第二話 〈天王竜〉
序章 第二話
どのくらい眠っただろうか。
雨足が強くなり、雷は幾度も轟いた。
耳障りな音のせいで、あまり深く眠ることはなかったが、寝なければ明日が辛い。
そんなことを思いながらうつらうつらしていたハオスは、父が戸を蹴破る音で、目を覚ました。
「ハオス! 起きろ! 逃げるぞ!」
脈絡もなくいきなり逃げるという父を訝しげに見るも、その必死の形相から現在の状況の悪さを悟る。
村一の剣士。小さな〈害竜〉なら剣の一振りで両断する父が、恐怖で顔を歪ませていた。
出来うる限る最速で、上着を羽織り、杖を腰に差して、家から飛び出た。
上着の下は寝間着だが、着替える暇はない。
「ハオス! 剣なら置いていけ! お前には邪魔なだけだ!」
父は、ハオスが腰に帯びているものを剣だと思ったのだろう。
普通、魔法士は杖を腰に帯びたりはしない。
「母さんの杖だ! 剣なら置いてきた!」
「よし! 森まで走るぞ!」
「――っ!? 迷い霧の森に入るの!?」
迷い霧の森。
この辺りでは、奥深く入れば、迷って出てこられないことで有名な、常に霧で覆われた森だ。霧を吸いすぎると倒れることから毒霧の森とも呼ばれる。
だが、父はそんなことは大したことがないとでも言うように言い切った。
「平地よりはましだ!!」
右手を、やけにでかい左手で捕まれた。
ゴツゴツとして、自分の手とは比べものにならないほどの固さだった。
一体どれほど剣を振るったら、こんなに固くなるのだろうか。
大粒の雨が体を打つ。雷鳴が耳を打つ。
大して走ってもいないのに、体は芯まで冷えきり、ぬかるみに足をとられ、息はひどく荒い。
だが、それでも走る。
父に引かれているからではない。
後方から響く竜の咆哮に恐怖したからだ。
二匹……だろうか。
こんなにもでかい背で前を走り、こんなにも固い手で己を引く父が、振り返ることすらできずに逃げるほどの化け物が二匹。
あれは人の身で勝てる相手ではない。
あれは並の竜が勝てる相手ではない。
あれはまるで、御伽噺に出てくる竜の王様のような……。
ハオスと父は、時々飛んでくる巨岩や稲妻を避けながら、森へとひた走る。
だが、次に飛んできたものを避けることはできなかった。
父は何も言わずにハオスを体当たりで吹っ飛ばした。
咄嗟のことで、受け身もとれずに地面に落ちる。
呆然としたハオスの目に入ってきたのは閃光だ。
その巨体のおかげか。かろうじてハオスに見えたのは、この暴雨の中、白銀に輝く鱗だった。
閃光はその鱗の持ち主だ。
細長く研ぎ澄まされた体躯。
覆う鱗は雷光を反射し、周囲を照らす。
伸びる角はまるで避雷針のようで、天から落ちる雷を束ね、一直線に放っている。
地面を踏みしめる四足と、飛空するための双翼。
そこにあるのは機能美だ。
世界を統べる〈七王竜〉が一柱。天空を統べる風竜の王族――――〈天王竜〉。
その尾には、赤い赤い、とても赤いシミが付いていた。
まるでツスイ(動物から血を吸う羽虫)を叩き潰したかのような。
(あれ……? 父さんは……?)
ハオスは辺りを見渡すと、ある一点に目を釘付けにされた。
赤い、赤いシミ。
それは、ツスイを潰した跡ではなくて……
「ゥォェ――――!?」
ハオスはとっさに口を手で覆った。
虚ろな目で見つめ、手を伸ばし――――コプッ。
血を吐きながら、それでも手を伸ばす。
「あっ……。か、回復の奇跡……」
怪我をしたら治す。
それはあまりに単純で、ハオスにとって分かりやすい行動指針だった。
やることは単純。
母に教わった通りに、力を行使するだけだ。
生きとし生けるもの全てが持つ〈気〉。
それを練って〈力〉となし、〈技〉を引き起こす。
これらを体系化したものを〈術〉と呼び、それは選ばれた存在しか行使できない。
〈剣術〉しかり、〈魔術〉しかり、〈竜術〉しかり。
だが、〈奇跡〉は誰でも使うことができる。
必要なのは、信仰と願望と想像。
〈神〉を信仰し、願いを思い、その実現を想像する。
「……神様。父さんを癒して、お願いします――」
深く信仰するほど、強く願うほど、確かに想像するほど、〈奇跡〉は起こる。
だから、ハオスの願いはほとんど聞き届けられなかった。
嵐の夜の森の中、目映い白き光が父を覆い、引きちぎれた肉の断面が盛り上がり、出血が止まる。
父の傷はわずかに癒された。
だが、全身をグシャグシャに潰された人間が、止血程度で生きられるべくもなく……。
そして、その光は、暴れる〈天王竜〉の注意を引くのに十分な眩しさだった。