全ての車に怒鳴り散らしているべきだ。『速度違反だろうがてめぇ!』とかなんとか。僕みたいな高校生の、絶対に(絶対に!)安全であった信号無視に比べて、どう考えても法定速度違反の方が深刻な問題に繋がるはずだ。僕なんかに怒鳴り散らしている場合じゃないはずだ。そんな事を考えながら、なんだか無性に腹が立って来たのは、その夜、風呂に浸かっている時だった。僕の怒りのスイッチには、それくらいのタイムラグが存在する。あのおっさんのように、目の前の信号無視の高校生に、突然MAXのテンションで怒鳴り散らす事が、僕にはどうしたって出来ない。僕のような人間が、目の前で発生した状況に適切に対処するには、相当な脳内シミュレーションが必要であり、そしてその脳内シミュレーションとて、往々にして徒労に終わる。これが僕の、恐らく持って生まれた気質というやつなのだ。そしてそれは、絶望的なほど、自分ではどうする事も出来ない。その事を僕は痛感し、そしてその事を恥じている。

 そう、【恥】だ。これが諸悪の根源のような気がする。僕は自分を恥ずかしいと思っている。とんでもない腰抜け野郎だと思っている。最低のゴミ人間だと感じている。しかし、僕の身体がこんな事になってしまっているという事は、本来ならば、怒り狂って然るべき状態なのでは無いだろうか。『僕の身体は父親に話しかけられただけでビクビクと怯えるような身体になってしまったぞ。どうしてくれるんだ!樋口!佐々木!てめぇらのせいだぞ!一生をかけて償いやがれ!取っていった金を返しやがれ!』僕はそう思うべきだと思う。そう思う資格が僕にはあると思う。しかし、僕は自分を恥じる。自分の情けなさを、根性の無さを、心の底から恥じていた。僕は怒るべき時に怒れない。その場に相応しい、適切な対応というものが出来ない。たったそれだけの事が、どうしても出来ないのだ。


 「お前は将来の進路とか、もう決めているのか?」

 親父がまともに僕に話しかけてきたのはいつだっただろうか?正直言って覚えていない。本当に一ヶ月とか二ヶ月とか、それくらいぶりなんじゃないだろうか?そしてついに話しかけて来たと思ったら、将来の進路の話か。これが健全な親子の会話というものか。OK分かった。それでいこう『お前ひょっとしてイジメられているんじゃないのか?』と聞かれるよりはよっぽどマシだ。もしそう聞かれたら、僕はこう答えるつもりでいた『そんな事無いけど?』頭の中で何度この『そんな事無いけど?』を練習しただろうか?10や20じゃ利かないとは思うが、それだけ練習したにも関わらず、僕はこの一言を、違和感無く言う自信は無かった。ましてや『お前、俺の財布から金を取っていないか?』などと聞かれたら、僕はもうどうする事も出来ないだろう。そういった最悪の事態を思えば、将来の進路の話なんて、いくらでも付き合ってあげよう。

 「正直何も決めて無いね』これは本当に正直な答えだった。目下一番の優先事項は樋口に関する事であって、将来の事になど、とても思いを馳せている時間は無い。『なるようにしかならないと思うしね。何かおすすめでもあるの?」

 「おすすめだって?どういう意味だ?」

 「どの職業になるのがいいとか悪いとか」

 「ははは、そんな事言いだしたら、医者とか弁護士がおすすめだな」

 そう言いながら親父は今日一本目の缶ビールを開けた。

 「そんなのは無理って分かってるでしょ。ちなみに医者はともかく、弁護士は将来無くなる職業のリストに入ってるんだけどね」

 「ん?どういう意味だ?」

 「知らないの?今後AIによって奪われるであろう職業ってのがあるんだよ」

 「AI?」

 おいマジか?我が父君はAIを知らないってのか?

 「人工知能」

 「あぁ…ロボットか。ロボットに奪われる職業っていう事だな。でもそんなのは遠い未来の話だろ?今からそんな事気にするなんてのは、時間の無駄だろうに」

 「遠い未来って言っても、定年まで40年近くあるんだぜ?その途中の何処かで『あなたの職はAIによって奪われました』なんて事になったらキツいっしょ。今ある仕事の半分が無くなるって言われてるんだ。高校二年の進路の話なんて、今やそんな話で持ちきりだよ。そうならないように、色々考えなきゃならないんだよ。これからの時代は」

 「ふ~ん…大変なんだな。じゃあちなみに何が無くならない職業なんだ?」

 「良く言われるのは介護だとか営業とかかな」

 「ははは、キツいのばっかり残るんだな」

 「あとは芸術とか芸能とか創作とか、そういう才能が勝負みたいな感じのばっかりかな。父さんは営業だろ?」

 「そう、営業マンだ。毎日毎日あっちに行ったりこっちに行ったり」

 そう言って親父はビールをごくごくと美味そうに飲んだ。

 「大変?」

 「仕事ってのは大変なもんだよ。大変だから人にやらせるんだ。そして人に自分ならやりたくない仕事をやらせる代わりに金を払う。それが社会の構造だよ。それが嫌なら、自分が人を使って、金を払う側に回るしかない」

 「なるほど。そういうもんか」

 「そういうもんだ。学校では教えてくれない、社会の縮図だよ。蓋を開けてみれば、社会なんて、案外単純な構造をしてるもんさ」

 「つまり嫌いな仕事をしたくないなら社長になれって事だよね。でも僕は社長にはなれそうにないね」

 「なんでだ?」

 「そこまでして欲しいものがないんだ。欲しいものが沢山あれば、社長にでもなって、金を沢山稼いで…って思うかもしれないけど、僕は正直、高級ブランド品とか、高級外車とかに全然興味が無い」

 「まぁ、嫌な話ね!」

 そこで唐突に母親が話しに加わってきた。個人的にはさっさと話を終えて自室に戻りたいと考えていたから、この展開は少し憂鬱だった。

 「何が嫌なの?」

 「そのセリフ。お父さんとそっくりよ」

 そう言われた親父はくっくっくと声を出さずに笑い出した。

 「そっくりって何が?」

 「欲しいものは特に無い。行きたいところも特に無い。やりたい事も特に無い。母さんが何処か行こうとか言わなければ、この人はずっと何処にも行かないんだから」

 「でも君は自分の行きたい、何処でも好きなところに行ける訳だよ?それなのに何でそんな風に言われなければならないのか、俺は理解出来ないね」

 「ほらね、こういう事を言うのよこの人は。私はね、あんたがお父さんみたくなっちゃうんじゃないのかと本当に心配なのよ。金遣いが荒い方がいいとは言わないけど、倹約家よりは多分ずっといいのよ。多分お金は、人よりちょっと沢山使っちゃうってくらいで丁度いいの。そして使って無くなっちゃったから、また頑張って稼ごうって思うくらいがいいのよ」

 「俺はそうは思わないね」

 親父はニタニタと笑いながら言った。

 「そうでしょうよ。あなたがそう思わない事は私が一番良く知ってるもの。でも多分、お金っていうのは身体の中の水分と似たようなものなのよ。あまり飲まずに、あまり動かずにいるよりも、沢山飲んで、沢山汗を出した方が健康にいいって、お医者さんも言ってるのよ。身体の中の老廃物を完全に出し切るには、一日4リットルも飲まないといけないっていう話よ。4リットルは無理にしても、一日2リットルくらいは水を飲まないとね。そして次から次に水を身体の中で循環させて、身体の健康を保つの。そうでないと、良くないものが、身体の中にドンドン溜まっていっちゃうのよ」

 「その例えは完全に的外れだよ母さん」父親がニヤけながら反論を開始した。「水は蛇口を捻れば取り敢えずこの日本ではほぼ無限に出てくるけれど、金はそう簡単には稼げないんだぜ?しかも頑張れば頑張っただけ稼げるって類のものでも無いんだ。君の言っている事が仮に正しいとしても、税金の請求は待ってはくれないだろう?」

 「別に税金なんて払わなくていいのよ」

 「国民の義務だ」

 「知りませんよ。どうせ政治家なんて、ろくな事にお金を使ってくれないんだから。国民の義務を全うするなんて事よりも、よっぽど人生で大切な事があるっていう事ですよ」

 「国家という共同体が無ければ、そもそも個人の幸せなんてものを追求していく権利すら奪われかねない訳だがね」

 「そんな話は今はしていませんよ。私はこの子があなたみたいにならないで欲しいと思っているって言ってるんです」

 「蛙の子は蛙って言うけどね」

 「お義父さんは別にあなたと似ていなかったでしょう?」

 「あぁ、そうだな。それは全くその通り、親父は一山当てようと思って投資に手を出して失敗して、そして俺の貧乏中学校生活が始まったのさ。君は俺の事を最悪の気質の持ち主みたいに言うけど、俺からすれば俺は【足るを知る人間】なのさ。親父は足るを知らなかった。別にその時の人生で特に大きな問題もありゃしなかったのに、問題無いってだけじゃ満足出来なかったんだ。人間は別に天国じゃなくても生きていけるけど、地獄じゃ生きていけないんだ。親父にはそれが分かっていなかった。親父がやらかしてからの俺の子供時代はそれはそれは悲惨なものだったんだぜ?修学旅行の金が払えないっつって、仮病を使って休んだりしたんだからな。金が無いってのは、惨めなもんさ。俺は早々に新聞配達のバイトをして、自分の生活の金は自分で稼いだんだ。高校だって行く気は無かった。そんな金は、うちには何処を探したって無かった。親戚縁者も援助なんてしてはくれなかったよ。まぁ別に行きたくも無かったけれどさ。それに比べりゃ、こいつは大学にだって一応行く事も出来るし、旅行に行きたいって話になりゃ、それくらいの金は出してやれるんだよ。だから俺が人間的に魅力や面白みに欠けると言われても、俺は別に、なんら恥ずかしいとは思わないね」

 僕は親父がこんなにベラベラと喋っているのをもしかしたら初めて見たかもしれなかった。お祖父ちゃんに関する詳しい話も、僕は多分初めて聞いたのだと思う。僕は親父の話を出来ればもうちょっと聞いてみたかったが、親父はまるで何かのスイッチを切り替えたかのように、テレビのチャンネルをポチポチと弄り始めて、ニュース番組を見始めた。この会話は親父が切り出したものではあったが、親父は切り出した時、こういう話になる事を想定していたのだろうか。結局親父が何を聞きたかったのか、何を知りたかったのか、僕には良く分からなかった。もしかしたら、ただなんとなく会話を始めたに過ぎなかったのだろうか?そうかもしれないが、僕にはあまりそうは思えなかった。何故なら親父との会話は2ヶ月ぶりとかであり、その間に、今のような会話をするタイミングは1度や2度では無かったし、昨日やっていたサッカーワールドカップ最終予選の話とか言うならばまだ分かるが、将来の進路の話なんて、いつでも切り出そうと思えば切り出せる類のものだ。そして親とすれば、子供の進路の話など、一応は知っておきたい類の話題だろう。僕の勝手な憶測だが、親父は親父で、それなりの葛藤を抱きつつ、僕に対して話を切り出したのだとは思う。しかし今、テレビのスポーツニュースを、特に面白くも無さそうに見ている親父は、さっきの親父では無く、いつものように無口で、何を考えているのか良く分からない親父に戻っていた。だから僕もその様子を見て『もうちょっと話を聞かせて欲しい』とは言う気にはなれなかった。

 「全くやれやれよね…ずっとこんな感じなのよこの人は。まさか真似をしようとは思わないだろうけど、出来れば反面教師にして欲しいわね。こんな感じじゃ絶対に女の子になんてモテないんだからね。自分のために何をしてくれるとか、お金を使ってくれるとか、やっぱりそういう部分で女の子って相手を見ているもんなのよ。嫌な話って思うかもしれないけど、でも他の何で判断すればいいのって話でしょう?相手より自分を優先するような人に、何を期待すればいいの?って話でしょう?あとは楽しいとか、嬉しいとか、そういう感情をちゃんと表に出す事ね。そこに関しては、お父さんは本当に駄目だったんだから。何処に行ってもどこか上の空で、つまんなそうにしてるよの。『君が楽しいならそれでいいよ』って、人によってはなんだか素敵な言い回しに聞こえるかもしれないけど、でもそういう事じゃないのよ。じゃあ何で二人でわざわざ来ているんだって話でしょ?それが分からないのよ、この人は。まぁお父さんの話はいいわ。とにかく、あんたは子供の時から何かと遠慮しがちで、アレが欲しいコレが欲しいって言わない子供だったわ。周りはそれであんたを褒めていたし、お母さんとしても、うちの子はいい子だとか思ってはいたんだけど、今思うに、それはちょっと間違っていたのかもしれなかったわね。もっと欲しいものとか、やってみたい事とかがあれば言ってくれればちゃんとお金を渡すわよ。進路にしてもそう。自分の進みたい道があるなら、その道を進んで大丈夫なのよ。これでお父さん、それなりに高給取りなんだから、行きたい大学とかがあるなら遠慮なく言ってくれていいのよ。こういう話はもっと早く言うべきだったわよね。高校二年なんて、人生で一番楽しいような時期なんだから、お母さんたちに変な遠慮があるなら、そんな必要は無いんだからね。お金が欲しかったら、遠慮なく言って頂戴」


 風呂に入りながら僕は母親が言わんとしていた事が一体何だったのか考えた。僕はオヤジが何やら珍しく熱を込めて語っていた事の大半の内容は、肯定するかしないかはともかくとして、ちゃんと理解する事が出来たと思う。まぁようするに『俺は俺で結構苦労してきたんだぜ』というような話だ。そして話を聞いている限りにおいては、全くその通りだったのだろう。そしてその経験を糧にして、俺は自分の、今ある地位を築いてきた。そしてそれをある程度誇りに思っているのだ、というような話だったかと思う。なるほど。あんたはそれでいいや。

 では一方で母さんの話はどうだっただろうか。正直言って、僕には良く分からなかった。額面通りに受け取るならば、うちは別に金が無いという訳では無い。欲しいものがあれば素直に言えというような話だった。しかし、それに関しては、母さんの懸念が当たっている通り、僕は正直、特に欲しいものがある訳でも無く、行きたい場所がある訳でも無いのだ。親父は図らずも『蛙の子は蛙』だなどと言っていたが、その点に関しては、まさしく僕は、蛙として生まれついてしまったと言っていい。そして何がどうなったんだか分からないが、女の子と付き合うにはどういった事をすればいいのか、等という話を唐突に喋り始めた。言っちゃなんだが、僕の人生に女っ気みたいなものがあった事など皆無だし、母親が何かしら勘違いするような状況が一度でもあったとは到底思えない。あの母親の話は、親父に対する当てつけなのかなんなのか分からないが、とにかく『女の子と付き合うならば、多少の金は惜しまず、バンバン使っていけ』というのが彼女の助言なのだろう。それはいい。参考に出来る場面がもし到来したら、遠慮なく参考にさせてもらおうと思う。そして僕のご両親の間で意見が一致していた部分は何処だったかと言うと、どうやら『うちにはそれなりに金はあるのだ』という部分だ。進路を何処に決めるにも、何処かに遊びに行くにも、彼女を作るにも、取り敢えずそこまで苦労しないで済むほどの金は溜まってあるのだという話をしていた。そうなのか。ありがたい情報だ。おかげで少し、心が軽くなった気がするよ。二人揃って、僕の人生や将来に対して、これほど真剣に考えててくれていたのは、素直に感謝の意を示したいと思う。あの二人はその事を僕に伝えたかったのだと、僕はそう考えていいのだろうか?高校二年という、この大事な時期に、自分の人生に対して、余計な不安や気遣いをする必要が無いのである、と、父親として、母親として、そういったような事が言いたかったのだと、そういう風に考えていいのだろうか?


 それともやはり『言えば渡すから、お父さんとお母さんの財布から黙って金を抜くのは止めろ』と言いたかったのだろうか。

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