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シトシト、シトシト。ジメジメ、ジメジメ。

 シトシト、シトシト。ジメジメ、ジメジメ。

 家を出る頃曇り空だったためうっかり傘を忘れれば、帰る頃には見事に降られていた。

 自宅から駅までを自転車、その後を電車で通学している海広(みひろ)は仕方なく自転車の部分ををバスにした。ああ、バイクでいいから早く自分の車が欲しい。バイトに明け暮れ、バス代を節約してまで自転車で通学しているのはそのためだった。

「あ、やっぱみーくんだ」

 退屈しのぎにスマホを弄っていれば思いもしない声に名を呼ばれた。顔を上げれば、かつての後輩水玖(みく)がいた。「隣いい?」と聞かれたので、もちろんと答える。

「なんか、すごく久しぶりな感じ。全然会わなくなっちゃったね」

 水玖の言うとおりだった。こうやって偶然顔を合わせることができたのなら、今日は雨でよかったかもしれないと思うくらいには。

「学校でも結構顔合わせてたから余計にそう思うよな」

 もともと水玖と海広は同じアパートに住んでいた。海広の家が平屋の古い一軒家を買ったのをきっかけに引っ越すまで、同じ学区内に住む小・中学生として面識があった。女の子だし何かと不安もあるだろうからと親同士の計らいで一緒に登校していたのが懐かしい。どちらかの親が不在の時間帯は、片方の家で預かるのもしょっちゅうだった。一人っ子の海広には、「みーくん」と分かりやすく慕ってくれる年下の子と過ごす時間は友達と遊ぶのとは違う特別さがあった。それは、優越感に形が似ていたかもしれない。

 進学先がたまたま同じこともあって交流は続き、単なる(元)ご近所さんの枠に収まらないほどには仲が良かったが、高校卒業後は会うことがめっきり減った。

 大学生の海広とまだ高校に通う水玖では、家を出るにしても帰るにしても全く時間帯が合わない。珍しいなとそのまま感想を口にすれば、カラオケの帰りだそうだ。

「でも私、またみーくんの後輩になる予定だよ」

 それはつまり同じ大学を受験するということか。海広は何気ない一言に今から期待してしまった。

「あれ、みーくん傘は?」

「忘れた」

 自分にあって海広にないものを目敏く見つけた水玖に即答すれば、「じゃあ」と行儀よく膝の上に載せたかばんを彼女は探る。

「これ貸してあげる」

 そう言って差し出したのは濡れていない折り畳み傘だった。

「いいよ、別に。バス停から家まで近いし」

「でも家まで濡れちゃうでしょ」

 水玖は膝の上に傘を載せる。

「ちゃんと返しに来てね。その時はまた一緒にご飯食べよ」




 シトシト、シトシト。ジメジメ、ジメジメ。

 陰鬱な季節が巡ってきた。あの年から、海広は雨の日を忌み嫌うようになった。それは間違いなく自分のせいであった。

 フロントガラスに何度もかかる雨のカーテンをワイパーで拭えば、折よく一人の黒髪の少女がビルから出てくるのが見えた。とはいえ海広なら水滴に滲む世界でも水玖を見つけることができただろう。凡庸な色のはずの黒い髪はその艶から特別な雰囲気を纏っている。

 と、水玖が一人の少年に呼び止められた。出入口で傘を挿しながらスマホを弄っていた少年だ。海広はそこでようやく、当たり障りのない背景の構成員がしていたのが待ち合わせでなく待ち伏せで、しかも相手が水玖だったのだと気付いた。

 一気に警戒レベルが上がり、じっと目を凝らす。傘で二人の顔は隠れたものの、その雨具にも覆われない程長い髪が水玖の背中で揺れる。頭を横に振った――――つまり断ったのだろう。少年を置き去りにして海広の車に向かってくる。水溜まりが跳ねるのも構わず駆け足なのは、きっと。

「おまたせ、みーくん」

 少し濡れながら助手席に乗り込んだ水玖を「おかえり」と迎え用意していたタオルを渡す。

「ありがとう」

 受け取った彼女が髪や顔に伝う雫をふき取り、シートベルトを着用したのを見届けてから車を発進させた。

 十八になってすぐ、海広は免許を取った。当時は並行して試験に合格した原付を買うつもりだった。大学に通うならそれで充分だったから。でもある事件をきっかけに考えを翻し中古車を購入した。

 無言で車を走らせ、赤信号のタイミングで海広はちらりと隣を見遣る。水玖の視線は真っ直ぐで、その横顔になにか憂いの影が差しているようには見えなかった。傷口に触れてしまいそうで口を鎖すべきか悩んだが、心配が勝り意を決す。

「水玖、さっきの人って」

「あ……一緒に勉強しないか誘われて。そんなに心配しなくても大丈夫だよ。時々見かけるけど、いい人そうだし。今日頭痛いからって言ったら分かってくれたし」

 あの日を境に水玖は雨の日に頭痛を催すようになった。気圧のせいではないはずだ。

「そうか」

 同じ通信学校の生徒でも良かったとは言い難い。彼女は男全般を苦手としている。

 水玖は一年前の今頃、以前通っていた高校で暴行された。突然の豪雨で部活終わりに足止めをくらい部室で親の迎えを待っていた時、男子生徒複数に襲われたのだ。

 普段持ち歩いていた折り畳み傘は数日前、小雨降る中同じバスに乗り合わせた海広に貸していた。

 相手がひとまずの休学を言い渡されているうちに水玖は退学を選んだ。海広は水玖のその決断はもっともだと理解できた。一方でこの選択は水玖が選んだのではない、選ばされたのだと分かるから苦しかった。

 自分があの時傘を借りていなければ。水玖に帰れる選択肢があれば。今も前と同じ学校に通って、仲の良い友人たちと勉強や部活に励んでいたかもしれない。

 それでも水玖は勇敢だった。家に閉じこもる日々を越え、通信学校への入校を決め科目によっては対面の授業に参加するようにもなった。

 水玖の両親からは度々止められているが、要らない苦労を強いてしまったのは自分のせいだからと海広は授業の日の送り迎えを申し出た。水玖は申し訳ないと思いつつ、乗らなければ海広が思い悩むことを知っているので甘んじている。自分のために車を買った事実に甘美な喜びがなかったわけではなかった。

 海広も水玖も何も罪を犯していない。けれど罪悪感が確かにある。自分の頭上にだけ降り続く鬱陶しい雨のように、肌に付き纏う不愉快な湿気のようにずっと、シトシト、シトシト。ジメジメ、ジメジメと。

これは「僕が先に好きだったのに」とかのジャンルに入るんだろうか……。


いいねありがとうございます。


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