けっこう空いてる、朝の通勤電車。
新社会人として一年目、気がかりはいくつもあった。電車の乗り継ぎを失敗して遅刻しないかとか、社員の顔と名前全員覚えられるかとか。ただ、杞憂とまではいかないが入社して二週間、今のところうまくやれている。
特に、朝の通勤電車には上京する前から恐れをなしていた。何かにつけて見聞きしたあの圧死者が出ないのが不思議な混雑ぶりは、乗れば貸し切り状態なんてザラにある地方者には耐えられる自信が無かった。
ところがどっこい。時間がいいのか、路線がいいのか、毎朝おれは座って出勤できている。もちろん地元に比べれば乗車率は格段に高い。タブを忙しなくタップするスーツを着たおじさんが目の前で足を広げて座り、楽器ケースを背負った地味な若者が吊革に掴まりスマホをいじっているなんてそうそう無かった。制服をきれいに着こなした小学生ほどの背丈の子供を見かけたときは、心底驚いた。都会ではこんなに小さな子が既に電車を乗りこなして学校に通うのか。同い年のおれをここに連れてきても、到底真似できる気がしない。
今日も今日とて難なく着席できた。窓の向こうの景色は昨日と大差無い。大きい看板が等間隔に並んでいる。ただ、自覚している違いが一つある。それは、おれのかばんの中身だ。昨晩一冊の文庫本を詰めた。卒業式、ゼミの後輩が餞別にくれた「若菜集」だ。
人からもらった本を汚すのは自分で買った本以上に心苦しいので、ブックカバーを買った。カバーは青いストライプのシンプルなデザインで、朝一番に開く本に相応しい爽やかさだ。布地に隠された表紙を開く。
受け取ったとき、正直なぜ「若菜集」? とは思った。おれたちは上代文学ゼミのメンバーであって、近代は畑違いだ。特別作者が好きだと言った記憶も聞いた記憶も無い。ただ、文学を四年間学んできた者ながらこの有名作品が未読なので、よい機会を与えてもらったと頁を繰る。
詩は七音と五音の繰り返しで、小気味よく節が続く。使われる単語は情熱と優雅を兼ね備え、紙面が見えないきらびやかな花や星であふれかえっている。詩なので当然一頁あたりの文字数は少ない。小説より区切りがつけやすいので、通勤のお供に詩集はうってつけかもしれない。反面、贈り物をあっさり読み終わってしまうのは味気無い気がして、会社への行きがけに一、二編読むだけにした。
若菜集を読み始めて数日後、すらすら紙は右に捲られている。いつもと同じ時刻の電車に乗り、着席して本を膝上のかばんから取り出す。今日の詩は、女の名前をタイトルに始まっていた。一作が長く、頁を跨いでいる。次の頁を開くと、妙な具合だった。一部分だけ、赤鉛筆で四角く囲まれているのだ。枠の中身は、詩四行分と文字数は少ない。思わず冒頭をすっとばして視線が食い入る。
しりたまはずやわがこひは
雄々しき君の手に触れて
嗚呼口紅をその口に
君にうつさでやむべきや
今やっと、本を贈られた意味が分かった。
サン・ジョルディの日を目指しましたが、違うテイストに仕上がりました。
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