第1章−3.異変
教室中の時が止まったようだった。その瞬間、動くものはまったくなく音一切聞こえなかった。
三月はほんの数秒間、大島教諭の発した言葉の意味を理解できなかった。日本語であることさえ疑ったほどだ。
だが、その沈黙もやがて崩れ、今度はまるでさっきの静けさで助走を付けたかのように教室全体がざわついた。
「静かにしろ!」
教壇の大島教諭は、そのざわめきを抑えるために一喝してから、話を続けた。
その話をかいつまむと、このようなことであった。
左沢は、三月やその他の何人かと同じく、実は塾通いをしていたらしい。
なんか、左沢ほどのお嬢様だったら、別にそんな一般の塾なんていまずに専属の家庭教師を付けてやってるようなイメージがなくもないのだが・・・。まあ、そこは所詮庶民の想像とは異なっているのかも知れないし、色々と左沢家にも思うところがあるのかも知れない。
そう言ってしまえば、彼女が電車通学だというのもなんか違和感があるような気がする。いや、この学校は、校則で基本的には自家用車による生徒の送迎を禁止しているから別におかしくはないのだが、三月はどうしても「お嬢様」は、黒塗りのリムジンで毎日朝と夕、運転手が送り迎えという想像をしてしまうのだった。
三月は、自分の発想の貧困さんに少し鬱になりながらも、とりあえず話の続きである。
昨日はその塾の日であったという。場所はこの辺り一帯の中心地とも呼べる大きなターミナル駅の近くとのことで、よくよく聞くとどうも三月の通っている所と同じ塾らしかった。
とにかく、その日塾へ行ったであろう左沢の帰りを、彼女の家では待っていた。塾に行くのだから、少々夜遅くなっても仕方ないことなのだが、昨日は11時近くになり、ついに日付が変わってもとうとう左沢は帰宅しなかったらしい。そこで両親は慌てて警察に捜索願を出すと共に、左沢の行きそうなところや塾の近くに探しに行き、彼女の友達と思われる家に片っ端から行方についてしらないかどうか電話した・・・とこういうことらしい。
そして彼女の消息は依然不明なまま朝を迎え、今に至るという訳である。
反射的に三月は、伊折を見た。
いや、もちろん彼が昨日の状態からいきなり彼女を匿えるような立場になってると思った訳ではない。 昨日彼の想いを知ってしまったからである。
伊折は驚いた顔も悲しい顔もしてはいなかった。むしろその表情は読み取ることが出来なかった。三月にはそのときの伊折の顔がまるで木彫りのお面ように思えた。
果たして俺はどんな顔をしているのだろうか?と三月はふと思った。やっぱり伊折と同じように面のごとく無表情なのか、あるいは・・・。
その日、三月は一日中授業に身が入らなかった。例え伊折のような想いはなかったとしても、昨日まで普通にクラスにいた仲間が消えているのだ。
好きなテニスをやった体育さえ、ラリーを続けるの苦痛にしか感じられず、最後にはただ疲れただけだった。
しかしそれは三月だけではないらしかった。
どんなに鈍い奴でも今日の教室の空気だけは、これまで感じたことの無いほどの重さに感じられるに違いない。しかもそれがやる気の無さに更に拍車を掛け、間違いなく重くてだるだるというダブルパンチを生んでいる。
向こう側に見える主のいない空いた席がやけに悲しかった。
当然ながらその日の帰りも昨日の数倍は空気が重かった。いや、昨日なんて全然いつもと変わらなかったな、と三月は反省した。まさか「日常」をなんとなく噛み締めた翌日にこんなことになろうとは・・・。俺、もしかして予知能力あるんじゃないか? そんなことをわざと冗談めかして考えながらも、その場の空気に抗生がすぐ付く訳がない。
しかも今日は塾が無いからずっと伊折と一緒だ。何もすることのない電車の中は特に苦痛だったが、駅で伊折とは別の他の仲の良い連中を2、3人見つけられたのは不幸中の幸いだった。
もっともその連中も一切会話を交わさなかったが、このときばかりは二人だけよりよっぽどマシになったと思った。
三月がようやく沈黙地獄から開放されて・・・と言ってもまだ当然気分が晴れる筈はないが、家に辿り着いたのは、いつもと大体同じ5時半過ぎであった。
「おかえり!」
母親が出迎えてくれる。例えクラスメイトが一人いなくなった所で、世間が変わる筈もない。今日もいつもと同じく普通に宿題を出されたし、三月はそれをやらなければならない。落ち込んでいるからといって風呂も入らなければならないし、腹だって減る。
いつもは社交辞令程度にしか感じられない母親の何出迎えの声が、今日は何となく嬉しかった。
「なんかおやつでも食べる?」
そう言う彼女はいつもと変わらない。うちには昨日、左沢の家からの電話はなかった筈だからまだこの人はクラスメイトの失踪を知らないだろう。しかしいずれは保護者の間にも連絡網が回ることになるだろう。
しかし、ただ今はそれがありがたかった。
食欲はあまり無かったので、
「いい。」
と一言だけ言うと、自分の部屋へそのまま行った。制服を着替えもせずにベッドに寝転がった。いろいろ考えるのも嫌だった。
今日は色々と疲れた。もういっそのこと、何もかも忘れてこのまますっと眠りに入れたらいいのに・・・。
とりあえず両親に余計な心配は掛けまいと、夕飯もいつもと同じよいに食べ、風呂も入り、宿題も済ませたが、今日に限って後はテレビも音楽も何にもする気が起きず、まだ9時前だという時間にさっさと布団に入ってしまった。
母親が、どうかしたのかと少し不審がっていたが、今日の体育、凄い疲れる競技だったんだとか適当に言い訳をしてさっさと寝てしまった。