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風が、やわらかくなってくる。

 明日から、春が始まる。

 凍った雲が空の果てへ過ぎ去りミツバチが花の周りで羽音を奏でれば、風がやわらかくなってくる。それを合図に村人たちが迎えた今日は、長く厳しい冬を耐えようやくおとずれた新しい季節を祝う祭りの日だ。

 今朝から既に村中に響き渡っている春を言祝ぐ歌を耳にしながら、私は村を横断する川へと瓶を片手に向かった。水源の山が雪解けを迎えたので、水量が増している。朝露に輝く若草に足を滑らせないよう注意深く川べりに寄り、勢いのある流れで衣服が濡れないよう瓶をひたす。

 この日に汲んだ清らかな雪解け水で体を清拭すれば今年一年健康に過ごせると言い伝えられている。飲めば寿命が十一年延びるとも。そのため、私以外にも何人かの若者が対岸で同じように川面へ身をかがめている。

 瓶いっぱいに水が満ちたので引き上げる。一人分とはいえそれなりの重量だ。行きは片方の取っ手を掴んで歩いた道も、帰りは抱えてになる。

「ガートルード!」

 道中エドモンドに呼び止められた。あからさまに両手を背中に隠しているのを見つけ、気分が下降する。

「重そうだね、半分手伝うよ」

 ただ、そのまま両手が差し出されることはなかった。彼は良識があり優しいので、本来の用事を果たす前に人助けのためだけに片方の腕だけを伸ばしてくれた。もしかしたら雰囲気を察知されたのかもしれない。

「ありがとう。すごく助かる」

 微笑むのは苦手だが、ぎこちなく口角を上げてみた。エドモンドは私より何倍も上手に笑い「いやいや、このくらいと荷物を半分引き受けようとする。

 胸の前で抱いていた瓶の取っ手を二人で片方ずつ握るように持ち直して運ぶ。家に着くまでに、既に教会で感謝の言葉を捧げたことや、午後の買い出しの予定を話した。他愛ない会話の合間を並々と掬った水が揺れる音がつなぐ。

 玄関で瓶を下ろしてもらい、改めて礼を述べた。エドモンドの片腕は相変わらず見えないまま。このまま逃げ切れないかと「それじゃあ、よい終わりの日を」と最後の冬の日にだけ使われる挨拶を切り札にノブへ手をかけたところで、慌てたエドモンドに引き留められた。

「あ、あのさ」

「どうしたの?」

 白々しい、分かりきった空とぼけだ。エドモンドでなければ失礼だと逆上されたかもしれない。

「もう分かってると思うけど……これを受け取ってほしい」

 それまで不自然に潜んでいたもう片方の腕がいよいよ背後から現れた。姿を見せた左手には、予想に違わず七種の花の花束。今日この日には、求愛の意味を持つ。

 エドモンドの顔は真っ赤で緊張しているのが手に取るようで、どんどん申し訳なくなってくる。こんなに正直で、善良な人は村でも珍しい。けれど。

「ありがとう。でも、私にはこれだけで十分」

 なるべくにこやかに、花の中でも鮮やかさが際立つタンポポを一輪抜き髪に挿す。

 七種の花は、満ちあふれんばかりの愛情を示す。だから十四以下の娘を持つ親は花かんむりを小さな頭に乗せ、男は意中の女のために色とりどりの花を束ねる。

「そうか……いや、そうだよな。ガートルードは心に決めた人がもういるんだもんな」

「ええ」

 一つの花ごとに永遠、無償、真実、唯一、究極、情熱、不屈の愛が込められた花束を丸ごと受け取れば相思相愛。受け取らなければそもそも眼中になく、一部ならばその種類が多い程好意も比例しているという意思表示になる。一輪なら、お友達でいましょうくらいのニュアンスだ。


 ミモザ、ワスレナグサ、タンポポ、チューリップ、レンギョウ、キンポウゲ、スイセン。春の花は黄色が多い。種々の花を一輪ずつ花瓶に活け窓辺に飾る。大小様々な花をただ挿しただけなので見栄えは良いとは言い難い。しかし写真立てだけで殺風景だった窓辺は一段明るくなった。いっとう強く香るスイセンのにおいに心安らぐ。

 ガラスの向こうには夜の帳が降り、いくつもの篝火が赤々と燃えている。村のあちこちに点在する炎は太陽を擬し、夜を明るくすることで闇に紛れた死者の姿を露わにしようと数が多い。どの家にも会いたくても会えない人はおり、またそうでなくとも祖先へ感謝するべく住人は火を焚く。一夜の逢瀬は、夜と昼の境を曖昧にし生者と死者の時間を融合することで叶うそうだ。

 昼夜の混ざった世界を背景にガラスに映る自分は、うっすらとした映りこみでも分かるほど頼りなげだった。心もとなさがありありと浮き出ている。

 コンコン。

 来訪を知らせるノック音。期待が頭をもたげるのがいやでも分かった。落ち着いて理性的でいたいのに、「どなた?」と尋ねる声は張り詰めてしまう。

「僕だよ、ガートルード。会いに来た」

 彼だ! 間違えようのない声がドア越しに届いた途端、矢も楯もたまらず扉を開け待ち人に飛びついた。



 朝を告げる鳥のさえずりが聞き取れる。昨晩、花を用意していつの間にか寝入ってしまったらしい。一体いつベッドに移動したのか判然としないまま身を起こしぼんやりとしつつ記憶を辿る。瞬間、ハッと目が覚める勢いで夜の出来事を思い出し、咄嗟に首を窓側に振った。そこには、空っぽの花瓶。

 ああ、確かに昨日彼はここに訪れたんだ。

 花瓶の真横、朝日に包まれた彼の遺影が涙でぼやけた。

ハイブリッド・ヴァルプルギスの夜。


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