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せめて幸せであれ  作者: マセ
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005

 夕焼けが空を染めていた。少年はオレンジ色の空の下を、足を引きずりながらただ一人歩いていた。おあつらえむきに、カラスがカーカーと鳴いている。少年の顔や衣服は泥に塗れていた。膝小僧からは血を流し、彼の両手で覆われた双眸からは止めどなく涙が溢れている。少年は思う『何故なのだろう?何故なのだろう?』答えは誰からも提示されない。彼は何が起こっているのかすら分からない。ただただ、自分の境遇を呪った。人生を呪った。そして、憎い憎い、いじめっ子達を呪った。いじめっ子達は、少年を遊びの中の仲間に入れる事を拒否しない。しかも時には、一緒に遊ばないか?と提案してきたりもする。そして時には、何も起きない事もあるのだった。つまりイジメが起きない事もあるのである。何も嫌な思いをする事無く、楽しい時間が過ぎていく、そういう日も、少なからずあった。しかし、時々、何かの拍子に、それは始まる。それがいつ始まるのか、少年には分からないのだ。しかし、気がつくと、いつも少年はその渦中にいる事になる。今日は学校の校庭でサッカーをしていた。少年はサッカーが好きだった。他の遊びは少年にはてんで楽しいと思えないものもあったし、難しいカードゲームなどは、そもそもルールが理解出来なかった。『駄目だよジュンちゃん。『ウノ』って言わないといけないんだよ。何回言わせるんだよ』その通りだった。でも何回言われても、少年は『ウノ』を言い忘れてしまう。そして少年にとって漢字は全く意味不明であった。小学生に上がった後、ひらがなとカタカナまでは付いていく事が出来た。若干怪しい瞬間も無くはなかったが、それでもひらがなとカタカナは、その全てを習得する事が出来たのだった。しかし漢字が始まると、もはやお手上げだった。小学校の先生は、国語の時間、何故か自分に教科書を音読をさせる。一人一人、一行ずつ音読をさせる。それはどの学校の、どの教室でも普通に行われている事であったが、少年には、それは自分に対する、先生の意地悪なのだと思っていた。少年の順番が近付いて来るにつれ、教室の何処かからクスクスとした意地悪な笑い声が漏れてきて、そして少年は頭が真っ白になってくる。自分はどの行を読む事になるのだろう?漢字が無い行…あったとしても、分かる漢字しか存在しない行に…どうか…神様…お願いします。しかしそのような願いは殆ど聞き届けられる事は無い。教科書にはどうやら漢字が必ず載っているらしく、そして国語の時間というのは、漢字を勉強する時間でもあるらしかった。少年の順番が来る。少年は席を立つ。音読する者は、席を立つ決まりになっているからだ。そして、席を立つまではいいが、そこから何を喋ればいいのか分からなかった。いきなり漢字なのだ。少年の担当する行は、何の因果か、一文字目から漢字だ。さらに7つひらがなが続いて漢字。更に6文字後に漢字。最後にもう一つ、少年にとって完全に、全くもって意味不明の漢字が、行の最後に存在していた。計4箇所。その4箇所全てに少年はつっかかり、或いは見当違いの読み方をしてしまい、その度に教室は、嘲笑のクスクス笑いに包まれた。何故なのだろう?先生、何故なのですか?僕がこの漢字が読めない事は、あなたもご存知のはずです、それなのに、何故僕が漢字の読み方が分からず黙っていると、あなたは憮然とした表情を称えて、ジッと待っているのでしょうか?すぐにその漢字の読み方を教えてくれればいいではありませんか?これはいったい、何の罰なのです?少年は教科書の音読が終わる度に、そのような思いにとらわれるのであった。そんな中にあって、サッカーという競技は少年にとって単純明快であった。サッカーは世界で一番人気のあるスポーツであるとテレビで言っているのを聞いた事がある。その言葉を少年は完膚無きまで理解する事が出来た。『だってサッカーは僕でも出来るんだもん!』手を使ってはいけない、というルールは、少年にとってジャンケンの次くらいに明確に理解出来るルールであった。それだけでいいのだ。何も考える必要は無い。ただひたすら、ボールを追いかければいいのだ。そして何を隠そう、本日最初のゴールは、少年の右足から生まれたのであった。少年は調子に乗った。今日の主役は自分だ、と思った。傍から見れば、それが間違いである事は明白であったが、夢中になっている少年にはそれが気が付かない。そして気が付いた時には、もはや手遅れだった。

 シュートが飛んできた。そこからは打たないであろう場所で、シュートが飛んで来たのであった。そのシュートは少年の太ももに当たった。痛かったが、別にそれほどの事では無かった。日本代表のサッカー選手のようにロングシュートを狙いたくなる事は、自分にだってある。20メートルや30メートルもある距離からシュートを決める感覚は、いったいどのようなものなのだろう?僕もサッカーをやり続けていれば、いつかはあんなシュートを打てるようになるのだろうか?


 またシュートが飛んできた。


 そしてまた飛んできた。


 この辺りで、少年は気が付いた。『始まってしまったのだ』と。

 少年達はもあからさまにはやってこない。だが時期を見て、折を見て、バレないように、しかし誰が見ても明らかなタイミングで、途方も無いところから、ゴールに向かってではなく、少年に向けてシュートを放ってきた。そして少年にパスが来る事は殆ど無くなった。少年は何をしていいのか分からず、ただ学校の校庭の中を行ったり来たりしていた。自分がイジメの渦中にいる事を少年は自覚していたが、少年はこうも思っていた。『どうか、僕の勘違いでありますように』自分が地獄の渦中にいる事など、普通は誰も認めたがらないであろう。

 そしてボールは少年の前に転がってきた。久しぶりにボールに触ったのであった。少年はそのボールをどうしようか逡巡した。すぐにパスを出すべきだろうか?ドリブルをすべきだろうか?


 いったいどうすれば皆の機嫌は良くなるのだろう?


 その逡巡が命取りであった。自分めがけて、左斜め後ろから唐突にスライディング・タックルが放たれ、少年は思いっきり地面に打ち付けられた。その際に膝を強打し、少年は無様な声を上げながらのたうち回った。あまりにも痛かった。骨折を少年はしたことは無かったが、地面を転がりながら、自分は骨折をしたのではないのかと考えた。痛みで泣いている少年に手を差し伸べる者は、その場には一人もおらず、それどころか、他の少年達は、少年を置いて、その場を立ち去っていってしまった。痛みが和らぎ、どうにか立てるくらいまで回復した頃には、グラウンドには少年しか存在していなかった。立ち上がる事は出来たが、少しでも膝を曲げようとすると激痛が走った。本当ならば、水場で傷を洗った方が良かったのだろうが、そんな元気は無かった。少年は足を引きずりながら家への帰路についた。

 夕焼けが空を染めていた。少年はオレンジ色の空の下を、足を引きずりながらただ一人歩いていた。おあつらえむきに、カラスがカーカーと鳴いている。少年の顔や衣服は泥に塗れていた。膝小僧からは血を流し、彼の両手で覆われた双眸からは止めどなく涙が溢れている。少年は思う『何故なのだろう?何故なのだろう?』答えは誰からも提示されない。彼は何が起こっているのかすら分からない。

 その時だった。

 『やぁ、純一君。大丈夫かい?』

 そこに立っていたのは20代後半…或いは30代前半くらいの、男であった。その男の身体は『体格がいい』と言ったレベルではないほどの筋肉に包まれ、その表情にはハツラツとしたものがあり、まるで人生に、何の悩みも無いと言わんばかりの笑顔を少年に向けていた。

 『僕の背中に乗りなさい。あそこの公園で応急処置をしよう。バイキンが入るといけないからね、消毒しないといけないよ』

 するとその男は少年を背中に乗せ、公園の水場まで連れて行った。男の背中の感触はとても安定感があり、何やらがっちりとした動物に乗ったような気分だった。水場につくと、男は少年の靴と靴下を脱がせ、出来るだけ優しく、少年の膝の傷を洗った。

 『うぅぅっ!』

 少年のうめき声が漏れた。男が決して苦痛を与えようとしている訳では無いのは理解していたが、患部の付近を触られると鋭い痛みが走る。

 『痛いかもしれないが、ここは我慢だ。後でもっと大きな我慢をしなくていいようにね』

 膝の傷が終わると次は肘だった。その次は眉毛の上辺り。膝の強烈な痛みで気が付かなかったが、少年はどうやらあっちこっちが傷だらけであった。そしてその全ての傷を洗い終えると、男は近くのドラッグストアまで少年をつれていき、消毒と包帯を施した。

 『ははは、傷だらけだな』

 男の言う通りだった。ドラッグストアのガラスに映った、あっちこっちに包帯を撒かれた自分を、なんだかミイラみたいだと少年は思った。

 『そろそろ暗くなってしまうね。家まで送るよ、純一君。背中に乗りなさい』

 少年は一瞬ためらったが、膝も痛かったし、ありがたく、また男の背中に乗せてもらう事にした。

 『僕も実は、昔いじめられっ子でね』

 『え?』

 少年は驚きの声をあげた。男の身体は大きく、見るからに筋肉質で、アメリカ映画のスーパーヒーローのようであった。その男が、昔は自分もいじめられていたと話す。

 『嘘だよ』男の背中に揺られながら少年は言った。『そんなはずない』

 『本当だよ。君はまだピンとこないかもしれないけどね、人間は誰しも、子供時代というものがあるものなのだよ。君のお父さんもお母さんも、お祖父ちゃんも、君のように、子供だった時期があるんだ。そしてもちろん、僕にもね。そして僕はいじめられてた。毎日毎日いじめられていた。本当に辛かったよ。そしてそんな時、僕はプロレスに出会ったんだ』

 『プロレス?』

 『そう、プロレスだよ。もしかしたら分からないかな?ようは強くなるキッカケを掴んだんだ。僕はプロレスラーになろうと決心したんだよ。筋肉ムキムキの、強い強いプロレスラーにね』

 そう言って男は、右腕で大きな力こぶを作った。少年は男の背中に乗りながら、突然目の前に現れた巨大な力こぶに触れた。まるで石のようにカッチカチに硬かった。

 『おじさんはプロレスラーなの?』

 『正確には、だった、かな。怪我をしてしまってね。もうリングには立てないんだ。でも人生は常に戦いなのさ。俺は俺の戦いを見つけるつもりだった。そして君に出会ったんだよ、純一君』

 『僕に?』

 『そうさ。僕はいじめられっ子だった。そして君もいじめられっ子だ。君の気持ちは良く分かるんだよ純一君。だからこそ、もうそんな思いをする子供は一人も見たくないんだ。僕は君に、イジメになんて負けて欲しくない。イジメに打ち勝って欲しいんだ。僕の弟子にならないかい?』



 『くだらねぇ…』

 ここまで書いたところで僕は呟いた。

 何だっていじめられっ子を鍛えないといけないんだ?なんだってこいつは(このクソ野郎は)いじめっ子を懲らしめに行かないんだ?いじめが憎いんだろ?根絶したいんだろ?だったら何故いじめられっ子に解決させようとするんだ?何故お前が直接行かない?その一手間は何だ?これじゃまるで、いじめられっ子の方に問題があるかのように読めないだろうか?まぁそれはいい。いじめられっ子は立ち上がった。このクソ野郎のおかげで立ち上がり、ほんの少しばかりのプロレス技や、格闘技を習得し、決戦に挑み、結果として、仮に勝ったとしよう。いじめられっ子がいじめっ子に勝った!やったぞ!で、それで勝ってどうなる?映画みたいに(ベスト・キッドみたいに)エンドロールが流れてくるのか?それでハッピーエンドだってのか?映画ならそれでいいだろう。ただ、ここから始まる映画だってある。勝ったところから始まる映画だってあるんだ。ここから繋がっていくのは、止めどない暴力の連鎖だ。いじめられっ子の反撃を受けて、公衆の面前で恥をかかされたいじめっ子は、その恥を濯ぐべく復讐を誓う。やられたらやり返す。倍返しだ。卑怯ないじめっ子は夜道に紛れ、ビニール袋を被り、いじめられっ子の塾の帰り道にて待ち伏せをかける。そして彼が通りかかった瞬間に、バットか何かで殴り掛かるんだ。元いじめられっ子の少年は六ヶ所を骨折する重症を負ってしまい、事態は更に深刻化する。そしてそれを巻き起こしたのは…


 てめぇだよ主人公!


 僕は人生で初めて書いた小説らしきものを保存する事無く消去し、ベッドの上にうつ伏せに横たわった。情けなくて涙が出そうになった。虚脱感が全身を駆け巡っている。別に何をどうしたって訳じゃなかった。学校の帰り道に、ふとそんな感じのストーリーを思いついたのだ。そして何だか、その話が僕の脳内をシュビシュビズバーっと波紋疾走して、まるで敬虔なキリスト教徒の元に、天啓が降りてきたかのような全能感に包まれて、そして家に帰るなり、カタカタとキーボードを叩いて、そんな話を書き始めた、と、それだけの事だ。うんざりだ、何もかもうんざりだ。

 今思うに、僕は頭の中で【全てが繋がった】という馬鹿げた錯覚にとらわれてしまっていたのだ。つまり、この小説を書く事によって、僕の人生は、綺麗に着地する事が出来るような気がしたのだ。

 『はい…実はコレは僕の実体験で…で、目の前に突然プロレスラーが現れるなんて事は僕の人生では起こらなかったんですけど、でもこんな事が起こればいいな…って。僕も出来れば、こういう人間になりたいな…とか思って…実際はこんな感じにはなれないんですけど、せめて小説にするくらいの事は出来るかな…と思って。全国の全てのいじめられっ子に、この小説を見て勇気を持ってもらいたいですね』

 頭の中では文学賞に入選し、インタビューを受ける自分の姿まで想像していた。恥ずかしくて死にたくなる…いっそ死んでしまえばいいのだ!

 自分の人生は一体何のためにあるのか?そんなものは、恐らくその辺の爺さん婆さんに聞いたって、明確に答えを出せる人はいないのではないだろうか。一生をかけても、それでもまだ見つかるかどうかは分からない、そういったものなのだろう。それは分かっている。でも、まるで自分の人生が、そのためにあったのだと、これは運命だったのだと感じる事が出来る、そういう人間もこの世界には何人かいたらしいではないか。イミテーション・ゲームのアラン・チューリング。ブレイブ・ハートのウィリアム・ウォレス。アマデウスのモーツァルト。彼等はいったい、いつ自分の天分やら運命やらというものに気がついたのだろう?それは想像する事しか出来ないが、彼等の人生の中で、何かの瞬間に、彼等はそう確信したのではなかろうか?そういう瞬間が、恐らく彼等の人生の何処かに存在したのではないだろうか、と僕には思える。輝かしい栄光の瞬間が、彼等には存在したのではなかろうか?

 そしてその瞬間が、さっき、学校の帰り道で、なんとなく道を歩いている時に、僕に訪れたような気がしたんだよクソッタレ!僕はもう駄目かもしれない。今回ばかりはへこたれた。

 正直に言おう。あの小説を書いている時、僕は少なからず、自分を主人公に投影していた。もし自分に力があったらどうするだろう?どうする事が正義だろう?などと考えて、そしていじめられっ子を鍛える事にその力を使った。つまり助けられるのは僕自身だという事になる。僕はこいつに現れて欲しいのだろうか?樋口に金を取られた後の帰り道で、この勘違い偽善振りかざしクソゴミファッキン野郎に現れてもらって、空手だとか、合気道だとかを伝授して貰いたいと、そう思っているのだろうか?

 ふざけんな馬鹿。

 殺してやる。お前みたいな偽善者は、俺がぶっ殺してやる。樋口や佐々木に対してぶつけるべきであろう殺意が、自分の空想の中の住人に対して、猛烈に沸き立ち始めた。何故なんだ?何故お前は樋口のところに行かない?何故佐々木のところにいかないんだ?何故俺のところに来る?ビビってるのか?樋口や佐々木なら返り討ちにされてしまうかもしれない、と?でも僕だったら、何を言おうと、何をしようと、大して驚異では無い、と?拒絶されたところで見下しておけばいい、と?そう思っているのか?そう思って俺のところに来やがったのかこのクソ野郎!余計なお世話だ馬鹿野郎。お前の下劣な自尊心を満足させるために行動を起こすなんて、まっぴらごめんだ。お前は俺を何だと思っているんだ?子分か何かか?それとも迷える子羊か?救済を与えに来たのか?あぁ確かに、俺は救われたいと思っているかもしれない。誰かが、この現状を打破してくれないかと、心の何処かで思っている自分がいないとは言わない。でもてめぇに救われるなんてのはゴメンだ馬鹿野郎!

 消し去りたい…自分の人生を、とまでは言わない。そんな贅沢は言わない。でも、出来れば、今日の学校からの帰り道からの記憶を、全て消し去りたい。そのためだったら、樋口に金を払ったっていい。佐々木にもくれてやる。畜生…あの野郎…なんて事をしてくれたんだ…なんて事を…

 でももうあいつはいない。そう思うと腹が立ってきた。あの卑怯者…存在そのものも卑怯だったが、去り方も卑怯そのものだ。あいつは消えた。跡形も無く消えやがった。保存せず消したから、もう何処にもあいつは存在しない。畜生…畜生…畜生…あの野郎…僕は消える事も出来ない。何をしても、あいつみたいに完全に消える事は出来ない。

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