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明日は全てを疑うのだ。

 カチ、カチ、カチ、カチ。

 伸びた銀色の長さを確かめるよう、いちいち音を立てカッターの刃を押し出す。あともう少しして日付けが変われば月も変わる。そんな特別な夜が満ちる暗い自室で、薄汚れた刃物はぼんやり浮かび上がり私にその存在を示した。手の中にあるのは剝き出しの凶器に違いないのに、怖くない。

 ベッドの上、意図せず動かさないよう注意深く切っ先を手首に添える。シーツとパジャマが汚れてもどうでもいい。どうせ同じような染みがあちこちに散らばっている。

 カッターを握る右手に力をこめる。その先端を肌に無理矢理押しこんで、今度は横に引いた。

 激痛というほどでもないが、それでも普段体感しない痛さに無性に泣きたくなる。どうして、死に近づくために恐怖は捨てられるのに、痛みは耐えられないなのだろう。ぷっくりと丸く吹き出し、次に腕を伝う血液を目で追うこともなく茫洋と考える。カーテンを引いて明かりもつけない室内では流れる血筋も黒かった。痛覚のせいで死に切れないのだと正直に告白すれば、あなたは鼻で笑うのだろうか。

 目をつぶると、傷を刻んだ手首の脈が感じ取れる。このリズムにのって血は全身を巡り、出口を見つければ従順に漏れ出す。体のメカニズムはこんなにも単純で、でも持ち主である私は感情の整理もままならない。

 ピッと小さく時計が鳴る。盤面を見ずとも、朝と夜の十二時を告げるかすかなアラームで、一日の終わりと始まりが分かった。

 もう一本赤い線を付け足す。まだ死なない。死ねない死ねない死ねない、これじゃ死ねない。

 血と同じように音もなく、滔々と涙が流れた。諒の痛みを受け止めきれない現状が苦しかった。悲しかった。カッターも傷口もそのままに、手の甲で目頭を拭う。

「死のうか、一緒に」

 ドアの方から諒の声がした。弾かれたように顔を向ける。いつの間にここにいたのか、声色に違わず柔和に微笑んでいる。

 暗がりの中視線を結んだまま、諒がベッドの側まで危なげなく近づく。スイと白い腕が伸びてきたかと思うと、右手をやわく(くる)まれる。

 不健康に色白で枝のような細腕なのに、もう降参だった。あっけなく武器を手放した手を諒の背中にまわす。カッターが静かに血塗れのシーツに落下した。

 どこにいたのだろう。桜のにおいを仄かに含む甘い夜風の香りが漂う。無性にたまらなくなって、最後の一粒が頬を伝った。眼差しで、両腕で、呼吸で慰めてほしかった。諒の温度が嘘みたいに私を甘えたにする。

「死のうか、一緒に」

 今度は秘めた睦言のように諒が囁く。

 うん、と言葉に出来なかった。代わりに、確かに頷く。本音を伝える恐ろしさも恥をも覆い隠す夜闇が、私の背中を押し素直にさせた。

 一緒に死ねるなんて、夢みたいだ。



 目が覚めた。ということは、私は眠っていたということになる。昨夜、眠気を覚えた記憶はない。驚いて上体を起こせば、手首の疼痛を知覚する。ハッとそちらを見遣れば、包帯が巻いてある。死に損なったのか、それともまだ、実行に移さなかったのか。痛みをクリアに享受すれど、真夜中の出来事はどんどん曖昧に輪郭を失っていく。

 腕を目の前にかざす。明るい室内では、どこも緩まず肌に沿う白い布の丁寧な結び目まではっきり視認できた。朝の光を受け白さが強調され、より清潔な印象が眩しい。

 あの後諒が看てくれたのかと期待したが、これは母が施したのだろう。不器用な諒ではこうはいかない。なかなか起きてこない、若しくは連日寝付けない娘の様子を確かめ、手当もしてくれたに違いない。抜かりなくカッターも消えていた。どれ程心配をかけたかを思うと申し訳なさで一杯になる。

 額を目の前の腕に押し付ける。消毒液のにおいばかりで、夜風の甘さは消えていた。


 ――――死のうか、一緒に。

 一人で勝手に死んでしまった嘘つき(こいびと)を知っている。夜で誤魔化された嘘の正体を暴くのはもちろん朝。ほどけない結び目が、彼の永遠の不在を示す証拠だった。

Coccoの「四月馬鹿」をイメージ。


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