9、体温
拓の匂いがする。
甘いフルーティな香り。
使っているシャンプーの匂い。
私は、拓のサラサラの髪に指を通す。
心臓が、ギュウってなって全身が心臓になったみたいにドキドキしてる。
黒眼がちの拓の目を真っ直ぐに見つめる。
なんて幸せなんだろう。
言葉で、しあわせと表現してしまうと簡単だけど…。
これまで生きていてよかった。
今まで、自分の歩んできた人生を許せるぐらい。
拓の細い背中に手をまわして、彼の存在を確かめ続ける。
拓はこんなに近くにいるんだと。
初めて拓とお互いの存在を確認しあった日をいまも覚えている。
私が、大学が休みの平日拓は制服姿で来た。
突然、ドアをコンコンとノックする音。
布団の中にいた私は急いでロフトから降りる。
のぞき穴から見ると、拓が立っていた。
白いシャツにネクタイ、制服のズボンを緩くはいてる。
急いでチェーンを外す。
「おはよう。どうしたの?」
「眠い。」
拓は、そういうと鞄を置いてロフトに上がっていく。
私も拓と、一緒に布団の中に入る。
私たちは、学校を休んでこんな事をよくしていた。
部屋も明るいから、拓の綺麗な肌がよくわかる。
何度、拓の体温を感じても足りないぐらい私は拓を求めていた。
あんなに、数えきれない程拓の体を見てきたのに5年経った今はどんどん記憶が
奪われて私の中の拓の笑顔の記憶しかない。
どんなに拓を好きでいても、こうやって人間の記憶はどんどん奪われていく。
日々新しい記憶へと、塗り替えられていく。
それでいいのだろう。
どうやって、拓を忘れたらいいのだろう?
別れて一年ぐらいはそんなことばかり考えてた。
一年の苦しみの後には、この思いを抱えて生きていこう。
そう覚悟した。
そうやって、私はここまで生きてきた。