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第四十七話 賑やかな会食/解放、そして/ナイト・レベリング

 ユィシアは森を出て、町の見える場所まで来ると、俺の手をきゅっと握ってきた。


「ん? どうした、ユィシア」

「……私は、巣の様子を見に行く。眷属に任せておいてあるけど、少し心配」

「そうか。まだ、賑やかなとこは慣れないか? これから、うちにみんなが来てくれると思うんだけど……」


 もしかしたらユィシアが遠慮しているのかもしれない。そう思ったが、ユィシアは微笑んで首を振った。


「ご主人様が人に慣れたのと同じように、私も慣れたい。時間がかかっても」

「……そうか。わかってたのか、俺がどういう……」


 心が伝わるというのは、そういうことだ。ユィシアはもう、俺がどんな魂を持ち、この世界にどんな方法でやってきたのかも知っていて――何もかもを知り尽くしたとは言わず、俺を見ていた。


 そんなことより何より、俺が意識を傾けるべき問題は、ユィシアに唇を重ねられている事実だった。


「んっ……」

「っ……ゆ、ユィシア……大胆だな」


 急にキスをされるなんて、思ってもみなかった。しかしユィシアは、何を驚いているのかという顔をする。


「唇を触れ合わせるのは、挨拶。さっきまでしていたことよりも、ずっと表面的で、優しいつながり」

「……あ、荒々しかったかな、俺。ごめん、もっと優しくしないとな」


 情緒が目覚めるとは、ロマンチストになることと同意義なのだろうか。ユィシアを見ているとそう思う。


 ユィシアは銀色の髪に触れながら、もう一度俺の頬にキスをして、それだけでは足りなかったのか、首元に顔を埋めてもう一度キスをする。まるでじゃれついているかのように。


「……刻印をつけた。これが、私と一緒にいたしるし」

「わっ……こ、これはちょっと……ユィシアッ!」

「大事な時にはちゃんと呼んで。でも、呼ばなくても傍にいる」


 ユィシアはそう言い置いて、呼び止めるのも聞かずに後ろに飛ぶ――そして、凄まじいスピードで飛翔していく。

 あんなふうに飛べたら、どんな気持ちになるだろう。俺はまた近いうちに、ユィシアに空を飛ぶ感覚を教えてもらおうと思った。もちろん、魔術が使えたところで、皇竜のように飛ぶことはできそうにないけど。


 空中で風の精霊魔術を使って、姿勢制御するとか、転移の魔術を使うとか。将来的には、今より高度な移動法を習得しないといけない。リリムも空を飛んでいたし、リオナにも翼があった――魔王が基本的に翼を持つ者なら、俺も飛べないと話にならない。


 そんなことを考えていると、まだユィシアに思考が届くみたいで、しばらくして返事が伝わってきた。


(私がご主人様の翼になる。ご主人様は、練習すれば竜にもっとうまく乗れる)


(ああ、努力してみるよ。じゃあまた後でな、ユィシア)


 ユィシアは微笑むような気配を残して、おそらく竜の洞窟に入っていった――洞窟の中までは、念話は届かないようだ。



 ◆◇◆



 そして家に帰ってくる頃には日が暮れていたが、燭台の明かりに照らされた我が家の居間では、盛大な夕食会が催されていた――俺が帰ってきたことを祝うために。


「えー、ここにいるのが間違いなくうちのヒロトです。俺に似てきていることからも、そこは疑う余地がないと思って欲しいところだ。いや、信じてもらわないととても困る」

「あなた、説明が難しいのは分かるけど、変な口調になってるとますます怪しまれるわよ。みんなが少し見ないうちに大きくなっちゃったけど、うちのヒロトよ」

「え、えーと……姿は変わりましたけど、それは事情あってのことで……」


「ほ、本当に……? 本当にヒロトくん? まだ八歳くらいじゃなかった?」

「……ヒロトちゃん、こんなに大きくなって……ど、どうしてそんなことになったの?」


 ターニャさんとフィローネさん、久しぶりに会ったな……すっかり大人の女性になった。俺がゼロ歳のとき、若い娘さんたちだと認識していたが、今はお姉さんたちという感覚だ。

 二人と一緒にモニカさんもいる。彼女たち三人も久しぶりに話すようで、先ほどから和気あいあいとしていた。


「まあ、リカルドさんが言うほどお父さん似でもないけどね。レミリアそっくりってわけでもないけど、どっちの面影も入ってるわね」


 モニカさんが言うと、ターニャさん、フィローネさんも揃ってうなずく。


「確かにそうね。赤ちゃんの時から何か、雰囲気が少しレミリアに似てるのよね」

「ええ。でもヒロトちゃんはヒロトちゃんよ。大人になるっていうのは、一人の個人として確立するってことでもあって……あ、せっかく会えたのにごめんなさい、何か硬い感じになっちゃって」

「いえ、俺は会えただけで嬉しいんで……俺がヒロトだって認めてもらえるだけでも、感激してますよ」


 父さんが「ほう、一人前に格好つけてるじゃないか」とつぶやいているが、まあそれは良しとしておこう。

 ターニャさんとフィローネさんとは長いこと会ってなかったから、雰囲気の変化が新鮮に見える。ターニャさんのお洒落は大人びた方向に変遷して、フィローネさんは……その、何というか、どこがとは言いづらいが確実に成長していらっしゃる。以前より全体的にほっそりとしたのに、栄養が母性的な部分に集中してしまったかのようだ。


(そんなことばかり気にしてちゃいけないな。いかんせん、大きくなってから浮つきすぎだ)


 三人揃った姿を見てつい考えこんでしまったが、モニカさんの言葉で、改めて確認できたことがあった。


 転生者であるところの俺だが、やはり前世の姿を引き継ぐなんてことはなく、れっきとしたリカルド父さんとレミリア母さんの息子ということだ。


 リオナが転生前の面影を残しているのは、彼女の境遇からくるものなのかもしれない。魔王に親がいるものなのか、詳しいところは良くわからない――命を落として転生するのでなければ、元々の姿を保っているとか。いや、陽菜は黒髪で、リオナは成長するにつれて明るい色に変わりつつあるが、栗色の髪をしているので、そのままでは決してないのだが。


「ヒロト、ぼんやりしてないで、食事が一段落したらみんなのテーブルを回って挨拶するのよ」

「あ……う、うん。そのつもりだよ」

「ははは、まだたまに頼りないところもあるな。まあそういうやつほど、何故かモテたりするもんだが」

「あら、何故かじゃないわよ。ヒロトみたいな子だったら、私がみんなの立場だったら……んー……」


 レミリア母さんは話の途中で俺を見て、目を細める。そして席を立つと、俺の横に立って頭に手を置いてきた。


「そんなに変でもないけど、やっぱりヒロトは短いほうが似合いそうね。あとで髪を切りましょうか」

「そ、それは助かるけど……みんなの前で言われると、ちょっと恥ずかしいな」


 親に髪を切りなさい、なんてみんなの前で言われると、気恥ずかしいことこの上ない。レミリア母さんはそんなことには構わず、にこ、と楽しそうに笑った。


「そうか、俺の出番か。断髪式といえば男の行事……!」

「せっかく集まってくれたから、食事のあとで、みんなではさみを入れてあげるのはどうかと思って」

「み、みんなで……そうだな、俺は不器用だからな……」


 父さんがヒートアップしたところで、母さんがクーリングダウンする。立ち上がりかけた父さんはおとなしく席に座った。夫婦の力関係がとてもよくわかる。


「一人で切ってもらわないと、ざんばら髪にならないかな?」

「そういうことなら、最後に私が整えてあげる。町の調髪店で仕事をしてるから、任せてくれて大丈夫よ」


 ターニャさん……その異世界にあるまじきスタイリングは、本当にプロの理容師として鍛えたものなのか。いや、異世界においては「調髪」というので、調髪師ということになるだろうか。彼女の容姿と持っていそうな技術からすると、美容師で良い気がするが。まあ俺にもそれらの違いは厳密にはわからなかったりする。


「ターニャは調髪店で、フィローネは診療所でお仕事してるのよね。最近はどう?」

「毎日忙しいわよ。家にいるとお見合いしろって親がうるさいから、今は仕事に生きるって言ってるわ」

「私は……レミリアが大変だったとき、何もできなかったから。診療所の仕事を元から手伝ってはいたんだけど、正式に医術師の資格を取ったのよ」


(調髪師、医術師……それはジョブなのか、とても気になるところだな)


 実装されていなかった職業の名前が出ると、どうしても内容を確認したくなってしまう。できればスキルリストに加えたいというのは、俺の行動原理の半分くらいを占めている。


 しかし赤ん坊の頃にお世話になったとはいえ、再会した途端にスキルを頂こうなんて、そうは問屋が卸さないのではないだろうか。今の俺には特別な関係を結んだ女性が二人もいるというのに。


「ヒロト、そういうわけだから、安心してみんなに切ってもらいなさい。せっかくみんな集まってくれたんだから……サラサさんとリオナちゃんは、今日はちょっと来られないみたいだけど」


 俺もそのことは気にしていた。リオナはサラサさんを、教会にいるかもと言って探しに行ったが、そのあとサラサさんを家に連れてきてくれてはいない。


 パーティメンバーの位置を確認することができるので、俺は念のためにリオナの位置を確認する――すると。



◆情報◆


・《リオナ》 現在位置:ローネイア家



(リオナは家にいるな……何か用があって、うちには来られないのかな)


 そういうこともあるだろうから、過剰に心配することじゃないのかもしれない。

 しかしどうしても引っかかる。後で、夜遅くなるかもしれないが、一度様子を見に行った方がよさそうだ。


「では……ヒロト、乾杯の音頭でも取ってみるか?」

「おにーたん、そにあもやるー!」

「ははは……じゃあ、俺が持ち上げてやるから、『乾杯』って言うんだぞ」


 母さんがソニアに子供用のジュースの入ったコップを持たせ、こぼさないように俺がソニアを持ち上げる。


「えーと、それじゃ……妹と一緒に失礼します。乾杯!」

「かんぱーい!」


『かんぱーい!』


 町から来てくれていたフィリアネスさんたちも、マールさん、アレッタさんとテーブルを囲んで盃を掲げている。ネリスさん、ミルテ、教会のセーラさんも来てくれていた。

 名無しさんとウェンディは拠点にしていた宿にしばらくぶりに戻ったので、まだ荷物の整理をしているそうだった。ミコトさんも同じ宿を使うそうで、手伝いをしている――明日の朝には合流できそうだ。



◆◇◆



 母さんの料理スキルは、しばらく食べないうちに3ほど上昇していた。なぜそんなに上がったのかというと、母さんは織物を作るだけじゃなく、町の料理店の手伝いもしていたらしい。


「リカルドが、町の料理店が美味しかったって言うものだから。どんなものかって、料理人見習いとして教えてもらってきたの。ソニアも最近は、ひとりで平気なくらい元気に駆けまわってるから、手がかからなくて時間ができちゃって」

「うん、そにあひとりで大丈夫!」

「本当に元気だな……森には行かないように気をつけろよ?」

「……いってないよ?」


(こ、この反応……さすが俺の妹というべきか。まさかもう、冒険したりしてないか……?)


 転生者でスキルを所持しており、この世界の攻略情報をある程度知っている俺ならまだしも、ソニアがどうやら森に行っているらしいというのは、ちょっと心配になってしまう。


「まあお兄ちゃんほどじゃないが、ソニアもわんぱくだからな。父さん、森で会ったときはびっくりして、抱っこして奇妙な踊りを踊ってしまったぞ」

「父さん……威厳が崩壊していくから、もう少し落ち着いた発言を心がけてくれるかな」

「ヒロトが俺に苦言を呈するようになるとはな……大きくなったのは、見かけだけじゃないようだな。どうだ、酒の味はわかるようになったか?」

「あなた、まだヒロトは成人してないんですから、飲ませちゃだめですよ」

「おとーさん、そにあものみたい! ちょーだい!」

「そ、ソニアは……こんな苦みばしったジュースを飲んだら、喉がやけどしちゃうからな。だめだぞ?」

「おとーさんのばかー! きらい!」

「ぬぁぁぁぁ! 嫌わないでくれ、お父さんはソニアのために、心をオーガにしてるだけなんだ!」


 無邪気に父さんを責め立てるソニア。父さんはショックを受け、やけ酒を呷り始めた。エール酒の薄いやつなので、身体を壊したりはしないだろうが。


 そういえばオーガってまだ遭遇したことないな……ジュネガン公国における生息域はどうなっていただろうか。けっこう知能が高くて良質な装備を持ってたりして、ゲーム時代はドロップ品で稼いだものだ。


「ところでヒロト、他のテーブルを回って酌でもしてきたらどうだ?」

「おにーたん、行っちゃやだ……」

「ソニアは今ははしゃいでるけど、すぐ眠くなっちゃうから。ほら、もうお目々が閉じてきてる」


 ソニアは眠そうに目をこすり、ふぁぁ、とあくびをすると、母さんの膝の上に乗って、抱きつきながら眠ってしまった。父さんはそれを見て笑っている。


「利発な子だが、まだ四歳にもなってないからな。夜更かしはもう少し大きくなってからだ」

「そうね……手がかからない子だから、こうやって甘えてくれると嬉しいわね」

「いったい、ソニアが何して遊んでるかは気になるけど。まあ、危険がないならいいのかな」


 俺が辿った道をソニアがもし辿ってるとしたら、止める資格が俺にあるだろうかとも思う。それにこの子なら、たぶん危険を感じたらすぐに引き返すくらいの勘も持ちあわせているだろう――と思いたい。


(あとでステータスを見せてもらうか……何か腰を抜かしそうで怖いんだけどな)


「すー……すー……おにーたん……」

「おやすみ、ソニア。父さん、母さん、みんなのところに行ってくるよ」


 俺は席を立ち、まずフィリアネスさんたちのテーブルに向かった。フィリアネスさんもお酒を飲んでいて、マールさんは顔が真っ赤になって機嫌良く笑っており、アレッタさんも楽しそうにしている。


「ヒロトの髪を切る……か。私たちも、手伝わせてもらっていいのだろうか?」

「あ、ああ……もちろん。恥ずかしいけど、こうなったらしょうがないな」


 フィリアネスさんだけじゃなく、マールさんとアレッタさんもやる気満々のようだ。そこまで大事に思われてると思うと、顔が熱くなってしまう。


「リオナちゃん、そういうのすっごくやりたそう……どうしたのかな? 夜に外に出ると、おばけが出るから怖くて来られないとか?」

「お母さまが、家でお食事を作ってしまったとか……そうでなくても何か、急な用事ができたのかもしれませんね」


 普通はそう考えるところだが、リオナの家はすぐ近くなのだから、顔を見て安心したいという気持ちはある。特にサラサさんは、俺にとっては恩人と言える存在だ。俺が今に至るまで生き残れたのは、スキルの取り方に気づかせてくれた彼女なのだから。


 そんなことを考えていると、フィリアネスさんに飲み物を注がれた。杯に口をつけると、彼女は機嫌良さそうに微笑む。


「この場に集まっている皆だけではなく、他にもヒロトの帰りを喜んでいる人は多いだろう。明日からも、順に顔を出していくのが良いだろうな」

「うん。新しい斧槍を磨いてもらったり……他にも、世話になった人はまだいるから。でも、先に領主に会いに行った方がいいのかな」

「ヒロトちゃん、そういえば領地のことって言わなくていいの?」

「モニカさんは、まだお友達にはお伝えしていないみたいなので、機会を改めた方がよさそうですね……あっ、お二方がいらっしゃいましたね」


 アレッタさんの言うとおり、振り返るとターニャさんとフィローネさんが、いかにもほろ酔いという様子で立っていた。彼女たちがはにかみつつ杯を差し出してくるので、何度目かの乾杯をする。


「んっ、んっ……はぁ……ヒロトくん、少し会わないうちに、何だか遠くに行っちゃったみたいね」

「私たち、モニカと違ってヒロトちゃんとの接点がなかったから、あまり会いに来られなかったの。いい大人なのに、いつまでも家事手伝いってわけにもいかないしね」

「そうだったんですか……良かった。二人が来なくなったのは俺のせいかと思ってたこともありましたから」


 赤ん坊のときにしたことを、時が経つにつれて気まずく思っていたりして、家に来る頻度が減ったのかもしれない――そう思ったこともあった。母さんとケンカをしたわけでも、町を離れたわけでもないなら、二人が母さんとお茶会をしなくなった理由はそれくらいしか想像がつかなかった。

 でも、それは全部杞憂だった。ターニャさんはウエーブがかかった髪を撫で付けつつ、フィローネさんは小さめの杯を両手で包み込むように持って、照れ笑いしている。


「ヒロトくんは小さいのにすごい子だっていうのを聞いて、私たちも頑張ろうと思ってね。まあ私は、ヒロトくんが髪を切りに来てくれたら、そこで話くらいはできるかなと思ってて……」

「私もヒロトちゃんが風邪で熱を出したりしたら、診てあげようと思って。診療所の先生からはもう、ある程度は患者さんを診るのも任せてもらってるのよ……こんなふうにね」


 フィローネさんが手を伸ばしてきて、俺の額に触れる。それは熱を測っているのだと遅れて気がついた。


(し、しかし……せ、成長めされた今となっては、前にかかるベクトルが激しく増大して……っ)


 ベクトルって言葉は異世界では通じないな、と考えつつ、俺は胸板に当たっている彼女の戦闘力を図っていた。戦う力ではなく、むしろ平和を導く力なのだが。



 ◆ステータス◆


名前 フィローネ・ベルモット

人間 女性 26歳 レベル17


ジョブ:医術師

ライフ:136/136

マナ :312/312


スキル:

 小剣マスタリー 13

 軽装備マスタリー 10

 医術 57

 白魔術 32

 魔術素養 24

 恵体 12

 母性 77

 料理 22


アクション:

 投げナイフ(ナイフマスタリー10)

 応急手当(医術10)

 診断(医術20)

 看護(医術30)

 執刀(医術50)

 治癒魔術レベル3(白魔術30)

 授乳(母性20)

 子守唄(母性30)

 搾乳(母性40)

 説得(母性60)


パッシブ:

 ナイフ装備(ナイフマスタリー10)

 軽装備(軽装備マスタリー10)

 回復上昇(白魔術20)

 育成(母性10)

 慈母(母性50)

 子宝(母性70)



(予想以上に成長してる……全体的に……!)


 出会った当時18歳だったフィローネさんだが、どうやら発育は当時で止まっていなかったようだ。そして医術師スキルも予想以上に高く、彼女は自分で手術ができるというのがわかる。


 スキルがあれば、医学を学ばずとも医術を施すことができるわけだ。この世界においては医術を学ぶところはあっても、医者の免許などはないので、経験と実績さえあれば診療所を開くことができるわけである。


 いわゆるヤブ医者はスキルが低いのですぐ判別できるわけだ。フィローネさんはおそらく手術用のメスを使うので、ナイフマスタリーが少し上がっていたりもするのだろう。


「あ……ご、ごめんなさい、ヒロトちゃん。もう大きくなったから、子供扱いしちゃだめよね」

「だ、大丈夫だよ。大きくなっただけで、俺なんてまだ子供だからさ」


 フィローネさんが顔を赤らめて恥ずかしがるので、俺も照れてしまう。胸板に押し付けられた柔らかい感触が、到底忘れることなどできずに残り続けて、冷静を保てない。


(な、なんだこの身体の熱さは……俺というやつは、そんなことばかり……!)


「おっ、ヒロトのやつ、俺の酒を間違えて飲んでたみたいだぞ。あいつ、いける口だったか」

「ちょっと、あなたったら……間違えたのならしょうがないけど、今度から気をつけてくださいね」


(オヤジぃ……!)


 心のなかで、父さんを初めての呼び方で呼んでしまった。どうも身体が熱いと思ったら、間違えて酒を飲んでしまっていたようだ。いや、それは俺のミスだが……ま、まずい……。


「ヒロト、ふらふらとして顔色が優れぬな。部屋で一度休んできたほうが良いのではないか?」

「わっ……ね、ネリスさん……っ」


 いきなりおもむろに腕を取られて、柔らかいものに押し当てられる。誰かと思ったら、二度目の若返りを経て女子高生なみの年齢となったネリスさんだった。


「わしがついていてやろうか……? 酔いざましの薬くらいなら、簡単に処方できるぞ。なにせ、サラサに薬師の心得を諭したのはわしじゃからな」

「わ、私だって、酩酊時の処置には慣れてます。ヒロトちゃん、向こうでお手当てしましょうね」


 フィローネさんにもう片腕を取られる。む、胸が……二種類の弾力を比較して、どちらかに軍配を上げろというのか。勝敗など関係ない、二人ともとても素晴らしい。


(それにしても、お手当てって……なんだかとても、ナースさんっぽいぞ……!)


「私も衛生兵として、応急手当の心得があります。ヒロトちゃんのことは私に任せていただけますか?」

「むう……治療系の職能を持つ者がこうも揃うとはな。ならばどうじゃ、三人でというのは」

「ね、ネリス殿……いかなミゼールの賢者といえど、そのようなことは看過できかねます。ヒロトならば、少し休めば回復します。私が膝を貸すので、半刻ほどヒロトの部屋で時間を……」

「雷神さまはお手が早いですから、半刻もあったらじゅうぶん……う~ん、もう食べれない……」


(マールさん……地雷を思いきり爆破したあとに、ベタな寝言とか……!)


 まず俺が確認すべきは父さんと母さんに聞かれてないかどうかだ。いざとなれば腹をくくるものの、まだできれば段階を踏んで俺が大人になったことを伝えていきたい……!


「あなた、こんなところで寝ないでください。ああもう、よだれたらしちゃって」

「……よく帰ってきたなぁ……父さんは嬉しいぞ……ちょっと見ないうちに大きくなったなあ……」

「本当にね……でも、あの子が元気なら私はそれでいいと思ってるの。もともと大人みたいなことをしてた子だから」


 思わずしんみりしてしまう両親のやりとり。みんなもハンカチで目元を押さえたりしているし、フィリアネスさんは顔をそらして肩を震わせている。


 ――もう一度、自分で言っておくべきだろう。ここに集まってくれたみんなに感謝を伝えるために。


「俺はいろいろ無茶もして、みんなに心配かけるかもしれないけど、何があっても絶対にこの町に帰ってくるよ。俺は、この町と、みんなのことが大切だから」


 言ってみてから気づくが、さらにしんみりさせてしまった。やはり俺は空気が読めていない、今のは最善の選択じゃなかったか――と思ったところで。


 席に座っていたミルテと、セーラさんが連れ立って俺のところにやってきた。まずミルテが話しかけてくる。


「……ヒロトがみんなを大事に思ってること、ちゃんと伝わってる。おばば様も、他のみんなもわかってる」

「ミルテの言うとおり、わしらはいつも待っておるよ。ここに来られなかった者も、ヒロトを知っておれば気持ちは同じじゃろう。何も案ずることはない、自分の思う道を進むがよい。あまり放っておかれると、こちらから探しに出るかもしれぬがの」


 ネリスさんはミルテの話を補足して言うと、酒の杯を傾ける。ほんのり朱に染まった頬が、少女の姿にあるまじき妖艶さを感じさせる。


 妖艶といえば――セーラさんもまた、只者でない雰囲気は、昔から変わっていない。


 セーラさんは15歳になっているが、人魚の彼女は不老のようで、まったく姿が変わらない。しかし、なんと彼女は、聖職者からランクアップして『司祭』にジョブが変わっていた――つまり、ミゼールの教会で一番偉い人になったということだ。


「ヒロトさん、お久しぶりです……ご立派になられましたね。これも女神様の加護の賜物でしょう」

「久しぶり、セーラさん。あの、リオナは教会に来たかな?」

「はい、おいでになりました。お母さまがお祈りをされていらしたので、一緒に帰って行かれましたよ」


 そういうことなら、心配はないか……ひとまずは良かった。


「ありがとう、教えてくれて。セーラさん、他にも話したいことがあるんだけど……日をあらためて、教会に行っていいかな?」


 セーラさんがイシュア神殿の歌姫だったという話を聞いたので、その辺りを詳しく聞いてみたくはある。今の彼女はやはり、『歌うことができない』のネガティブパッシブがついたままだ。


 しかしセーラさんは何を思ったのか、くすっと口元を隠して微笑む。そのとろんとした目で見られると、昔何度もお説教をされながら授乳を受けた日々を思い出してしまう。説教といっても、どれだけ女神が素晴らしいか、敬うべき存在かを聞かされ続けただけなのだが。


「神の教えに、ふたたび耳を傾けられるのですね……嬉しいです。いつでもいらしてください、今は前代の司祭様は隠棲されていますので、私とシスターがふたりほど、常に教会におります」

「うん、ありがとう。ぜひ行かせてもらうよ」

「お待ちしております。恵みの施しについては……いえ、それはその時お話いたしましょう」

「え……い、いやあの、俺も大きくなったし、それは……」

「いいえ、人は誰でも、女神の赤子であることに変わりはないのですから。ご遠慮なさる必要はありません……いかがなさいましたか? ネリス様」

「興味深い話をしておると思ってのう。確かにわしにとっても、ヒロトは可愛い幼子のままじゃな。身体が大きくなろうとその感覚は変わらぬ」


(セーラさんに、ネリスさんまで……ま、まずい。この町が好きだと言ったものの、このままだと滞在期間が大変なことに……!)


 滞在というか、遠くに冒険に出る必要があるとき以外は、ミゼールに居るつもりではある。

 ここを領地としてもらえた暁には、ミゼールは名実ともに俺の活動拠点となる。そうなると、セーラさんやネリスさん、ターニャさんとフィローネさんとも、交流が復活するわけだ。


 そしてみんな、俺と昔と変わらない交流を望んでくれている。しかし今の俺の場合、フィリアネスさんとユィシアとの間にあったことを考えると、昔と全く同じというわけにはいかないのである。


「……ヒロト、どうしたの?」

「あ……ご、ごめんミルテ、どうかした?」


 ミルテはかすかに「むっ」としたけど、何やら俺の顔を見ているうちに頬を赤らめ、ネリスさんを見やった。


「おばば様みたいに、私もできたら……ヒロトと、もっと仲良くなれる?」

「ミルテや、それはまだ少しばかり早い。しっかりご飯を食べて、身体を動かして、学ぶべきことを学ぶ。全てはそのあとじゃな。そうすれば、自然にヒロトがミルテを認めてくれるからのう」

「ほんと……? じゃあ、がんばる。ヒロト、待っててね」


 ミルテは嬉しそうに言って、と自分の席に戻っていった。まだ大人の椅子では足が届かない、そんな子にすら、俺はアプローチをされているのである。下は八歳、上は――とか、守備範囲を確認している場合ではない。


 そういえば、スーさんは厨房にいるけど、なかなかこっちに出てこないな。挨拶も一段落したし、様子を見に行くことにしよう。リオナの家に行くのはその後だ。


◆◇◆


 台所にいたスーさんは、片付けの時まで控えているつもりだったようだ。


「旦那様と奥様に、ヒロト様にお仕えする許しを得たとはいえ、私はメイドでございますから。給仕と片付けをさせていただければと思います」

「スーさんは本当に真面目だな……侍従っていっても、俺のパーティの一員なんだから。そこまで遠慮することないよ」


 そう言うとスーさんは瞳を細めて笑った。こちらの気持ちも穏やかになる、優しい表情だ。


「奥様もそうおっしゃっておられました。あの方はやはり、変わらずお優しくておいでになる。私の素性について、問いただすこともなさらないのですから」

「ほかのメイドさんも日頃は勤めてるけど、素性を根掘り葉掘り聞いたりはしてないよ。話したいときには聞く、っていうのが母さんの主義みたいだ」

「私の身の上話は、もしするとしてもとても長くなりそうですから。坊っちゃんの寝物語には、丁度良いやも……」


 そう言いかけて、スーさんははっと目を見開き、ほんのり頬を赤く染めた。


「も、申し訳ありません。寝物語もなにも、坊っちゃんはもうそのようなお年ではございませんでしたね……大変失礼いたしました」

「い、いや、分かってるよ。スーさんもあれかな、俺が大きくなっても、小さい頃を覚えててくれるわけか」

「……忘れることなど決してございません。あの夜、あなた様の示された勇気に、この胸を震わされたことは、ついゆうべのことのように覚えております」


 スーさんは水仕事をしているのに、すごく手がきれいだ。その手を胸に当てて言うものだから、つい視線を向けてしまって、何をしてるんだと自分を戒める。


「……髪を皆様でお切りになる、とうかがいました。主人がどのような姿にお変わりになるか、私もできれば見せていただきたいのですが……」

「スーさんも切ってくれると嬉しいな。俺の仲間の人たちは、みんなハサミを入れてくれそうだからさ」

「っ……そ、そのような……よろしいのですか?」


 スーさんはだんだん俺に気を許してくれてきていて、徹底的に辞退したりはしなかった。その変化に、つい嬉しくなってしまう。


「……大きくなられると、そのようにお笑いになるのですね。女性を泣かせる笑顔でございます」

「え……そ、そうかな。いやらしい笑い方してないか?」

「ええ、全くございません……それどころか……私の方が一回りも年上でございますのに、もう、追いつかれてしまったような気持ちになります」

「頼れるようになった、ってことかな。そうだと嬉しいんだけど」

「昔からそうでございましたが……それ以上、でございますね」


 スーさんは思っていることを全部は言ってないみたいだが、その奥ゆかしさに、ますます好感が増してしまう。

 しかし真面目なスーさんだから、俺が軽い振る舞いをしたら、きっと厳しい態度に変わるだろう。気を抜いてはいけない、彼女が優しいからといって。


 ――優しいといえば、サラサさんもそうだった。まだ顔を合わせてないことが、胸に不安と言う名のざらつきを生む。


「スーさん、俺はちょっと外に出てくるよ。リオナが来なかったから、少し様子を見てくる」

「もうお夕食をとられているとは思いますが、リオナ様のご家族の分も用意しておりましたので……こちらに取り分けておきましたので、よろしければお持ちください」


 スーさんは鍋に入ったスープと、夕食のために焼いたパンを、一緒に竹カゴに入れて準備しておいてくれた。何かの理由で夕食を取れてなかったら、差し入れをすれば喜ばれるかもしれない。スーさんの気配りには、さすがと言うほかなかった。


「ヒロト様……いえ、これからは旦那様とお呼びいたしましょうか。昔はリカルド様をそうお呼びしていましたが、今ではヒロト様が私の唯一の主人ですので」

「だ、旦那様か……」


 どうも別の意味を連想してしまって困る。既婚の女性が、夫のことを『旦那』って言ったりするもんな。


「……あっ……いえ、そういった意味では……その、申し訳ありません。ヒロト様に、こちらに来ていただけるとは思っていなかったもので……少し、気分が高揚してしまいました」

「スーさん、あんまり顔に出ないからな。でも、そんなふうに思っててくれたなら嬉しいよ」


 どうもいい雰囲気を作るつもりはないのに、そんなことばかり言ってしまう。交渉術のせいにしたくなるが、俺の中にそういう、女性に甘いところがあるのは確かだ。


「……もっとお小さいヒロト様とお会いするつもりでいましたから……未だに、落ち着かないようです。私は顔に出ず、鉄面皮でございますから、時折は心情を言葉でお伝えできればと思います」

「鉄面皮ってこともないよ。スーさん、今は笑ってるしさ」

「あ……」


 言われてみれば、という反応。それを見て、思わずまた笑ってしまった。


「……ヒロト様……いえ、私は旦那様に翻弄されてしまっておりますね……このように緊張感がなくては、お手合わせの際に、赤子のようにひねられてしまいそうです」

「俺がそうならないように気を引き締めておくよ。じゃあまた後で……俺が帰ってきたときはもう寝てるかな?」

「いいえ、旦那様のお帰りをお待ちするのは当然のつとめでございますから。私は起きてお待ちしておりますが、気になさらずごゆるりとなさってください」


 そう言ってスーさんは俺を後ろに向かせると、服を整えてから送り出してくれた。お言葉に甘えたいところだけど、場合によってはリオナとサラサさんが普通に過ごしていて、早く帰ってくることもあるだろう。



 ◆◇◆



 屋敷を出て、どこからか聞こえる鈴のような虫の音を聞きつつ、俺は丸い石を埋め込まれて舗装された道を歩き、サラサさんの家に向かった。


 家には明かりがついていない。もう休んでしまったということもありうるが――と考えたところで。

 サラサさんが、家から出てきた。彼女はふらふらと歩いて行こうとする。


「サラサさんっ……」


 驚かせないように、俺は声を張りすぎず、けれどしっかりと通るように呼びかけた。


「……あなたは……」


 ひと目では分からない、それも無理はない。こんなに姿が変わってしまえば――けれど、俺にはそれだけが理由ではないように思えた。

 今のサラサさんは、夜の闇の中でもわかるほど、痩せてしまっているように見えた。とても弱々しくて、今にも消えてしまいそうなほどに儚く見えた。


 俺が近づくと、サラサさんは自分の身体を抱くようにして、後ろに一歩後ずさる。怖がられている――だとしたら、それはなぜなのか。胸に痛みを覚えながら、俺は昔あったことを思い出す。


 自分の首輪を取るのは、サラサさんの夫――ハインツさんでなくてはならない。

 そう言われてもなお俺は、リオナのジョブを変え、魔王化を止めるために、サラサさんの首輪を外した。


「俺……ヒロトです。サラサさんにお世話になった、リオナの友達の……」


 一から説明しなければならないと思った。声がうまく出せなくて、喉が痛む。


 誰にでもすぐに受け入れられるわけじゃない。そう覚悟していたのに、実際にそうなってみると、俺は揺らがずにはいられなかった。


 気軽に訪ねてくるべきじゃなかった。でも、放っておけない。とても今のサラサさんを置いて、見なかったふりをして帰ることはできない。


「何か、あったんですね……?」


 何もないとはとても思えなかった。「あったんですか」と疑問形を向けるような、曖昧な状態ですらない。

 サラサさんは、自分をかばっていたわけじゃなかった。

 かばっていたのは、その手首だった。両方の手首に、爪のように赤いあとが残されている――だから片方を隠しても、もう片方を隠せていなかった。


「……誰かと、争った……そうなんですね、サラサさん」

「っ……」


 知られてしまった。隠せるわけもないのに、彼女はそんな、顔をした。

 俺はそれ以上近づかなかった。今サラサさんが俺に許している距離の中に、まだ入ることはできない。

 ここで俺が選択を間違えば、おそらくサラサさんは、俺の前から姿を消すだろう――そんな兆しがあった。


(馬鹿げてる……そんなこと。サラサさんがどこかに行くなんて……でも……)


 今、自分の手首を隠して震えている彼女を見ていると、悪い方向への想像が広がる――でも。

 俺はまず、信じようと思った。ここにサラサさんがいること、そして、彼女がまだ俺の知っているままの彼女であることを。


「……俺、魔王と戦ったんです。それで命を吸われて……レミリア母さんの命を救った薬で、死なずに済んで。起きたときには、こうなってました」

「魔王……そんなことが……どうして、ヒロトちゃんが……?」

「小さい頃からしてきた冒険の、延長みたいなものです。ミゼールから首都に向かうまで、色々なことがありました……俺の人生が、変わるくらいのことが」

「……リオナも、変わっていたわ。私がいなくても、あの子は……」


 やはり何をしようとしていたのか、隠しきれていない。サラサさんは、間違いなく家を出て行くつもりだ。


「……リオナは、今、どうしてますか?」

「リオナは、家にいます。旅で疲れたようで、今はゆっくり休んでいるわ……ヒロトちゃんの話をいっぱいしてくれようとしていたけれど……私の様子を見て……」

「リオナは優しいから……今のサラサさんを見れば、サラサさんにこそ、休んで欲しいと思うでしょう。リオナは、食事は取りましたか?」

「はい。でも、ヒロトちゃんのおうちに招かれていましたから……そちらにお世話になった方が、美味しいものが食べられると言ったのに……娘は……っ」


 サラサさんの瞳から涙がこぼれる。俺は彼女の話に、ただ耳を傾けて……そして、また一歩だけ彼女に近づいた。


 サラサさんはもう後ろに下がることはなかった。フードの下のその美しい相貌を、俺は久しぶりに目にして、その赤らんだ目の痛々しさに、胸を締め付ける痛みを覚える。


 俺は持ってきたバスケットを掲げる。それを見たサラサさんは、どういうことかというように俺を見た。いつもの落ち着いている彼女なら、すぐに分かるはずなのに。


「……差し入れを持ってきたので、良かったら、食べませんか。香りにつられて、リオナを起こしてしまうかもしれませんが」

「……分かりました」


 家に入る前に、聞くべきことがある。しかしそれを俺が尋ねる前に、サラサさんは玄関の扉に手をかけて、俺のほうを振り返った。


「彼は……ハインツは、もう三日前から、この家には戻っていません」


 その言葉が意味するものの重さに、簡単に何かを言うことはできなかった。

 サラサさんはそんな俺を静かに見つめてから、家の中に入っていく。扉は開いたままにしておいてくれていた。



 サラサさんの家のダイニング・ルームに入ったのは久しぶりだった。家の中には争った様子はない。


 彼女の手首の傷が、いつついたのか。それを考えると、俺は否が応にも憤りを覚える――誰がやったのか。


「……まだ、あたたかい。今の季節のお野菜のスープと、粗挽き麦の黒パン……」


 サラサさんはいつも家でそうしているのだろう、食器にスープとパンを盛り付け、テーブルに並べる。俺は食べるつもりはなかったが、スーさんがハインツさんの分を考えてか、三人分入っていたので、ご相伴にあずかることになった。

 一人で食べるよりも、二人の方がいい。できればリオナもと思ったが、確かに八歳の女の子には、馬車に乗っての長旅はこたえただろう。


「少しでも食べたほうがいい。サラサさん、痩せたように見えます」

「……正直を言うと、あまり喉を通らないのよ。それでも、ヒロトちゃんは食べたほうがいいと思う?」

「俺よりずっと、サラサさんの方が、そうしたほうがいいってわかってるはずですよ」


 どうしてもお説教みたいな言い方になってしまう。こんな若造が、サラサさんに偉そうに言えることなんて何もない。


 けれどサラサさんは久しぶりに微笑んで、黒パンをちぎって、口に運んだ。咀嚼して飲み込み、スープをひとさじ口に運ぶ。それだけで、いくらか彼女の顔に血の気が戻ってきたように見えた。


「……美味しい。ありがとう、ヒロトちゃん」

「メイドのスーさんに伝えておきます。彼女が作ったんですよ」

「レミリアさんの味と少し違うから、何かと思ったのだけど……そういうことだったのね」


 それからサラサさんは全部は食べられなかったけれど、ちゃんと食事をしてくれた。

 残った分を保存し、サラサさんは葡萄酒の瓶を持ってきて、杯に注ごうとする。しかし俺の顔を見て、彼女はお酒を飲むのをやめて、果実のジュースを二人分用意した。


「……お酒は、いつも飲んでるんですか?」

「……情けないでしょう。お酒の力を借りないと、眠れないのよ。私は薬師セージだから、お酒の効果が身体にどんな影響を及ぼすかも、わかっているのにね……」

「たしなむ程度なら、身体にいいって聞きますよ。情けないなんてことないです、うちではみんな、お酒を飲んで酔っ払ってましたよ」


 俺が帰ってきたことを祝う席。その明るさを今伝えていいものか迷ったが、俺は遠慮ばかりしていても、サラサさんを追い詰めてしまうと思った。


 普段のサラサさんに戻って欲しい。しかしそのためには、何が起きたかを話してもらわなければ……。


「……その傷は、どうしたんですか? 引っかき傷みたいですけど……治療した方がいい」


 ポーションを塗れば、引っ掻いたくらいの創傷は消える。けれどサラサさんがあえてそのままにしている理由も、俺にはもう、薄々と想像がついていた。


「ハインツさんと、何があったんですか……? その怪我は、ハインツさんに……」

「……違うわ。私は、そうされても仕方がないことをしたのだから。この傷は、私が自分でつけたのよ」


 サラサさんの目は静かだった。狂気も何もなく、ただ本当のことを言っているだけ、そんな目をしていた。


「……リオナを連れて家を空けて……こんな姿になって帰ってきた俺が、何もかも話してほしいなんて、都合がいいことを言ってるのは分かってます。それでも、俺は何があったのか知りたい」

「……このまま家に帰って、何も聞かずにいることは……」

「できません。サラサさんを今一人にしたら、どこかに行ってしまう……そうでしょう?」

「……ヒロトちゃんは……私のことに、気づいているはずよ。私が、昔どういう存在だったのか……」

「奴隷でもいい、そんなことは関係ない。俺にとってサラサさんは恩人なんだ。俺の母さんの友達で、リオナのお母さんってことだけが理由じゃない。俺は……っ」


 言葉を尽くしても、的を射ていない。届いている気がしない……それでも言わずにはいられない。


 ――けれどサラサさんはそんな俺を見て、笑ってくれた。


「……やっぱり、あなたは優しい子。私が知っているヒロトちゃんのまま……変わっていないのね」

「身体だけは大きくなって、中身は子供のままです。恥ずかしいくらいに」

「いいえ……そんなことはないわ。ヒロトちゃん……リオナはあなたみたいな人と傍にいられて、幸せね」

「……それは……そ、そうだといいとは思ってますが……まだ、リオナは小さいですから」


 自分でも何を言っているんだろうと思う。やっぱり百歳を超えた人生の先輩は、俺の熱意だけでほだされてくれるほど、甘い女性ひとじゃなかった。人というかエルフだ――なんてことはいい。


「……サラサさん?」


 カンテラの明かりの中で、サラサさんの瞳が揺れる。肌がぞくりとするほどの美貌を改めて見て、俺は言葉を失ってしまう。

 ――初めに会った時から今まで、彼女をこれほど強く、一人の女性だと意識したことはなかった。リオナの母であり、俺に無条件に優しくしてくれる人。そこに、今俺が彼女に抱いているような感情は、形を成してはいなかった。


「……私は……昔、『死霊の女王』の配下に捕まり、奴隷にされていたの」

「っ……死霊の女王……その、名前は……?」

「メディア・メイザースと名乗っていたわ。きっと、仮の名前でしょうけれど……私は人間とエルフの間に生まれたハーフエルフで、彼女にとっては『憐れむべき』存在だった。そして私を捕まえて、自由を奪い、さらに貶めることで、彼女は一時の享楽を得ていたの」


 ずっと、聞けなかった。今も教えてもらえないかもしれないと思った。

 しかしサラサさんは、俺にその身の上の全てを明かそうとしてくれていた。生まれてすぐに目にした『奴隷』というネガティブスキル、そして彼女の高いステータス――その意味を。


「享楽……メディアは、そう言ってたんですか?」

「……ヒロトちゃん、その言い方は……知っているの? 彼女のことを」

「……俺が戦った、魔王リリム……彼女のかりそめの姿が、メディア。死霊の女王リッチ・クィーンだったんだ」

「魔王……そう……メディアが……」


 サラサさんはその事実を、俺が思っていたよりも早く受け入れた。

 ――しかし俺にはそれよりも、リリムとサラサさんの間につながりがあった事実を、未だに信じられずにいた。

 ミルテの父と母も、リリムに奴隷にされていた。リリムの悪意はこの国中に広がっているのではないかと、そんな想像が脳裏をめぐる。


「メディアの持っていた力と、その常軌を逸した魔力を見て、私は……こんな存在が多くこの世界に居て、邪悪な意志を持っているのならば、いずれ世界は滅びてしまうと思った。でも、魔王だったというのなら……一握りしか存在しない、最も強力な魔族の一人だったなら。その方がまだ、希望が持てるのかもしれない……」


 リオナが魔王リリスの転生体であることを、まだサラサさんは知らない。リリムが、リリスの妹であることも――まだ、話すことはできない。


 いずれ知ることになるとしても、その時真実を話さなかった俺を責めてもいい。

 リオナは何も悪くはない。彼女が不幸になるとわかっていて、魔王の転生体にしたのは女神なのだから。


「……確かに、メディアみたいなのがゴロゴロしてたらと思うと目眩がしますね。でも、そんなことは言ってられない。俺は魔王と戦わなきゃならない……魔王リリムをこのままにしておけば、きっと苦しむ人を増やすことになる」

「彼女と戦うことができるなんて……ヒロトちゃん、あなたはどうやってそれほどの力を……」


 そう言われて、俺は少しだけためらう。

 俺が強くなれたのは、全ての始まりは、サラサさんだ。

 ――今言わなければいつ言うのかと思った。生まれてから今まで、ずっと抱いている感謝を。


「……サラサさんのおかげだよ」

「……私は、ヒロトちゃんに、何もしてあげられていないのに……そんなこと……」

「してくれたよ。サラサさんがお腹をすかせてた俺に優しくしてくれたから……それが始まりだったんだ」


 年を重ねても、俺とサラサさんの関係は変わらなかった。けれど大きくなるほど、彼女との距離は開いていくような、そんな気がしていた。


 でも、いつまでも遠いままでいたら、俺はサラサさんに会うことさえできなくなってしまう。この家を出ようとしていたサラサさんを見て、そのことがとても怖いと感じた。


「……それで……サラサさんは、奴隷にさせられて、それから……」

「……奴隷には男性も女性も混じっていたの。私は……その中でも、男性の奴隷から、女として目をつけられてしまうことが多かった。メディアはそんな状況すらも楽しんでいたの……人間を、エルフを、いえ……全ての生き物を、彼女は手慰みの玩具のようにしか見ていなかったから」


 リリムは姉であるリリスのことに関してだけは、人間の心の機微に近い動揺を見せた。けれどそれも、気まぐれでしかなかったのか――リリスに対してだけが特別なだけで、やはり残酷な魔王にすぎないのか。


「けれど、私には母から受け継いだ魔術の力があって、自分の身を守ることができた。でも……メディアの配下にいた、ダークエルフの男性には、私の力が通じなかった……でも……」

「……サラサさんは無事だった。誰かに助けられて……そういうことですね」

「……ええ。それが、ハインツだった……ハインツは、メディアが壊滅させた盗賊団の一員だったの。彼はメディアに生かされて、私たち奴隷の見張り役をしていた……彼はただ、放っておけなかったと言ったの。自分の目の前で、気分が悪い出来事が起こったからだと、怒りながら言っていた……」


 ――俺はハインツさんという人物を、未だに良く知らない。名前だけは聞いていて、遠くから姿を見かけたりすることはあっても、話したことはまだなかった。

 けれど、彼がいなければサラサさんは……そう思うと、彼の存在がサラサさんにとってどれほど大切か、分からずにはいられない。


「そのうち……私たちが監禁されていた場所で、火事が起きたの。騒ぎに紛れて奴隷たちは逃げ出した。リリムは興味をなくしたように追いかけなかったわ。所詮は、彼女にとっては一時の退屈を飽かすための遊びでしかなかった……ハインツはそのとき、私を連れて、逃げ出したの。奴隷の首輪の鎖を、金鋏で断ち切って」


 そして、ハインツさんはサラサさんを連れてミゼールにやってきた。

 ハインツさんの母親が暮らしていた家――この家は、母親が出奔して戻らず、空き家となっていた。そこで、ハインツさんとサラサさんは暮らし始めた。

 息を潜めて暮らし、ようやく町に溶け込んだころ、サラサさんは教会に向かう途中で、ぼろにくるまれて泣いている赤ん坊を見つけた。

 ――それが、リオナだった。その頭に夢魔の角のふくらみを見つけたサラサさんは、それを隠し通して、自分の娘として育てるとハインツさんに告げた。


「彼は自分の子供でなくても、育てていいと言ってくれた。でも……あの奴隷の首輪が、私の首についているうちは……彼は、私に触れようとはしなかった。私の中から奴隷の記憶が消えたとき、その首輪をこの手で外して、私のことを妻にしたいと言ってくれた……でも……」


 ハインツさんは、待っていたのか。解放されたサラサさんの『奴隷』の値が、ゼロになるまで――真の意味で、サラサさんがリリムから解放されるまで。


 けれどその彼は出て行った。今も戻らないまま、何をしているのか。

 ――そして、遅れて気がつく。サラサさんの首輪を、俺がすでに外していたことに。

 ハインツさんが外さなければならないと、サラサさんが言った首輪を――俺の手で。


「……私の首輪がなくなっていることに、彼は気がついていて……ずっと、私を……私のことを……」


 サラサさんの瞳が揺れる。その輝きが失われる――これ以上話せば、サラサさんは壊れてしまいそうだった。


「サラサさん、今は無理に話さなくてもいい。そんなに辛いことだったのなら……」

「……いいえ……彼に許されない裏切りをしたのは、私……私は……」


 もう、彼女の心は、とうに限界だった。

 その目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。サラサさんは顔を覆って、肩を震わせて泣き崩れる。


「私は……彼を、受け入れられなかった。そうしないといけないと思っていたのに……ハインツのことを、最後まで愛せなかった……っ」


 俺が子供の頃から、サラサさんの家に対して感じていた違和感。

 その答えを目の当たりにして、俺は言葉が出てこなかった。

 きっとハインツさんはサラサさんを、命がけで助けた。彼女の忌まわしい記憶が消えるまで待ちもした。

 ――でも。

 それはサラサさんが、ハインツさんを愛するようになるという結末には、行き着かなかった。


「彼がどんな思いで待っていたのかも知っていたのに……お酒に溺れていったのも、私のせいなのに。リオナがいない間に、求めてきてくれた彼を、私は……拒絶して……突き飛ばそうとして……っ」


 その腕をハインツさんに取られ――強く、握りしめられて。サラサさんの手首には、傷が残った。

 なぜ、傷を治さなかったのか。包帯を巻くこともしないで、そのままにしておいたのか。

 その理由を思うと、胸が引き裂かれるようだった。

 誰も、悪くはないのに。ただ、すれ違ってしまっただけなのに。

 俺たちがいれば、こうはならなかったのかもしれない。

 ハインツさんとサラサさんは、『夫婦』でいられたのかもしれない――でも。


 サラサさんの心が変わらないのなら、この結末は避けられなかった。


「……サラサさん。首輪のあとは……もう、消えたんですね」


 泣きじゃくっていた彼女は、俺の問いかけにしばらく反応しなかった。

 しかし、涙に濡れた目を虚ろに開いたままで、そのフードを、そして首の周りを覆うショールを外していく。


 白い首筋には、首輪のあとは残っていない。そして……。

 人間より長く、エルフより短い尖った耳。それを俺に見せてくれながら、サラサさんは涙を拭いもせずに、ただ俺を見ていた。


 ――その姿はとてもきれいで、ガラスのように繊細だった。

 そんな彼女に触れようとしたハインツさんが、どれほどの勇気を振り絞ったのか――。

 そして思いが叶わなかったとき、彼が何を選んだのか。

 俺にはその気持ちがわかるとはいえない。けれど同じ男として、慮ることはできる。


 できることなら、サラサさんと本当の夫婦になりたかった。ハインツさんは、そう思っていたはずだ。


 しかしハインツさんが彼女を見初めても、サラサさんは……。


「……私は……ハインツが、どんなふうに生きてきたのかを知っていた。盗賊団だった彼は人を殺して金品を奪い、残酷な罪をいくつも重ねていたの。それを誇らしく話していたこと……私がそれを忘れることができれば、彼を苦しませずに……リオナも、お父さんを失わずに済んだのに……」


 その罪をそそぐために、ハインツさんが費やした年月。でも、それは……奪った生命が戻るということではない。

 けれど、サラサさんは自分さえ許すことができたらと、悔やんでいる。


「だから……教会で、祈っていたんですね。ハインツさんが殺してしまった人たちのために」

「……私の命を差し出しても、けっして償うことはできない。そう分かっているわ……でも、死ぬことに意味がないのなら、せめて幸福を捨てなければならない」


 サラサさんは席を立つ。そして、用意していたものだろう手紙を取り出して、俺の前に置いた。


「……私は、この町を出ていきます。どこかで、ハインツと、彼が殺した人々のために祈って……いつか許されたと感じたとき、命を女神様に返します。ヒロトちゃん……リオナのことを……」


 ――だめだ。


 言葉だけでは通じない、引き止められない。


 そんなふうに笑わないでくれ。全部終わりみたいな顔をして、俺を見ないでくれ。


 そんな顔をされたら……俺は……。


 どんなことをしてでも、止めることしか考えられなくなる。


「……そんなこと、俺には頼まれてあげられない……!」

「……ヒロト……ちゃん……」


 俺は席を立って、サラサさんを抱きしめていた。そうするしか、他に方法が思いつかなかった。

 もしハインツさんと同じように拒絶されたら。そう思うのが自然なのに、こうすることしか考えられなかった。


「……人が人を好きになる気持ちは、義務じゃない。自然に生まれてくるものなんです」


 偉そうなことなんて言えた身分じゃない、そう思ったのに。

 浅はかな考えを口にしていると分かっているのに――他に言うべきことが、思いつかない。


「ハインツさんはサラサさんを守った……そして今日まで、一緒に暮らしていた。でもそれは……サラサさんが、彼を愛さなければならないわけじゃなかった。寂しいですけど、それは……偽りのない、サラサさんの心です。そこにウソをついたら、きっともっと後になって、傷つくことになる。俺はそんなのは見てられない……サラサさんに、思うままに生きてほしいんです」

「……そんなこと……私は、ハインツの好意を知っていて、ずっと利用してきたのに……卑怯で、醜いのに……っ」


 優しさが、そのまま優しさとして誰の目にも同じに映るならば、人の間に誤解が生まれることもない。

 ――でも、サラサさんにとって、彼女がいつか自分を認めてくれると願い、待ち続けるハインツさんは……きっと、サラサさんの生き方を、意志を、期待という型にはめてしまうものでしかなかった。

 欲しいと思っても手に入らないものがある。それが人の心で……。

 サラサさんが彼を愛せなかったことは、許されない罪なんかじゃない。


「どれだけ自分が卑怯だと感じても、許されないと思っても、俺が許します。サラサさんが全部を捨てて、ハインツさんに償いたいんだとしても……それで、リオナの傍を離れるくらいなら、俺があなたの罪を背負う。俺なんかに背負えないと言われても背負ってやる。だから……」

「……だめ……っ、私は……私は……奴隷で……首輪をつけられて……家畜のように飼われて、人でもエルフでもないと罵られて……この国に、本当は居場所もない、帰る場所もない、そんなものにすぎないの……私は行かなきゃ……もう、ここにはいられない……いちゃいけないのよ……!」


 俺の腕の中で、サラサさんは無茶苦茶に言葉をぶつけて、逃れようとする。いつも穏やかな彼女が見せる、激しい彼女の表情を見ても、俺の心は揺らがなかった。


 本当は、ずっと一人で辛さを抱え込んで、誰にも言わずにいて……そして、俺に優しくしてくれた。

 ――こんなのは、逆ギレもいいところだ。それでも俺は、どこまでも自分勝手に、彼女に要求を押し付ける。


「……だめだよ、サラサさん。絶対、どこにも行かせない。俺がいる限りは」

「ひ、ヒロトちゃん……だめっ……私は、汚れて……」

「汚れてなんてない。ハインツさんも、きっとそう思ってなかった……純粋にサラサさんを、綺麗だと思ってたんだよ」


 もう、遠い昔に思える、赤ん坊だった頃のこと。

 サラサさんがログでしか確認できないほど小さな声で、夫に申し訳ない、と言っていたこと。

 ――そのときは、俺もそう思っていた。ハインツさんに悪いことをしていると思った。

 これからは、俺は、それを後ろめたいと思うことさえもしなくなる。

 ハインツさんよりも、サラサさんのことを大切にする。手に入れたいと思ってしまったから。


 俺の腕の中のサラサさんの抵抗が、次第に弱まっていく。

 こうやって抱きしめられるくらいに身体は大きくなった。本当に、そうでなかったら、俺は……こんなふうに、サラサさんを引き止められていただろうか。

 大人にならなければ、大人としては見てもらえない。例え『カリスマ』があっても、男としては見られない。けれど、今は違う。


「……こんなこと言ったら、笑うかもしれないけど。俺がいたから、サラサさんは……」

「……それは……私から、言わなくては、いけないんですか……?」


 小さなころの俺に話しかけるとき、サラサさんは丁寧な言葉を使っていた。それは、レミリア母さんの手前もあったのかもしれないけど……懐かしい響きで、胸が温かくなる。


「……こんなに年を重ねている私が、あなたみたいな若い人を意識しているなんて。本当は、あってはいけないことです」


 彼女がそう思ってくれていることを、俺は心のどこかで期待していた。

 彼女が見せる優しい仕草が、家を訪ねてきて、俺のところにやってくる彼女の嬉しそうな顔が、それを意味していると思ってしまった。

 俺に――子供に優しいのは、彼女の性格だろうと思いながら。


「サラサさんは初めて会った時から、何も変わってないよ。ハーフエルフも、長命な種族だからかな」

「……い、いえ……やっぱり、だめ……ヒロトちゃん、私は貴方に求められるほどのものは、何も持っていないの。リオナのお母さんとして、これからも……」

「……それだけでいいと思えなくなってる。こんなこと言ったら、ハインツさんに悪いけど……どこにも行かせたくないっていうのは、そういうことだよ」


 サラサさんがこの町を離れてしまったら。そんなふうに想像するだけで、耐えられないほどだ。


 奴隷の首輪を外してから、サラサさんと接する機会が減って、その間も俺はずっと、彼女に会いたいと思っていた。授乳なんてしなくてもいい、元気でいてくれたら、それだけで。


 でも、こうして抱きしめてみて、これ以上ないほどに理解してしまった。


 サラサさんが一人の女性として、どれだけ魅力的なのか。ハインツさんが罪を償ってでも彼女の愛を手に入れようとした理由が、今なら分かる。それこそ、どうしようもないほどに。


 胸板に押し当てられた2つのロケットのような弾頭が、柔らかく変形している。触れ合っている部分を見やると、サラサさんは耳まで赤くなる――尖った耳の先まで。


「……こんなおばさんでも、いいんですか? 私……今年で、131歳になります」

「おばさんって感じが全然しないんだけど……それって、人間に換算したらどれくらいになるのかな?」

「それは……エルフは成人してから、ずっと同じ姿なんです。ですから、二十歳くらいですね……」


 やはり思ったとおり、サラサさんは俺が会った当時から、全く姿が変わっていないっていうことだ。


「……今の俺が、14歳くらいにあたるみたいだから。サラサさんとの歳の差が、すごく少なくなっちゃったな」

「い、いえ……それでも、117歳も離れているのは事実です。若い人にはかないません……ウェンディさんや、モニカさん、聖騎士様のほうが、本当の意味でヒロトちゃんに近いですから……」


 自分自身の年齢の感覚としては、サラサさんは本気でおばさんだと思ってるのかもしれない。というよりは、俺から見て『友達のお母さん』であるという感覚が強いんだろう。


「……でもサラサさん、俺の腕からは、もう逃げる気はないみたいだね」

「あっ……」


 俺に抱きしめられたままで話をしていたサラサさんは、はっと目を見開いてから、困ったような顔をする。

 こんなに可愛い女性だったのか、と改めて思う。大人の魅力ばかりを感じていた赤ん坊の頃とは違って、そのすらりとしていながらも小柄で華奢な身体は、腕にすっぽり収まってすごく抱き心地がいい。


「……ヒロトちゃん。こんなに大きくなってしまったんですね……もう、立派な男の人です」


 その優しい目を見て、俺はとても懐かしいと思った。

 俺が赤ん坊のとき、サラサさんに甘えるのをためらっているときに、サラサさんがすごく頑張って俺を説得していたことを思い出す。


「今は……リオナも寝てるから。昔みたいに、少しだけ甘えさせてもらってもいいかな。サラサさんが、良かったらだけど……」

「……はい。いっぱい甘えてください、昔のように……」


 もう、やつれてどこかに姿を消そうとしていたサラサさんはどこにもいなかった。


 俺に初めて出会った頃、そして幼い頃にいつも優しい笑顔を向けてくれたサラサさんがそこにいた。


 ――そして、俺は彼女の腕に抱かれて、昔を思い出して甘えた。すると、サラサさんのスキルの変化を現すログが流れてくる。


◆ログ◆


・《サラサ》の『母性』が1上昇した! マスタースキル『抱擁』を獲得した。

・《サラサ》の『奴隷』スキルが1下がった。『奴隷』スキルが消失した!


 俺を抱きしめ、安心させるという行為自体が、『母性』の経験値を上げる。

 マスタースキル――スキルが100ポイントになった時に覚えるそれは、他のスキルを獲得したときとは違う表示をされる。

 時々使ってきた『選択肢』も、本来は個人の運命を決める強烈なスキルで、マスタースキルに該当する。スキル200で覚えるスキルは、何と呼ばれるのだろう……達人マスターの上を、この異世界ではどう称するのか。それこそ、魔王、そして女神に届く力を得られる日が来るのだろうか。


 サラサさんの好感度は高く、『カリスマ』も効いているので、俺は彼女のスキルを見せてもらうことができる。『抱擁』というスキル――それがどのようなものなのか、俺はこの目で確かめた。



◆スキル詳細◆


名称:抱擁

習得条件:母性100


説明:

 最大マナの3割を消費して、使用した対象の神経系状態異常を全て回復する。

 使用者と対象の友好度が最大であるとき、または育成行為を行った経験があるとき、一定時間の間、以下の付加効果が生じる。


・スキル経験値の獲得量が増える。

・全ての状態異常から保護する効果を得る。


 また、敵意のある相手に使用した場合、敵意を軽減、あるいは消失させる。


制限:

・一日に、子供がいる数だけ使用できる。

・使用できる対象は、使用者に子供がいる数だけ指定できる。

 子供を持たない場合は2名までとなり、それを下限とする。

 対象者は友好度が高い順に決定される。


使用方法:

・条件を満たした対象に接触し、抱きしめることで発動する。

・一定時間の間抱きしめ続ける。

・抱きしめた時間によって、付加効果の発動時間が決定される。



(……このスキル内容は……抱擁って、シンプルだけど、確かに母性を象徴する行為の一つかもしれないな。そこに、こんな効果が付随するなんて……)


 母性が100の人との友好度が最大だったら。そして、育成行為……つまり『採乳』などを行った経験があれば、『抱擁』を受けることで、スキルが上がりやすくなり、厄介な状態異常を持つ敵との戦闘でも有利になる。


 照明の油が切れてきて徐々に炎が小さくなり、部屋が薄暗くなる。魔術で明るくすることもできるが、今はこの暗さがちょうどいいように思えた。


「……サラサさん。え、えっと……何を甘えてるんだ、って思うかもしれないけど……」

「はい……どうしましたか?」

「……あ、あの……俺のことを、もう一度抱きしめてくれないかな。少しの間でいいんだ」


 『抱擁』の効果をどうしても見てみたい。終わったあとはマナポーションを飲んでもらったほうが良さそうだが、消費マナが3割ならそこまで疲労はしないだろう。


「……少しの間では、私の方が、離してあげられないかもしれません。それでも、してもいいんですか……?」

「っ……う、うん……サラサさんが、いいなら……ふもっ……!」



◆ログ◆


・あなたは《サラサ》の『抱擁』を受けた。

・友好度ボーナス! 友好度が最大値のため、効果が上昇補正された。

・特定経験ボーナス! 『授乳』の経験によって、効果が上昇補正された。



 服を着直してから抱きしめてもらえたら――そう思っていたのに。


 サラサさんは服をはだけたまま、頭を抱えるようにして抱きしめてくれた。


(……抱擁……顔が柔らかい……じゃなくて、何か、何もかもが許されて……受け入れてもらえた気分になるな……)


「こうしていると私も心地良いです……ずっと、ヒロトちゃんにこうしてあげたいと思っていたんですね、私は……」


 抱擁が終わると、サラサさんはすごく満ち足りた顔をしている。上半身が裸のままなんだけど……直視するにはあまりにも目に毒だ。


「サラサさん、本当にありがとう。風邪を引いてしまうから、服を着てください」

「……丁寧なことばは、使わないでください。大きくなっても、私にとってヒロトちゃんは、可愛いヒロトちゃんです」

「ありがとう。もう、出て行っちゃだめだよ。俺たちと、一緒にいてくれ」

「……はい……っ」


 サラサさんはもう一度泣いて、そしてしっかりと返事をした。

 彼女をもう一度抱きしめて、俺は彼女が泣き止むまで待った――はだけた服を着直させて、その背中を撫でながら。



◆◇◆



 サラサさんが落ち着いたあと、リオナがもぞもぞと起きてきて、久しぶりにお母さんとお風呂に入ると言い出した。


 そんなわけで、俺は久しぶりにサラサさんの家の風呂を沸かし――リオナが帰らせてくれなかったので、一緒に風呂に入ってしまっていた。ソニアと入る約束をしていたが、彼女はもう寝ているので明日以降に延期して大丈夫だろう。母さんが二人で入ろうと待っていることは、さすがにないだろうし。


 しかし今の身体でリオナと一緒に風呂に入るのは、何か遠慮しなくてはならない感じが果てしない。


「ヒロちゃん、からだがおっきくなってる……お母さん、ヒロちゃんすごいよね、かっこいいよね」

「……ええ。見ていると、どきどきしてしまいますね」

「リオナもどきどきする……なんでだろう。ねえヒロちゃん、教えて?」

「待っ……か、隠さずに出てくるなっ、ほんとそれはっ……」


 リオナも恥じらいを知らないわけではないのに、こういう時に大胆なのは心臓にとても悪い。


「……私にも教えてください、ヒロトちゃん」

「さ、サラサさんっ……リオナと一緒にならないでください……うわっ!」

「きゃっ……!」


 身体に布を巻いていたサラサさんだが、その胸を完璧に抑制することなどできず、ばるるん、と解放されてしまった。残像がすごいことになって、乳房はこんな動きをするのかと感動してしまう。


「さ、サラサさん、今は隠してください。お願いします……!」


 エルフ耳を隠さなくなったサラサさんは、緑がかった金色の髪を耳にはさむようにかきあげながら、床にわだかまった布を持ち上げる。そして濡れてしまったのを見せてから、こちらを見てくすっと笑った。


「これで隠してしまうと、透けてしまいますからね。そうですよね、リオナ」

「うん! ……あれ? ヒロちゃん、首のところ、赤くなってる……」


(しまっ……ゆ、ユィシアのつけた痕が残ってるのか……!)


「……いけませんね、ヒロトちゃん」

「ふえ? ヒロちゃん、いけないことしたの?」

「い、いや、その……リオナも知ってる友達と、何というか……」


 ユィシアはリオナを乗せたこともあるわけで、友達と言えなくはない。しかしいずれ、取り繕ってもすべてが白日のもとに晒されてしまいそうだ。


「ふーん……まあいっか。お母さん、ヒロちゃんも三人でおふろ入れるかな?」

「ええ、入れますよ。ヒロトちゃん、リオナをひざの上に載せてあげてくれますか?」


(さ、サラサさん……俺にどんな試練を与えるつもりなんだ……!)


「ヒロトちゃんは、からだは大人ですから。リオナを抱えてあげてくれますよね」

「……ヒロちゃんのおひざに? 乗ってもいいの?」


(不思議そうな顔をしないでくれ……サラサさん、やっぱり怒ってるのか……?)


 ユィシアのキスマークを見てから、サラサさんは微笑んでいるが、何か不穏なオーラが揺らめいて見える……彼女と他の仲間たちとの関係は、俺が時間をかけて取り持つ必要がありそうだ。たぶんサラサさんは、嫉妬を顔に出したりはしないのだろうけど。



 ――そしてこの日の夜、リオナは俺の膝の上に乗って入浴したことで、女の子としての意識がレベルアップすることになる。


 何か思春期に入るのを後押ししてしまったみたいで、さらにサラサさんが入浴後にノーブラでゆったりした服を着たりして、もうどうしていいのか分からない。


「……お母さん、ヒロちゃんを見るとどきどきするの。しんぞうが、痛い感じなの……私、死んじゃうのかな?」

「大丈夫ですよ、深呼吸をすれば治ります。すぅ……はぁ……どうですか?」

「うん、ちょっとだけ……あ、ヒロちゃん、ばいばい」

「ああ、おやすみ。サラサさんも、今日はゆっくり休んでください」


 朗らかに挨拶はしたものの、ハインツさんのことを考えると、俺は彼に憎まれても仕方ないんじゃないかとは思う。


 それでも、サラサさんが笑ってくれるようになったと思う気持ちに、迷いはない。

 自分が人から、大切なものを奪う時が来るとは思っていなかった。それだけに、覚悟はしなくてはならないと思う。


 ――もしハインツさんと会う日が来たとき。俺は……彼と、戦うことになるんだろうか。


 家に向かって歩きながら、俺は空を仰いだ。

 俺はハインツさんが相手でも、容赦などできないだろう。サラサさんが心を許してくれたのは、俺が彼女の事情も何もかも含めて、彼女を欲しいと思ったからだと思うから。


「人妻にまで手を出してしまうなんて……ギルマス、どこまで行ってしまうんですの?」

「わっ……み、ミコトさん。もしかして、見てたのか……?」


 普段着姿のミコトさんと名無しさんがいる。ウェンディの姿はない。


「ウェンディさんはもう休んでいますわ。お師匠様のところに行きたいと言われていましたけれど、寝る子はよく育つということですわね」

「ミコトもよく寝るべき年頃だけどね。すぐヒロト君のことを見に行こうとするんだから」

「……仕方ありませんわ。ギルマスの近くにいないと、その……ふたりになるチャンスがありませんもの……」

「……ミコトさん」


 彼女は黒く長い髪を今は降ろしている。見るからに着物が似合いそうな姿だ――和風美人というのかな。

 二人ともお風呂あがりに来てくれたみたいで、石鹸の匂いがした。名無しさんはフードを被っていないので、肩の辺りで長さをそろえた髪型が見える状態で、いつもと違った印象を受ける。


「ウェンディやモニカと、どんなふうに過ごしたか……それをミコトに話してしまったんだけど。ヒロト君は、あの頃みたいにするつもりはあるのかな?」

「っ……え、えーと……その……」

「……待っていると、ギルマスといられる時間がいつになるか分かりませんもの。ですから、私は名無しさんと二人一緒でいいですわ」


 二人は仲がいいとはいえ、一緒に俺と仲良くしたいとは……嬉しいけど、さっきまでサラサさんとリオナと風呂に入って、次はこの二人が待っててくれるなんて、これはハーレムって言わないだろうか。


「そんなわけで……久しぶりに、いいかな。モニカさんの家に行くことも考えたけれど、急に行くのも悪いからね」

「そんなことを言って、人数が増えると時間が減ってしまうと思っていますわよね?」

「……それは否めない。触れてもらう時間が短いと、逆に物足りなくなってしまいそうだからね……」


(そうだよな……中途半端が一番良くない。じっくり二人と向き合わないと)


 家の裏に連行される俺。たぶん俺が行こうとしてるのは、文字通りの『天国の階段』だろう。

 二人が満足するまで、俺はスキルエネルギーの授受を行う。忍術も法術士も、順調なペースで成長を続けていた。


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