待ち遠しい夏。七月まで飛んでみたい。
「恋のない一生は夏の来ない一年に同じ、ですって。知ってた? 陽文」
「勿論。ただただ快適だということだろう?」
俺がそう言うと、今の今まで読んでいた本を閉じて胸に抱え、くるんと空中で一回転しながら空音は憤慨した。
「もう! どうしてあなたって圖書守なのに、こうも行間が読めないのかしらっ」
「余計なお世話だ。大体、日本の夏は湿度が高すぎるんだ。不快なことこの上ないし本の管理もままならん」
俺が所属する圖書寮は、この国のありとあらゆる書物の目録や複製の作製を主に手掛けている国家機関だ。対象は出版社が刊行した商品に留まらず、土地や家、神社仏閣に伝わる地図、日記、経典、和歌集など価値や来歴を問わず多岐にわたる。
今般新しく出向した玉梓文庫は、最後の当主が亡くなって数世代は放置された名家の蔵――――のはずだった。空音が現れるまでは。
出向初日雨風に曝された扉を開ければ、既に空音はそこにいた。暗がりにも拘わらず平然と書物を読んでいて、最初の一言は「眩しいから閉めて」だった。
密室のはずの蔵に見ず知らずの女がいた。少なからず動揺した俺は悔しいことに素直に言うことを聞いてしまい、さりとて灯りが無ければ何もできないので手燭を黙々と用意した。
そうして人心地つきやっと落ち着いて視認した女は、不思議な見目をしていた。
十二単を着込み、髪もその時代の姫君に相応しい長さをしている。が、なぜか左右の蟀谷より高い位置でそれぞれ頭髪を一束ずつ結う奇妙な髪形をしていた。どういうこだわりなのか先端は緩く巻いてある。
一方では最近女学生の間で流行っているようなレヱスの領巾を肩にのせ時代考証の追い付かない格好をしている。そうして何より、領巾を羽衣のように纏った空音は宙に浮いていた。
幽霊か妖怪か。あまりの奇天烈ぶりに聞きたいことは沢山で矢継ぎ早に質問した。本人曰く、気付いた時からここにいて書物を読み漁り生きてきたという。
「名前は?」
問いを重ねれば「今まで考えたこともなかったから、今考える」と初めて思案顔をした。そうして彼女は自分で自分を「空音」と命名した。
以後毎日、俺はここへ出勤するたび存在がまさに空音のような空音と顔をつき合わせ働いている。
今日も今日とて本にざっと目を通す。複製や修繕が必要かなど機関に搬入してからの扱いを決めるためだ。
和綴じの和歌集に今のところ破損は無い。筆跡を見ても、少なくとも歴史に名を残した能書家ではなさそうだ。有名な和歌集の写本ですらなく、嘗ての玉梓文庫の主の一人が好きな和歌を書き散らしたものではないかと推測しながら紙を捲る。
「なんだ、これは」
そこには折られた薄葉紙が挟まっていた。俺の声に反応して、背後で黙読に耽っていた空音が飛んで移動をし頭上にふよふよ浮かびながら手元を覗き込む。取り出した薄葉紙は書物の来し方を語るかもしれない大事な資料なので、丁寧に開く。
「まあ、押し花」
嬉しそうな空音の声のとおり出てきたのは押し花だった。嘗てどんな花色だったか判然としないほど色褪せたそれを慎重に手に取る。
「なんという花だろう。知ってるか?」
「いいえ」
「作ったのを忘れてそのまま、か?」
「そんなことないはず」
古い花を壊さぬようそっと元通りに仕舞いながら披露した推測はすかさず否定された。それどころか書物をひょいと持ってかれる始末。
「きっと違う……あ、これ」
俺よりずっと早く崩し字を読み解く空音は、開いた頁のある箇所を指さしながら距離を詰めて来た。
「見ずもあらず見もせぬ人の恋しくは……あやなく今日やながめくらさむ?」
白魚のような指先が添えられた行を声に出しながら確認する。
「そう。在原業平のうた。きっと、自分の気持ちを仮託したこのうたに気付いてほしいから花を挟んで意中の相手にこの本を貸したのよ」
「随分と、行間を読んだな?」
浪漫主義は悪くはないが最早妄想ですらないかと思う。
「そうね、私ならそうするというだけのことかもしれない」
笑っているのか諦めているのか曖昧な表情をしてから空音が天井高く飛んでいく。雨戸を外した明かり窓から差し込む光に目を細めた。陽射しだけならもう充分に夏だ。
「陽文。私、夏が待ち遠しいわ。早く一緒の夏を迎えましょう?」
語尾を上げ、誘うような調子の空音に。
「……だから、夏にはうんざりしているんだと言っている」
俺は、敢えて行間を読むことをしなかった。
――――人間と嘘となんて、それこそ軈て本棚で押し花のように乾く恋にしかならないだろうから。
出典が見つけられなかったのですが、1583年にジョン・ディー博士が自宅の図書室に現れた霊と他愛ないお喋りを楽しんだことからこの日は「図書室に出現する霊的美少女の日」だそうです。
業平忌でもあるので無理矢理ねじ込みました。
いいねありがとうございます。
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