第五十五話 集う三騎士/若き公女の悩み
ルシエとイアンナさんは客室に通され、俺、フィリアネスさん、クリスさん、ジェシカさん、メアリーさんの五人で、セディと魔石鉱採掘の件について話すことになった。
セディは俺の髪が短くなっていて驚いていたが、しばらく見つめた後で「似合ってると思います」と言ってくれた。男装していても関係なくなるような、俺を殺しにきているようなはにかんだ表情だったが、今は真面目な場なので浮ついてばかりもいられない。
「今日の朝、魔石鉱の採掘経路を確認するために調査に出していた者が帰ってきたのですが……何か、森に異変が起きていたそうで、行きと帰りで地形が変わっていたそうです」
「探索に慣れている者なら、場所を勘違いしたということも無さそうだな……どういうことなのだろうか」
「んー、なんかごくたまにだけど、空から隕石っていうのが落ちて地形が変わることはあるらしいよ」
「そ、それは恐ろしいな……そんなものが人里に落ちたら、被害は計り知れない」
フィリアネスさん、クリスさん、ジェシカさんの話を聞きつつ、俺はすぐにどういうことか気がついたので、やっぱりやりすぎたかと反省していた。ハインツと戦ったときに『山崩し』を使って、森を切り開いてしまった――つまり隕石ではなく、俺のせいで地形が変わったのだ。
「あ、あのさ。それって、まっすぐに森が切り開かれてたとか、そういうことか?」
「ええ、その通りです。巨大な爪を持つ魔物でも現れたのか、それともやはり竜がいるのか……このままでは、魔石鉱採掘を始めるのは難しいかもしれません」
「い、いや……大丈夫だ。俺が保証するから、地形が変わったことは気にしないでくれ」
「む……? ヒロト、何か心当たりがあるのか? そんな顔をしているが」
「まさか、隕石じゃなくてヒロト君だったりして。あっははー、さすがにそんなこと……」
「ヒロト殿であれば、確かに……修練場で見せた技だけでも、森をある程度切り開くことは可能だ。あの時からさらに腕を上げているのであれば……ヒロト殿、いかがですか?」
ジェシカさんは俺の実力なら無理じゃない、と本気で信じている。こうなると、嘘をついても仕方ないか。
「ちょっと森でいろいろあって、大技を使ったんだ。ごめん、環境破壊みたいなことして……」
「い、色々だと……何か危険なことがあったのではないのか? くっ、昨日私たちと別れたあとに、そんなことが起きていたとは……」
「まあヒロト君が無事だったからいいじゃない。その辺りの事情は、後でゆっくり聞かせてもらうとして……それで、セディ君、そういう事情なら心配はいらないんじゃない? さっそく、うちの騎士団の穴掘りが上手い子たちを採掘に出すよ」
採掘もスキルの一つだが、たぶん専門のジョブがあるだろう。ツルハシなどの掘る道具を装備すれば、騎士団の人々でも問題なく掘れそうだ。
しかしセディ『君』と言われても、セディは気にしてない様子だ。領主として男装しているときは、男として扱ってもらう方がいいんだろうか……俺は彼女の女性としての姿を見ているので、そういうふうにしか見られないんだけど。
「じゃあ、ソリューダス工房に武具をお願いしてたけど、その前に採掘道具を作ってもらおう」
「それは良い考えですね。ヒロトさん、ソリューダス工房の方とはお知り合いなんですか?」
「あのドワーフの老人は、今も健在でおられるだろうか。ヒロト、どうなのだ?」
「……そのことだけど、話しておかないといけないな」
俺はハインツがリリムの配下であったこと、何かの理由でじっちゃんを呼び出し、重傷を負わせたことをみんなに話す。血なまぐさい話を普段聞くことのないセディに聞かせるのもどうかと思ったが、彼女は全て事情を聞いても落ち着いていた。
「そんなことが……ハインツ氏は、最近町から姿を消していたと聞いています。そういった事情があったんですね……町の住人を傷つけたことは、許すわけにはいきません」
セディが言うと、メアリーさんは話を聞きながら紙をふところから取り出し、サラサラと書きつけていたが、書き終えるとテーブルに置いて見せた。
『魔王の手の者が、魔石鉱の採掘を妨害してくる可能性もあります。青騎士団も到着しましたので、両騎士団に連携していただき、採掘と砦の建設を並行して進めたいと思います。それとセディ殿には、一つ相談しておきたいことがあります。町の住人全体に関わることです』
「町の住人全体……そうですか。その可能性はあると思っていましたが、やはり……」
「……そうか。もしミゼールが戦場になったときのために、町の人たちに……」
避難をしておいてもらうということか。そう言いかけたが、クリスさんが俺の肩を指先でトントンとつつく。
「ずっと住んできた町を離れるなんて、人生に関わりかねない一大事だからね。住民みんなを説得するのも大変だし、離れたがらない人だっていると思う。パニックを起こさないように、少しずつ周知していくしかないね。場合によっては、避難の必要はないかもしれないし」
「ヒロト殿たちが魔王を弱らせ、ルシエ殿下が『魔杖』を使って魔王を討つ……それしかないと分かってはいますが、魔王もさるものです、戦いは激しいものになるでしょう。私の方からも部下に命じて町の人々の説得を行います」
「そうしてくれると助かる。俺もできるだけ早く魔杖の回収に向かうよ」
ジェシカさんも居てくれると、やはり頼りになる。彼女の部下なら、説得を任せても大丈夫だろう――もし難しい場合は、それこそ俺の出番だ。
住人に避難してもらうということは、俺の家族や知人もミゼールを離れてもらうということになる。リリムがどう動くかによるが、最悪の手段を使ってこないとも限らない――俺の大事な人を人質に取るなんてことも、可能性は否定できない。
ハインツがまだ生きているなら、もう一度リリムの命を受けて来るかもしれない。それも警戒しておく必要はあるだろう……リカルド父さんには、ハインツのことを伝えておかなければ。
「魔石の採掘については、ミゼールの財政建て直しのことも考えると急を要する。クリス、ジェシカ、できるならば砦の建設と魔石鉱の採掘については、お前たちに指揮を取ってもらいたい」
「了解、フィル姐さん。魔杖を取りに行くときは、ヒロト君のことを頼んだよ……っていっても、私が言うことじゃないけどね。ヒロト君とフィル姐さんの方がめちゃ強いんだし」
「そんなことないよ。心配してくれてありがとう。ジェシカさんも来てくれてありがとう、本当に助かるよ」
「っ……に、任務ではありますが……そう言っていただけるのならば、何よりの励みになります。できるならヒロト殿と共に戦いたいですが、今は自分の役割を果たしましょう」
ジェシカさんは黒髪を撫でつけてしきりに恐縮していたが、最後には騎士の顔になり、力強く言い切る。フィリアネスさんとクリスさんも頷きを返す――騎士団のトップを担う三人は、元々こういった空気の中で任務を遂行してきたのだろう。
「んふふ……ヒロト君って仕事をする女性に弱いのかな? やっぱりフィル姐さんの影響かな」
「そ、そうなのか……? 改めてそう言ってもらったことはないと思うが……」
「ま、まあそれは確かにあるけど。やっぱり、みんな立派だと思ってさ。俺も見習わないと」
思わず感心して見入っていたので、クリスさんに茶化されてしまった。確かに俺は、フィリアネスさんの女騎士としての凛とした姿に惹かれたことは確かなのだが、改めて言われると照れてしまう。
黙って座っていたメアリーさんが、す、とセディに何か書いた紙を見せる。それを手にとったセディは、口元に手を当てて苦笑した。
「メアリーさん、大丈夫です。ボクも同じことを思ってますから……」
「…………」
◆ログ◆
・《セディ》はつぶやいた。「ヒロトくん、何人の女の人と親密な関係なんだろう……」
・《メアリー》はつぶやいた。「何よりも遵守すべきは軍規です。それを忘れずにいただきたいです」
(や、やっぱり……癖になっちゃったのか、セディも。メアリーさんもやっぱり積極的だな……)
メアリーさんはフードで顔を隠していたが、ぷぅ、と頬をふくらませているように見えた。公国の誇る軍師の見せる子供っぽい仕草を見られるのも、彼女の上官である俺の特権といえるだろうか。
◆◇◆
元々ミゼールから魔石鉱のある鉱山に向かうとき、森を南に迂回しなくてはならなかったそうで、俺が森を切り開いたことで距離のロスが少なくなったとのことだった。
しかし、森を切り開いたことで何か影響があったりはしないかと気になったので、俺は森の外れにあるネリスさんの庵を訪ねた。もう一つ重要な理由として、ルシエに杖マスタリーを指導してもらうには、ミゼールで一番の杖使いでもあるネリスさんに頼みたかったということもある。
ルシエを連れてネリスさんの庵を訪ねると、ミルテは留守にしていた。ステラ姉のところで勉強しているというので、終わるまでに間に合うかわからないが、俺も後で久しぶりに訪問したいところだ。
「失礼いたします……ここが、ミゼールの賢者様のおうちなのですね」
「な、なかなか風格を感じさせますわね……あの妖しいお面からして、妖術師……いえ、ただものではないという空気がとてもします」
ルシエは素直に感心していて、イアンナさんは言葉を選ぶのに苦労している様子だ。それを見ていたネリスさんは腕を組んで苦笑していた。
「なんじゃ、公女は礼儀ができておるのに、侍女は慇懃無礼じゃな。そんなことで役目が務まるのか?」
「はっ……い、いえ、わたくしは何も失礼なことは考えておりません。賢者様も大変お若く……あら? こんなにお若い方だったのですか? 偏屈な老婆というイメージがあったのですが」
「ほっほっほっ……お主にはあとでしかるべき仕置きをくれてやろう。わしの特製『苦茶』を飲めば、お主の性格も少しは正されるじゃろう」
「ひぃっ……そ、そうですわ、わたくし、ヒロト様のご家族にご挨拶をしませんと……姫様のこと、どうかよろしくお願いいたします。そ、それではっ……!」
「あっ、イアンナ……っ」
イアンナさんは慌てて逃げていってしまった。あの困った性格を正してくれるなら、『苦茶』、ありだと思います。俺は飲みたくないけど。
「も、申し訳ありません……イアンナは悪気があって言ったわけではないんです。彼女は元から、その……何というか、言葉が誤解されやすいというか……」
「誤解というか、本心がぽろりと出るのは悪いくせじゃな。まあ、わしはああいった失礼な奴も嫌いではないがのう。いじめがいがあって良い」
それについてはおおむねネリスさんに同意だ。俺も昔、イアンナさんにお仕置きをしたことを思い出す――あの時もらった房中術は意外と人生のクオリティを向上させてくれている気がする。まあ、確かに言動は失礼だが悪い人ではないので、もういじめたいと思ってはいない。いじめ、カッコ悪いという名言もある。
「ルシエ殿下は、見るからに清らかであらせられる。あのイアンナという娘も、殿下のことは本気で慕っているのじゃろうな。わしも長く生きてはおるが、自然に敬愛する気持ちが湧いてくる。このような辺鄙な庵を訪ねていただき、まことに感謝いたします」
「い、いえ……私こそ、急に訪問してしまって申し訳ありません。ヒロト様が、ぜひ賢者様に引きあわせたいとおっしゃって……教えを乞わせていただければと思い、ここに参りました」
彼女はジェシカさんの護衛を受けていたとはいえ、ミゼールには公式に訪問しているという形ではないので、プリンセスであると一目で分かるような服装はしていない。しかし上品な白いワンピースを身につけ、大きく開いた首元にはネックレスをつけている。ストロベリーブロンドの髪に、宝石こそついていないが白銀の輝きを放つティアラをつけて、今日は髪を降ろしていた。背中に届くくらいの長さで、どうやってこんな髪質にしたのかと思うほどサラサラとしている。初めて会った頃と比べると、祝祭での演説を経て容姿が垢抜けたように感じた。
「ヒロトはこの国における重要な地位を約束されたそうじゃな。ルシエ殿下は、ヒロトのことを既に見初められておいでになる……そうお見受けしたが、どうじゃな?」
「み、見初めただなんて……私は、ヒロト様を、一方的にお慕いしているだけで……あっ……!」
ネリスさんに急にふられて驚いたのか、ルシエは決定的なことを言ってしまう。そうしてから口を塞いでも、もう遅かった――俺にも、しっかり聞こえてしまった。
「ち、違うんですっ……わ、私は、ヒロト様がすぐに首都からいなくなってしまったので、もう会えなくなるのではないかと思って……どうしてもお礼がしたくて、わがままを言ってミゼールに来たんです。父上……陛下も、私が行くことには意味があるからと、許可をくださって……で、ですから……っ」
「大丈夫だよルシエ、慌てなくていい。ちゃんと、気持ちは伝わってるから」
「っ……は、はい……ヒロト様……」
違うんです、とルシエは言うが、何も違わなかった。どれだけ俺を慕っているか、言葉を尽くして語ってくれたようなもので、胸が熱くなってしまう。
ルシエは耳まで真っ赤になってうつむいてしまった。まだ十歳の彼女に、こんな恥ずかしい思いをさせるのはしのびない。
ネリスさんは穏やかに笑っていた。イアンナさんへの態度と違って、ネリスさんのルシエへの接し方は、まるで親のように優しく、柔らかいものだった。
「何も焦ることはない、ヒロトはすべて受け入れてくれる。なにせ歩き始めたばかりの頃から、この子は周囲を幸福にする甲斐性を持っておったからな。殿下も公女の務めに縛られることはあろうが、ヒロトがここまで公に認められる存在になっているのじゃから、問題はないじゃろう。といっても、ミゼールまではヒロトの演説については、まだ大っぴらには伝わっておらぬがな」
ネリスさんはそう言ってから、俺の方を見やる。その目はルシエに対してのものと違い、彼女が昔から時折見せる憂いを帯びた瞳だった。
「……ヒロト。ミゼールを離れていた間の出来事については、ミルテに聞いた。後でそのことについて、二人で話させてくれぬか」
「うん……俺も、ちゃんと話しておきたかった。その前に、ルシエに杖の使い方を教えてあげてほしいって頼みに来たんだ。ネリスさん、お願いしていいかな?」
「私が杖を使えるようにならなければ、『魔杖』を手に入れることができても、力を発揮することができません。賢者様にお教えを賜りたく存じます」
『魔杖』という単語を耳にして、ネリスさんは少女の姿ながら、並々ならぬ緊張を感じさせる面持ちに変わる。そして全てを理解したというように、艶のある緑みを帯びた黒髪を撫でつけながら言った。
「わしも杖を極めたと言えるほどではないが、教えられることは多かろう。短い間で使いこなすには、相応に厳しい鍛錬を積む必要がある。それでもよろしいか?」
「はい、どのようなことでもお申し付けください」
ネリスさんは頷くと、壁にかけてある木の杖の一つを持ってきて、ルシエに渡す――杖といっても、まだ小柄なルシエには、軽くて小さいものを選んでもずっしりとした重みがあった。簡単に手に入る杖ではないように感じたので、情報を確認する。
◆アイテム◆
名前:枯れた世界樹の枝
種類:杖
レアリティ:ユニーク
攻撃力:(3~10)×(0~1)D1
防御力:10
魔術倍率:105%
装備条件:杖マスタリー10
・世界樹の折れた枝の一片を切り出して作った杖。世界樹に通じる力は失われている。
・攻撃時に与えたダメージの1%、ライフを吸収する。
・1分でマナが5ポイント回復する。
◆◇◆
(世界樹の枝……枯れてても杖としてここまで機能するのか。練習用としては十分だな)
『杖装備』がないうちは装備しても使いこなせないが、それでも持ち続けていれば『杖マスタリー』を取得できる。ネリスさんの『育成』スキルもあるので、取得までそこまで時間はかからないだろう。
魔術倍率105%とは、元の威力を100%として5%だけ増加するという意味だ。中には100%以下のものもあって、魔術が弱くなるかわりに特殊な効果を持っている杖というのも存在する。基本的には倍率が高い方が優秀だ。
杖の長さはほとんどルシエの身長と同じくらいだが、なんとか持つことはできた。しかしまだ危なっかしく、バランスがとれるまでネリスさんが支える。
「少し重いがの、練習用にはこの杖が良い。ふらつかぬように持てれば、だいたいの杖は使うことができるようになる」
「ありがとうございます……きゃっ!」
ネリスさんがそっと手を離すが、ルシエはふらついてしまう。そうなる可能性を見越していた俺は、杖をキャッチし、ルシエの身体も受け止めた。
「広いところで練習した方がいいな」
「うむ、そうさの」
「す、すみません……私、頑張ります。ちゃんと使えるようになって、ヒロト様のお役に立ちたいです……」
俺の腕の中で、ルシエは顔を赤らめつつ言う。その真っ直ぐな好意が眩しいが、杖の練習は魔王と戦うためのものでもある。そのことを分かっていても『俺の役に立ちたい』と言ってくれるルシエを、なんとしても守り抜かなければと思った。
◆◇◆
ルシエは慣れない杖の扱いを頑張って練習したが、見ているうちに疲労が動きに出てきたので、休ませることにした。考えてみれば首都から普通なら三日かかるところを、ルシエは出来る限り早く俺の所に来たいという一心で、二日で到着したというのだから、元から疲れていても無理はない。
「んぅ……すぅ……すぅ……」
ルシエはネリスさんのベッドを借りて休んでいる。俺はしばらく寝顔を見たあとで、寝室を出てきた。居間ではネリスさんがお茶を淹れてくれていて、いい香りがする。
「頑張って杖に慣れようとしておったし、元々疲れておったのじゃろうな。少し休ませてあげなさい」
「うん。ありがとう、ネリスさん」
「わしの布団に姫君を寝かせるなど、恐れ多いのじゃがな……そういえば、姫はどこに宿泊されるのか決まっておるのか?」
「起きたあとに聞いてみるけど……俺の家ってこともあるかな? 最初にセディの家に行ってたから、領主の館でもてなすのが筋って気もするけど、それも含めてルシエに聞いてみないとな」
「……お主をあれだけ慕っておるのじゃからといって、お主の家に泊まると、必ず何か起こりそうじゃからな……いや、お主ならもう止めはせぬがのう。かといって、わしもただ見ておるつもりはないが……」
こうして改めて見ると、若返りの薬を二度も飲んだから当然だが、ネリスさんはあどけなさまで出てきてしまっている。十六歳のネリスさんはけっこう小柄で、俺より小さいこともあいまって、感覚がおかしくなってきてしまっている――尊敬していることに変わりないが、何か落ち着かない気分だ。
(この人に精霊魔術を教えてもらって……その過程で色々してもらったと思うと、今さら恥ずかしくなるな……)
「む……? ふふっ……ヒロト、そのお茶は苦くはないのじゃから、冷めぬうちに飲んだ方がよいぞ。それとも、わしが冷ましてやろうか。どれ……ふー、ふー。これでどうじゃ?」
「あ、ありがとう……いや、そこまで猫舌でもないんだけど」
「猫舌……? ああ、猫は熱いものが苦手じゃというからのう。ミルテも風呂はぬるい方が良いと言っておる」
ミルテは猫獣人に化身する獣魔術師だからな……久しく猫耳姿を見てないが、ちゃんと修行は続けてるそうで、また見てみたくはある。昔は獣化したミルテの身体能力の高さに驚かされたが、今ならマウントポジションを取られることもないだろう。
そして俺は思い出す――ミルテの母も獣魔術を使い、俺たちの前に立ちはだかったこと。ミルテの両親は、リリムに支配されていたこと……。
「ネリスさん。俺、ミルテの両親に会ったんだ」
「っ……そうか。その顔を見ると……どうやら、敵として出会ってしまったようじゃな」
「ああ……ミルテから聞いてると思うけど、グールド公爵は魔王リリムの傀儡にされて、国家への反逆を企ててた。俺はグールドが兵を起こす前に、仲間と一緒に、首都にあるグールドの別邸に潜入したんだ。そこで、グールドの部屋を守っていたシスカという女性、ナヴァロという男性と戦った……」
ネリスさんは目を閉じて、俺の話を聞いていた。そして薄く目を開くと、俺を見やって言う。
「……ヒロトよ、お主はどう思った? 我が娘……シスカと、その夫ナヴァロを、救い出すことはできると思うか……?」
「必ずできるよ。俺がもっとしっかりしてれば、二人をここに連れて帰れたかもしれない……でも、同じミスは繰り返さない。次に会ったときは、絶対に何とかする。俺は何としてでも、二人をリリムから取り戻すよ」
「……ありがとう。ヒロト……そうか。シスカとナヴァロを操っているのは、リリムじゃったのか。わしはリリムの傀儡の一人と戦っただけじゃったのか……口惜しいことじゃ。賢者などと、わしにふさわしい呼び名ではない……魔王からすれば、歯牙にもかけぬ存在でしかないのじゃからな」
ネリスさんは怒りのあまりか、唇を噛む。彼女は、自分を責めている……。
俺は席を立ち、ネリスさんの肩に手を置いた。
ネリスさんは俺の手に自分の手を重ねて、ぎゅっと痛いほどに握る。彼女の身体は震えていた――それは怒りだけではなく、別の感情も含まれているように思えた。
「わしはお主と出会うまでは、いつか命に代えても娘夫婦を取り返そうと思っておった。しかし幼いミルテを見ていると、どうしても心が決められなんだ。情けない……老いさばらえた身体でなくなったのは、何のためじゃ。自分のためではなく、わしの命を継ぐミルテのために、尽くさねばならぬのに……だのに、わしは……」
ネリスさんはぽろぽろと涙をこぼす。そして帽子のつばを引っ張って、顔を隠してしまう。
若返る薬を使ったら、俺がネリスさんを見る目が変わるかもしれない。そう思う気持ちと、若返って全盛期の力を取り戻したなら、娘たちをすぐにでも助けなければという気持ち、その両方があったんだと思う。
でも、一人では助けられない。彼女はそう分かっていても、自分を責めずにはいられなかった。
そして、罪悪感にさいなまれると分かっていても、二度も若返りの薬を使った。それが、なぜなのか……。
「……俺はミルテをネリスさんが育ててくれたこと、ミルテはすごく嬉しく思ってると思うよ。俺が言うまでもないことだと思うけど、ミルテはネリスさんのことが大好きだから」
「……そうじゃな……分かっておる。あの子は娘に似て、優しい子じゃからな……うっ……く……」
ネリスさんは声を殺して泣きだしてしまう。もう隠し切れないと思ったのか、彼女は俺に背を向けた。
「す、すまぬ……こんなつもりではなかったのじゃがな。若返ったことで、感情も娘のようになってしまって……大丈夫じゃ、少しすれば落ち着く。悪いが、外で時間を潰してきて……っ」
大人になるというのは、誰かが泣いている時に、してあげられることが増えるということだと思った。
本当ならおこがましいと思うようなこと。それでも俺は、座っているネリスさんを後ろから抱きしめた。
「ヒロト……な、何をしておるのじゃ。わしはこう見えても、八十を超えたばばなのじゃから、ちょっと泣いたからといって、なぐさめる必要はないのじゃぞ」
「それでも、こうしたいと思ったんだ。ずっと、ネリスさんが震えてるから」
「っ……」
怒り、悲しみ、そしてリリムへの恐れ。そんなものを味わえば、生きた年月なんて関係なく、心が悲鳴を上げる。
ネリスさんは俺の言うことを否定しなかった。ローブから覗く部分を見るだけでもわかっていたが、その身体はとても華奢で、十六歳としても小柄な少女のものに他ならなかった。
「……不思議なものじゃな。サラサが言っていた赤ん坊のことを、わしは変わった子どももおるものじゃ、というくらいにしか思っておらなんだ。それが……なぜ、お主の言葉はいつも、わしの心を動かすのかのう……」
ネリスさんは俺の手に触れ、そしてしばらく何も言わずにいた。
彼女は泣いているようだった――俺はせめて彼女が落ち着くまで、傍にいてあげたいと思った。
◆◇◆
ルシエが起きたあと、俺は彼女を宿泊先に送っていくことになった。
「あ、あの……ヒロト様に、お願いしたいことがあるんです」
「お願いしたいことって?」
何気なく聞き返すと、ルシエは俺を見上げて、顔を真っ赤にする――そして彼女は胸に手を当て、勇気を振り絞るようにして言った。
「……お兄さまとお呼びして、いいですか?」
「……えっ? お、お兄さまって、俺のことをか……?」
「は、はい……大きくなったヒロト様を見ていたら、そうお呼びしたいなと思って……」
親しくさせてもらっているというか、婚約してるも同然の状態のお姫様に、『お兄さま』と呼ばれる。
正式な妹はソニアがいるが、それとは別なのだ。ルシエはフィリアネスさんもお姉さまと呼んでるし、親しくしてる相手にそういう呼び方をしたいほうなのだ……だ、だが……。
「……だめ、でしょうか……?」
(ソニアの『お兄ちゃん』とはまた違う、破壊的な何かを感じる……『お兄さま』って、ほんとに呼び続けるつもりなのか……!?)
「……だ、だめじゃないけど……みんなにたぶんつっこまれるけど、そこは大丈夫か?」
「あ……」
それは驚きの声ではなく、喜びをあらわす声だった。不安そうだったルシエが、とても嬉しそうに笑う。
「だ、大丈夫です……っ、お兄さま……お兄さまをお兄さまとお呼びできるなら……あぁ、良かった……変なことをいう子だって、嫌われてしまうかと思いました」
「ルシエみたいな子にそう言われるのを、嫌がる男なんて居ないと思うけどな」
「……お兄さま」
確か、ルシエには母親の違う弟がいるんだったな。普段は姉という立場だから、年上のきょうだいに憧れてるのかもしれない。
彼女は嬉しそうに微笑み、俺の隣に並んだ。どうやら、同行したいということらしい。
「……お兄さまは、これからどちらにいらっしゃるのですか? ご一緒してもよろしいでしょうか」
「俺は今から、パドゥール家に行こうと思ってるんだ。ネリスさんの孫のミルテが、そこに行ってるって話だからさ。俺の幼なじみなんだ」
「そうだったのですね。では、私と同じくらいの年ごろの方たちでしょうか」
「うん、そうそう。ルシエが来たら驚くと思うけど、仲良くできると思うよ」
「わぁ……嬉しいです。ぜひ、ご一緒させてください」
俺はルシエに手を差し出す。彼女ははにかみながら俺の手を取り、歩くうちに、少しずつ手に力をこめて、最後には恋人つなぎのように指をからめてきた。
(い、意外に積極的だな……このアピールは、十歳といえど……)
「……お兄様の手、あたたかいです。こんな手で触れられたら、きっと、心の中まであたためていただけそうです」
おしとやかな口調ながら、この子は末恐ろしい――そう思いつつ、俺はたじたじになりながら、ルシエと共にパドゥール家へと歩いていった。




