003
樋口達にC組の奴が連れて行かれるのを見かけた。そいつの顔だけは知っていたけど、名前は知らない。知ろうとも思わない。確かに、気の弱そうな感じの奴だ。頭は天パで、まんまるのメガネをかけていた。ただでさえ色白の顔は、更に蒼白になっていた。コレからどんな事になるのか、僕から見れば一目瞭然だった。そしてそれは僕だけでは無いだろう。これから彼はどんな行動に出るのだろう?あの感じだと、恐らく彼は金を渡すだろう。そういうタイプに見える。
『ちょっと待てよ…コレを教師に報告すれば、もしかしたら万事解決なんじゃないのか?』
そんな考えが脳裏によぎった瞬間に、樋口の取り巻きの一人、佐々木と目が会った。180cmの長身と、熊のような体格。樋口は滅多に表情を作らないが、佐々木の表情は非常にわかり易い。その時の佐々木の表情に吹き出しを入れるなら『見ぃ~~た~~な~~~』といったところだろう。一生の不覚、一生の不覚…想定しておくべきシチュエーションだっただろうに、何故僕はぼーっと連中の事を眺めていたのだろうか。仮にこれから、僕の預かり知らぬ場所で、樋口達の前に教師がタイミング良く現れたら、そのチクリの容疑者はきっと僕という事になるだろう。僕が何も関係していなかったとしても、だ。他にもいくらでも容疑者はいる。目撃者はいる。白昼堂々の犯行ってやつだったのにも関わらず、チクったのは僕だ、という事になるだろう。
【イジメは見て見ぬふりも共犯です】
共犯?俺が?奴等の?そうかい、だったら別に構いやしないよ。俺は共犯だ。C組の天パよ。いっそ抵抗して、半殺しにくらいされてくれ。憐れな僕のために。
数分後。樋口や佐々木は普通に廊下を歩いていた。その表情から、仕事が滞りなく終わった事が見て取れた。なぁ樋口よ、なぁ佐々木よ、俺はお前たちの共犯者なんだぜ?あんたの犯行を助けたんだ。後から突然現れて、共犯者である俺に金をせびるなんて事、しないよな…?信じているぜ、ビッグブラザー。
『宇宙人は既に地球にいるらしいぜ。そして彼等の星は、地球に似てはいるが、地球より放射線濃度が高いんだ。だから地球の放射線濃度を上げようとしている。フクシマは、奴等の計画が次の段階に進んだ事を示しているんだ』
いったい何処からそんな情報を入手するんだろう?陰謀論者の最悪の特徴は『自分だけはこの世の真実を知っている』と思っている事だ。そして陰謀論の最悪の特徴は、話としては、確かにちょっと面白いという事だ。ただフクシマには従兄弟が住んでいるので、フクシマをネタにするのはやめてくれと言うと、カツヒコは渋々ながら了解したようだった。その後は【拠点防衛型モビルアーマーが如何にナンセンスな設定か】という話題で盛り上がった。好きな女の子の話より、拠点防衛型モビルアーマーの話。これが僕達の青春だ。それでいいのか?って。あんたは馬鹿か?良くないよ。そんな事は分かっている。でも僕はもし天上の神が、大天使ガブリエルを引き連れて、『好きな女の子と付き合う事が出来るか、あるいは樋口達ともう一切関わり合いにならずに済むか、選びなさい』と言ってきたら、迷わず樋口達との関係を断つ事を選ぶだろう。そして神は僕に対して聞くだろう。『それでいいのか?』って。主よ、あんたは馬鹿なのですか?良い訳ないだろ?
放課後もカツヒコと駅前の公園で散々ダベった。カツヒコのスマホは僕と違ってデータ通信量が無制限で、カツヒコは自分が最近見た面白い動画を矢継ぎ早に僕に見せてきた。中でも今日のカツヒコのとっておきは『ワンインチパンチ』とかいう動画で、その動画の中に出てきた達人は、殆ど相手に拳を付けた状態でパンチを放ち、その衝撃によって大の大人をバッタバッタとひっくり返していた。僕が関心しながらその動画を眺めていると、カツヒコは自分が見せてきたにも関わらず『この動画は絶対嘘だ、ヤラセだ』と断言してきた。宇宙人は確実に地球上に来ていると信じているにも関わらず、だ。陰謀論者の頭の中は、僕にはちょっと理解出来そうにない。そして残念な事に、こんなにメチャクチャな人間であるにも関わらず、カツヒコが持ってくる情報は、基本的には面白いのである。僕も何かしら話題を提供しようとは思うのだが、カツヒコの情報量の前では完全に無力なのであった。何やら面白いものを見つけてくる事にかけては、カツヒコはほぼスペシャリストなのだ。時々思う、なんだってカツヒコは僕と付き合っているのだろう?カツヒコならば、他にいくらでも友達が出来そうなものだし、実際、僕以外の友達だっていない訳でもなかった。にも関わらず、カツヒコは僕と一緒にいる事が多い。色んな可能性が考えられるが、それが友達というものだ、と結論付ける事にする。カツヒコに直接理由を聞く勇気も、正直ありはしないし。
家に帰った。そして今日は月末だった。すっかり忘れていたが、今月分の小遣いを母親から貰った。普通小遣いの日を忘れる学生なんていそうにないが、何を隠そう、僕の小遣いは樋口の財布に右から左なのである。僕は金に対してあまり執着しないようになっているのであろうか?そういえば最近樋口があまり声をかけてこない。まぁもちろん、そうならないように注意して行動はしている訳だが。そしてふと、自分が最近、最後に買ったそれなりに大きなモノは一体なんだったかを考えてみた。アニメや映画は動画配信サービス、本は図書館、ソシャゲはもちろん無課金だ。これが人類の進歩ってやつなのだろうか。永遠の暇潰し。いつまでもこんな事が続くとも思いたくないが、かと言って別の人生を想像する事も出来ない。神が僕に問いかける。『お前それでいいのか?』言いたいことは分かるよ。でも、僕より先に、樋口のところに行って、同じ事を聞くべきじゃないかな?
飯を食べて、部屋に帰り、ベッドに横になる。しかし眠るには時間が早い。この時間を使って何をしようか?何をすべきか?そしてさっき、カツヒコと公園でダベっている時に、ふと思った事があったのを思い出した。ワンインチパンチだ。3センチの隙間があれば、大の大人をひっくり返す事が出来る。机の上のノートパソコンを開き、グーグルの地図機能の検索欄に【格闘技】と入力して検索してみる。おあつらえ向きに、近所の駅の付近には、格闘技のジムや教室は存在していないようだった。流石僕のジモティー。僕と一緒で役には立たない。しかし二駅向こうにはボクシングジムがある。ちょっと遠いが、当然通えないような距離じゃない。5キロくらいなら、なんだったら走って通うには調度いい距離なんじゃなかろうか?ボクシングか…いじめられっ子がボクサーに…漫画や映画のような話だ。いや、確かそんなボクサーがいたはずだ。カタカタと検索をかける。内藤大助選手。聞いた事があった。そうだ、亀田兄弟をやっつけた人だ。いじめっ子の亀田と、元いじめられっ子の内藤チャンピオンという試合だった。そうだそうだ思い出したぞ。再び2駅向こうのボクシングジムのページに戻った。【選手紹介】というページを開く。引き締まった身体のボクサーが写真付きで出てきた。一番上に載っている選手はハリケーン・潤選手。恐らくこのジムのボス的存在のようだった。ハリケーン・潤選手はパソコンの画面越しに、鋭い眼光でこちらを睨みつけている。写真の下に戦績が載っていた。10戦3勝(2KO)6敗1分け。次の江原海選手は4戦1勝3敗。次のトシヤ選手は4戦4敗。僕はそのページを閉じた。
我ながら割と最低だと感じるが、彼等の戦績を見て、僕は正直気が滅入った。冷静に考えれば立派な事だ。どんなに無様だろうと、弱かろうと、彼等はリングに上がった。リングに上がるにはプロライセンスが必要で、それだって多分、それなりに頑張らなければ取得出来るものでは無いはずだ。そしてプロのリングで試合をしたんだ。結果として4戦4敗だとしても、何故それを恥じなければならないのだろう?僕はそう思うべきだ。そう思うべきにも関わらず、僕は彼等の事を、僕と同じ負け組だと感じてしまった。どういう気分なのだろう?ボクサーの生活が過酷なものである事は僕でも多少知っている。漫画で読んだ事がある。飯食っちゃいけない、水飲んじゃいけない。ハードなトレーニングを積まなきゃいけない。痛い思いに耐えなきゃならない。その全てを乗り越えてリングに上がり、成績は4戦4敗…トシヤ選手はどんな人なんだろう?どんな生活をしている?ジムのホームページの写真のトシヤ選手はニッコリと笑いながら、ボディビルみたいなポージングを決めていた。写真だけを見れば、いい人そうには見えた。彼に会って話を聞いたら、僕になんて言うだろうか?『勝敗だけが全てじゃないよ』なんて言われたら、僕はどんな顔をすればいいのだろう。そんなこんなで、数分前に僕の頭の中に閃いた【いじめられっ子ボクサーになる計画】は、またしてもたったの数分で、パソコンで検索をかけただけで破綻した。そしてもう一度冷静になって考えてみる。仮にハリケーン・潤が20戦20勝18KOの日本チャンピオンで、江原選手が10戦8勝6KO2引き分けで、トシヤ選手が4戦4勝4KOだったら、僕は隣町のボクシングジムに通うつもりになっただろうか?不愉快なIFストーリーが勝手に頭の中で進行し始める。そして最終的に僕はこう結論づけた『どっちにしろ、僕は格闘技なんか始めなかっただろう』と。気が滅入る。最近は何をしていても気が滅入る。どうしろっていうんだ俺よ?どうすれば、お前みたな根性無しはやる気になるんだ?やってやるぞって気になるんだ?何をどうすれば、お前は現状を打破するために行動を起こすようになる?
知らないよ、馬鹿野郎。
負け犬気分を紛らわすべく、いつものアニメ掲示板を僕は開いた。荒らしはどうやら消えていたようだった。そして、掲示板の常連の姿も消えていた。荒らしは掲示板を滅茶苦茶にするだけして、そして僕達の前から姿を消した。飽きたのだろうか?それとも、次の獲物でも見つけたのだろうか?樋口達がC組の天パを見つけたように。