第5話 死と触れる
帰り道。
俺は戸惑っていた。
先程までは、戻ってきた記憶のせいで周りが見えていなかったのだろう。見えていたらここまで来ることはなく、七姫を問いただしていただろうから。
「これは……火の玉……か………?」
狐火。人魂。おおよそ世間ではそう呼ばれているだろうものが浮いているのだ。
ひとつならいい。いや、良くはないが、勘違いですむ話だろう。問題はその数。そこかしこに浮かんでいるのだ。
ある一帯がそうというわけではない。行けども行けども浮かんでいる。これでもかというほどに。どうしようもなく現実だった。
「死に近づいたせいか……?」
幽霊が見えるようになるとか。まさかな。
そういえば七姫が、死んだら生理現象がなくなったり、成長が止まったりするとか言っていなかったか?それに生物として抑制していた身体の能力も解放されるのだとか。ともかく生きていた頃とはだいぶ変わると言っていた。おそらくこれもその一つだろう。視神経が異常を来たしている、とかな。疲れた、と言って説明を切り上げようとするやつだ。無害なことについては説明を省いたんだとしよう。
事実、この人魂もどきたちは何かをしてくるわけじゃない。ふわふわと浮遊しているだけだ。このまま避け続けて帰れば問題ないだろう。
ここまできてしまい、また、未だに吐瀉物の臭いが残っているために、七姫の元に戻るか否か逡巡していたが、このまままっすぐ帰ることに決めた。
「しかし……本当になんなんだ、これ」
よく考えたら、道を進むたび新しい人魂もどきを見つけるのだから、視神経の異常という説は間違いかもしれない。俺の中でその説は割と有力だったので、違うと気づいてしまってからまた気になり始めた。
どうするべきか。
「よし」
なんでも七姫に聞かないとわからないというのではどうしようもない。
俺はおもむろに人魂もどきに近づいた。
その距離1メートル。
ふよふよ。
浮かんでいるだけだ。問題はなさそうだな。
50センチ。
ふよふよ。
30センチ。
ふよふよ。
ここからは慎重に近づいていくとしよう。
俺はすり足でゆっくりと近づく。
動く気配はない。
いまや距離は20センチ弱。手を伸ばせば届く距離だ。
手……。近づけてみようか。
そろりそろりと左手を近づける。万が一の時でもまあ、利き腕ではないから大きな問題にはならない………のか?まあいい。
人魂もどきの左下から、まるで包むようにてを近づける。
ふよふよ。
生き物ではないのだろうか。動かない。それに見た目は火の玉のようだが一切熱を感じない。
………触れてみるか。
そのまますくい上げるように手で触った。
「冷たっ!」
なんなんだこれ。
俺が首をかしげていると、人魂もどきは腕を伝いするすると登ってきた。
「う……わわっと」
すわ、やっぱり生物か!と害を成されるのを恐れ、身構えたが、人魂もどきは肩のところで止まり、そこに落ち着いた。
歩く。と人魂もどきもそのままついてくる。
訝しみながらもそのまま進むが、何か起こるわけでもなかった。どうやらただ纏わりついてくるだけのようだ。
「……もういい。帰ろう」
まったくいい年して俺は何をやっていたんだか。
*
七姫の元から歩くこと30分。俺は自分の家の前にいた。道中色々あってこの時間なので、まっすぐ進めば20分と少しと言うところだろうか。
時間はAM6時。
つまり、出会う可能性があるということだ。
最悪朝食は抜きでいい。
だが登校するためにはどうしても家に帰り、制服に着替える必要がある。
意を決して玄関の扉に近づこうとしたとき、それは内側から勝手に開いた。
俺はぎょっとして、呆然と立ち尽くしているしかなかった。氷でできた虚に投げ込まれたかのように全身が寒気を感じていた。鳥肌が立っているのが痛みでわかる。足元から這い上がってくるような恐怖。さっき吐いたというのに再び吐き気を催した。頭が真っ白になる。世界から音が失われる。恐い。怖い。息をしていない。できない。どうしようもない。もはや意思とは関係ないのだろう。目の前の扉が開かれていくのを感じていた。
扉が完全に開ききったとき、そこに立っていたのは俺の父親だった。目の前に俺が立っていることに一瞬瞠目するも、すぐに興味も失せたのか、焦点を俺に合わせることをやめた。
歩き出し、俺の横を通り過ぎる。
もはや嫌味の一言もなかった。
以前までは侮蔑の表情、蔑みの視線を投げかけてきたが、いまや興味すらないようだ。もし何か言われていたとしても、聞こえるような状況ではなかっただろうが。
「カハッ―――ハッ――――――ハ――ハッ―――ハッ――――」
思い出したかのように呼吸が再開される。が、乱れたリズムで繰り返され、落ち着くまでに時間がかかりそうだった。それでも一応酸素は行き渡り、苦しみから解放される。
徐々に音がもどる。視界がもどる。世界が戻ってきたのを感じると、どっと疲れが押し寄せてきた。
「……このままここにいるのはマズい」
気づく。このままでは他の二人にも出会ってしまう可能性がある。
何時間も過ぎたかのように思われたが、実際のところそんなに経っていなかったらしい。指などを挟まないように工夫されているのか、父が出て行った玄関の扉はまだ、閉まりきっていなかった。急いで手をかけ玄関に飛び込むと、靴を脱ぎ捨てた。そのまま玄関脇の階段を駆け上がる。本当なら静かに部屋に戻り、家主たちに俺がいることを知覚して欲しくなかったのだが、今更それもないだろう。ドタドタと音を立てるのも厭わずに登る。2階に上がるやいなや、正面の扉のノブに手をかけスルリと滑り込むように部屋に入った。
しっかりと扉が閉まっていて、向こうとは隔絶された世界であると認識する。張り詰めていた息を吐く。扉に頭を打ち付けるような体勢で、俺は呼吸を整えた。父に会ってから………すれ違ってからまともに息を整えていなかったのに、無理に動いたんだ、もう一度死ねるかと思うほど疲れてしまった。
―――トン、トン、トン
またも身がこわばる。聞こえてきたのは廊下を歩く音。
やがてそれは俺の部屋の前で止まったようだった。
「……ああ、兄さん生きてたんだ」
喜色を孕んだ声。ただし俺の生存を本当に喜んでいるわけではないだろう。普段は生活する時間帯が違うために生きているか死んでいるかの判別もつかない俺を、嘲笑っているのか。楽しんでいるのか。たった一言。そのたった一言で俺は全身が底冷えする。
―――トン、トン、トン、トン
それ以上なにか言うでもなく、足音は次第に下がっていく。
やがて足音が聞こえなくなったところで、俺は扉にもたれかかって……、崩れ落ちた。
もうダメだった。動く気力すらなかった。落ち着きを見せていた呼吸も荒くなったまま。酸欠なのか、頭がチカチカする。
何も考えられない。どうしようもない。逃げたい。
今起きたこととは何も関係ないが、学校に行くことをやめようとさえ思う。もはやなにもしたくないのだ。
別に学校が嫌で不登校になったわけではない。薫と出会う手がかりになるのならと思い七姫に了承していたが、もう無理だった。もともとは月曜からの予定だったはずだ。今後登校出来る保証はないが、確実に今日は行けないだろう。使命感などとっくにどこかへ行ってしまった。そう。そうだ。俺は自分のことだけで精一杯だ。クズの俺に他人を思いやる余裕なんてなかったのだった。
知らずに涙がこぼれていた。なんで?何に?
薫を救えないことが悲しいのか……?いや、困っている誰かを見捨てることなんかいつものことだ。
七姫との約束を反故にするからか?いや、一番ないな。
恐怖でおかしくでもなったのだろうか?………否定はできない。
いつしか心を占めていた使命感が失われたことに虚しさでも感じているのか……?
どれも違うようで、どれでもある気がしてきた。ただただ情けないのだろう。自分が。負けた気がする………というか。
久しく感じたことのなかった感情。どうしたらいいかわからなくて、俺はただ、感情のなすがままになっていた。
『ふぅぁあぁ………。やかましいなあ』
どこからか声がする。だが確認するだけの気力はない。
『全くなんだってんだ……?朝っぱらから。つーか坊ちゃん帰ってきてないんだな。っておお!?坊ちゃんなんでそんなとこいんだ?』
………俺のことか?
『状況を察するに……、さしずめ家族の誰かとエンカウントでもしたか………?で、トラウマスイッチと………。ああ~、そりゃ悪いことしたな……。オレじゃなんにもできないしな。触れないし、そもそも相手に見てもらえないってんじゃなぁ』
トテトテッ、と音がした。なんというか……、昔馴染んだ音に似ている。昔飼っていた犬が俺のベッドから飛び降りる音。まさにそんな感じだ。事実、声の聞こえてくる高さは低くなっている。
『おお~い、坊ちゃんや~い。生きてるか~?……聞こえねえってわかっててもなぁ、やっぱ聞いちゃうよな、人情から』
寝たきりで声かけられるシチュエーション。俺の記憶違いじゃなければ、本日二回目になるな。
「……生きてる」
『ああそうかい、なら大丈夫か……って、は?』
―――トテテッ、トテテッ、トテテッ、トテテッ。
『……まさか坊ちゃん、オレのこと視えてんのかい』
俺の視界に回り込んできたのは、懐かしい姿。
紛れもなく犬。全身が黒く、四本の足と口元だけが黄土色をした一匹のマンチェスター・テリア。最も今目の前にいる犬は半透明の全身水色で、美しかったその色は失われてしまっているようだが。
だが、そうだ。絶対そうだ。何故か日本語を話しているが、この犬は絶対に―――
「エル……」
うちで飼っていた犬に違いないだろう。
『おうよ、久しぶりだな坊ちゃん………っておい、大丈夫か!おい!』
もう限界だった。
*
目を覚ますと、見覚えのない天井……ではない?
俺の部屋か。そうか、そういえば訳の七姫のもとから帰ってきたのだったな。
あの時とは違い、さっと上体を起こして状況を確認する。
『おう、起きたか』
やはりいた。
「エル……。エルマー………」
『おう!オレだ!大丈夫そうか、坊ちゃん?』
「あ、ああ………」
嬉しそうに返事を返してくる。尻尾もちぎれんばかりに往復していた。また会えるなんて………。だが、久しぶりすぎてなんにも出てこない。そもそもなんで会話できているんだ?それにお前は―――
とりあえず浮かんだ疑問を口にしてみることにする。
「なんで話してるんだ?」『なんで視えてるんだ?』
「『ああ、いや……』」
嬉しいことに息が合いすぎた。気まずい。
「お前から先に質問してくれ」
『いやいや坊ちゃん、こういうのはご主人サマから質問するもんだろうが』
「そうかもしれないが……、お前の話を聞きたいんだ」
『嬉しいこと言ってくれるじゃねえかコノヤロウ!』
あ、もう尻尾ちぎれるな。
『しゃーねぇ、いっちょ説明してやっか!なんで急に坊ちゃんがオレを視えるようになったのかは知らねえが……、ぶっちゃけオレ、幽霊なんだよね』
「なるほどな。さすがはエルだ」
『それでいいんだ!?』
「当たり前だろ。エルマーさんだぞ?」
『重いよ……。信頼が重い………』
そうか。そうだよな。確かにあの日、エルマーは死んだ。それは疑いようのない事実だ。しかしなんで今になって俺の目の前に?
エルマーはうな垂れ、しばらくそのままだったが、やがてつぶやくようにこういった。
『ゴメンな……。坊ちゃんの人生壊したの、オレの責任だろ?』
その声は泣いているかのようだった。
「何を言って………」
『坊ちゃんが帰って来ちまった時さ、「おい、なんで」って、「どうして帰ってきたんだ」って思っててさ、でも坊ちゃんに「行け」と伝えることもできなくて………。なにより不甲斐なかったんだな………。坊ちゃんにオレの心配させちまったことが、さ』
「まさかそんなことで成仏できなかったのか……?」
それじゃあ成仏できなかったのは俺のせいみたいなものじゃないか。エルマーは何一つ悪くないのに。
『そんなこと、って………。お前の人生はあそこから決定的に狂っちまったろうが』
「違うな。違う。俺の人生は最初から狂ってたんだ。もともと狂ってた。それに、エルの言うとおり、あの時に決定的に狂い始めたのだとしても、それはエルのせいじゃない。弱かった俺の、俺自身の責任だ」
エルマーが気に病んでいること。あの日。あの時。
俺の中学受験の日。
初めて俺は親の言うことに背いた。
その結果あるのが今の俺の姿だ。
だが―――
「なあ、エルマー。俺は大丈夫だ。大丈夫だから。今からでも成仏してくれないか」
『大丈夫って……。さっきドアの前で崩れ落ちていたことか?……まさか、坊ちゃんの今の生活のことじゃないよな?』
「両方だ。自分で招いた結果だ。なにもお前が俺の問題に付き合うことはないんだよ」
エルマーは驚いたように固まり、視線を逸らす。
『坊ちゃん!…オレはずっと見てきたんだよ。オレが死んじまって、坊ちゃんの足元が崩れていく様を。坊ちゃんが大丈夫って言っても、オレにはそうは思えない』
「大丈夫だって!自分のことは自分が一番―――」
『自分のことは自分が一番よくわかってるだぁ!?その言葉は、周りを見ることができないやつの言葉さ!ヒトは鏡を見なくちゃ自分の顔色だってろくにわかりゃしねえんだ。自分一人で助かることなんてありえねえ!なのに地面に映った自分の影を見てわかった気になっちまう。今の坊ちゃんは………』
そこでエルマーは俺に視線を向け、真剣な表情で見つめてくる。まるで心の底までも見透かされているようで居心地が悪い。エルマーに対して隠さなくてはならない感情など何もないが。
『いや。坊ちゃんはわかってるよな。意味のない日々。ただ、『死なない』だけの生活を繰り返していたことを。……自分の現状を理解している上でそう言うのか。理由はわかるが………オレと坊ちゃんの仲じゃないか。下手な虚勢はやめてくれよ』
そのとおりだ。ぐうの音も出ないほど的確な指摘だった。だが。
それでも―――
「あの時の選択に、後悔なんてしていない!俺は………、お前に成仏してほしいんだ………」
『坊ちゃん………』
エルマーは俺の純粋な想いに、何を言うべきか悩んでいるようだった。
やがて、口を開く。
『多分坊ちゃんは、大きな勘違いをしているんだが……。一言言わせてくれ。俺に成仏して欲しいっていうんなら………。幸せな新しい生活を送ってくれというのなら。坊ちゃんもさ、生き直してはくれないか?』
「生き直す?」
エルマーは駆け出し、俺の上に飛び乗った。優雅に着地し、俺は軽い衝撃が走る。
『そうだ。坊ちゃんは今、何ももってない。生きている人なら持っている重荷を置いてきちまったんだ。いや、それ自体は間違いじゃねえんだ。『逃げ』を選択したんならな。だが』
グイッ、と顔が近づく。俺は反射的に顔を背けた。
『甘えんじゃねえぞ!……お前はなにも選択してねえ。選択する手前で諦めて、落として来ちまった荷物を今さらになって気にかけている。お前がしなくちゃいけなかった選択は『俺を看取る』と『親の言うことをきく』の二択じゃねえ。『違えてしまった道を目指す』と『そのまま新しい道を進む』の二択なんだ』
エルマーはそのまま俺の上で飛び跳ねる。飛び跳ねる度、ベッドが揺れる。身体がなくなったはずなのに、どうしてこんなにも重く感じるのだろう。
『わかるか?これが重さだ。命の重さじゃない。生きているものが普通持ち得る、生の義務の重さだ。お前が昔の荷物を取り戻すまで、オレがお前の新しい荷物になってやる。だから―――生き直してくれ。これは、オレの贖罪。オレのわがまま。そして、オレが安心して成仏するための条件だ』
―――ピリリッ、ピリリッ
申し訳なさそうに、申し訳程度の音を鳴らす目覚まし時計。表記されたデジタルの時刻はAM9:48。
部屋に指す日差しを見るに、新しい目覚まし時計を買う必要はなさそうだ。
「約束する。エルマー。俺はお前を成仏させる」
俺は、死してなお、新しい生に進めないコイツのために、死して今、生き直すことを決意した。