ケッペキショウ
不確かな知識で書いてるのでまあ、あれ
浄穢不二、という言葉がある。清きものと穢れたものに違いはなく、気の持ちようである…ということらしい。原義で言うと穢れが気の持ちようである、という論だが、その点を除けば、頷けるところがあると私は思う。
すなわち、この世界の清いと思われるものは全て幻想で、世には穢れたものしかない、ということである。主に概念的な話ではなく、極めて物理的な話である。清潔なものなど、自然界には存在しない。ある程度は定義の問題ともいえるが、清潔とは数学で言えば線分や直線のようなものである。定義としては存在しても、実世界には存在しない。概念上の存在である。
実世界に存在するのは、目に見えて汚いものと、目に見えないけれど汚いもの、汚いけれど無視しても構わない程度の汚さであるもの、だけである。それぞれの範囲は人によって違う。許容範囲の話であるので、誰が間違っているというわけではない。心理的な許容範囲であり、身体的な許容範囲である。極めて物理的に、汚れたものと接したことで体調を崩すものはいる。
あるいは、私が潔癖症だから全て穢れて見えるのかもしれない。必ずしも否定はしない。人より穢れに対して神経質である自覚は持っている。あまり丈夫でないので身体的な許容範囲が狭く、心理的な許容範囲も狭まったのである。私にとって、穢れとは極めて物理的な害だ。気の持ちようで無視のできるものではない。
穢れに対する許容範囲が広く、無神経な人たちが私には信じられない。彼らは痛い目を見たことがないか、気が付いていないからそうなのだろうと思う。そしてそれはある意味、幸福であると思う。無知とは罪深く、そして幸福なものである。悩まないで済むことは、間違いなく幸福である。苦悩の消えないことは不幸である。そしてある意味で、不幸とは麻薬のようなものだ。酔えば人をダメにする。依存性がある。自分だけで抜け出るのは難しい。人の手を借りれば抜けられるとも限らないが。
即物的でない穢れの話は不毛である。それこそ、気の持ちようだ。気の持ちようで、定義の問題である。汚いと思えば汚いし、汚くないと思えば汚くない。
ところで、厳密にいうと、汚れと穢れは別のものを指すらしい。汚れとは物理的なもので、穢れとは心理的なものだと。誰が見ても明らかに汚いものが汚れ、それを洗ったりしたとしても、何となくまだ汚れているように感じるのが穢れである。まあ定義の一つという話だが。
何かを汚いと思うのも、考えてみれば妙な概念である。実際汚れているものは汚いし、害があるのだが。穢れは難癖にも近い。一般的に見て汚れていると言われる状態であれば普通に汚れと言えばいいのだから、わざわざ穢れといわれるものは"汚れ"てはいないのである。まあ、汚れていて、かつ穢れているものもあるかもしれないが。汚れと穢れが完全にどちらかがどちらかを内包している概念として扱われないのは、穢れという言葉を呪術的な含みを持って使うことがあるからか。呪術的な含みの穢れは、物理的に汚れたことのないものにも使う。汚れてはいるが穢れてはいないものという概念が成立してしまう。まあ、物理的な汚れと観念的な穢れという対立軸で語られればよくあることではあるが。
穢れとは気枯れという意味であり~うんぬんかんぬんというやつだ。言葉の定義は議論を行う上で重要なことである。言葉の定義が一致していることは、議論を成立させるための最低条件である。互いの発言の意図を汲めなければ、建設的な話し合いはできない。
気の持ちようというのもなかなかに卑怯な言葉である。実際、人の気持ち、気分というのは案外簡単に転がるものではあるが、逆に簡単には変えられないものでもある。変えようとして変えられるものでもない。否、コントロールできるものではない、というべきか。寧ろ、制御しようとすれば余計にいうことをきかなくなるものである。随分な弾性を持った存在であるらしい。
実際、気分の問題であることもあるのだ。本当に、汚れを落とせているのであれば。ただ、それで納得するにはどうにかできる場合くらいだろう。できないときはできない。洗っても洗っても綺麗にならないように感じる時もある。強迫観念とか言うんだったか。思い込みは思い込みでどうにかするしかない。綺麗になったと思い込めるように、理論武装をするのだ。綺麗も汚いも、結局は主観の問題なのだから。