エスカトロジー・ログファイル
かくして世界は終末を迎えた。
ある日突然に、あるいは一つ一つのほころびが積み重なり、あるいは誰かが望んだ結果として、あるいは人々の足掻きとは一切関係なく、とにかく世界は終末を迎えた。
そこにどんな力学があったのか、一介の生存者に過ぎない私の知るところにはない。一月前までただの女子高生だった私の目には、世界が変質する様子はただ狂騒として映った。冗談のように隕石が落ちてきて、猛烈な腐臭を放つ死体が歩き回って、街中は血みどろの殺人現場に成り果てて。それら一つ一つの意味を理解する暇もなく、私は生きるための行動を余儀なくされた。
私が生き残ったのは偶然だ。あの日、たまたま学校に遅刻しなかったら。人通りが少ない道を使わなかったら。初めて歩く死体と遭遇した時、近くにパイプが落ちていなかったら。逃げる最中に親切な人たちと合流できなかったら。私も今頃、あいつらと同じように腐臭を放ちながら町を彷徨っていたことだろう。
しかし、私の幸運も長くは続かなかった。
「……拳銃の、弾。残しとけばよかったなぁ」
弾切れのニューナンブをこめかみに当て、カキンカキンと引き金を引く。一緒に居てくれた警察官の遺品だ。有事の際まで絶対に使うなと念を押されて渡されたが、有事に事欠かないこんな世の中だ。生きるために。殺すために。とっくに使い果たしてしまっていた。
私が所属していた生存者の共存体は、ゾンビの大群がなだれ込んできてあっさりと崩壊した。命からがら逃げ出した私は、無数の死体に追い回されながら、なんとかして民家の地下室に逃げ込んだ。
地下室の出口には常に複数のゾンビがうろつき、武器を切らした私に強行突破の手段は無かった。
それが三日前のことだ。
「お腹すいたよぅ」
餓死は辛い。餓死は辛いのだ。
この地下室はワインセラーとして使われていた。通気孔もあるので鍋でフランベすれば水には困らない。しかし食べるものがない。チーズでもあれば優雅な一時を過ごせたのだが、さすがに私の幸運も品切れだった。
そんなわけで、若干アルコールが残ったワインに頭をくらくらさせながら、空腹に倒れているのが今の私だ。
いくら引き金を引いても弾が出ない拳銃を投げ捨て、大の字になって横たわる。飢餓と酔いとで頭の中はぐるぐるだ。お酒なんて二度と飲むものか。
……生きて出られたらの話。
「うー……きもちわるい……」
我ながら最悪の死に方だ。こんな狭くて暗い場所で、空きっ腹を抱えて、誰にも知られず一人で死んでいく。とても現代人の死に方ではない。死ぬならならもっと女子高生らしい死に方が良い。女子高生らしい死に方ってなんだろう。やっぱタピオカかな。
「どうせ死ぬなら……急性アルコール中毒で死んでやる……」
せめてもの人生と世界への反逆として、選べる中で最も優雅な死に方を望むことにした。
最後の力を振り絞ってワインセラーにすがりつく。飲み飽きるほど飲んだけど、ワインの良し悪しはついぞ分からなかった。古いやつの方がいいんだっけと安直な思考に従って、一九六〇と銘打たれた一本をチョイス。コルク抜きできゅぽっと蓋を開けた。
その時、天井がミシリと音を立てた。
「……?」
何かが暴れる音。騒がしくなったうめき声。それから、かすかに聞こえる――遠い歌声。湧き上がった複数の音が順番に消えていき、最後には足音だけ残った。
足音が近づいて、地上に繋がるハッチが開かれた。地上から射し込む光は、地下室の暗闇に慣れきった私の目にはあまりにも眩しかった。
タラップの上から地下室を覗き込むのは、まだあどけなさの残る少女だ。私と目があった彼女は、二度、ぱちくりと瞬いた。
「えっと……」
少女は言葉を探しているようだった。それは私も同じだ。死のうとしていた姿を見られるのは、これが中々気恥ずかしい。
だから、照れ隠し半分に。ごまかすような笑みを浮かべて。
「よかったら、一緒に飲む?」
彼女にワインを差し出した。
*
彼女、名を水無月マナと言った。
水を求めて彷徨い歩いていたところ、ゾンビが群がる地下室を見つけたのだと。何か良いものでもあるかと期待してみれば、まさかナマモノだとは思わなかったと。そんなことを彼女は楽しげに語った。……ナマモノで悪かったな。
されども私の手にはこの女から恵まれたチョコクッキーがある。彼女は文字通り命の恩人だ。この子が来なければナマモノ未満になっていた身分としては、どんな扱いも甘んじて受ける次第である。
「で、水がお望みなんだっけ。ワインだったらいくらでもあるよ」
「ワイン? お酒は困るよ。私、まだ未成年だから」
「遵法精神が養われているようで何より」
同じく未成年な私は特に気にせずワインをあおった。慣れないアルコールが喉を焼く。……うえっ、きもちわる。渋い顔でワインを差し出すと、彼女は困ったように受け取った。
「アルコールは分解に体内の水を使うと聞きます」
「ごもっとも。鍋ならあるけど、フランベしよっか」
「それでなんとかなるの?」
「マシにはなる」
実証済みである。何度も。任せとけ。
「じゃあお願いしよっかな」
合点承知。テーブルを壊して作った木片を足元に集め、私は親指の腹を噛みちぎった。
傷口から滲み出た赤の雫は、水滴ほどの粒となり、吸い込まれるように落ちていく。平らな床に触れる間際、私の血は真紅の炎を吹き上げた。
発火した血液が木片に付着する。数滴も垂らせば木片に火が付き、私はその上でワインを温めた。
「いよっと」
ワインが温まったところで鍋の中にも血を飛ばす。やはり発火した血液はアルコールの蒸気に引火して、じゅわっと炎を吹き出した。
フランベ。ここ数日の限界生活で、生きるために覚えた技だ。
「もういいかな。熱いから、少し冷まして飲んでね」
鍋を火から降ろす。燃える木片を蹴っ飛ばして処理していると、彼女はぱちぱちと手を鳴らした。
「すごい……。今、それ、どうやったの?」
「こうね、鍋の傾け具合が大事なの。アルコールの蒸気に上手いこと引火させるようにだね」
「そうじゃなくて、火。何したの?」
やっぱこれ、気になるよね。
笑顔で誤魔化してみる。彼女の瞳はきらきらと輝いた。ダメそうだった。
「私もよく知らないけど、血が燃えるんだよね。外気に触れるとこんな感じに、ほら」
もう一滴雫を飛ばすと、発火した血液が床に跳ねる。赤い光を散らす火は、確かな熱を放っていた。
「発火能力者……。ねえ、それっていつから?」
「いつからって、数週間前だったかな。世界がこんな風になる前は、私もこんなびっくり人間じゃなかったし」
「その能力があればこの地下室から脱出できたんじゃない?」
「あいつら全部燃やそうとしたら、その前に私が失血死しちゃうよ。これ、結構燃費悪いんだ」
違和感があった。彼女の言葉は、初めて超能力を目にした人の質問として適当なのだろうか。
考えながら私は親指を口に含んだ。実はこの私、もう一つ能力を持っている。その名も『傷の治りが早い』。これくらいの傷なら唾つけておけばすぐ塞がるのだ。……地味だよね。うん、知ってる。
「それよりそれ、さっさと飲んじゃって。またあいつらが集まってくる前に行こうよ」
「あ、うん」
水無月は鍋を手に取った。舐めて温度を確かめると、結構な勢いでワインを飲み干す。よほど喉が渇いていたらしい。
「ちょっと血の味がします」
「ご愛嬌ってことで」
「これが君の味かぁ」
「どういう意味だ」
彼女はにへらと笑った。……変わった子。
地下室から這い出て、私は久々に浴びる外の空気に背を伸ばした。空模様はあいにくの曇天だ。快晴とまでは望むまい。
「はー……。生きてる。人間、やっぱ死ぬ時は外だよね」
「私は畳の上がいい」
「どっちでもいいよ。あそこじゃなければ」
三日間を過ごした地下室を振り返る。もう二度と来ることは無いだろう。
街中には死臭が漂い、遠くからは奴らのうめき声が聞こえる。ここも決して安全ではないけれど、あそこよりはずっとマシだ。
「水無月さん。これからどうするの?」
「君次第かな。どうしたい?」
「ご飯食べて寝たい。あとお風呂」
「欲求に正直ですね」
水無月は楽しそうに笑って、こう言った。
「ねえ。一緒に、世界の真実を探しに行かない?」
彼女があんまり綺麗に笑うので。
気がつけば、私は、知らず知らずの内に、頷いてしまった。
「契約成立です」
「……へ? あ、いや、ちょっと待って。違うってば。そもそも世界の真実って何?」
「それを探すんだよ。楽しみだね」
世界なんてとっくに終わってしまっていて、真実なんて何の役にも立ちやしないのに、水無月はとても楽しそうで。
そんな彼女に、少し憧れた。
「そういえば君、名前なんて言うの?」
「あ、ごめん。自己紹介まだだっけ。二宮花火。よろしく」
「ハナビちゃんって呼んでも良い?」
「私は水無月さんって呼ぶけど」
「マナって呼んでよ」
「マイペースだなぁ」
どこか漠然と、どこか曖昧に。私と彼女は、終わってしまった世界に立ち向かった。
この胸にあるのはどうせ終わる命の一欠片だ。彼女がそれを求めるならば、この血を捧げるのも悪くない。
それくらいの気軽さで、私は世界の真実とやらを求めることにした。せっかくなら記録をつけることにしよう。いずれ私が死んだ後、生き残った誰かに何かを遺せると祈って。
終末記録帳。
それが、私の遺書の名前である。
*****
マナ(結局そう呼ばされた)は、明確な目的を持ち合わせていなかった。
世界が滅んで一ヶ月。彼女は食べ物を求めてふらふらと街を探索し、安全な場所を見つけてはそこで眠る、そんな野良猫じみたワイルドライフを謳歌していたらしい。なんとも狸に化かされたような話だ。私が知るこの世界は、そんな風に生き残れるほど生易しいものではないのだけども。
けれども実際、マナの動きは見惚れるほどに無駄がなかった。一つ一つの行動が迅速で、こうと決めたらすぐにそれを成し遂げる。狭い路地でゾンビと遭遇した時なんか、私が怖気づいている間にマナはバールを振りかぶっていた。ヤツの頚椎を一撃で粉砕し、何事もなく振り返って「道、空いたよ」などと平然と言ってのけるのだ。正直惚れた。
言動はふわふわしていると言うのに、彼女の動きのなんと機敏なことか。この子に一日連れ回されただけで私はくたくたになってしまった。……衰弱していたとは言え、今日一日私がやったのはただの荷運びである。言い訳させてほしいが、私だって何も戦えないわけではない。ただ、マナがすごかったというだけで。
「マナってすごいね……。何かこういう訓練でもやってたの?」
「そんなことないと思うよ。これくらい誰でもできるでしょ」
「いや無理だって。私にはあれだけキビキビとは動けない」
「ただ考える前に動いてるだけなんだけどなぁ」
これが天才というやつか。どうやら彼女は、終末世界において類まれなる才能を開花させてしまったようだ。
日もくれてきたので、私とマナは誰もいない家屋の二階で夜を明かすことにした。よろよろとしか歩けないゾンビは階段を上るのが苦手だ。それに、二階ならもし何かあっても屋根伝いに逃げられる。
「ねえ、ハナビちゃん。明日はどこ行く?」
「どこって、マナについてくけど」
「私、特に目的地ないんだよねぇ」
「真実ってやつを探しに行くんじゃなかったの?」
マナはにへらと笑った。真実とは何なのか、どこにあるのか、何を探せば見つかるのか、彼女自身も分かっていないようだった。
「この子、ふわふわしてるなぁ……」
「ゆるふわ女子世紀末エディションです」
「妙な言葉を作るでない」
気が抜けるほどゆるい彼女は、トマトリゾットをむぐむぐと頬張った。保存米とチーズ、それからトマト缶が見つかったので、それらをアウトドア用の小型バーナーでちょちょっと炒めて作った一品だ。なお、料理は私が担当した。
「ハナビちゃん。だったら、明日はもっと美味しいものを探しに行こうよ。ハナビちゃんの作るご飯もっと食べたい」
「それでいいのかお前は。世紀末食道楽旅行になるぞ」
「そこに真実があるかもよ?」
「あーもー。食べたら寝るよ。明日も早くから動くんでしょ」
食べ終えた彼女は両手を合わせて、律儀にごちそうさまでしたと唱えた。はいはい、お粗末様でした。
火元を片付けて、何かあってもすぐにでも移動できるよう荷物をまとめる。それからマナと二人で家中の侵入口が破られていないかを点検している途中、私はふと思いついた。
「ねえ、マナ。明日なんだけどさ」
「どこか行きたいところあるの?」
「うん……。せっかくだから、ちょっとね」
少し迷うけれど、私には、行っておきたい場所があった。
「私が元居たコミュニティ、行ってもいいかな」
*****
世界が変容してから数日もすると、生き残った人々は身を守るために協力を求めた。
一人で生きるにはあまりに過酷な世の中だ。共に手を携えて物資をかき集め、安全圏を構築し、交代で夜の見張りをすることによって、人々はこの世界に適応しようとした。
私が所属していたコミュニティもそんな集まりの一つだ。警察官のお兄さんを中心とした、十数人の小規模なコミュニティ。その中で最年少だった私は、街中で物資を集める班として活動していた。
私たちはうまくやっていた。収穫前の畑を見つけて、大量のサツマイモを手に入れた。良好な状態の発電機を回収し、冷蔵庫の稼働に成功した。自分たちが生きられる分の資材を確保した後は、生存者を探して歩き回った。
コミュニティの人数が二十人になり、三十人になり、集団として活動するためのルールも制定した。中にはゾンビとなってしまった仲間を処分するルールもあった。私には決して知らされなかったが、きっと運用されていたのだろう。
「それでね、あの人たちは私に向かって、危ないからもう街に出るなーなんて言うんですよ。コミュニティの立ち上げ期に最前線でブイブイ言わせてた私にだよ? 酷いと思わない?」
「ハナビちゃんは街に出たかったの?」
「後ろでじっとしてるのは嫌なの」
なんでも大人たちが言うには、私に憧れたちびっこどもが真似しようとして困るだとか。だからお前はバリケードの内側で子守でもしてろと言われた時は、さすがの私もカチンと来た。
「人気者だったんだね」
「子ども扱いされてただけだよ。分かってる」
拗ねたように言う私を、マナはくすくすと笑った。
昔話をしながら閑静な街を歩く。向かう先に見えてきたのは、少し古ぼけた中学校。四日前、おびただしい数のゾンビがあの場所になだれ込むまで、私たちが拠点にしていた場所だ。
いくら防備を固めていたとはいえ、校庭を埋め尽くす数のゾンビにはひとたまりもなかった。バリケードは簡単に破られて、遠ざかっていたはずの死がとても身近に感じられた。もうダメだと思ったその時、警察官のお兄さんは私に銃を渡した。そして、自らを囮にして、強引に道をこじ開けたのだ。
どうしてあの人がそんなことをしたのかは分からない。それでも私は必死に逃げた。走って、走って、走り続けて。銃を撃って、血を燃やして、死にものぐるいで逃げ延びた。
「でもさ、もう、わからないんだよ」
「わからないって?」
「そんな風に生き延びて、一体何になるんだろう。私みたいな小娘が一人生き延びたところで、何ができるわけでもない。どうせ私もすぐに死ぬ。そこには早いか遅いかの違いしかないじゃない」
マナは何も言わなかった。
説教臭い人生論も、嘘っぱちな同情も、何もせずに。ただ「ふぅん」と興味なさげにつぶやいて、それから私の手を取った。
「マナ?」
「はぐれるといけないから」
「片手が使えなくなる方が危険だよ」
「……ハナビちゃんには風情がない」
マナは説明が足りない。
これで気を使ってくれているらしい。はいはい、私が悪かったよ。もうこんなこと言わないから。そんな気持ちを込めて丹念に手のひらをくすぐると、マナは笑いながら嫌がって逃げた。勝ちです。
学校が近づくに連れて奴らの数が多くなってきた。ここまでは接触せずにすむルートを選んできたけれど、この先はそうも行かない。マナはバックパックからバールを抜いて、物陰から先を伺った。
「……多いね」
「どうする? 引き返す?」
「行きたいんでしょ」
「命かけるほどじゃない」
マナは振り向いて、にこりと笑った。「ついてきて」。無声音でそう唱えた後、姿勢を低くして飛び出した。
数体の奴らがこちらに気づいた。一体目が振り向く前に彼女はバールを一閃。掴みかかろうとする二体目にカウンター気味の一撃を見舞い、三体目は私が蹴飛ばして首にスコップの刃を入れた。
「お見事」
「そっちこそ」
一瞬のハイタッチ。それからマナはバールを、私はスコップを構えて、迫りくるゾンビの群れに向き合った。
*****
学校にたどり着いたときには二人ともへとへとになっていた。
一体何体倒したのかわからない。間違いなく過去最高記録だ。コミュニティに居た頃も交戦経験はあったけれど、ここまで派手にやったのは初めてだった。
経験則として、奴らは頭部に弱点があることが分かっていた。脳を潰すか、首を刎ねれば、それでゾンビは動かなくなる。緩慢な動きの隙を突いて頭を潰せば良いだけなんだけども、これが中々重労働なのだ。
「はあ……。いや、なんとかなるもんだね。ナイス、マナ」
「そっちこそ、って言いたいところだけど。ハナビちゃん、あれは無いんじゃない?」
「あはは、やっぱり?」
途中から私もマナも疲れてきたので、私は炎で焼き殺す作戦に切り替えた。ナイフを手の甲に刺し、吹き出した血を口に含んで浴びせかける。即席の火炎放射だ。燃え盛るゾンビは近くのゾンビに引火しながらうろうろと歩き回り、やがて筋肉が焼け落ちるまで歩き続けた。
その匂いと煙に釣られて更に多くのゾンビが現れた時はさすがに焦った。仕方ないので一時撤退し、ゾンビが手薄になった地点から地点から再度侵入を試みたくらいだ。
「ねえ、怪我は? 痛くない?」
「あ、大丈夫。もう治ってるよ」
手の切り傷はとっくに塞がっていた。私が持つ第二にして禁断の能力『傷の治りが早い』にかかれば、これくらいの傷は舐めれば治るのだ。そう説明はしたんだけども、マナは納得していないようだった。
「治るって言っても、痛いんでしょ」
「そりゃ痛覚はあるけども」
「じゃあそれ、ダメ。もうやっちゃダメ」
「そんなこと言われましても」
「やったら怒ります」
マナが子どもみたいに拗ねるので、私は思わず苦笑した。そう言えばコミュニティの人たちも、私がこの能力を使った時はいつも渋い顔をしていたものだ。
「悪かったよ、使い所には気をつけるって。今回は私も軽率でした」
「ハナビちゃん、その能力のために血を使ってるってこと、ちゃんと分かってる?」
「分かってるよ。鉄分は多めに取るようにしてる」
「そうじゃなーくーてー!」
私にはマナがどうして怒っているのか分からなかった。マナは頭を抱えて、深くため息を吐いた。
「……君はいつか、自分がそうするべきだと思ったら、きっと体中の血を使い果たしてでも燃やすんだろうね」
そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。私は曖昧に頷いた。
*****
学校は惨憺たる様子だった。校庭には無数の死体が転がっていた。その中には腐りきったゾンビのものもあれば、まだ死んでから日がないものもあった。顔見知りの死体も、もちろんあった。
ああ、本当に終わってしまったんだな。改めてそれを実感すると、胸の内にある空虚がまた少し広がった。
「ハナビちゃん……。大丈夫?」
私は頷いた。
壊されたバリケードを乗り越えて、校舎の中に踏み込んだ。どこかからうめき声が聞こえてくる。まだ、この中には居るらしい。奥に進もうとする私をマナが引き止めた。
「ねえ。こう言うのもなんだけど、きっと出会うことになると思う」
「何に?」
「君の、友達に」
分かっている。私はスコップを握り直した。
「その時は、私にやらせてほしい」
「……っ」
あんな姿のままうろつくくらいなら、せめて。これくらいは、ね。
構内を一周りして、私はそれらの全てを殺した。大きいものも、小さいものも。全ての死体に止めを刺した。途中で二度吐いた。千回くらい死のうと思った。弾切れのニューナンブをこめかみに当ててカチンと鳴らすたびに、マナは素っ気なく手を握ってくれた。
全ての死体を校庭に集めて火をつけた時には、あたりはすっかり暗くなっていた。
「ごめんね、付き合わせちゃって」
屋上に寝そべって空を見上げる。外灯のない世界では、夜空は銀天の輝きを放っていた。
「ううん。疲れたでしょ。寝てていいよ、ハナビちゃん。ご飯ができたら起こすね」
「ごめん……。そうさせてもらう」
少しひしゃげたスコップを抱いて横になる。洗ったはずのスコップからは死臭がした。それが、私を少しだけ安心させてくれた。
死んだ。
死んだのだ。
……おやすみなさい、みんな。
*****
しばらく横になっていると、マナが私の体を揺らした。ご飯ができたのかな。そう思って目を開けると、彼女は真剣な顔をしていた。
マナは無言で視線を校庭に向けた。視線の先を追う。そして、私も、それを見た。
焼け落ちた死体の山の中心に、強烈な稲光を放つ何かが鎮座していた。
私たちは校舎の裏手に移動した。それは、遠目には猫のように見えた。
体毛はしっとりとした黒。瞳の色は金色で、ふりふりとした尻尾がなんとも魅惑的だ。どこからどう見てもただの黒猫だが、バチバチと光る稲光は間違いなくあの猫から放たれていた。
死体と死体の間を飛び移りながら、黒猫はしきりに何かを探していた。明確な意思を持つ生物であることは疑いようがない。だが……。なぜだろう。私には、あれが、とても危険な生き物のように見えた。
「逃げよう」
校庭の隅からそれを見ながら、私はつぶやいた。マナの顔にも緊張が走っていたけれど、彼女は、首を振った。
「ううん、行きたい。あれに接触するべきだと思う」
「絶対ヤバいよ。あれは、関わっちゃいけない類のものだ」
「分かってる。でも、この世界の真実に通じるかもしれない」
「そんなもの……!」
「大事なことなの」
彼女は本気だった。一人でも行く、と。彼女の目はそう語っていた。
……わかった、なら、仕方ない。私はマナの肩を掴んだ。
「私が行く」
「ハナビちゃん……?」
「マナは援護して。何かあったら、頼むよ」
有無を言わせず私は前に出た。
スコップを構え、最大限の警戒を向けながらそれに近づく。やがて黒猫も私に気がついた。金の瞳をこちらに向けたそれは、尻尾をゆらりと揺らした。
「ねえ……。君は、何?」
返事を期待したわけではない。ただ、それの瞳に知性を感じたから。だから私はそう聞いた。
「わからん」
返事はシンプルなものだった。
「わからん。俺自身、俺がわからんのだ。おい、そこの生命体。教えろ。これは一体何なのだ」
「……へ?」
「ここはどこだ。お前は誰だ。ここに転がっているこれは何なのだ。なぜこれは温かい。何か、とても、良い匂いがする。お前もだ。お前は一体何だ」
猫は極めて流暢に語った。日本語だった。理解できる言葉だった。
まさか返事があるとは思わず、私はぱちくりと目を瞬いた。えっと……。この猫、喋るの? なんで?
「お前はeldurか?」
「……え、ええと? ごめん、なんだって?」
「eldurだろう。いや、違う。eldurにしては小さく弱い。ならばその眷属か。魅入られたのか? 服従したのか? いや、どちらでも構わん。そこのお前はljóðだな」
マナはびくりと体を震わせた。黒猫は死体の山から飛び降りると、一歩一歩確かめるようにこちらに歩み寄った。
「お前らに合わせるならば、俺はÞrumaとなる。それ以上のことはわからん。この姿は何で、なぜ俺がここにいるのか、まるで検討もつかない。だが――腹は空いた。おい、eldurの下僕。あの温かいものはお前がやったのだろう」
猫は私をじっと見ていた。より正確には、私の首筋を。
猫は歯を剥いた。鋭い犬歯の奥に、赤い舌先がちらちらと揺れていた。
「お前、食わせろ」
「ハナビちゃん、下がって!」
マナと猫とは同時に動いた。
黒猫が飛ぶ。マナが私の体を引き倒し、前に出る。猫が放つ稲光が一瞬視界を奪い去り――そして。
マナが、叫んだ。
とても深く、とても色濃い音色で、マナは叫んだ。その叫びはまるで旋律のようだった。意味をなさないはずの音が耳を通じて脳に流れ込み、脳裏に雄大な海を思い浮かべた。広く、深い海。どこまでも続いていく水平線。その奥底へと誘われるような音に頭がくらくらした。この音は一体何なのだろう。原初の欲求が揺り動かされ、私は思索へと潜っていった。飢えていた。欲していた。発情していた。もっと、もっと、奥まで、深いところまで、この音を――。
「そっち、行っちゃ、ダメ!」
カッと頬が熱くなった。じわっと痛みが広がって、叩かれたことに気がついた。
瞬間に意識を取り戻す。認識がこの世界へと戻ってくる。ちぐはぐな感覚が現実に焦点を合わせ、まるで夢を見ていたかのような、そんな曖昧な感覚に包まれた。
「マナ……? 今のは、何……?」
「耳塞いでて。もし聞こえても、できるだけこの場所にしがみついて。いい?」
「う、うん」
マナの手を借りて立ち上がる。私も動揺していたが、それは猫も同じだった。猫はうめき声を上げてよろよろと立ち、苛立たしげにマナを見た。
「おい……。ljóð。お前、どうして邪魔をする」
「あなたに、ハナビちゃんを奪わせない」
「少し食うだけだ。お前らが大事にしている命を取るつもりはない」
「それ以上近づけば殺します」
猫は鼻で笑い、強く稲光を瞬かせた。やれるものならやってみろと、瞳はそう語っていた。
マナはバールを構えて大きく息を吸った。また、あの『歌』が来る。そう予感して、私は。
「ちょっと待って」
マナの口を手で塞いだ。
「……!?」
「一つ聞かせて。君が食べたいものって何?」
「あの温かいものだ。お前がやったのだろう」
「どれくらい?」
「多くは求めない。この飢えが凌げれば、それで良い」
マナはすごい目で私を見ていた。ごめんって。でも、こいつ、話が通じないやつじゃないと思うよ。多分。
私はナイフで手のひらを刺した。切断した血管の断面からごぽごぽと血が漏れ出す。手のひらからこぼれ落ちた血は、地面に落ちて熱い炎に変わった。
「食ってもいいのか?」
「お食べ」
腰を下ろして手を差し出すと、猫は私の手から血を舐めた。
舌先が揺れる度に痛覚が刺激される。少しこそばゆくて、結構痛くて、なんだかぞくぞくとした。痛気持ちいいというのはこういうのを言うのかもしれない。そんなことを思っていると、相変わらずすごい顔のマナが私を覗き込んだ。
「ハナビちゃん……? 何してるの?」
「何って、餌付けだけど」
「危ないよ?」
「案外そうでもないかもよ?」
そんなとぼけた会話をしていると、猫は最後の一滴まで綺麗に舐め取った。私の傷口は既に治り始めていた。何を隠そうこれこそが、私が持つ第二にして禁断にして究極の能力『傷の治りが早い』である。
「ふむ。馳走になったな、eldur。おかげで久方ぶりのまともな飯にありつけた。だが、随分と痩せた味だな。ちゃんと食ってるのか?」
「食うだけ食っといてダメ出しするか」
「いや、礼を返そう。忠告をくれてやる。おい、眷属ども」
その眷属ってやつは私たちのことを指しているらしい。私とマナは顔を見合わせて、共に首を傾げた。
「すぐに逃げろ」
「……は?」
「もうじきここに禁獣が来る。お前らは命が惜しいのだろう? ならば全速力でここを去れ。それが、お前らが生き残る唯一の術だ」
意味はわかる。だが、意味がわからない。禁獣って何だ? こいつは、何のことを言っている?
強い警告に戸惑う一方、猫が語る言葉に興味もあった。この猫は、世界の真実に繋がる何かなのかもしれない。そんな予感がした。
私ですらそう思ったくらいだ。マナはきっと、それ以上だっただろう。
「猫さん。君が知っていること、教えてほしいの」
「……猫さん? それは俺のことか?」
「うん。そう呼んでも良いかな」
「断る。俺はÞrumaだ。名前はまだ無い」
「猫じゃん」
よくわからない主張をする黒猫氏は、ふんと鼻を鳴らした。
「猫ではない」
「猫だよ」
「俺は誇り高きÞrumaだぞ。あんなものと一緒にするな」
「猫にだって誇りはあるよ」
「本当か?」
「私、嘘言わない」
「なら、良い」
良いらしい。マナは強かった。黒猫はぶるりと体を震わせて、なーごと鳴いた。どこからどう見ても猫だった。
「……ふむ、なるほど。猫か。ふふ、悪くない。であれば眷属ども。さてはお前ら、人間だな?」
「水無月マナです」
「二宮花火です」
「人間じゃないのか!?」
人間でもある。でもそれ以前に、私は二宮花火なのだ。アイデンティティに迷う青少年にそんな問いかけをしないでほしい。
黒猫はしっぽをぺしぺしと鳴らしながらそこら中を歩き回った。本気で悩んでいるようだった。見ていて面白かった。
「質問ならば答えてやろう。無論、対価は頂くがな。さっきと同じもので良いぞ。やや貧相だが、贅沢は言うまい」
「お前さっきからちょいちょい失礼だな」
「だが、こんなことをしていて良いのか? 禁獣はもうすぐそこまで来ているぞ?」
私とマナはもう一度顔を見合わせた。気になっているのは、その言葉だ。
「猫さん、最初の質問。禁獣って何なの?」
マナが聞いた直後、重々しい地響きがした。
それはあまりにも異様な光景だった。無人の町並みから、巨大な何かが立ち上がる。それは半透明の馬だった。体表はぬらぬらとした液体に包まれていた。カンブリア紀の生物のような足がうねうねと伸縮していた。それには首が無かった。頭部があるべき部分はぽっかりと欠け落ちており、首の断面に空いた大きな穴から黒ずんだ液体が絶えず流れ落ちていた。
異常生物。ビルほどもある巨大なそれは、学校にいる私たちを見下ろして、空洞音のような鳴き声を上げた。
「あれが、禁獣だ」
*****
先ほどとは比にならない悪寒がした。
ここに居てはいけない。あれに関わってはいけない。あれを理解してはいけない。本能がうるさいくらいにがなり立てる。あれは、極めて、危険なものであると。
「逃げよう!」
「逃げるよ」
私とマナは同時に言った。今度は意見も一致した。即座に踵を返し、なりふり構わない全力疾走。校舎の裏側まで走り、この場所ならばヤツの目が届かないことを確認して、そこで私たちはずるずると座り込んだ。
「何あれ……!? ねえ見た!? 何なのあの化け物!? あんなの絶対おかしいって!」
「あれが禁獣、ね。この世界がこんな風になったのと、何か関係あるのかな」
「おい、お前ら」
座り込んだ私の膝に、さっきの黒猫が飛び乗った。
「逃げなくて良いのか?」
巨大な脈動が聞こえた。
生々しい鼓動音が、私とマナの胸を貫いた。悍ましい音だった。まるで巨大な心臓を持つ生物の中に閉じ込められてしまったかのような、そんな錯覚すら覚えた。その音と共に、私が見ている目の前で、世界の全てが色を変えた。
悍ましい。
大地は赤かった。多くの血を吸い込んだように。空は黒かった。空の星が全て消えてしまったかのように。荒廃した町並みはぬらぬらとした血に塗れ、建物の表面には蔦のように血管が這い回る。辺り一帯から死臭がする。色濃い停滞の匂いが、絶望の匂いが、終焉を強く想起させる。
この世に地獄があるならば、それはこの場所を差し置いてあり得ない。
まさしくここは、異界だった。
「な、に……?」
「禁獣領域。ヤツの狩場だ。禁獣は餌を見つけると、この世界に閉じ込めて喰らう」
「はは……。餌って、言うのは?」
「決まっているだろう」
黒猫はしっぽを器用に操って、順番に指差した。私、マナ、それから黒猫自身を。
なんだ、あれは。なんだ、この世界は。一体何が起きている。黒い感情が胸に芽生え、私は太もものホルスターから拳銃を抜いた。こめかみに当て、引き金を引く。カキンと軽い金属音。二度、三度、引き金を引いた。
「ハナビちゃん、大丈夫?」
「……よゆー、です」
「まだ諦めちゃダメ。立って」
マナが差し出した手を取って、なんとか立ち上がった。きっとひどい顔をしているのだろう。マナは気遣わしげに私を見ていた。
常識を越えた現象を前に、人の命はあまりにも無価値だ。世界に満ちる悪意が私の心にガリガリと爪を立てる。あんな怪物の領域に閉じ込められて、人は、命は、一体何を望めるのだ。
それでも……。私は、まだ、一人じゃないから。
「ごめん……。情けないとこ見せたかも」
「いいよ。ほら、早く行こう」
迫る禁獣に背を向けて、私たちは走った。
暗黒の世界に、命を求めて。
*****
禁獣は走って追ってくるようなことはしなかった。
時折あの悍ましい鳴き声を上げながら、私たちを目指して歩み寄るだけだ。しかし何せあの巨体である。歩幅は大きく、歩いて逃げているだけだとすぐに距離が詰められる。
ならば走って逃げ切れるかと言うと、そんなことはなかった。
「ハナビちゃん。この道さっきも通ったよ」
「うん……。分かってる」
分かっていても、足を止めるわけにはいかない。これで三度目となる分岐路を、これまでと同じように右に曲がる。すると見えてくるのは学校だ。舌打ちをして、私は少しでも学校から遠ざかる路地に飛び込んだ。
かれこれ数十分は走っていると言うのに、私たちは未だ学校の近くから抜け出せずに居た。どんな道を通っても、必ず学校に行き着いてしまうのだ。空間がループしていることは嫌でもわかった。
「禁獣領域は閉鎖した空間だ。走ったくらいで逃げられるようなものではないぞ」
「ならどうしろって言うの?」
「知らん」
「あんた肝心なところでポンコツだなー!」
猫は私の肩で余裕の観戦を決め込んでいた。お前だって禁獣の餌なんだろ。もっと危機感ってやつを持っても良いんじゃないか。
そんなことを愚痴っても差し迫る危機は変わらない。ふと後ろを振り向けば、禁獣が黒黒とした首をこちらに向けているのだ。気を抜くと、だらだらと垂れ落ちる墨のような液体が、生臭い匂いと共に迫ってくる。
「くそっ……。何か、何か無いのか。ここから出る方法は――」
「ハナビちゃん。あれ見て、あれ」
マナが指差す方向。一つ道を挟んだ先の交差点に、男が座り込んでいた。
それは人間だった。体がまだ腐り落ちていない、命を持った人間だった。しかし正常ではなかった。瞳は限界まで見開かれ、何かうわ言のようなものをつぶやいている。一目で分かった。あれはもう、壊れている、と。
「私たち以外の、人?」
「巻き込まれたのだろうな。禁獣は強い異常を引き寄せる。あれもまた、お前たちと同様に素質があったということだ」
「とりあえず褒められてないことは分かった」
ぐったりと座る男は、首だけを回して私たちの方を見た。血走った瞳は焦点が合わず、痩せこけた口からは饐えた死臭がした。
「う、あ、あ、あ、あ」
うめき声とも悲鳴とも取れない声を上げ、男は顔を覆った。声はすぐさま絶叫に変わった。とても人間とは思えない叫びを上げながら、彼は自らの目を潰した。そして手探りで銃を取り出すと、顎の下に銃口を当て、躊躇うこと無く引き金に指をかけた。
破裂音。彼の体がびくりと跳ねた。ずるりと脱力した。動かなくなった。
男は死んだ。
「…………」
私は絶句した。ただ、呆然と、その一部始終を見てしまった。
立ち尽くす私の隣を、マナがするりと抜けた。彼女は男の死体から銃を取り上げる。慣れた手付きで弾薬を取り出すと、私にそれを投げ渡した。
「良かった。一発、残ってたよ」
「……そりゃどーも」
もう泣きたかった。
*****
逃げ続ける最中、私たちは時折生きている人に出会った。
大の字に寝転んで自分の首を絞める男。ナイフで腹を刺し続ける女。楽しそうに歌いながら壁に頭をぶつける子ども。よたよたとした足取りで禁獣へと向かう老人。一人だけ、まともな人間も見た。その人は私たちの目の前で禁獣に食われて死んだ。あのぽっかりと空いた黒い首に吸い込まれて、悲鳴すらも残さずに死んでいった。
それを見る度に、私の胸に黒い何かが溜まっていく。黒い何かが絡みつくほどに、私の足は重くなっていった。
どこまで逃げても逃げられない。
世界はいつまでもループし、角を曲がるたびに違う誰かが目の前で死んでいく。
いつまでも、いつまでも、この世界から抜け出せない。
振り向けばそこに禁獣がいた。禁獣は変わらぬ足取りで私たちを追い続ける。やがて私たちが疲れ果て、動けなくなるその時まで。
「おい、眷属ども。いつまで続けるつもりだ」
わかってる。
「こんなことをしていたって全員死ぬだけだぞ」
わかってるよ。
「どうすればいいか分からないなら――」
「わかってんだよそんなことッ!!」
どんなに考えたって、私にできることなんて一つだけだ。ならばもうやるしかない。だけど、私は、その決断を遠ざけていた。
私は立ち止まる。マナも立ち止まった。振り向く彼女は、きっと、私と同じ結論にたどり着いていた。
「――この世界に、生き残る術なんてどこにもない」
マナは小さく、だけど、たしかに頷いた。
この領域はヤツの狩場だ。そこに迷い込んだ私たちに、都合のいい現実なんて一つだって用意されていない。
「だから。生き残るには、道を切り開かないといけないんだ」
私は迫りくる禁獣を見上げた。
あれを倒さなければ、私たちは生き残れない。だけど――どうやって。どうすれば、ただの人間である私たちが、あの化け物を倒せる。
私は、その術をずっと考えていた。
「マナ、私の火だ。あいつを火だるまにしてやろう」
「私もそれは考えた。けど、無理だよ。たとえハナビちゃんの血を使い果たしたって、それくらいじゃどうにもならない」
「あっちの大通りにガソリンスタンドがある。そこに誘導して、スタンドごと燃やすってのはどう?」
「却下、危険過ぎ。ガソリンは爆発的に燃焼する。君の火は安全圏から着火することができない」
「導火線を使おう。長い紐を伝って着火すれば、いけるでしょ」
「……本気なの?」
首肯した。即断即決するマナにしては、珍しく考え込んだ。
「迷ってる時間はない、か」
小さくつぶやき、マナは頷いた。
「準備がいるね。二手に別れましょう。私があいつを誘導します。ハナビちゃんは爆破の用意を」
「誘導って、良いの? 危ないよ?」
「大丈夫。ハナビちゃんに『火』があるように、私には『歌』があるから」
「私はソレをよく知らないんだけど、大丈夫なの?」
「もちろん。内緒にしててごめんね。結構便利なんだよ、これ」
パチンと茶目っ気のあるウィンクに、思わず苦笑した。そう言えばマナの『歌』についてもちゃんと聞いていなかったっけか。また今度、嫌ってほど問い詰めてやろう。
「死なないでね」
「そっちこそ」
互いの手の甲をコツンと合わせて、私たちは別々の方向に走り出した。
*****
走り出してすぐ、遠くからマナの『歌』が聞こえた。
深海から響くような深い音色だ。これだけ距離が離れているのに、強く誘われたような気がして、思わず足を止めてしまった。
「おい、eldur。お前が誘われてどうする。しっかりしろ」
「っと、そうだった」
頬を張って再び走り出す。禁獣はマナの方へと向かっているようだ。誘導は成功していた。
民家のガレージから可燃性のロープを調達し、灯油を染み込ませる。ガソリンをばらまいたスタンドに導火線の先端をセットすれば、良い子も悪い子も絶対マネしちゃいけないスタンド爆弾の完成だ。それらの準備を進めながら、私は黒猫と話をした。
「ねえ猫さん。猫さんが言ってる、その発音がちょっとよくわかんないやつってさ。何なの?」
「eldurのことか? あれは火の真影だ。随分と昔に居なくなったと思ったが、こっちで眷属なんて作っていやがった。むしろ俺が聞きたい。お前、どうしてあんないけ好かない女の眷属なんてやっている」
「……真影? 眷属? どういうこと? ちゃんとした説明が欲しい」
「なんだ。何も聞いていないのか」
猫は面倒くさそうに鼻を鳴らした。面倒な説明はお断りだといった顔をしていたけれど、血のついた指を顔の前で揺らしてやると、ぺろりと舐めて話し始めた。
「お前らの概念に合わせて説明するのは難しいが、eldurとは火そのものだ。お前たちもあれから火を教わったのではないのか? そうでなければ、お前たちが火を扱えるはずもない」
「えっと……。つまり、火の神様ってこと?」
「神なんかじゃない。あんなの、ただの鳥だ」
猫さんは鳥さんを疎ましそうに吐き捨てた。仲悪いのかな。動物さん同士仲良くすればいいのに。
「じゃあ、マナの方は? あっちも何か言ってたよね」
「ljóðか。あれは歌の真影だ。日がな一日歌ってばかりいる、気味の悪い魚だよ」
「……じゃあ、君は何なのさ」
「よくぞ聞いてくれた。我こそはÞruma。この空を何よりも速く力強く駆け抜ける、誇り高き雷の真影だ」
「でも猫じゃん」
「猫ではない」
「猫だよ。さっき認めたじゃん」
「そうか。そういえば、俺は猫だったな……」
やっぱり猫だった。それでいいらしい。なんていうか、良くわからないやつだ。
仕掛けは首尾よく片付いた。後は禁獣をここまで誘い込めばいい。
「マナに合流しよう。場所はわかる?」
「あの歌を追え。ただし気を抜くなよ。ljóðの歌は聴衆を選んだりはしない」
「わかってる。そう簡単に惹き込まれたりするもんですか」
ぱんぱんと頬を張って、私は走り出した。
マナの下へ急ごう。一人で禁獣に追い回されるのは、きっと気分が良いものではないだろうから。
*****
ぺしぺしと頬を叩かれて、私は意識を取り戻した。
いい夢を見ていた。水の中で溺れる夢だ。深海にぐいぐいと惹き込まれて、ふわふわとした浮遊感の中でこぼれ落ちていく。そんな夢だった。
「……ハナビちゃん。私、できるだけこの場所にしがみつくようにって言ったよね」
マナは私が意識を取り戻しても頬を叩き続けていた。
彼女を追いかけている途中に『歌』に魅入られてしまったらしい。全く気が付かなかった。ちょっとむっとした顔のマナにほっぺをされるがまま、私はふにゃりと笑った。
「何、その顔。反省してるの?」
「すごくきもちよかったです」
「怒りますよ」
「ごめんなさい」
本当にいい夢だったんだ。今度、私のために歌ってくれないだろうか。マナの『歌』を聞きながら眠りにつけたら、それはどんなに気持ちが良いだろう。でもそんなことを言ったら、マナはすごく怒るんだろうな。
「それで、準備はどうなの?」
「万事オッケー。誘導しよう。そしたらお祭りだ」
「上手く行けばいいんだけど」
大丈夫。上手くいくよ。きっとね。
私たちは禁獣をガソリンスタンドへと誘導した。禁獣は変わらず黒黒とした首をこちらに向け、そこにある建物を踏み潰しながら、一歩一歩と近づいてきた。やがてガソリンスタンドに近づいてきたところで、私は導火線に火をつけた。
雷火が導火線を駆け抜けて、ガソリンスタンドに充満するガソリンに引火した。響き渡る爆発音。重々しい音と共に激しい爆発が吹き上がり、物陰に隠れていた私たちの元まで衝撃を伝えた。あの超常の化け物に爆破が通じるのかは、やってみるまで疑問だった。しかし、効果は劇的だ。禁獣の足は何本も吹き飛ばされ、腹部に空いた大穴からはどす黒い墨のような体液がどばどばと溢れ出す。効いていた。この一撃は、あいつの命を強く揺さぶった。
「ふむ、さすがはeldurの火だ。禁獣にとっては悪夢だろうな」
「でも、まだ息の根は止まってない。マナ、止め刺せると思う?」
「難しいと思うよ。弱っていてもあの巨体だもん。下手に近づいたら踏み潰されちゃう」
「そうしたいなら止めはしないが。見てみろ」
黒猫はしっぽで後ろを指し示した。どこまでも続く暗い道が、陽炎のように揺らいでいるのが見えた。その先にあるのは、この閉鎖空間では目にしたことがない景色だった。
「禁獣領域が揺らいだ。今なら逃げられるが、それでもやるか?」
「行こう。逃げよう。もうこんなとこ嫌だ」
「賛成です。さっさと帰って、美味しいものでも食べて寝よう」
即断即決。今度も意見は一致した。
膝をついた禁獣に背を向けて、全速力で走り出す。空間のゆらぎを抜けると、赤と黒とであざなわれた世界が本来の色彩を取り戻していった。血にぬかるんだ地面の赤も、星明かり一つ無い空の黒も、壁に這い回る生物めいた血管も、まるで夢幻が如く消えていった。荒れ果てた町並みが戻ってくる。この場所は、私たちがよく知る終末世界だ。
ようやくこの世界に戻ってきた。その実感は、絶望と共に与えられた。
――死体が。おびただしい数の死体が。地を埋め尽くすほどの死体の群れが、腐り落ちた瞳で、私たちを見ていた。
「……っ!」
「無理。逃げるよ」
マナは逃げると言うが、どこへ逃げればいい。後ろには禁獣領域、四方八方はゾンビに囲まれている。私は打開策を見いだせず、マナもあちこちに視線を投げた後、困ったように笑ってしまった。
「ねえ……。猫さん、これ、なんとかできない?」
「俺にすがるなら対価を貰おう」
「血なら後でいくらでも飲ませてあげるから」
「これは親切で言ってやるが、Þrumaの雷は安くないぞ」
「……分割払いでもいい?」
猫は私の顔をちらりと見て、ふんと鼻息を鳴らした。「その言葉、忘れるな」。猫は飛び出した。
紫電を纏って黒猫が跳ねる。無数の轟雷が降り注いだ。稲光が閃く度に、高圧の電流が奴らの脳を一つ一つ焼き崩していく。爆音と雷光が収まった後には、焦げた匂いが辺り一帯に充満していた。
「おい、片付いたぞ」
「耳痛った……」
「目が見えないよぅ……」
「聞いているのか」
声はぼんやりとしか聞こえなかった。瞼の裏側に、幾重にも閃く光の筋が未だに焼き付いている。視覚と聴覚を一気に持っていかれてしまった。
頭がふらつくのはきっと雷のせいだけではない。だけど今は誤魔化した。歯を食いしばって、必死に目を開く。
「ハナビちゃん、動ける?」
「うん、だいじょう――」
鼓動が。
鼓動が、聞こえた。
禁獣の鼓動が、地鳴りのように遠くから響く。振り返る町並みは、再びあの地獄に侵食されていた。空を埋め尽くすベタ塗りの黒が、地面にぶちまけられた大量の血が、壁面を這い回る浅黒い血管が、急速に勢力を伸ばして迫りくる。
再び展開された禁獣領域。それが、私たちを目指して勢力を拡大していた。
「走るよ!」
マナは私の手を取った。今すぐ逃げろ。逃げなければ、また、あの地獄に取り込まれてしまう。
頭ではわかっていた。だけど私の足は、自分が思うほど軽くは動いてくれなかった。
一晩中走り続けてきたこの夜が。
生きるために消費した大量の血が。
弔うために燃やした仲間の死体が。
私の体力を、奪い去る。
「――――っ」
走る途中、私はわずかによろめいた。普段ならば気にもとめないくらいの失敗。それを取り戻すための一歩を、私は踏み出せなかった。
視界が歪む。バランスを失う。地面が近づく。ああ、転ぶのか。ここで私は転ぶのか。どこか冷静な私がそう言った。
あっけない終わりだったな、と思った。でも別にいいかな、とも思った。
あまりにも今更な終わりだ。思えば、私の心はとっくに折れていた。それはいつからだったのだろう。禁獣領域に囚われた時か。仲間たちの死体を葬った時か。それとも――地下室に閉じ込められた、あの時からか。今となってはどうでもいいことだ。
これでようやく、望み続けた死が与えられる。目を閉じて死者の参列に加わることができる。少しだけ辛いけれど、この希望のない世界で生きるくらいなら、私は喜んで受け入れよう。
――だけど。マナはまだ、生きることを諦めていないから。
私はマナの手を離した。この子を巻き込むわけにはいかない。地獄には、私が一人で堕ちればいい。
「お前。良いのか、それで」
スローモーな感覚の中、猫が責めるような瞳で私を見る。
返事はできなかった。だから目に気持ちを託した。「マナをお願い」。猫は私の肩を飛び降りた。
地面が目と鼻の先に迫る。これで終わりだ。そう思って、私は目を閉じた。
なのに。
「ハナビちゃん」
マナは。
「まだ、諦めちゃダメ」
私の手を掴んだ。
笑ってしまうほどに彼女は冷静だった。一瞬たりとも迷わなかった。即決し、即断し、彼女が望むところの最大限を成し遂げた。
マナはなりふり構わない力で私を引き上げた。倒れる直前だった体が持ち上がり、平衡感覚を取り戻す。釣られて一歩踏み出せば、私は再び自分の足で立つことができた。
だけど、この終末世界にも作用と反作用の法則がある。それだけの力で引き上げれば、自然、マナの体は倒れ込む。
なのに、マナは……。
「生きてね」
迫る禁獣領域が、倒れるマナを飲み込んだ。
領域の拡大はそこで止まった。獲物を捕らえて満足したのか、陽炎のように揺らいで消えていった。影も、形も、残らなかった。
マナの姿は、どこにも無かった。
*****
それから三日間。私は死にものぐるいでマナを探した。
死体に何度も襲われながら、疲労に何度も吐きながら、それでも私はマナの影を求めて町中を走り回った。
学校を。路地を。駅前を。ガソリンスタンドを。商店街を。あの世界でマナと共に駆け抜けた足取りをなぞりながら、私は走って、走って、走り続けた。
三日後、マナが見つかった。
マナは生きていた。
何度も探した学校に、マナは居た。校庭に倒れ伏していた。初めて見つけた時、彼女は人集りの中に居た。ゾンビだった。複数のゾンビに彼女は群がられていた。すぐさま飛び出した私は、爆ぜるようにそれらを倒した。そして、死体どもの息の根を止めた後、マナに再会した。
あまりにも惨たらしい姿だった。
全身余すこと無く傷だらけで。体の肉はあちこち奴らにかじり取られて骨が見え。右足は膝から下がどこにも無く。破れた喉からは血が吹き出して。脇腹からは腸がはみ出していて。虚ろな瞳は呆然と空を見上げて。明らかに致死量の血液を体中から流しながら。
それでも、マナは。
生きていた。
「ま、な……」
無理だ。
これは、もう、無理だ。
たとえ世界が終末を迎えていなくとも、たとえここに最高峰の医療設備があったとしても。たとえ私がどんなに腕の良い医者だっとしても。
マナは、もう、助からない。そんなことが一目で分かってしまった。
叫んだ。
悲鳴だった。慟哭だった。私は叫んで、拳銃を抜いた。
ポケットに入れていた弾丸を取り出す。あの地獄でマナから受け取った弾丸だ。弾丸を籠め、撃鉄を起こし、自らのこめかみに当てた。
その時、マナが瞳を動かした。
体は動かずとも、彼女の目はたしかに私を認識していた。笑っていた。ああ、良かった、と。そんな言葉が聞こえるほどに朗らかな笑顔だった。どうして笑うんだ。こんな目にあっておいて、なんで、どうして、君は笑えるんだ。
マナは私の問いに答えなかった。いつものように、マイペースに。脈絡もなくにこりと微笑んで。ただ自分がそうしたくなったから、と言わんばかりの気楽さで。『歌』を、歌った。
破れた喉からごぽごぽと血泡を吹き出しながら、破れた音色で、マナは歌った。すると海が広がった。風一つ無い、静かで広い海だった。たゆたう海には多くの魚が居た。種々の魚たちが群れをなして泳いでいた。多くの魚が舞い踊るそこは、まるで龍宮城のようだった。その海の底で、マナは目を閉じて歌っていた。楽しそうに。揺蕩いながら。ハミングに合わせて魚が舞い、カンタービレに光が射し込む。いつまでも、いつまでも、彼女は歌い続けた。
それは紛れもなく、命の唄だった。
私は彼女を、彼女に宿るljóðを、理解した。
水精。マナの『歌』は、水精の呼び声だ。
やがて歌い終えたマナはふらふらと手を伸ばした。彼女の右手が、私が拳銃を握る手に重なる。私の手を引き寄せた彼女は、銃口を、自らの額にあてがった。
そして彼女は、目を閉じた。
「い……っ。ひうっ、え……。うえ……。あ……、あ、うあ……!」
彼女が何を望んでいるかなど、あまりにも明白だった。
私がやらなければならない。どんなに嫌でも、覚悟なんて間に合っていなくとも、一秒でも、一瞬でも早く、私はそれをやれなければならない。
震える私の手をマナが支える。マナは、じっと、私を待ち続けた。
「あ、ああ……。え、うぐっ……。いう……、え……。あぁ……! や、あ、うぅ……!」
引き金は。
とても、とても。
とても、とても、とても、とても。
とてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとても。
「うあああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
とても。
重かった。
*****
空を見ていた。
血まみれの校庭に寝転んで、何をするでもなく、ずっと空を見上げていた。
頭の芯がずきずきと痛む。途方もない悪寒がした。強い風邪を引いてしまった時のように、自分の中にある命がこぼれおちていく喪失感。私の中で、何かがはっきりと欠けているような。そんな気がした。
マナは死んだ。
マナの体は灰になるまで燃やし、花壇に埋めた。それで彼女の魂が救われたのだろうか。少なくとも奴らのように腐臭を放ってうろつくことはなくなった。マナのそんな姿だけは、絶対に見たくなかった。
だから今、私はここで、空を見ていた。
「おい、eldur。お前、いつまでそうしているつもりだ」
黒猫が私の顔を覗き込んだ。金の瞳の奥にある複雑な色彩が、じっと私を見ていた。
「……なに」
「何、ではない。いつまでこうしていたって仕方ないだろう」
「お腹すいたの? なら、その辺適当に穴開けて飲みなよ」
「そういうことではない」
猫はしっぽをぺしんと鳴らす。
「寝るんだったら場所を移せ。ここだと奴らが寄ってくる」
「別にいい」
「良くない。Þrumaの雷は安くないと言っただろう」
顔を横に倒す。雷に打たれた死体がいくつか転がっていた。……この猫がやったらしい。なんで、そんなことを。
「せめて何か食ったらどうだ。この三日、ロクに食うものも食ってないじゃないか」
「どうでもいい」
「口の中に押し込むぞ。言っておくが俺は人間が何を食うのかなんて知らん。その辺のもん適当に詰め込んでやる」
「いいよ。好きにして」
猫は尻尾で私の頬をぴたぴた叩いた。痛い。けれど、そんなもの、どうでも良かった。
湿っぽいため息が一つ。猫は、私の隣に座り込んだ。
「お前、ここで死ぬ気なのか」
その問いには答えなかった。
「自分でもわかっているだろう。今のお前はただ自暴自棄になっているだけだ。ゆっくり寝て、食べて、それからもう一度考えろ」
「違う。そんなんじゃない」
「何が違うって言うんだ。あくまでお前がそれを望むと言うなら、俺がやってやっても良い。何もこんな辛い死に方をする必要なんて無いだろう」
少し、面倒だった。
今の私は自分がわからなくなっていた。一体これが何なのか。それをちゃんと説明することは、とても億劫だった。
「……熱いんだよ」
「熱い?」
「熱くて、熱くて、仕方ないんだ。溶け落ちそうなくらいに熱くて、少しでも動くと、こぼれちゃいそう」
「お前、何の話をしている?」
「来るよ」
それを感じ取り、体を起こした。
一瞬遅れて鼓動が鳴り響いた。一度目は脅威として、二度目は絶望として鳴り響いた、禁獣の鼓動。あの領域が展開される地獄からの嚆矢。三度目の私は、その音を淡々と受け止めた。
「おい、またヤツが来たぞ! それでもここに居座る気か!」
「うん、これで良い。禁獣は強い異常に引き寄せるって言ってたよね。だからこうしていたら、きっとあいつに会えるって思ってた」
「は……!? お前、まさか……!?」
禁獣領域はすぐに私たちを飲み込んだ。立ち上がって砂を払う。それから、ビルの谷間に現出する禁獣を見上げた。
禁獣は傷だらけだった。私が吹き飛ばした大穴は今もふさがっておらず、それ以外にも無数の傷跡から黒黒とした体液を流していた。きっと、マナがやったのだろう。
「私の魂が、熱くて熱くて仕方ないんだよ」
軽く体を曲げ伸ばしする。休憩は十分だ。もう、前のような無様は晒さない。
「あいつを、倒せってさ」
*****
ずっと私は、死のうと思っていた。
地下室に閉じ込められたあの時から、きっと自分はどこかで死ぬものだと。ならばせめて、少しでも意義のある死に方をしようと。そう思っていた。
今にして思えば甘い考えだった。だって私は想像もしていなかったのだ。まさか、そんな大馬鹿者に命をかけるようなヤツが居るなんて。
それでもマナは、私を助けて。
生きろなんて無茶を言って。
あの歌を、歌ったから。
「本当に良い歌だったんだ」
最初で最後の、私のために歌われた命の唄。
それを聞いてしまった以上、死にたいだなんてそんな世迷い言、冗談でも言えなくなってしまった。
この胸の奥で命が燃える。熱くて、熱くて、仕方ない。だから私は、この悪夢を終わらせることにした。
私は禁獣を殺そう。あいつが奪っていった命の分まで。もう、誰も死ななくて良いように。
「正気か、お前。本当にそんなことできるとでも?」
「怖いなら逃げていいよ。一人でも大丈夫だから」
「冗談はよせ。俺だってあいつには散々苦労させられた。お前が望むと言うのなら、Þrumaの雷を見せてやる」
黒猫は私の肩に飛び乗る。人差し指の先を噛みちぎって差し出すと、ぺろりと舐めた。
行こうか、猫さん。マナの弔い合戦だ。
「それで、どうするつもりなんだ」
「焼き尽くす」
「考えなしか。ljóðが泣くぞ」
「きっと笑っててくれるよ」
禁獣は重い足取りでずるずると歩く。私は校舎の屋上に登って、それを待ち受けた。
相変わらずの巨体だ。四階建ての屋上からでも、まだ見上げるほどの高さがある。全身に刻まれた傷跡と、頭のない首から絶えず滴り落ちる黒い体液が、むせるような生臭さを伴って鼻を突いた。
「来るぞ!」
猫は稲光を走らせた。奔る雷が禁獣のぬるりとした表皮を焼く。あまり効いていないようだった。距離があるので届かないが、きっと私の火でも同じだろう。
一体マナは、どうやってこの怪物にこれだけの傷を負わせたのだろうか。彼女が過ごした三日間を思って、私は胸が辛くなった。
「おい……! eldur! どうするんだ!」
「猫さん。危ないから、下がってて」
私は猫を肩から降ろし、一人で前に出た。
目の前には禁獣の首がある。首の中は突き抜けるような暗闇があった。とても臭くて、気持ち悪い。ぶるりと身を震わせた禁獣は、首を大きくもたげて。
私を、食べた。
「は……!?」
猫の呆けたような声を最後に、私は暗闇の中に落ちていった。
全身にあの黒い液体が絡みつく。どろどろと重く粘ついて、身動きができない。呼吸ができるような空気も無かった。
ここは、禁獣の体内だ。人が生きられるような場所ではない。きっと食道を通り抜けたら、胃か何かそれに相当する器官に送り込まれて、私は死ぬのだろう。
だけど、この場所が。死にほど近いこの場所こそが。
生を掴み取るための、たった一つの答えなのだ。
「行くよ、eldur」
私には二つの能力があった。一つは血が発火する能力。そしてもう一つが、傷の治りが早くなる能力。
これらの能力が共に同じ存在から与えられたものだと仮定するならば、私はそれを、eldurを理解する。
炎と、再生。灼熱をその身に纏い、神なる鳥は尽きることのない命を得る。
不死鳥。私の『火』は、不死鳥の炎だ。
「燃えろ」
手のひらに炎を生み出す。もはや血すらも必要なかった。あれは不死鳥の炎を呼び出すための触媒に過ぎない。
「燃えろ」
今の私は、血よりももっと強いものを燃やしている。魂だ。燃え盛る私の魂が、命の業火を吹き上げた。
「燃えろ」
爆炎が禁獣の内部に生み出される。暗い体内を赤に照らし、触れるもの全てに炎を与えた。
「燃えろ」
禁獣は大きく震えて悲鳴を上げた。焼き崩れる体内は、今や煌々と燃え盛っていた。
「燃えろ」
何もかもが赤に染まる。犠牲になったいくつもの魂が、私の炎に共鳴した。
「燃えろ」
燃えろ。
「燃えろ」
燃えろ。
「燃えろ」
燃えろ。
「燃えろ……ッ!」
一際大きな爆炎が、禁獣の体を吹き飛ばした。
ばらばらになった肉片と共に落下する。ぐちゃぐちゃと柔らかいものを足場にして、私は地上に降り立った。
禁獣は死に、禁獣領域も消え去った。相変わらず荒れ果てた終末世界の空を見上げる。すっかり見飽きた曇天だけど、それでも。
私は、まだ、生きているから。
「マナ。私、生きるよ」
つぶやいた言葉は、風に流れて、どこかの空へと消えていった。
*****
かくして私は悪夢を終わらせた。このロクでもない世の中に、己の命を掴み取った。
きっとマナは呆れるだろう。なんでこんな危ないことしたの、と。でもそれでいいと思った。私はただ自分がしたいことをやっただけだ。あの子もきっと、呆れながら許してくれる。
世界なんてとっくに終わってしまっているのに、生き残る命に意味なんてないのかもしれない。結局これも、やがて訪れる死を遠ざけただけなのかもしれない。それでも私は生きている。生きているのだ。だから。
生きている私は、今ものすごくお腹が空いていた。
「……猫さん。何か食べられるもの、持ってない?」
「知るか。俺は散々言ったはずだ」
「そんなこと言わないでよ。今すぐ何か食べないと、本当に死んじゃう」
「その辺のもん適当に詰め込んでろ」
「人間には人間の食べ物ってのがあるんだよー!」
ふらふらしながら学校内に残された物資を漁る。家庭科室の冷蔵庫に大量のイモが残されていた。それをいくつか拝借し、軽く火を通してからいただきます。塩も何も振っていなかったけれど、空腹に染み渡る優しい甘さは、なんだか命の味がした。
「まったく……。お前、少し無鉄砲が過ぎるんじゃないか。もうちょっと自分を大事にしたらどうだ」
「心配してくれるの?」
「阿呆。俺は自分の飯の心配をしてるだけだ。お前の心配をしてるわけじゃない」
「はいはい、それは悪うございましたよ」
両手はイモで忙しいので、足に傷をつける。猫は流れ出した血をぺろぺろと舐めた。そうだよね、君もお腹すいてるよね。三日間も付き合わせてごめんね。
食事も終えたところで、私は残りの資材を漁った。食料と水。救急セット。幅広のナイフを二本。アウトドア用の小型ストーブ。懐中電灯や雨具など細々とした雑貨類。それらを登山用のバックパックに詰め込んで、それから服も取り替えた。元々着ていた服は血やら体液やらでぐちゃぐちょで、控えめに言っても二度と着たくない。
武器も予備が必要だった。相棒のスコップはまだまだいけそうだけど、いざという時のためにもう一本欲しい。そこでマナが使っていたバールを借りることにした。
代わりと言ってはなんだけど、弾が切れたニューナンブを墓に供える。
「いいのか?」
「うん。これはもう、私には必要ないから」
「……だからって、引導を渡した武器を供えるかぁ?」
「ほら、マナがこれを見て私を思い出してくれるかもよ」
「多分あいつ、今頃めちゃくちゃ苦笑してるぞ」
吹き出した。あの子の苦笑い。それはぜひとも、見てみたい。
手を合わせて立ち上がる。バックパックを背負いこめば準備は完了だ。行こう。どこか、遠いところへ。
「で、お前。これからどうするんだ?」
「まだ考えてないけど。猫さんも一緒に来る?」
「当たり前だ。分割払いという約束だろう。逃げようたってそうはいかんぞ」
「そういえばそうだったね」
黒猫が私の肩に飛び乗る。その時私は、あの日マナが私を誘った理由が分かった気がした。一人ぼっちで歩くには、この世界は広すぎる。
だから私は、にやりと笑って、こう言った。
「ねえ。一緒に、世界の真実を探しに行かない?」
「……は?」
猫は唖然としていた。目を丸くして、ぽかんと口を開けていた。そんな彼に構わず私は続ける。
「契約成立ってことで」
「いや待て、ちょっと待て。そうは言ってないだろう。そもそも世界の真実って何だ」
「それを探すんだってば。楽しみだね」
たとえ真実が何の役にも立たずとも、こんな世界を歩くのだ。楽しみの一つも無くてはやってられない。これから出会うものに思いを馳せると、私の足取りは軽くなった。
「eldur、お前そんなヤツだったか?」
「さあね。人って変わるから」
「あの鳥の眷属ってやつはいつもこうだ。燃えた後は生まれ変わったように変わっちまう」
「ねえ、ずっと気になってたんだけどさ。eldurじゃなくてハナビって呼んでよ」
「マイペースだな……」
どこか決然と、どこか明確に。私と黒猫は、終わってしまった世界に立ち向かった。
この胸にあるのはいつか終わる命の一欠片だ。だとしても、ここに燃え盛る命がある限り、けして歩みを止めはしない。
それくらいの決意を持って、私は世界の真実を求めることにした。せっかくなのでこの記録は続けよう。いつか私の命が燃え尽きた後、後に続く誰かに多くのものを託せると祈って。
終末記録帳。
それは、私たちが生きた証だ。