船曳きミーチャ(こんとらくと・きりんぐ)
ミーチャじいさんが血の混じった痰を吐いたのは、川を遡る小麦粉を積んだ船を曳いているときだった。
正午、川の曲がりで一度碇を下ろし、船曳きたちは下流の町で買った黒パンと干し肉をかじっていた。そこでミーチャじいさんは、こん、と咳をした。顔を左に向けて、ペッと吐き出すと、真っ赤な豆くらいの痰が吐き出された。ミーチャじいさんは学こそないが、うすのろではなかった。この真っ赤な痰を船曳頭イリヤ・マクシモーヴィチに見られたら自分はクビにされる。ミーチャじいさんはその痰を誰にも見られないように踏み潰した。ひょっとしたら肺病みじゃなくて、昨日食べた焼き魚の骨のせいで喉の奥がちょっと切れて血が出ているだけかもしれない。
だが、ミーチャじいさんの楽観を打ち消すように血の混じった痰は度々出てきた。船を曳きながら咳き込むたびに痰を飲み込んだが、痰は次の咳で倍になってやってきた。もし曳いている最中に吐き出したら、必ずばれてしまう。休みになるとミーチャじいさんは皆から離れた木立の陰でたまった痰を吐き出した。
どれも真っ赤になってやがるなあ。ミーチャじいさんはまるで人事のようだった。これは一種の啓示かもしれないぞ。船曳きも限界かも知れない。おれももう昔のような体力はない。いつまでも船曳きができるわけでもない。この真っ赤な痰を使って、神さまはおれに船曳きの限界を教えてくださっているのかもしれん。
それでも、ミーチャじいさんは船曳きをやめるわけにはいかなかった。それ以外に知らない男なのだ。若いころ二年ほど戦争で兵隊に取られたときを除けば、ミーチャじいさんはもう十四のころから五十年以上船を曳いてきたのだ。大抵の船曳きは五十年も船を曳けば骨格が負けて体がひどく歪むのだが、ミーチャじいさんの骨格はどんなに重い船を曳いても、負荷を跳ね返し、今も背筋は真っ直ぐ堂々たるものだった。だから、どれだけ血の混じった痰を吐いても、つい、おれはまだやれるぞ、と思ってしまうのだ。
だが、一本マストのかなり大きな船を二十人の曳き手で曳こうとしたとき、ミーチャじいさんは喀血した。
ミーチャじいさんはいつもどおり船から伸びた縄の先のわっかに体を通した。歩く地面は川の水につかった明るい色の砂地だった。悪くない。船曳きたちはそう思った。春の風は暖かく、五月の水もまた温かかった。
「絶好の船曳き日和だなあ」船曳頭のイリヤ・マクシモーヴィチが暢気な声を上げた。「みながんばろうや」
すると、陽気なヴァリーエフがいつものように船曳きの唄を唄いだし、みなで船を引っぱろうとした。
そのとき、ミーチャじいさんは咳をした。また血の混じった痰かと思って、心の中で舌打ちしたが、どうしたことか咳が止まらず、派手に血を吐いてしまった。
まわりにいた船曳きたちが驚き、大騒ぎになった。船曳頭のイリヤ・マクシモーヴィチは船主にちょっと待ってくれと大声で頼んでから、皆に囲まれたミーチャじいさんのもとに走った。ミーチャじいさんは膝をついていた。吐いた血は既に川の水にさらわれていたが、それでもミーチャじいさんの膝元はうっすら赤みがかっていた。
船曳頭のイリヤ・マクシモーヴィチはミーチャじいさんのそばに身を屈めると、長年の経験に対して尊敬の念を失っていないことを分かってもらいたいと思いながら優しく訊ねた。
「いつからだい?」
ミーチャじいさんは観念した。
「先月の初めごろだ」
イリヤ・マクシモーヴィチはミーチャじいさんより二回り年下で、熊のように大柄だったが、まめな性格をしていて、自分のところの船曳きたちのことをこまめに気遣ってやるなど気の優しい男だった。
だが、彼は船曳頭だった。そして、船曳頭は船主を上流に連れていくためにいつもどんなときだって正しいことをやらなければならなかった。
「ミーチャじいさん」イリヤ・マクシモーヴィチは言った。「こんなことは言い辛いんだけどよ……曳きから外れてくれや」
肺病みがいつまでも船を曳けるわけはない。ましてや、ミーチャじいさんを連れていたせいで他の船曳きまで肺を病んだらどうするのか? イリヤ・マクシモーヴィチは正しい判断をしたのだ。
それはミーチャじいさんも分かっていた。彼も若いころから今日に至るまで、そうやってもう使い物にならなくなった老人たちが縄を外され、川辺に置き去りにされていったのを何度も見てきているのだ。そして、あの老人たちはどうなるのだろう、と考えながら船を曳いたものだった。船曳きは船を曳く縄から外された途端、つむじ風とともに消え去ってしまうのではないだろうか? そう思ってはいつか自分もそんな目に遭うのではないかと恐れたものだった。
そして、それが今日やってきた。イリヤ・マクシモーヴィチは預かっていた国内旅券と今日までの分の賃金を渡した。
「上流へ三時間も歩けば、町がある」イリヤ・マクシモーヴィチは恥じ入るように言った。「町がなんとかしてくれるよ」
ミーチャじいさんは縄から外れて、岸辺の楡の大木の影に座った。立てる気がしなかった。軽くなったはずの彼の肩は碇につながれたように重かった。
ミーチャじいさんを抜いた十九人の船曳きは船を曳き始めた。ミーチャじいさんが抜けたこともあって、さすがに唄はなかったが、それでも船はゆるゆると船は川を遡っていった。自分がいなくとも船は曳かれる。一本マストのてっぺんにひるがえる赤青白のペナントがミーチャじいさんにさよならと手を振っているようだった。
ミーチャじいさんは船が見えなくなるまで、楡の木陰に座っていた。船曳きでもなんでもなくなったミーチャじいさんはつむじ風とともに消え去ったりしなかった。残りの(それもほんのわずかな)人生を生きなければいけなかった。
「こいつを引っぱるのは船を引っぱるよりしんどいぞ」ミーチャじいさんは自分にそう言った。「あんなに血を吐いたんだ。夏が終わるまでには死ぬさ。できれば冬まき小麦が金色に輝く中で死にたいな。さぞ、きれいだろう。でも、もし秋が終わっても死ななかったら? なに冬が来て、間違いなく死ぬ。でも、どうせ死ぬなら夏がいいなあ」
「そうですね。死ぬなら夏のほうがいいですよ」
ミーチャじいさんはびっくりして振り向いた。
そこには黒い服を着た死神――いや、ショートへアの少女、あるいは長髪の少年に見える殺し屋が立っていた。これからどう死ぬかばかり考えていたミーチャじいさんは一緒に降りたこの殺し屋のことが目に入っていなかったらしい。
「いや、若いの。まったく無様なところを見せちまった。でも、あんた、なんで降りなすったんで?」
「こんなに気持ちのいい日なら、ちょっとは歩いてみようかなと」
「お若いのに感心だ。そうだ、若いときは体を使うことを惜しんじゃいけねえもんだ。この船曳きミーチャが請け負いますぜ」
ミーチャじいさんはきちんとした身なりの人には丁寧な物腰を取る男だった。
こうして、ミーチャじいさんは殺し屋と一緒に上流にあるという町を目指して歩くことにした。咳をするたびに今までは痰を吐くことを我慢してきたが、もうその必要もないとあって、ミーチャじいさんは盛大に痰を吐いた。
ミーチャじいさんは土手の上を歩いていたかと思うと、靴を脱いで川の温い水に膝まで使って歩いたりしていた。春の風を楽しみたければ土手の上へ、春の水を楽しみたければ川へと歩みを変える。船を曳かずに歩くことに最初は物足りなさを感じ、一人弾き出されたことを悲しんだが、一時間も歩くうちに今の境遇も存外楽しいと思うようになった。
もうじき死ぬにあたって、彼は自分がいかに熱心な宗教人であったかを思い起こした。三十六だか七だかの歳のとき、彼は無神論者を居酒屋の二階から放り投げてやったことがあった。
「あれは傑作だったなあ」ミーチャじいさんは笑った。「あのときはしょっちゅう流れが変わるから仲間うちで七曲がりと呼んでいた河で仕事していた。そこで船を曳くと決まって船曳きたちは近くの村の居酒屋で一杯やることになっていた。それはワシーリエフという男のやっている居酒屋で二階建てだった。だいたい客は百姓と行商人なのだが、その日は二階に赤いルバーシカに黒い外套をかぶった余所者らしい若者がいて、わしらが二階に上がるころには皇帝や政府や地主のことを百姓には分からないトンチンカンな言葉で批判していた。ハハン、こいつが噂のカクメイか。都会の学生が百姓たちを焚きつけてカクメイを起こそうとしているという噂はこのミーチャの耳にも届いていたんでな。
『カクメイってのはなんだ?』とわしはたずねた。
『皇帝も地主も全部ひっくり返してご破算にすることらしいぜ』と、話をきいていた船曳き仲間が言った。『外国人が考えたんだ』
はん、馬鹿馬鹿しい。わしは鼻で笑ってやったもんですよ。世の中どんなにひっくり返したところで川の水は遡らねえ。わしら船曳きには関係ねえ話だな、と。
この余所から来た革命家のあんちゃんがいまやテーブルの上に立って、きみたちは搾取されている、皇帝の圧政に虐げられている、人はもっと自由なのだ、などなどと言っているうちはわしも無視して仲間たちと面白おかしく飲んでいた。百姓のうち何人かは若者の言うことを聞いていたが真剣に聞いているわけではないようだった。
だが、革命家の攻撃が神さまに及ぶと、百姓たちは慌ててお祈りの文句を唱えて、革命家のそばを離れた。
そいつは言った。どうして分かってくれない? 神こそ圧政者が振るう最大の棍棒であり、きみたちを頭から押さえつける邪悪な存在なのだ。
そいつがそう言い終わるころにはわしはゆっくり立ち上がって、両手の親指を内側にねじ込むようにしてベルトをつかみ、言ってやったもんでさ。
『皇帝や地主のことは好きに言っていい。だがいま神さまについて言ったことは取り消せ。さもねえととんでもねえことになるぞ』
そのときのわしはやっぱり熊みてえに大柄でしたさ。あの船曳頭のイリヤ・マクシモーヴィチよりも! だったから、わしに凄まれたら最後、猛然と走ってくる蒸気機関車と正面からぶつかる勇気が必要だった。そいつはぶつかるほうを選んだ。いやだ! 僕は取り消さないぞ!と来たもんだ! すると、わしはそいつの襟とベルトを引っつかんで、そのまま真上に持ち上げると、開いていた窓から放り投げた。運のいい野郎でそいつは藁の山に落ちることができたから怪我一つせずに済んだ。だが、わしが追っかけてくると思ったんでしょうねえ。そのガキはわき目もふらずに夜の田舎道を走って逃げていきやがった。あっはっは」
こんなに神さまを慕っているわしなのだから、きっと自分は神の御許に行けるだろう。ミーチャじいさんは最後にそう締めて、ウンウンとうなずいた。
殺し屋はミーチャじいさんの見事な語り口に引き込まれるようにきいていた。こういう軽快な話が殺し屋は結構好きだった。
三時間後、町が見えてきた。川沿いの小さな町で一番背の高い建物は教会の鐘塔だった。その町の上で白い煙がパンッ、パンッと打ちあがっていた。
「おお、花火が上がってる。何かのお祭りですかね? ……あれ、どうしたんですか?」
ミーチャじいさんはぶるっと身震いした。あれは祭りの打ち上げ花火だ。祭りのある日に町に行けるなんて幸運じゃないか。それなのに足が動かなかった。
あの爆発する白い煙は敵の撃ってきた砲弾にそっくりだった。異教徒の砲弾は撃ち出すと、味方の頭上であんなふうに爆発し、鉄砲玉くらいの大きさの金属を浴びせてくるのだ。頭の上で白い爆発が起こるたびに味方が五人、六人とバタバタ倒れていった。
「しっかりしろや、ミーチャ」ミーチャじいさんはひとりごちた。「おれは生き残ったじゃねえか。ウン十年も前のことをまだ怖がるのか?」
すると、さっきとは違って嘘のように足が軽やかに動いた。自分を負かすのはいつだって自分だった。そして、最後に勝つのはいつも自分だ。
町に入ってみたが、それでも何のお祭りか分からなかった。この町で一番偉い人の誕生日を祝っているのかもしれないし、あるいはただ月に一度立つ市場なのかもしれない。町役場前の町に一つしかない広場に真っ赤に塗られた子供用手回し観覧車や吹奏楽団の演奏用の舞台などが見えてきて、蜜菓子やお茶、彩色された風刺画を売る露店が広場を縁取るように囲んでいた。人々は晴れ着をまとい、広場の中をあちこち歩き、おもちゃ屋の前で子どもたちのため息と歓声が上がった。
殺し屋とミーチャじいさんが広場に入ろうとするとまだら模様の豚が横切った。小さな田舎町だ、豚もいるだろうと思って、歩を進めようとしたところを警官に止められた。
「だめだ、あんたは入っちゃいかん」
「そりゃどうしてですかい?」ミーチャじいさんは驚いて言った。その警官は豚と殺し屋が広場に入ることは許したが、ミーチャじいさんが広場に入ることは頑として許そうとしなかった。
「浮浪者を入れるわけにはいかんのだ」
「旅券ならありますし、お金もこのとおり銀貨で三十枚持ってますよ」ミーチャじいさんはあくまで頑張った。「わしは浮浪者じゃありません。ついさっきまでは立派な船曳きだったんです。豚だって広場に入れるのに元船曳きのわしが――」
「とにかくだめなのはだめなのだ!」
おれは豚以下ってことか? カーッとなったミーチャじいさんはこの警官を殴り倒してやろうかと思った。病身だが、そのくらいは出来る。だが、やめにした。みな着飾っているから、襤褸をまとうミーチャじいさんの姿はひどく目立った。広場へ歩いていく人たちがミーチャじいさんに近づかないようにして歩いているのが分かった。
殺し屋は警官に取り合っていたが、警官は自分の権力に逆らう一切のことを許そうとしなかった。
「気にしなさんな。若いの」殺し屋が申しわけなさそうな顔をすると、ミーチャじいさんはこんなことはへいちゃらだと殺し屋に言った。「わしなら平気でさ。祭りを楽しむことですぜ」
とはいうものの、殺し屋と別れ、町役場前のお祭り騒ぎを背に遠ざかりながら、ミーチャじいさんはこのくそ面白くない町からはやく出たいと思った。ところが、気が急いているせいか、中々出口に当たらない。小さい町のくせに、出口のほうがミーチャじいさんを嘲笑うかのごとく、ふいっと姿を消してゆくのだ。ずっと東に歩いていたつもりがいつのまにか北になり、そして西から戻ってくるということが何度も起こった。
「おいおい、ミーチャ」ミーチャじいさんは一人ごちた。「こいつはよくない兆しだぞ。そのうちまたおまわりに見つかって小突かれる。二度、三度なら我慢できるだろうが、五度、六度となったら、お前は絶対我慢できない。最期を監獄のベッドで過ごすなんて、お前も嫌だろう?」
だが、日は暮れた。あちこちの家の窓が黄色い光を放ち、お祭りは昼間以上の盛り上がりを見せたようだった。襤褸をまとう人間にとって、夜に町をうろつくことは昼に町をうろつくことより、ずっと危険だった。警官が手加減をしないのだ。夜に見つかったら問答無用でぶん殴られ、一日留置所に入れられてしまう。
そう思っていた矢先、夜警の持つランタンが前のほうでぼんやり光った。「ご用心、ご用心!」夜警はそう声を上げていた。来た道を戻ろうとしたところ、後ろの道からもランタンの光と「ご用心、ご用心!」の声が響いてきた。ミーチャじいさんは、ええい、ままよ、と右側に見えていた扉を開けて、中に入った。そこはどうも納屋の前に作った作業場兼裏庭のようで納屋への入り口とかすかに光をもらす母屋への裏口があった。
どうやら夜警二人はすぐ近くですれ違ったようだ。
「こんばんは、イヴァン・ワシーリエヴィチ!」
「こんばんは、ミハイル・ティモーフィエヴィチ!」
足跡が遠ざかっていく。この裏庭からこっそり出て行こうとした瞬間、裏口の戸が開いて、光がミーチャじいさんを照らし出した。裏口には若い娘が立っていた。押し込み強盗と思われた、ミーチャじいさんはそう覚悟した。裏口を開けっ放しにしたまま、娘が引き返した。次にあらわれるのは猟銃か手斧を手にした家の主人だろう。ミーチャじいさんは逃げようとしたがつまづいて転んでしまい、主人のほうが早くやってきた。ミーチャじいさんはそれなりの覚悟――猟銃で天国までぶっ飛ばされる覚悟――をした。だが、主人の手には猟銃も手斧もなかった。
先ほどの娘が父親の後ろから言った。「きっとこの方、お腹をすかしてらっしゃるわ」
父親が言った。
「キノコのピロシキと魚のスープならあるが」
ミーチャじいさんはキョトンとしたが、気づいたら大粒の涙をポロポロこぼしていた。
「でも、わしは肺病みで――」
「かまわないよ」
その後、ミーチャじいさんは食堂で皮がパリパリしたピロシキに噛みつき、熱いスープをすすりながら、自分のいきさつ、自分の歴史を家主のソローギン一家(父と母、姉と弟)に説明した――自分はけっして物乞いではなく、今日の昼までは立派な船曳きでございました。齢十四から戦争にとられた二年を除いてずっと船を曳いてきました。小麦もライ麦も乳牛も蕎麦も干し魚も、みんな上流の町まで曳いてきたんでございます。それが今年の四月から肺を病み、今日になってそれがみなに知れて、お役御免になってしまったのです。わしのなりはご覧の通りで警官はわしを浮浪者扱いして祭りにも参加させてもらえませんでした。
それで町を出て行こうと思ったのですが、どういうわけだか、まるで悪魔に取りつかれたように(悪魔の名前を出したとき、ミーチャじいさんは神さまに許しを乞うた)出口を見つけることができず、日が落ちて、夜警に見つかったら小突かれると思って、隠れられる場所がないかと慌てて踏み込んだのが、お宅の裏庭だったのでございます。見ず知らずのわしを家に上げてくれて、食事まで取らせていただいたご厚意にこの銀貨をお取りになってください。いまのわしが出来る最大の御礼でございます。
父親はそれを拒んだ。そして、
「今晩は客間を使ってください。町を出るおつもりなら川の上流を目指すのが一番分かりやすいでしょう。ここから川まで歩いて五分足らずです」
「ありがとうございます。でも、客間は使えません。わしは肺病みです」
「その心配はしなくても大丈夫です」
「あなたとあなたのご家族は神さまがわしを助けるために遣わされた天使さまだ」ミーチャじいさんはまた大粒の涙をボロボロ流した。
その夜、まともなベッドと布団にくるまれたミーチャじいさんはいつものように一人ごちた。「捨てる神あれば拾う神ありだ。こんな幸運に恵まれたのはやっぱり神さまを敬い続けたおかげだ。おれの人生はもう後残りわずかだが、毎夜、あの人たちのために神に祈ろう。神さま、アレクサンドル・ドミトリーエヴィチ・ソローギンを守りたまえ。マリア・イワーノヴナ・ソローギナを守りたまえ。ソフィア・アレクサンドロヴナ・ソローギナを守りたまえ。ボリス・アレクサンドロヴィチ・ソローギンを守りたまえ。あの人たちは善良な人々です。彼らに祝福を」
翌日、朝食と湯浴みまでさせてもらえた上に昼食用のピロシキを二つ、蜜菓子を一つもらった。
迷路のような道に夜警だのランタンだので頭が舞い上がっていたときは分からなかったが、ソローギンの家の玄関を出た途端、馴染み深い河の流れる音が聞こえてきた。ミーチャじいさんはソローギン一家に何度も礼を言いながら、河の流れる音のするほうへと足を進めた。
河辺にぶつかって上流に向かって歩くと、たった二分で町を出ることができた。そして、町を出た途端、待っていたかのように血を吐いた。血を吐くと体から力がぐんと抜けるが、特別頑丈につくられているミーチャじいさんは何とか浅瀬まで歩いて、血まみれになった顎鬚を洗うことが出来た。
「肺病みのやつめ」ミーチャじいさんは薄ら笑いを浮かべた。「おれが町を出た途端、早速攻めてきやがったな。別に死んでやってもよかったが、それはあの人たちがおれのために作ってくれたピロシキと蜜菓子を食べてからだ。少なくともそれまでは死なねえぞ」
ミーチャじいさんは口をゆすぐと浅瀬の岩に座り、足を水につけたまま、しばらく体を休めた。
先立つものをどうやって調達しよう? 昨日は思わぬ幸運で銀貨三十枚の持ち金に手をつけずに済んだが、今度はそううまくはいくまい。そうなると、おれは物乞いをしなくちゃいけなくなる。
そこでミーチャじいさんは大変なことに気がついた。自分の体格が物乞いに向かないのだ。よぼよぼで腰が曲がり、目が白く濁っていれば道行く人々も哀れと思い、小銭くらい恵んでくれるだろう。だが、ミーチャは物乞いをするには元気すぎた。結核は確かにミーチャの体を蝕んでいたが、それでもミーチャには生まれもった強靭な肉体があった。事実、その肉体は肺に病を潜めながら、昨日まで船を曳いていたのだ。自分のような一見元気なものが物乞いをすると、物乞い強盗と間違えられる。物乞い強盗というのは物乞いするとき、もし何も恵んでくれないならどうなってもしりませんぜ、こっちはもう失うなんてないんですからね、といった脅しを言外に匂わせるクズのような連中だ。ミーチャじいさんにとって、世間様からそんな連中と一緒にされるなら死んだほうがマシだった(どうせもうすぐ死ぬのだし)。
手持ちの金が尽きたと同時にお迎えが来てくれれば文句はないのだが、そううまくいかないだろう。
「こいつは難しいな」
ミーチャじいさんはまた歩き出した。河辺の砂地に大きな足跡を残しながら。
だが、ミーチャじいさんは喀血するたびに確実に弱ってはいた。一〇〇あった体力が喀血によって五〇まで落ちてもしばらくすれば回復する。ただし九五までしか回復しないのだ。今はまだ結核特有の倦怠感がやってくることはないが体が弱れば、歩くことも倦むようになるだろう。
だが、ミーチャじいさんはまだ死ねそうになかった。川辺の砂に半ば埋まりかけていた銅の器を掘り出すと、これを使って、恵みを乞うことにした。
「まったく死ぬってことは本当に難しいなあ」
「全く持ってその通りですね」
ミーチャじいさんはまたびっくりした。
後ろには昨日一緒に歩いた殺し屋がいた。
「ああ、お若いの。あんただったか。こうしてまためぐり合えたのも神さまのお考えがあってのことなんだろうなあ」
「昨日は大変でしたね。あれから、どうしたんです?」
「なに、親切なご一家に泊めてもらいました。世の中昔より悪くなったなんていうやつがいますが、なかなかどうして、まだまだお優しい人たちはたくさんいるもんでさ」
ミーチャじいさんはこの不思議な若者と一緒にまた川辺を歩くことになった。
河の水はときどき岸辺の堤を破って、白樺の林を水で浸したりしていた。増水した湿原には粗末な橋がいくつもかかっていて、赤いシャツを着た釣り人らしい男が膝までズボンをめくり上げて、ざぶざぶ歩いていた。
「このへんに町はあるかい?」ミーチャじいさんがたずねた。
「町だって?」釣り人は足を止めて言った。「ここから下流に行けば、町がある」
「わしらはそこから来たんだ」
「じゃあ、上流の村しかないな。だが、待てよ。――うん、村に行くといい。面白いものが見られるから」
「お祭りでもやってんのかい?」昨日の苦い記憶が甦る。「きれいなおべべ着てないやつをケツ蹴っ飛ばして追い出すような……」
「その逆さ。むしろ連中は貧乏人やら物乞いやらを追い払うどころか、どうぞどうぞと手招きしてるぜ」
「タチの悪い口入れ屋の人狩りじゃないだろうな?」
「そんなんじゃないよ。まあ、一見の価値はある。だまされたと思って行ってみりゃいい」
「あの、すいません」殺し屋がたずねた。
「また、質問かい?」釣り人はやれやれと首をふった。「あの他に村はないし、さらに北に上ったところは病院があるけどな。それと――」
「いえ。ここらへんで何が釣れるのかなときこうと思って?」
「ああ、そういうことか」釣り人の顔が上機嫌になって綻んだ。「今の季節、このへんじゃフナかウグイだな。でも、川エビを針につけて、深いところに放れば、ナマズかカワメンタイがかかることもある。先週、こんなにでかいのを釣ったんだぜ」
二人は湿原の道を北にとった。ブラシのように強い葦や蒲が木道の左右から遠慮なく伸びていて、青臭いよどんだ水の匂いがした。
釣り人たちはあちらこちらにいた。みな、麦藁帽子をかぶり、水草を蹴散らしながら、沼の浅くなっているところを歩いている。丸太小屋がそのまま水没した深みでは五人の釣り人が竿をふっていた。
河は沼地の向こうの森に隠れてしまった。そのころになると、土地から水が引いて、二人はブリヤン草の生える丘のふもとを歩いていた。
ミーチャじいさんはときどき激しく咳き込んで赤い痰を吐いたが、まだ足元はしっかりしていた。彼に踏まれた土は象に踏まれたように堅くなった。乾いて固まったわだちもミーチャじいさんのかかとの前には敵ではなかった。ミーチャじいさんは長靴が磨り減るのを気にして、町を歩く以外は裸足で歩いていたが、その足の裏ときたら、鍛冶屋のかなてこのように固いときていた。
「すごい足ですね」殺し屋は心からミーチャじいさんの足を褒めた。これまでの依頼人とターゲットを全部合わせても、これだけ頑丈の足はない。
「なに、真面目に仕事をしていれば、誰だってこんな足になりますわな」
そういいながら、ミーチャじいさんは誇らしげに微笑んだ。
同時にがっかりもした。こんな素晴らしい足があるのに、自分はもうじき肺結核で死ぬのだ。誰かの遺してやれるのならよかったのだが。
丘を二つまわりこむと、秋撒き小麦の畑が広がっていた。青い麦の海は地の果てまで満ちて、百姓の集落がぽつんと小さな島のように浮いていた。風の通り道では、穂がゆれていた。
麦の海に囲まれた集落でも特に大きな集落があった。
教会のすぐ前の広場には大きなテントが張られていた。サーカスのテントを払い下げて、白樺の林から見る草原の絵をペンキで描いていた。ちょうど入口の左右に素朴な村娘の絵があって、娘たちがかかげている横断幕には〈移動展覧会〉の文字が大きく描かれていた。
もっともその字は殺し屋が読んだ。ミーチャじいさんは自分の名前以外はかけないし、読めもしなかったのだ。
どうやら、これが例の釣り人が言った、面白いもの、らしかった。
あと二、三度はたけば生地がバラバラになるボロをまとった老人や戦争で片足を失った物乞いと言った連中が木戸銭も払わずに、どんどんなかへと入っていく。
「これが面白いものなんだろうなあ」殺し屋が言った。「ひょっとして、きちんとした身なりの人は追い返されるのかなあ?」
テントのなかには様々な絵が飾られていた。馬車の座席からこちらを見下ろす美しい女性の絵。嵐の海に差し込んだわずかな光を目指して進む帆船の絵。二人の少女が夜中にこっそり恋愛占いをしている絵。真白な雪の町の絵。商人と軍人が大きな銀のサモワールからお茶を飲もうとしている絵。
絵の隣にはその絵を描いた画家の自画像が飾ってあった。若かったり、年老いていたり、痩せていたり、がっしりしていたり、禿げていたり、鬚もじゃだったり。女流画家も二人いて、それぞれが海軍省前広場での祭典や暮れゆく空を映す静謐の海を描いていた。
船曳きの絵もあった。鬚もじゃの痩せた男たちが縄を体に巻きつけ、帆を畳んだ大きな船を引っぱろうと砂地の上で前のめりになっている。
作品の中での船曳きたちは襤褸をまとい、顔を辛さでくしゃくしゃにして自分を縄につなぎ、船を引っぱる哀れな存在として描かれていた。
ミーチャじいさんは、それは半分本当で船曳き稼業はどうしようもないほど時代遅れな仕事なのだと理解はしていた。
しかし、彼個人について言うならば、彼は時代に後れた覚えはないし、カンバスを通して哀れに思われるような存在であったことは一度もない。
五十の齢になるまでミーチャじいさんはよく一人曳きをやっていた。たいてい三人くらいで曳くことになっている小舟をミーチャじいさんのような剛の者が一人で引くのだ。
ミーチャじいさんは今でこそミーチャじいさんと呼ばれているが、その前は一人曳きのミーチャで通していたのだ。
船曳きの絵を描いた画家は惜しいことをした。もし彼がミーチャの姿を見ていれば、船曳きたちの内側に渦巻き迸る途方もない力を見たはずだ。完成した絵もだいぶ違ったものになっていただろう。
そんなことを殺し屋に説明すると、殺し屋は自分の職業もときどきひどい誤解を受けることがあると言った。
「それはしょうがねえことですよ」ミーチャじいさんは肩をすくめ、エヘンと小さく咳をした。「人間ってのは悲しむか苦しむかして生きていかなきゃいかん生き物なんでさ。そのどちらかを選ばなければいけないからって、間違っても悲しみを選んじゃいけませんや。悲しみはただ蝕んで駄目にするだけだが、苦しみは人間を鋼のように鍛え上げてくれる」
絵を一通り見てから、ミーチャじいさんと殺し屋はその村を後にした。二人の顔はいい顔になっていた。いい絵を見ると、人はいい顔になる。
どこまでも広がる麦畑を河のあるほうを目指して歩いていった。東の空に白い雲が盛り上がり、大きな城のように高くそびえたち始めた。
「あれは嵐になりそうですね」
「そうだなあ。このへんに旅籠があればいいが、見渡す限り麦だらけだ」
「嵐で穂が落ちないといいですね」
「そうだなあ。百姓の何が辛ぇって、洪水が起こったからって畑を持って逃げることができねえことで。それに稼げるのは一年に一回の収穫のときと来てる。もし、その収穫が嵐でおじゃんになったら、百姓たちは飢えちまって、畑を捨てるしかない」
「畑を捨てた人たちはどこに行くんでしょう?」
「たぶん都会だろう。最初は村のもん同士で助け合うためにかたまって動くけど、あっという間にバラバラになっちまう。家族でさえバラバラになる。ああ、都会はおっかねえところだ。それに比べると、船曳きは一度仕事に食いっぱぐれても、別の船がやってくる。そりゃ、収穫した小麦を運ぶ秋が一番の稼ぎ時にゃあ違いないが、それ以外の季節でもそれなりに生きていけるだけ稼げる。お若いの。あんたさんの仕事はどうだね?」
「一年じゅう、どこかしら仕事が転がってますね。ぼくのあつかっている商品は結構需要がありまして」
「ジュヨウってのは何なんで?」
「みんながどれだけそれを欲しがっているかってことです」
「ほう。それがジュヨウか。チェッ、せっかく新しい言葉を覚えても、もうすぐ死んじまうんだからなあ」
白い雲は不安げな灰色の影をまといながら、青い天球にかかる太陽を食らおうと脹らんだ。そのうち河の向こうの土地を激しく打つ雨の音が土まじりの水の匂いとともに二人のもとに届いてきた。
旅籠や民家はおろか雨宿りできそうな樹木すらなく、二人は自分たちがなすすべもなく大雨にさらされることを覚った。
痰の絡む咳をしながらミーチャじいさんはこれで自分も死ぬだろうと思い始めた。死というものがこんなにはっきり形と音と匂いをさせてやってくるとは何とも意外な話だった。死というものはもっと忍び寄るものだったり、見えないところでこそこそ仕度をするものだと思っていたが、ミーチャじいさんにとっての死は巨大な雲と水の匂い、地を打つ雨音として現れた。
空が暗転した途端、雨が横殴り降ってきた。どちらかというと小柄で華奢な殺し屋は潰れるかと思うくらいの水を浴びて前に進む足が鈍ったが、ミーチャじいさんは歩調を崩さずズンズン歩いていく。
「お若いの」ミーチャじいさんは雨音に負けない大声で殺し屋に言った。「わしの陰に隠れなせえ。そうすりゃ前に進める」
「でも、あなたは?」
「わしはこの通り平気でさ」
苦しみはミーチャを鍛え上げる、とぶつぶつ繰り返しながら、ミーチャじいさんは嵐のなかを進んだ。今が昼なのか夜なのかも分からないくらいの荒天で、青い麦が次々とへし折れていった。
殺し屋はミーチャじいさんの幅が広い背を見ながら、歩いていた。その錨肩の体が盾となって、殺し屋の細い体が雨に叩き潰されないようにしているようだった。ミーチャじいさんの頑丈な体にぶつかった雨粒は潔く敗北を認めて飛び散るか、恥ずかしそうに体を伝い落ちるかした。
殺し屋にしてみれば、こんなふうにして誰かに借りをつくるのは久しぶりだった。
時間の感覚が雨にさらわれてから、どのくらいたったか。ミーチャじいさんは突然体をくの字に曲げて、血を吐いた。豪雨でも薄めきれないどす黒い血が咳をするたびにミーチャじいさんの口から吐き出され、鬚を伝い落ちていった。
「あの、大丈夫ですか?」
「分かってた。分かってたさ」
ミーチャじいさんは笑った。
「あんたさんは死神だ。最初に見たときにわしにはわかっていた。わしをあの世に連れに来たんだ。本当は麦が黄金色にざわめく日に死にたかったが、まあ、死ぬってことは思うようにはいかない」
ミーチャじいさんは苦笑したが、すぐ喉が破れるほどの咳をして、また大量の血を吐くと、よろめきながら麦畑のほうへ倒れた。
目を覚ますと、ミーチャじいさんは清潔な服と清潔なシーツ、皇帝の肖像画、そして夕暮れの光にきらめく河が見える窓のある真白な部屋でベッドに横になっていた。
首を横にすると、殺し屋がいた。
「ここは天国ですかい?」
「慈善団体が運営している結核療養所ですよ」殺し屋が言った。「あなたは倒れたんです」
「あんたさんがわしを運んだんですかい?」
「途中までは。まあ、大した苦労じゃないです――といいたいところですが、かなり苦労しました。荷馬車が通りかからなかったらどうしようかと思ってました」
「そりゃあ、ご迷惑をおかけしやした。面目ねえ」
それからミーチャじいさんは思い出した。
「その、あのとき、あんたさんを死神呼ばわりしたことを謝らせてくだせえ。どうもわしはトンマでいけねえ」
「いいんですよ。それにぼくは死神ではないかもしれませんが、結構それに近いことをしています」
「へえ、では葬儀屋でらっしゃる?」
療養所は丘の上につくられていた。もう余命のない人々が集まった建物でいくつかの病棟に分かれていた。ミーチャじいさんの病室がある病棟は一番河に近い斜面に建てられたものだった。
次の日、殺し屋がミーチャじいさんを見舞うと、ミーチャじいさんは殺し屋に真面目な顔で頼み込んだ。
「あんたさんは葬儀屋だと思う。だから、あんたさんに頼みたい。わしが死体になる手伝いをしてくれないかね?」
「……どういうことです」
「そこの窓から桟橋を見ておくんなせえ」
窓は緩やかに下っていく斜面に向かって開いていた。川辺には二つの桟橋があった。一つは見舞い客を運ぶ蒸気船用の立派な桟橋で手すりや案内板、青く塗った切符売り場がある。もうひとつは白いペンキが剥げ気味の桟橋で、小さな帆掛け舟が一艘、もやってあった。
「舟がありますね」
「わしはあれを曳くんでさ」
殺し屋はミーチャじいさんを見た。
ミーチャじいさんはもう半身を起こしていて、着ているものもここにきたときに着ていた色あせたルバーシカだった。
「あんたさんには、わしがこの世で曳く最後の舟の客になってもらいてえ。この通りだ」
ミーチャじいさんをこっそり病棟から脱け出させることは簡単だった。その手のことには殺し屋は詳しい。というよりも、夜警にいくらか握らせたのだ。
嵐のあったとき、ミーチャじいさんは何の見返りも求めずに殺し屋の盾になってくれた。その相手が雨粒であれ銃弾であれ、借りは借りだ。
ミーチャじいさんが曳こうとしている舟は船曳き仲間のあいだでは五人曳きといわれる大きさのヨットだった。療養所の比較的症状が軽度な患者を気分転換させるために十年以上前に購入されたもので、索具は新しく、木材の艶出しは完璧で、皇帝が夏のあいだに乗るヨットに比べて決して劣らないものだった。
そのヨットは静かに浮かびながら、本物の男の一曳きを待っていた。
殺し屋はヨットの前甲板に立った。舳先に結んだ縄を手にして桟橋から川岸の砂地へとよろよろ遠ざかっていくミーチャじいさんの背中を見ながら、
「最後の舟としては文句なしの舟かな。そうならいいけど」
と、つぶやいた。
ミーチャじいさんがぴいっと指笛を吹いたので。殺し屋は桟橋に結ばれたもやい綱を解いた。帆をくるくるに巻いたヨットはぐっと河の流れに抗いながら、ゆっくり川岸のほうに近づいていった。
星空で青く染まった世界のなかでミーチャじいさんは大きな輪にした縄を胸の前にかけて、大きな体を精いっぱい使ってヨットを曳いていた。
「さあ、どこまで行きますかい。お客さん」
と、ミーチャじいさんが咳をまじえながらたずねたので、殺し屋は、
「あなたが人生を終えるその場所まで」
と、答えた。
「へい、合点でさ」
ヨットは療養所のある丘のふもとをなぞる河をゆっくり遡った。ミーチャじいさんが一歩足を踏み出すたびに舳先に結んだ縄からギシリと絞まる音がなり、ヨットの舷側から切り裂かれた水の渦を巻く音がきこえた。
ヨットが前に進むたび、暁の砂床に大きな足跡が、血の混じった痰が残った。
快速のモーター・ランチが上流から現われた。電気を煌々と照らし、タキシードを着た若い男とドレス姿の女が緑の壜に入ったシャンパンを注ぎあい、ケラケラ笑い声を上げていた。ランチが切った水が波になって、ヨットを揺らし、砂浜を洗った。ミーチャじいさんの足が河の水に触れた途端、血を吐いた。ミーチャじいさんは袖で口元の血を拭い、また綱を曳いた。
河は曲がりくねって東を向いていた。命がどんどん削れていくのが分かった。ミーチャじいさんはもうじき上がる太陽を真っ向から浴びるつもりで、ヨットを曳いた。
全ての色彩が青から朱へ転じた瞬間、ミーチャじいさんは血を吐き、何度も吐き、吐き尽くした蒼い顔を、美しく染まった雲を延臣のごとく従えた、燃えるような太陽に真っ直ぐ向けて、気高い獣の王のごとく吠えた。
「おれはミーチャだ! 一人曳きのミーチャだ!」
一人曳きのミーチャ。ここに眠る。
ミーチャじいさんの墓石は療養所の一番見晴らしのいい丘の上の共同墓地に立てられた。勝手に脱走し、ヨットを曳いた挙句死んでしまったミーチャじいさんに療養所の所長はいい顔をしなかったが、結構な額をつかませて、よしにさせた。
殺し屋は大きな桟橋の切符売り場で上流行きの切符を買った。
やってきた蒸気船は大きなもので一人曳きなどとてもではないが、無理なように思えた。
「でも、ひょっとすると――」
殺し屋は蒸気船の甲板から丘の上に立つ墓を相手につぶやいた。
すると、いい顔になった。
いい船曳きに出会うと、人はいい顔になるのだ。