第六十九話 夜の女王
※今回は別視点となります。
煉獄の女帝イグニス。炎を操る魔王であり、私とは旧い仲でもある。
私の姉リリスは、イグニスの炎に焼かれて命を落とした。
しかしこの世界において、女神の武器で封印されない限り、魔王の魂は滅びることなく、何度でも復活する。
――『破滅の子』として。
あのリオナという子供を見たとき、私は笑っていた。
「なんて、愚かなの……もう一度同じことを繰り返すっていうのね……」
「リリム様、シスカとナヴァロが到着しました。いつでも仕掛けられます」
私は今、どこにいるか――住民が避難し、私たちと戦おうという者だけが残ったミゼールの町。その、寂れた路地裏だった。
ヒロト・ジークリッド。あの男が、私に消えない印象を残した場所。
私を助けようとしたあの男の目が、忘れられない。
私にとってこのかりそめの身体は、ただ肉の快感を貪るためだけの器でしかない。
――それが、あの男がこの町にいると思っただけで。
夜を統べる女王であり、全ての淫魔を統べる夜の女王たる魔王リリムが、その本来の姿を忘れた。
「……リリム様。あの男に、まだ執着されているのですか」
「ふふっ……分かりやすい男ね。嫉妬してるの? そんな権利、あなたにあると思っているのかしら……ふふふふっ」
私はメイヴというメイドとして、魔力を断ち、完全な偽装を施してミゼールに潜んだ。
パドゥール商会の実質上の主――エレナ・パドゥールの父親を魅了し、あの色欲に呆けた老人に幻夢を見せてやったりもした。
私が本当に身体を使ってあの男に取り入ったのだと、ハインツは思い込んでいた。私がそう思うように仕向けておいたから。
「……なぜです、メイヴ様。貴女は演技でさえ、人間に従うなどあってはならない存在なのに、なぜ……僕は未だに、納得できません」
「ハインツ……あなたの忠誠は買うけれど、主人の領分に意見しないことね」
「ぐっ……ぼ、僕は、貴女のことを……こんな姿になっても……」
「あなたの命をつなぎ留めてあげたのは、ほんの気まぐれよ。勘違いしないでね?」
ハインツは薄緑色の外套を纏い、その下の身体は、全身に包帯が巻かれている。
線が細いながらも整った面立ちといえる顔も、見る影なく痩せこけて、目も落ち窪んでいる。けれど、ギラギラと私に対する憧憬を宿した瞳だけが、可笑しいくらいに輝いている。
唯一この男を気に入っている点があるとすれば、愚かであること。
そしてもう一つは――この町の女たち、そして私の配下として襲った村で何人も女を抱いて、俗世の肉欲に染まりきったその身体で、未だに少年のように、私に抱かれることを夢見ていること。
そんな彼が、可哀想で、とても愛おしくて、消し去りたいほどに無価値で。
でも、ヒロトと戦ったことで、彼には少しの価値ができた。
自分のものになると思っていたエルフの女奴隷を、奪われた――その時彼は、ヒロトを本気で憎むようになった。
その憎悪には価値がある。ヒロトを倒すためなら、彼は何でもする。
そういうふうに使える駒があると、今はとても都合が良かった。
「シスカとナヴァロは、ネリス・オーレリアたちにぶつけるわ。私はアンナマリー・クルーエルを引きつけなければならない。イグニスを呼んだときのために、あの女を自由に動かしておくわけにはいかないのよ」
「……かしこまりました。僕は、あなたと共に……」
「アンナマリーに傷を負わせていたわね、そういえば。でもそれは、あなたの鎧が万全だった場合のこと……壊してしまったでしょう?」
「あ、あれは……ヒロトが……」
人間の中でも、武術を極めた者のみが操れるという、滅びの力を生み出す技。伝承の中にしか存在しなかった技を、ヒロトは人の限界を超えて使いこなしたという。
彼は、私と戦った時とは比較にならないほど強くなっている。
――あのレティシアの娘さえも、今のヒロトには及ばないかもしれない。
この路地裏で会ったとき、あの目に見つめられて、全身が震えた。
無感情でいようとしながらも、どうしても心が震わされて、波が生まれた。
私は彼がいることを知っていて、彼に見られながら、人間の男たちに汚されることを望んだ。
それを許さないあの正義感に、反感を覚えもした。
それと同じだけ、あの理想を見据えた瞳に、心を奪われてしまった。
リオナ――姉さまの魂を持つ少女を、羨ましいと思った。
彼と人間として愛し合って、いつか結ばれるのだとしたら、それはどれだけ満たされることだろう。
私の魂の満たされることのない部分を、きっとヒロトは埋めてくれる力を持っている。
姉さまから奪ってしまいたい。魂ごと私のものにして、溶け合ってしまいたい。
それなら、殺してしまえばいい。どんな方法を使ってでも。
「今のあなたがヒロトと戦っても、勝つことはできないわ……でも、方法は一つだけある。今のあなただからこそ、できる方法がね」
「……今の僕だから、できる方法……リリム様、それを僕のために……?」
「くくっ……あははっ。あなたにはね、リカルド・ジークリッドを殺してもらいたいの」
「……リカルド……あいつを、僕が……」
あの斧騎士の男が守り続けてきた、魔剣カラミティ。
あれは聖水で浄化することなどできはしない。魔剣が発する邪気の胎動の影響を抑えているだけでは、再び覚醒に向かっていく。
イグニスが持っていた時の魔力の種火を残し、教会の結界の綻びから、その邪気を私に感じさせてくれた。
――もう、手に取るだけでいい。
今のハインツには、魔剣を手にする資格がある。
そのための力は、もう与えている。魔王が授与できる『呪印』で。
「今まで忠実に仕えてくれてありがとう、ハインツ。あなたがこの役目を終えたら、ずっと欲しがっていたものをあげる」
「ぼ、僕は……あ、あなたに跪いて、仕えることさえできれば、それだけで……」
「ふふっ……ふふふっ。本当に、それだけでいいの?」
その時だけは本当に可笑しくて、私は笑った。この男はたまにだけ、私を笑わせてくれることがある。
私は配下を作るときに、魅了するか、支配の呪印を使う。シスカとナヴァロのような強いつながりを持つもの同士は、魅了で心を奪うことは難しい。
ハインツは私が作った組織の末端に入り、私の姿を遠くからひと目見た時から心酔しているという。
――でもその目は、人間の姿をしている私なら、手に入れられるかもしれないと言っている。私の全てを思い通りにしようという欲望を持っているのに、そうしない。
それが最後の機会だったというのに気づかないで、ハインツはまだ期待をしている。私が言葉通りに、彼の欲しいものを与えると思っている――魔王の姿に戻ったあとで。
私は、ヒロトに出会ってしまったのに。
「……リカルドを殺す。あなたのためなら、必ず……」
「ふふっ……ふふふっ。そうよ、それでいいわ。もっと早く返事をしなさい」
「はい。僕の全ては、リリム様のために……」
ハインツはその場に跪き、私に向けて剣を捧げ持つ。吸血剣――気まぐれに私が与えた剣。
魔王である私は、多くの呪われた武具、そして財宝を持っている。その中でも吸血剣は、相手の血を吸う度に人間としての理性を失うという特性を持っていた。
――もう、ハインツは人ではない。
ヒロトとの戦いで一度死の淵に追い込まれたときには、彼は剣の呪いに負け、不死者と化していた。人間ではなく、『吸血鬼』――それに成り果てても、彼はまだ気がついていない。自分が、別の存在に変容したことに。
「さあ、行きなさい。一人では無理なら、使い魔をつけてあげてもいいわ」
「……一人で行かなければ。リカルドに笑われるのは、御免ですから」
「彼の息子に負けたのに、まだ意地を張るの? ふふっ……ふふふっ……」
私が笑っても、ハインツは何も言わなかった。
不死者となった彼の感情の欠落は進んでいる。それでも彼なりの誇りや執着、そして渇望は、消えずに最後まで残るのだろう。
ハインツを転移魔術で教会に送り込む。そのとき、後ろに複数の人の気配が生じる――近づいているのは分かっていたし、見られることも分かってはいた。
「そこで何をしている? ミゼールの住民には、避難勧告が出されているはずだ」
青みがかった黒髪を長く伸ばした女騎士――その髪色の帯びた青色を思わせる、青い鎧を身に着けている。後ろにいる亜麻色の髪を結んだ女は赤い鎧を、もう一人の背の高い女は、銀色のハーフプレートメイルを身に着けている。
青騎士団、赤騎士団の団長――そして、聖騎士の側近である、超重量の戦槌を使いこなす女騎士。ジュネガン公国騎士団において、最高の戦力が揃っている。
「……なーんか、不穏な雰囲気だねえ。あえてこの町に残ってるし……今、他に誰かいたのに、いなくなってるし」
「まさか、転移の魔術を……何者だ、この女……!」
「くくっ……あはははっ……良く気がついたわね。ほめてあげるわ……公国の犬たち」
「なっ……わ、わんことは何事ですかっ! 私たちは公国に忠誠を誓った騎士なんだからね! ぷんぷん!」
「マールさん、こんな時くらいは緊張感を持って臨んでください!」
とぼけた女だけど、その槌で全力で打たれれば、私でも打撃が少しは通る。それでも、針で刺すほどの痛みでしかない。
――ひとりずつ縊り殺して血を吸ってあげるのも面白い。オークとトロルにでも犯させて、壊れたあとにヒロトに見せてあげるのもいい。
私の中に、再び全てを壊してしまいたいという衝動が戻ってくる――魔王として生まれた私に植え付けられた、終わらない毒。
「ふふっ……ふふふっ。あなたたち、全員が処女なのね……ヒロトに相手をしてもらえなかったの? そのまま死ぬなんて可愛そうね……あなたたちが味わったことのないような、終わることのない快楽の中で息絶えてみる? 人間の死に方の中では、指折りの幸せだと思うわよ」
「っ……は、破廉恥なっ……!」
「私たちを本気で倒せると思ってるってこと? どうも、そんなに強いようには見えないんだけど。やる気出ないなぁ」
「クリスちゃん、とりあえず駐屯地に連れていったら? そこで保護してもらえば……きゃっ……!?」
「――皆さん、下がってくださいっ! 彼女は召喚術を使おうとしています!」
後ろに控えている二人の女――そのうちの一人、ずっと口を開かなかった小柄なエルフの娘が叫ぶ。
「……深淵より来たれ、我は魔王リリムなり――顕現せよ、我が眷属『バフォメット』」
転移陣と全く異なる原理で、魔界における『私の領地』から、配下の中でも高位の悪魔を呼び出す。
元は中位に位置していたけれど、手駒として使っているうちに敗れる者もいて、今は高位の悪魔を従えられていない。それは私が魔界に戻らず、この世界で戯れていることも理由ではあった。
「山羊頭の……悪魔……こんな魔物を呼び出すとは……まさか、この女……!」
「……そうみたいだね。魔王リリム……召喚の魔術を使う時から、力が膨れ上がってる。こんな存在が、人間の姿をして潜んでたなんて……」
青騎士と赤騎士が私の正体に気づく。その時にはもう、人間の三倍の巨躯を持ち、路地裏の幅を埋める牡山羊の悪魔が、暗い淵からその姿を現していた。
「目を閉じてください、その悪魔の目を見ては……っ!」
エルフの娘は、バフォメットを知っている――この世界において、記録されうる形で顕現したことはほとんどないはずなのに。
バフォメットは召喚士によって呼び出され、召喚した者をその魔眼で魅了し、支配する――そして一つの町を自らの領土と変えて枯渇するまで住人の生気を奪い、姿を消す。 バフォメットの魅了に耐性を持つ者が生き延び、記録を残し、それをエルフの娘が読んだ――そう考えるなら、その知識の広さには素直に感心する。
しかしバフォメットの魔眼はもう発動している。女に対して特に強く効果の働く魅了――それから免れられる者は、千に一人もいない。
「さあ……宴を始めましょうか。相手くらいは選ばせてあげるわ……どんな魔物に……」
「――はぁぁっ!」
――バフォメットの魅了からは逃れられないはず。
それなのに、青騎士が動いた。バフォメットを威圧して一瞬の隙を作り、その間に肉薄して、猛烈な勢いで槍を突き出す。
「グォォォオォッ!」
バフォメットは持っていた大鎌を振るい、青騎士と刃を交える――耳障りな金属音が響き、青騎士が怯む――そのはずが、青騎士は体勢を崩したことを無かったかのようにして、後ろに飛んでいた。
青騎士だけではない、その仲間たちにも、バフォメットの魅了は通じていない――私は内心で舌打ちをする。あのヒロトが、仲間を操られることに対する対策を講じないわけはなかった。
「――痺れて眠れ、山羊男っ! 『雷鳴麻痺弾』!」
赤騎士が雷の魔術を弾として装填し、機械式の弓から放つ――バフォメットは多くの属性に耐性を持つが、雷だけは耐性が低く、全身に稲光が走って動きを止める。
(まさか……狙った? いや、あのエルフの娘が、知識を共有した……!)
ただ博識であるだけではない――あれは、軍師。戦力を最大に引き出す力を持つ者。
「マールさん、お願いしますっ!」
「私だって、やるときはっ、やるんだからっ……このぉぉぉっ!」
振りかぶって、渾身の力で叩き潰す――それだけでは済まない。
「――はぁぁぁぁっ!」
振り下ろした勢いのまま、回転して二撃目、三撃目を打ち込まれ、バフォメットの角が二本とも折れる。
その紫色の光を放つ瞳から、光が消える。
この騎士たちを、甘く見ていた――特に、銀色の鎧を着た女。頭は悪そうなのに、その攻撃力は常軌を逸している。
「はぁっ、はぁっ……ごめんなさい、手加減できなくて……」
「……グォ……オォォッ……」
「それでも悪魔の眷属か……誇りがあるならば、死してなお戦うがいい……!」
屍となったすぐ後に、バフォメットに死霊操術を施す――すると生気を失いながらも、身体が滅びるまで戦う戦士が誕生する。
「……これが、グールド公爵と兵士たちの屍を操った力……外道め……!」
「ほんとにやっかいだね……フィル姐さんが居てくれたらって言いたいとこだけど、こっちもいちおう準備はしてるんだよね」
「アレッタちゃん、持ってきてるよね、聖水。あれを私のメイスに振りかけて」
「……なぜ、バフォメットの目を見ても操られない?」
苛立ちを抑制できず、私の口調は硬質なものになる。亜麻色の髪の、どこかヒロトに通じる面影を感じさせる赤騎士が、不愉快な笑みを浮かべて答えた。
「私たちは、ヒロト君っていう魅力のかたまりと過ごしてきたからね。それ以上に気を引かれる相手なんて、そうはいないんだよねえ……んふふ。まして山羊男なんかに、操られるわけないじゃん」
「……そうか。あの紫色の瞳は……全く気が付かなかった」
「なんかえっちな目だなーと思ったから、全力で叩いちゃった。何度起き上がってきても、地面に埋まるくらい叩いちゃうぞ~!」
――その答えを聞いて、どこか納得してしまう自分がいた。
ヒロトはいつも封じているけど、周りの存在を魅了する力を持つ。それを仲間たちに使うことで、耐性をつけたのだ。本来なら、装備を使わなければ手に入らない高い耐性を――それができたのは、この女たちが、ヒロトに心を許しているから。
「バフォメット。この女達を殺すまでは止まるな……身体が滅びるまで戦い続けよ」
「……オォォォォォッ……!」
これ以上相手をしている時間はない。私はバフォメットにその場を任せ、転移を始める――一度高い場所に出て、アンナマリーの位置を探る必要がある。
――そうする前に私は気がつく。
この街全体に広がる、もう一つの波動。未だに眠る、懐かしい姉さんの気配。
魔王リリスの魂を持つ子供が、この町にいる。あの、エルフの女奴隷とともに。
姉さんにはまだ、眠っていてもらわなければならない。
あの人はきっと、私がヒロトを殺そうとすれば、邪魔をする。
――人間の勇者の味方をして死んだ姉さんは、きっともう一度同じことを繰り返す。
「……なぜ、姉さんをこの町に残したの? ヒロト……」
転移する座標を選べず、私はミゼール中心の市場通りに飛んで、立ち尽くした。
バフォメット、シスカ、ナヴァロ――そして最後に、ハインツが戦いを始める。
「早く戻らなければ、全てが灰になる。今回の勇者は、その運命を変えられるのかしら」
私を封じる忌々しい武器は、もう解き放たれている。
聖杖――その使い手が、ヒロトと共にここに来る。
命を弄ぶ死霊の王が、死を恐れる。それが滑稽であっても――私は、恐れていた。
このまま封じられれば、私は結局何も知ることのないままで終わる。
女神が、なぜ私たちに呪いをかけたのか――それを知らないままでは、どれだけ忌まわしく、飽きに飽いた生でも、終わりたくはなかった。




