月も星もない夜。
こんな夢を見た。
月も星もない夜の下、俺は橋の真ん中から灑々たる川の流れを見つめている。
理由は分からない。ただ責務のごとく一心に、油を流したように穏やかな暗い水面を視界に収める。
どれほどの間そうしていたのか。普通なら月の位置でおおよその時間の経過を換算できるが、空虚な暗夜ではそれも叶わない。とにかくひたすら長いこと空とも闇とも区別のつかない水辺の景色と相対していれば、微かな響きを耳が拾った。やがて橋の下から流れて来た小舟に、聞こえたのは水が舷を叩く音だと知る。
手を伸ばせば一寸先でも見失いかねない夜裏の世界で、小舟の影は浮かび上がるようにはっきり視認できた。船上には乗客がいるが、座しているわけではない。つまり、小さな舟の中で窮屈そうに横たわり、腹の上で枯れ枝と見紛う手指を組んでいた。黒色だけを塗りこめた明かりの灯らぬ夜空を仰ぐ顔は白い布で覆われている。
しかし布を外さずとも、記憶と寸分違わぬ服装から波に揺られているのはずっと昔に死んだ父だとすぐに分かった。あわせて今自分が見送るのが、舟は舟でも舟棺だということも。
浮かぶ棺は真っ直ぐ滑らかに下流へ進む。ただの乗り物が意思を宿したのかと信じてしまいそうだ。
次に滑るように出て来た舟でも、顔は同じく隠されていた。記憶が朧だからと言われればそれまでだが、夢の中でも親の顔を拝めないのはさびしいものだ。
痩せた体を埋め尽くすほどの花の一つ一つには覚えがあった。数年前、まだ幼い妹のマーガレータと泣きながら母の葬儀で棺に入れた百合や鈴蘭だった。今さっき摘んだと言わんばかりに甘やかな花の香りが橋上まで届く。懐かしさにひたるうちに浮動する花香がゆっくりゆっくり遠ざかる。
次の舟はこれまでより一回りも二回りも大きく立派で、白布がないおかげではっきりと誰か認識できた。舟底に沈むのは、友人のイェーヌスだった。彼はまだ生きているはずだが、夢でこの程度の矛盾は誤差の範囲内だろう。
逞しい男の体を包む沢山の生花の数に遺された者の哀惜が伝わる。脇に剣が並べられているということは、何か武功をたてたということだ。壮健で豪胆なイェーヌスだ。きっと急に招集され戦場に駆り出されても、見事国防の役目を果たしたのだろう。彼の死を知らないはずなのに、なぜかありありとその勇姿が脳裏に浮かんだ。
友が乗る舟を、瞬きを惜しんで水平線の果てまで見届ける。そうして川は黙り込み、黛蓄膏渟の風景を取り戻した。
イェーヌスで最後だったのだろうか。俺の疑問を待ち構えていたかのように、一際古ぼけた舟が眼下に現れた。仰臥していたのは――――俺の最愛にして唯一の家族であるマーガレータ。
暗がりにその安らかな顔を認めた次の瞬間には、弾かれたように橋から飛び降りていた。現実でないから、こんな無茶をしても痛くもなければ冷たくもない。
「マーガレータ! マーガレータ!」
追い縋るように舟棺にしがみつき覗きこめば見間違いであってほしいという願いはあっさり砕かれ、矢張り中にいるのは妹だった。耳元で名前を繰り返してもマーガレータは微動だにしない。
「どうして……」
がくりと膝を突く。冷たい頬に手を添えても答えはない。
マーガレータの葬送は酷い有様だった。死化粧は施されず、唇は可哀想なくらい青い。あちこちがささくれだった劣悪な棺は野花の一輪すらなく空っぽ。いくら俺達が貧乏人といったって哀れと言うに余りある。
ただただ茫然とするばかりの俺の太ももに軽い衝撃を感じた。見下ろせば、揺蕩う小舟が俺をつついていた。
粗末な舟だ。あちこちがけば立ちぼろぼろで、注意深く触れないと怪我をするだろう。雨風に晒されたのか白茶け本来の色を失って久しい。マーガレータの舟棺とまるで似ている。
「そうか」
マーガレータから手を離すと、躊躇うことなく空白の舟に乗り込みこれまでの彼等に倣い寝転がった。
俺が生きていて、愛するマーガレータの舟葬がこんなにみすぼらしいなんて有り得ない。きっと万事を執り行う喪主が不在――――即ち俺は妹と一緒に死んだのだ。しからばこの舟は俺の物に違いない。
耳の底を浚う冴えた濤声が死出の旅へ出発を教える。マーガレータもきっと隣を走っているだろう。
目前には、迫り落ちてくるかと錯覚しそうな黒夜。月も星もない夜。
ヴァイキングの日。
どこらへんがというと、舟葬がです。
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