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第七十九話 ミコトと名無し・2 狭間の妖館

 湖から名無しさんたちのいる宿の部屋に転移する――すると。


「きゃぁっ……ぎ、ギルマス、驚かせないでくださいませ」

「ヒロト君、本当に転移を習得できたんだね……ゲーム時代を思い出すよ。もっと転移ワープポータルは身近で、日常的なものだったからね」

「ああ、懐かしいよな。これでどこに飛ばされても、三人が離れなければ帰ってこられる」


 ゲーム時代は消耗品だった転移の巻物が、この異世界においては売っていない。流通すると商人の商売が成り立たなくなり、物流システムが大きく変わってしまうからだとか、戦争で兵を転移させられると圧倒的に有利になるなど、理由は幾つか考えられる。


 マナの消費が1度で100と大きく、それなりに喪失感はあるが、これくらいならどうということはない。今後も便利に使っていきたいところだ。


「では……仮面の力で転移するよ。二人とも、本当にいいのかい?」

「何をいまさら遠慮しているんですの、三人で桃園の誓いを結んだことを忘れてしまったんですの?」

「桃園じゃなくて、桜みたいな花が咲いてる場所だったな」


 ゲーム時代に長い時間を過ごしたレグナガン大陸。その皇都のはずれに、『皇妃の庭』と呼ばれる場所があった。


 俺たち三人はギルドを結成することに決めたとき、そこで最初のメンバーとなってくれた十人に、ギルドハウスに掲げる『旗』を披露した。


 今は縁のない大陸となってしまっているが、俺たちにとっては思い出深い場所がいくつもある。レベルを上げた場所、クエストの目的地、ギルドバトルのフィールド――。


 ミコトさんは懐かしそうにして、胸に手を当てて思いにふける。名無しさんも仮面で見えないけれど、当時を思い出しているようだった。


「……あのときは男性キャラの『麻呂眉』だった。けれど今は自分の本当の姿を見せたいと思っている。一度もオフラインで会えなかったヒロト君に、この世界で会いたい」

「……うん。俺もできるのなら、そうしたいと思ってたよ」

「ギルマス、私には会いたいと思ってくれていましたか? こんなことを聞くのは野暮ですけれど」


 問いかけられて、自分の中にあまりにも迷いがなくて笑ってしまった。


 だけど俺は、二人に会えないままで転生したことを後悔していない。


 もし向こうで会っていても、俺は特に気の利いたことを話せないでいたかもしれない。そんなふうに二人を幻滅させることを、当時は本気で怖がっていた。


「……冗談ですわ。もし会えたとしても、きっとヒロトさんは、私のことを子ども扱いしたでしょうから」

「歳は関係ないよ。会えるものなら、会いたかった。間違いなく、そう思ってたよ」


 その頃は、外の世界は俺を拒絶するものでしかなかった。


 生まれ変わって会えたからこそ、こうして笑いあっていられる。それ以外の可能性はなく、今の人生こそが、俺にとって最も素晴らしいものだ。


「だから、名無しさんも遠慮しないでほしい。俺にとって二人は、命よりも大事なもののひとつだ。俺に頼ってほしいし、甘えてもらいたい。名無しさんは昔からずっと、一人でも強く生きようとしてて……俺にとっては憧れでもあったけど、少し寂しかったんだ」


 名無しさんはかつて仲間に裏切られたとき、俺とスーさんが助けたあとで涙を流した。

 その理由をはっきりと教えてもらえなかったけれど、それは名無しさんが強い女性だからだと思っていた。


 ギルドにおいてはその頭の回転の速さを十分に生かして俺を支えてくれた。


 転生してからも俺に頼りすぎず、むしろスキルを求める俺の甘えを許してくれた。


 彼女は、俺よりも大人だ。それは転生する前から、変わらない事実だ。


 年下の俺は頼りないかもしれないが、それでも頼ってほしい。仲間としての信頼だけではなく、それ以上のものが欲しい。


「仮面を外すことができたら、そのとき、名無しさんに大事なことを言うよ」

「……ヒロト君」

「私はもう、ヒロトさんについていくと言ってしまっていますから。名無しさんも同じようなものですけれど、もう一歩踏み込めるはずですわ」


 名無しさんの仮面の下の唇が、少し震えている。


 けれど、彼女は泣かなかった。微笑んで、自らの仮面に触れ――そして。


「小生と一緒に、ふたりにも行ってもらうよ」

「ああ、もちろん。この世の果てまでついていくさ」

「ギルマスがついていくんですの? むしろ引っ張ってくれる方だと思うのですけれど」

 今回ばかりは、クエストの主役は名無しさんだ。無事に『隠者の仮面』の呪いを解き、戻ってこなくてはいけない。


 名無しさんがついに、仮面の力を発動させる――女神が名無しさんにどんな感情を持っているのかは分からないが、おそらく転移する先は一筋縄ではいかない場所だろう。


 ◆ログ◆

・《名無し》は『隠者の仮面』の隠された力を発動させた!

・《名無し》と周囲の二名が、いずこかに誘われた。


 周囲の景色が変化する――そして俺たちは、周囲を見て目を疑った。


「これは……山の上?」

「それも、すさまじい断崖絶壁ですわね……あっ。ヒロトさん、向こうを見てください、あれは……!」

「……レグナガン皇都……そうか。ここはレグナガンの東にあった場所だ。実装されてなくて入れなかったけど、外から見ることだけはできたよな」


 山ではなく、『岩壁』。人間が上ることなど到底できそうになかった絶壁、その上に俺たちは立っている。


 絶壁の上は平たい台地になっており、こんなところにどうやって建てたのか、大きな洋館が建っていた。前庭が広く、正面から見ただけでは全容が把握しきれないほど広大な屋敷――これが『狭間の妖館』。


「ここにいる誰かが、仮面を作ったということですの……?」

「そうかもしれないな。さて……正面から入るのも、何か誘われてるみたいだが……」

「……どうやらヒロト君の言う通りみたいだね」


 ◆ログ◆

・『狭間の妖館』の扉が開いていく……。


 まだ屋敷に近づいたわけでもないのに、前庭の木々の向こうに見えている館の扉が、ひとりでにギィ、と音を立てて開いていく。


「ヒロトさん、罠があるかどうか調べてきますわね」


 ミコトさんは警戒しつつも、軽やかな足取りで館の入り口までたどり着き、扉を調べる。どうやら、仕掛けはないようだ。


「名無しさんがクエスト主だから、館の中にいる相手に狙われる可能性がある。くれぐれも気を付けてくれ」

「そうだね……全く情報がないというのは、やはり緊張するものだ」


 俺が後ろを固めることにして、名無しさんに先に行ってもらう。後衛にとって最も怖いのは、後ろからの奇襲だ。


 俺より感覚が鋭く、視野の広いミコトさんが前を行く。館の中に入ると、恐ろしく長い絨毯敷きの廊下が、視界の届かないほど先まで続いていた。


「巨人でも住んでるのかっていう広さだな」

「ゲームでもありましたわね、巨人のいる館が。注意して進んで……」

「――二人とも、廊下の向こうに誰かがいる!」


 まばたきをする前には存在していなかった何者かが、廊下の先にいる。逆光になってその姿は見えないが、貴族のような華美な服を着た何者かがそこにいた。


 ◆ログ◆

・《揺りかごを揺らす者》が姿を現した……。

・《揺りかごを揺らす者》は『魂の魔導書』を召喚した!


(なっ……!?)


「くぅっ……!」


 何が起きたのか、ありのままを理解したときには既に遅かった――あれだけ警戒していたのに、頭上に突如として現れた本が、名無しさんに向けて開かれる。


 パラパラとページがめくれる音が響き、名無しさんの身体から淡い光のようなものが抜き出され、本の中に吸い込まれ――閉じられる。


「――名無しさんっ!」

「これくらいの距離など……っ!」


 身体から力が抜け、その場に倒れかかる名無しさんを支える。ミコトさんは忍術を使って加速すると、遥か遠くに見えていた人影に向かって、地面が削れるほどの速度で駆けて一瞬で距離を詰めた。


「はぁぁっ!」


 ◆ログ◆

・《ミコト》は『影分身』を発動した!

・《ミコト》は分身と共に切りかかった!

・《揺りかごを揺らす者》は『マジックカウンター』を発動した!

・詠唱を破棄して『リフレクトシェル』が発動した!


(マジックカウンターに詠唱破棄……間違いない、敵は超高レベルの術士……!)


 ミコトさんが忍刀で繰り出した斬撃の全てが、敵の周囲に展開された障壁で弾かれる。

 次の瞬間には、《揺りかごを揺らす者》は転移魔法を使い、俺と名無しさんの正面に姿を現した。


 ――その顔を見て、俺は思わず思考を止めてしまう。


 彼女の顔の半分は焼けただれており、その上から、無表情の能面のような仮面をつけて、ただれた部分を覆い隠していた。


「……ここは魂の試練を受ける者が、女神によって導かれる場所。この世界を生きる資格があるかどうか、彼女は私によって審判を受ける。あなたたち付き添いの方々は、お望みなら戦いのお相手をしてあげます」


 優雅に微笑みながら、彼女は『魂の魔導書』を引き寄せ、その腕に抱える。


「……名無しさんの魂を返せ……と言っても、聞いてくれなさそうだな」

「ギルマス、話す余地はありませんわ。彼女をすぐにでも倒し、マユさんを……っ」

「俺もそうしたいが……こうなると、この人を倒しても名無しさんが無事とは限らない」

「賢明ですね。しかしあなた方は、今回のことで学習したはずです……こういった形での奇襲を防ぐには、常に魔法を防ぐ方策を考えておくべきです。もっとも、アスルトルム大陸には、魔法防御を常に発動させる装飾具などは簡単に手に入らないでしょうが」


 俺たちの装備に、敵の魔法に対する耐性がないわけではない。それを易々と破っておきながら、アドバイスのようなことをしてくる彼女に、正直なところいい印象は抱かなかった。


 だが、名無しさんの無事を一番に優先するには、今は言うことを聞くしかない。


 ◆ログ◆

・あなたの「カリスマ」が発動!

・《揺りかごを揺らす者》があなたに注目した。

・あなたの「【対異性】魅了」が発動!

・《揺りかごを揺らす者》は抵抗に成功した。


(ふふっ……さすがですね。防げるかどうか、少しだけ緊張しましたよ。今のあなたは、地上における全ての存在の中で、最も『魅了』の成功率が高い……けれど、自制して封印してきたのですね)


 ミコトさんに聞こえないようにと気遣ってくれてでもいるのか、柔らかい声が頭の中に直接響いてくる。


(銀色の髪……長い耳。エルフ……いや、女神に似てる……)


 面影こそ似ているが、俺を圧倒するような力を持つ女神の瞳とは違い、彼女の瞳は包み込まれるような慈愛に満ちていた。


 ――しかし、その美貌に負けて心を許すわけにはいかない。名無しさんの身体は温かく、命に別状はないが、おそらく今の彼女からは魂が抜けてしまっている。


 魂が戻らなければ……そんなことは、想像したくもない。何としても返してもらう、ただそれだけだ。


「あなたがたにできることは一つだけ。彼女がこの世界を選ぶかどうかを見守ることです。ヒロト坊や、そしてミコトちゃん」

「っ……ちゃ、ちゃん付けなんて、馬鹿にしているんですの!? 名無しさんを元に戻してくださいませっ!」


 刀を抜きそうになるミコトさんだが、俺が制すると、素直に言うことを聞いてくれた。俺の代わりに名無しさんの身体を抱きかかえ、心配そうに見つめる。


 俺も同じ気持ちだ――だが、これが仮面を外すための試練だと言うのなら。


 やはり俺たちは、こうして名無しさんに付き添って良かったのだろう。


「……見守るっていうことは。名無しさんの魂がその本の中でどんな状況にあるのか、俺たちに見せてくれるっていうことだな」

「見せるだけならば可能です。呼びかけても、魂の離れた肉体では聞き取ることはできませんし、声は届きません」

「見ているだけでは、何も……っ、ギルマス、それでいいんですの……!?」

「何が起きているかも分からずに、ただ待っているだけで、名無しさんが戻って来なかったら……その方がずっと後悔する。パーティは一蓮托生だ、そうだろ?」


 もし名無しさんが俺たちに隠してきたことを、見てしまうことになるとしても――俺はただ、抜け殻となった名無しさんの身体を見守りながら待っているなんてことはできない。


 ずっと彼女のことが知りたかった。前世でも、生まれ変わってからも俺に足りなかったのは、大事な人の心を知ろうとする勇気だ。


 そうしたときに、拒絶されることを恐れていた。だがそんなことを怖がっていて、相手にどうして求婚できるというのだろう。


「……後で怒られるとしても、俺は名無しさんのことをもっと知りたい」

「いいでしょう。あなたはどうしますか?」

「私は……あなたが二人に危害を加えないように、ここで見ています。私はもう、心の全てをヒロトさんに見せています。名無しさんがそうしていないのなら、今度は彼女の番なのですわ」


 ミコトさんの不安を思うと、俺も待っているべきだとは思う。しかし眠っているようにも見える名無しさんを見ていると、居ても立ってもいられなかった。


「では……私の部屋に参りましょう。そこでヒロト坊やの魂を、魔導書の中に入れて差し上げます。心配なさらないでください、私の目的はあくまで、名無しさん……栗田繭希さんの意志を確かめることにあるのですから」


 『意志』の意味するところが何なのか、俺にも薄々と分かっていた。


 ――転生する前、生きていた名無しさんは、いなくなった後できっと多くの人に惜しまれた。


 命を落として転生した俺とミコトさんは仕方がないことだとしても、名無しさんは、世の理を曲げて転生した。


 陽菜を魔王の転生体にしたように、名無しさんも外すことのできない仮面というリスクを負った。仮面を外すために女神の試練を受けなくてはならないというのは、最初から定められていたことだったのだ。


 ◆◇◆


 狭間の妖館には、《揺りかごを揺らす者》以外には、広大な館を管理するために補佐するメイドしかいないとのことだった。館の掃除を終えるまで主人の所に戻って来ないので、数日間顔を合わせないこともあるという。


 館の主人の寝室、そのベッドの上で、名無しさんは眠り続けている。俺は彼女の隣に寝るように言われ、その指示に従った。


「では……本当にいいのですね?」

「ああ、かまわない。名無しさんを一人にしておきたくないんだ」

「……分かりました。それでは、目を閉じていてください。あなたの魂を、魔導書の中に引き入れます」


 ◆ログ◆

・あなたの魂は、「魂の魔導書」の中に招かれた。


 それは、とても懐かしい感覚だった。視界はあるのに、身体がない。


 俺は、今までとはまるで違う場所を見ていた。知らない町の家を、上空から見下ろしている。


 ――これは異世界マギアハイムではなく、日本の風景だ。


(今ヒロト坊やが見ているものは、名無しさんが見ている風景と同じです)


(……そうか。悪いけど、坊やというのはやめてもらえるかな)


(あなたが生まれた時からずっと、見ていたものですから)


 俺はその言葉に、どう反応していいのか迷った。女神が見ているらしいというだけであまりいい気分はしないのに、他にも観察者がいたとは……。


 それよりも今は、目の前のことに集中する。見下ろしていた家の中に視界が移ると、そこにはスーツ姿の壮年の男性と、同じくらいの年齢のきれいな女性の姿が映った。


 二人はテーブルを挟んで会話をしている。それで分かったことは、二人がどうやら名無しさんの両親であるということ――そして、二人ともが久しぶりに家に帰ってきたらしいということだった。


「美奈も結婚したことだし、そろそろこの家も引き払うべきか。維持にも金がかかるしな」

「ええ、そうね……老後のことは改めて考えましょうか」

「一人娘だけでなく、息子がいればな……まあ、今さらの話か」


 美奈というのは、おそらく名無しさんのお姉さんだ。しかしそうすると、二人は名無しさんの存在を、ないものとして扱っていることになってしまう。


(一人娘……何を言ってるんだ。名無しさん……繭希さんは、いったいどうなって……)


 ――そこで俺は、何が起きているのかを理解した。


 名無しさんが転生したとき、向こうの世界では彼女の存在自体が失われたのだ。


 父親と母親、そして他の誰からも、最初からいなかったものとして認識されてしまっている。


(……陽菜も、そうなのか。初めから、いなかったみたいに……)


(原因不明の死を遂げて、こちらに転生してくることと比べて、どちらが良いか。私には、判別はつきかねますが……これも女神様のご慈悲とお考えください)


 そうなのだろうとは思う。残す人々に、寂しさや悲しみを残さないため――転生するために命を奪うという行為で、女神の手を汚さないため。


 この方法しかないと分かっていても、どうしても空虚だった。


 だが、事故で死んだ俺のことを親がどう考えているのかを見せられたとしても、同じだけ胸には穴が空くだろう。どれだけ転生した世界が素晴らしく、光り輝いていても、そればかりはどうしようもないことだ。


(……しかし、名無しさんは望むのならば、まだ戻ることができるのです)


(……何だって?)


 目の前にある光景が切り替わる――そして次に映し出されたものは。


 姿見のために一面に鏡を張られた、ホテルの一室のようなところ。そこで、白い花嫁衣装を着ている女性が、こちらに背を向けて座っている。


 やがて部屋に入ってきた、スーツ姿の女性が、深々と頭を下げてから言った。


「ご新婦さま、会場にいらしてください。お父様がお待ちしております」


 白いヴェールに顔を覆われたままで、女性の姿は見えない。


 しかし俺は、それが名無しさん――繭希さんなのだと理解した。


 異世界に来てから長い間彼女のことを見ていた。仮面を着けていても関係ない、俺は彼女のことを見間違えることはない。


(……これは、名無しさんがあちらに戻られたとき、迎えるであろう未来です)


 ――その一言に、今は存在しない胸がかきむしられるような思いを味わう。


 異世界に来なければ、名無しさんは、俺以外の誰かと結婚するという未来を迎えていた。


 光景は切り替わり、バージンロードを、先ほど見た父親に手を取られて、花嫁姿の名無しさんが歩いていく。


 神父の前で立つ男性。その顔はよく見えないが、笑顔でいることは見て取れた。


 やがて式が始まり、健やかなるときも、病めるときもという、聞いたことのある言葉を神父が口にする。


(……やめろ……やめてくれ……っ)


 そんなものを見たくはないのに、目をそらすことができない。その次の指輪の交換に進み――そして。


 ――誓いのキスを迎える前に。


 目の前の光景はすべて灰色になり、時が止まったように動かなくなる。


 名無しさんのことを祝福する両親。父親の隣で、母親がハンカチで涙を拭いている。


 式に来ている人たちは緊張した面持ちで、けれど名無しさんの幸せを祝福しようとしている。


 元の世界に戻れば、名無しさんは結婚して、普通の幸せを手に入れるのかもしれない。

 それでも俺は、叫ばずにはいられなかった。


 届かないと言われても、気持ちを抑えることができなかった。


(――行くな、名無しさんっ!)


 その瞬間、目の前の全てが、結晶を砕くように光の粒となって消えていく。


 そうして代わりに俺の前に映し出されたのは――エターナル・マギアをプレイしていたころの、麻呂眉さんの姿だった。


 俺たちとパーティを組んだばかりのころ、本当は俺とミコトさんについていけなくて、楽しいと思いながらも、パーティを抜けることを覚悟していたこと。


 大学に入ってからも、できる限り時間を作ってログインしてくれていたが、履修科目で一つだけB評価を取ってしまい、親に電話で叱責されたこと。


 それでも成績を死に物狂いで維持して、眠いけれどゲームにログインして、俺たちに会うことで癒しを感じてくれていたこと。


 いつも俺やミコトさんにレアアイテムをもらっていたけど、自分で見つけたアイテムをプレゼントして、それを喜ぶ俺たちを見て、心から満足していたこと。


 攻略を進めるうちに知り合いが増えていき、ミコトさんと一緒に、花の咲き乱れる果樹園で、俺にギルドマスターになってほしいと提案したこと。


 初めてのギルドバトルの世界大会で、名無しさんの統率する魔術師部隊の活躍もあって、敵の砦を落とした時のこと。


 アカウントをハックされたあとログインしなくなった俺に、ミコトさんや仲間たちと一緒に、何通も心配のメッセージを送ってくれていたこと。


 ――俺が死んだことを知らないまま、いつかゲームに復帰すると信じていたこと。


 俺のアカウントがハックされた事実を知ったあと、たった一人で犯人を探し出してくれたこと――。


(私はただ、約束を守りたかっただけ。ミコトが私に託した、最後の願いを叶えたかった……ジークリッドの無念を、晴らしたかっただけなんだよ)


 名無しさんの声が聞こえてくる。俺はもう、何も考えることができていなかった。


 こんなにも同じゲームを愛して、喜びも悲しみも共有した仲間と、この世界でもう一度会えてよかった。


 あの世界でしか得られない幸せはあるのかもしれない。だとしても俺は、名無しさんを行かせたくない。


(……傍にいてくれ。これからも、俺と一緒に……)


 俺の我がままだと分かっていた。それでも俺は、届かないのだとしても、ひたすらに願った。


 名無しさんが選んでくれた答えが、この世界で俺と冒険を続けてくれるというものであるようにと。


※本日はあわせて外伝の方を更新しております。

 お時間のあるときにご覧いただけましたら幸いですm(_ _)m

 「コミュ難の俺が、交渉スキルに全振りして転生した結果 設定集・SS」

 http://ncode.syosetu.com/n8312de/

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