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第四十一話 後編・2 雲間の月


 フィリアネスさんは俺を屋敷の裏から招き入れてくれた。中にはメイドさんたちが居たが、フィリアネスさんを見ると礼をするばかりで、一緒にいる俺を見とがめたりすることはなかった。


「心配しなくとも、母はいない。聞いているかもしれないが、私の父は早逝してしまったのでな……」

「ああ……ディアストラさんが、そのことは教えてくれた。でも、他の家族の人は?」

「シュレーゼ家の本邸は、首都を囲む城壁より外側にある。私の祖父……母の父君は、公国北部の分割統治を担う侯爵なのだ。この別邸は母のものということになっているが、母は王宮の詰め所を離れることは少ない。今日も、親衛隊たちを率いてファーガス陛下の護衛に当たっている」

「……めでたい祭りの日でも、守護騎士の仕事は大変なんだな。いや、だからこそなのか」


 ディアストラさんの多忙さを慮る俺を見て、フィリアネスさんは足を止め、俺を見て微笑んだ。


「おまえは、初対面の母の心まで気遣ってくれた。正直なところ、私にはそれが嬉しい。不肖の娘であっても、私は母を尊敬している」

「……フィリアネスさん」


 だから、頬を打たれても反抗しなかったのか。

 俺はディアストラさんにこそ、反省して欲しいと思う。けれど母親である彼女が、俺よりも娘を案じていることも、今では分かっていて……難しい板挟みだ。


「おまえが母と向き合ってもたじろがず、真っ向から対峙しているところは、とても頼もしかった。今までずっと、私にはできなかったことだ」

「……俺は、何も知らなかっただけだよ。ディアストラさんが、どれだけ凄い人なのか」

「ふふっ……凄いとはいうが、母の名をそのように気兼ねなく呼ぶことができる人間は、この国を探してもヒロト以外にはいないのだぞ。ファーガス陛下ですら、母の気が強すぎて頭が上がらないのだからな」


 フィリアネスさんだって、気が強い、だなんて気兼ねのない言い方をしている。

 彼女は俺が言ったこと――ディアストラさんが、本当は娘を憎んでなんていないっていうことを、信じてくれたっていうことだ。


「……もう遅いが、帰らなくても大丈夫か?」

「ああ、みんなもう寝入っちゃってるから、遅くなっても問題ないよ」


 俺は当然のように答えるけれど、フィリアネスさんは何かを言いたそうに、俺の顔をじっと見てくる。

 本当にいいのか、と言われているみたいなので、俺は笑った。すると、彼女も照れ笑いをする。


「問題がないかどうかは、宿にいる人たちが決めることではないのか?」

「っ……そ、それは……」

「……しかしおまえが問題ないと言うなら、本当に無いのだろうな。私は、おまえに……」


 フィリアネスさんはとても大切なことを言った。最後はかすれて消えてしまいそうな声だったけれど――俺は、それに気づくことができる。


「……その話は、どこか違うところでしてもいいかな?」


 メイドさんたちの口が固いといっても、聞かせたいような話でもない。

 フィリアネスさんは、俺に何を望んでいるのか。

 少なくとも彼女は、夜遅いからといって、絶対に帰るべきだと言ってはいない。


「……最後にもう一度だけ、聞いておこう。本当に、帰らなくていいのだな?」

「ああ。帰らない」


 今日はまだ、フィリアネスさんと一緒にいたい。

 今までも、何度も添い寝をしてもらったことはあるけど、それは俺が小さかったから許されたことだ。


 俺の意志は固くて、どれだけ見つめ合っていても変わらない。それを確かめると、彼女はまた、目に涙を浮かべる――少し、涙もろくなってしまっているみたいだ。


「……ありがとう」


 フィリアネスさんはそれだけ言うと、先に歩いて行き、屋敷の二階に上がっていく。

 階段を上がり、天上から下がった飾り照明を見ながら思う。ミゼールの俺の家より、内装がいくぶん華やかだ。侯爵と伯爵の間には、明確に財産の差があるのだとわかる。


 絨毯もいいものが敷かれており、前世で家族旅行をしたとき一度だけ泊まった、高めの旅館の廊下を思い出す。家の内装が旅館に匹敵するとは、今までは実感が足りなかったが、貴族はそれだけ裕福な暮らしが出来るということだ。グールドの別邸も、戦っている間はよく見ていなかったが、今にして思えば凄まじい豪邸だった。


 フィリアネスさんの部屋には、金色のネームプレートがかかっていた。彼女は俺の方を恥ずかしそうに窺いつつ、鍵を外して扉を開ける。


「……先に入るといい。客人を入れるのは、もう何年ぶりか分からないが……前に入ったのは、確かヴィクターだったと思う。その頃はまだ騎士学校に入る前で、親戚として親しくしていたのでな」

「そ、そうなのか……別邸とはいえ、フィリアネスさんの部屋に入るのって、その……」

「だ、男性では、ヒロトが初めてだ……確かめるまでもないと思うのだが」

「い、いや。それを気にしてるわけじゃなくて……」


 思わず慌ててしまう。確かに気にはなるし、初めて彼女の部屋に入る異性が自分だというのは、嬉しくもあるけど、何だか無性に恥ずかしい。


「……私のほうは、ヒロトが部屋に他の女性を入れても、気にしないようにしているが。ヒロトには、その……気にしてもらっても、一向に構わないというか……」

「そ、そういうことなら、ぜひ俺以外は入れないでほしい。独占欲丸出しで、恥ずかしいけど……正直な気持ちだ」

「ふふっ……だから、確かめるまでもない。実家でも、この別荘でも、私はお前以外の男は部屋に入れない。これまでも、これからもだ」


 この世界に数ある男の中で、俺しか入ることができない部屋。まるでそれは、聖域のようだと思った。

 大げさと思われるかもしれないが、それだけ緊張していた。真っ暗な部屋の中に入ると、フィリアネスさんが魔術の呪文をつぶやく――明かりライティングだ。



◆ログ◆


・《フィリアネス》は「ライティング」を詠唱した!

・室内の魔術灯に明かりが灯った。



 部屋の壁の何箇所かに取り付けられた魔術灯が、一つずつ順番に暖色の明かりを灯す。

 フィリアネスさんの部屋は、応接室とベッドルームの二つに分かれていた。応接室には大きめのテーブルが置いてあり、バルコニーに出ることができる。貴重なガラスもここでは惜しみなく使われていて、格子で区切られた大きな窓の外には、先ほど俺が裏庭で見た大樹が見えていた。


 フィリアネスさんはテーブルの前に置かれた2つの椅子のうち、ひとつを俺に勧める。


「ここに座って、待っているといい。部屋に気になるものがあれば、見てもかまわないが……寝室には、まだ入らないでほしい。私の着替えなどもあるのでな」

「っ……い、いや。初めて来たばかりなのに、いきなりタンスをあさったりはしないよ」

「……それよりも、私はとても重要なことを言ったのだが……も、もう一度言わせるつもりか……?」

「重要なこと……?」


 ――少しも考えなくても気がついた。『寝室にはまだ入らないで欲しい』という言葉の意味に。


「あっ……ふぃ、フィリアネスさん。それって……」

「な、なにを嬉しそうな顔をしている。さっき、帰らないと言ったのではなかったか。そうか、私の勘違いだというなら、今からでも……」

「ち、違う、勘違いじゃないよ。俺は……」


 全部言う必要はなかった。怒ってしまったかに見えたフィリアネスさんは、顔を赤らめて苦笑する。


「……私は、舞い上がってしまっている。気持ちと裏腹のことばかり言いたくなる……本当は私だって、嬉しくて仕方がないのに」

「俺だってそうだよ。こんなに幸せでいいのかって……地に足がついてない」

「幸せだと、思ってくれているのか……?」


 短い言葉が、今は気持ちの引き金になる。フィリアネスさんは俺の答えを待たずに、今度は彼女から俺に近づいて、正面から抱きしめてくれた。


「……私には、ヒロトしか考えられない。こんなに人を大事だと思うのは、親に対してもなかったことだ。親不孝だと言われるかもしれないが……」

「……俺も、フィリアネスさんが大事だよ。離れてる時も、いつも考えてた。今ごろ、何をしてるだろうって」

「私もそうだ……ミゼールに住むことが出来たらと想像することさえあった。聖騎士の務めを果たしているからこそ、私はヒロトに会うことを許されているというのに」


 聖騎士の務めと言われて、思い出さずにはいられなかった。

 彼女は二十九歳まで、結婚も、おそらく男性との交際も禁じられているはずだ。


「……フィリアネスさんは、聖騎士だから……戒めが、あるんだよな。俺が大人になるまで……」


 これ以上先に進むのは、待たなければならない。柔らかな身体を抱きしめれば、それだけ、男としての欲求が生じてしまう。


 成長するというのは、そういうことだ。俺はユィシアの求めに応じられるようになった――それは、男性として十分に成熟したということでもある。


 そんな今の俺にとって、フィリアネスさんは、憧れの遠い存在のままではなくなっていた。

 ――キスよりも先に進みたい。そんな俺の気持ちを察したのか、彼女は戸惑い、さらに顔を赤くする。


「……そ、そのことなのだが……笑わないで、聞いて欲しい」

「えっ……わ、笑うって、どういうことだ?」

「私が聖騎士として功績を上げることに躍起になり、腕を磨いていたのは……『聖騎士セイントナイト』ではなく、さらに上位の『真聖騎士パラディン』になるためだ」


 つまり、フィリアネスさん自身が望んで職業を変化させたということになる。

 しかしそれが、なぜ笑うようなことなのか、俺にはまだわからない。


「真聖騎士として叙勲を受ける条件は、領地を持つこと……そして、公国の認める武勲を上げることだ。そうすると、聖騎士としての制限がなくなる。つ、つまり……その……」


 その続きを、フィリアネスさんはとても言いづらそうにする。


 ――笑うなんて、そんなことはありえない。


 フィリアネスさんは凄く努力して、功績を認められてパラディンになった。それは二十九歳まで結婚できないという『戒め』を、なくすためで……つまり、それは。


「俺のために……お、俺、まだ八歳だけど……いつか結婚できるようにって、頑張ってくれたのか……?」

「……そ、そんな驚くような目をするな……ばかもの」


 驚きを通り越して、もう何て言っていいのか分からない。

 もちろん、俺との距離を近づけるためだけに彼女が戦っていたわけではない。それは分かってる、だけど。


「……フィリアネスさんを好きになって、良かった」


 本当は、一目惚れだったんだ。そんなことは、恥ずかしくて言えなかった。

 初めの一瞬は、ゲームの中のキャラクターが現実化したことを喜んで、次にはもう違っていた。

 ゲームとは違う、確かにこの世界で生きている彼女に、惹かれていた。



◇◆◇



 泊まっていくということなら、お風呂に入らないといけない。俺はフィリアネスさんより先に入らせてもらうことになった。

 湯殿に案内してくれたメイドさんは、そのまま風呂の中での世話までしてくれようとした。


 貴族の中では、男性も女性も問わず、そういった世話役がいるのが慣習になっているらしい。それなら俺も甘えてしまっても良かったのかもしれないが、『貴族の感覚』にいきなり浸かってしまうのは危険だと思えた。


 何より、メイドさんたちが、『主人のフィリアネスさんが連れてきた男性』ということで物凄く恐縮していて、下手をしたら行き過ぎたことをしかねない感じがした。


 貴族の暮らしは、ひとつ間違えば背徳と隣合わせだ。母さんが家を出たのは、そういう慣習が合わなかったからなのかもしれない、と思ったりもする。


 天井が高くて、何人も一緒に入れるくらい広い風呂場。石造りの湯船に浸かって、獅子を象った彫像の口からお湯が吐き出されるさまを見ながら、俺は緊張と静かに向き合っていた。




 女の人の家でお風呂に入り、先に上がってきて、部屋で待つ。

 一人になってそんな状況に置かれると、急に緊張して仕方がなくなる。


(お、落ち着かない……)


 俺はじっと座っていることなどできなくて、窓を開け、夜風に当たる。空に浮かぶ月を見上げると、少しは気分が落ち着く気がした。


 時間がかかるので、待たずに寝ていてもいいと言われた。先に寝室に入ってもいいと許可ももらった。


 しかしまだ、寝室に続く扉を開けられていない。最初は、着替えがあるから入ってはいけないと言われたし……意識しすぎて、足を踏み入れられない。


 だが、逆に考えてみたら、入っていいと言ったのに入ってないというのは、好感を持たれない行動ではないだろうか。こんな時の女性の考えが全く分からない――こればかりは交渉術でクリア出来ない、素の俺の問題だ。


 意を決して、俺は寝室に続くドアを開けた。中にはひとつだけベッドが置いてあるが、一人だけで寝るためのもののはずなのに、ものすごく大きい――そして、丸い。


 ベッドばかり気にしてしまうのも何なので、俺は部屋の中をぐるりと見渡す。

 そこにはフィリアネスさんが使っているらしい机があった。近づくと、上に何か置かれている。


「……これは」


 それは、絵を飾る小さな額縁だった。裏返して見て、俺は思わず言葉を失う。

 そこには、赤ん坊――おそらくフィリアネスさんと、彼女を抱いているディアストラさんらしい女性の姿が、繊細な筆使いで描かれていた。


 俺はそのまま、額縁を元に戻した。これをフィリアネスさんが伏せた理由が、わかる気がしたから。


 ここは間違いなくフィリアネスさんの部屋だが、今の大人のフィリアネスさんから想像する部屋とは違って、幾らか幼い頃に使っていたままの面影が残っていた。


 俺の心は次第に落ち着いてくる。ここにいたフィリアネスさんの子供の頃の姿を、想像する。

 初めて会ったとき、彼女は十四歳だった。それ以前の彼女のことを、ほんの少しだけ知ることができた。


 過ぎた時間は戻らず、どれだけ願っても、相手の全てを知ることはできない。

 それなら、これから過ごす時間を大切にすればいい。今はもう、そうすることを許されたのだから。



 心が静かになったあとは、時間の流れが早く感じられた。

 気が付くと、ドアがノックされていた。自分の部屋だというのに、彼女は中にいる俺に気配りをしてくれた。


 ドアを開けると、ネグリジェの上から、薄いガウンのようなものをまとったフィリアネスさんが立っていた。まだ少ししっとりとした髪が、何とも言えず色っぽい。


「す、すまない……やはり、時間がかかってしまった。待ちくたびれてしまったか?」

「部屋の中を少しだけ見せてもらってたから、退屈じゃなかったよ」

「そ、そうか……それならば、よかった……飲み物を持ってきたが、どうする?」

「少しだけもらうよ。ちょうど、喉が乾いてたんだ」


 お互いにこれ以上ないほど意識しているのに、落ち着いているように見せようとする。

 他の人から見れば滑稽に見えるやりとりかもしれないけど、俺は幸せで仕方がなかった。彼女の気遣いのひとつひとつが、俺を優しい気持ちにさせた。



 やがて俺たちはどちらが言うでもなく、寝室に移動した。同じベッドに入って、隣合わせで眠りにつく。


「……ヒロト、手を握っていてもいいか?」

「うん。もちろん……抱き合ったまま眠るっていうのも、憧れるけど」

「……では、そうしよう。子供の頃から、そうしてきたように……おいで、ヒロト」


 フィリアネスさんが、その時は憧れの女性であると同時に、お姉さんなんだと強く感じた――この人の胸に甘えて眠れるなんて、俺はどれだけ恵まれているんだろう。


 今はまだ触れ合うだけ。今夜はスキルを受け取ることもしないで、俺達は同じベッドで笑い合い、恋人としてじゃれあった。


 ――そして初めて過ごす、フィリアネスさんの別邸での夜は、静かに更けていった。

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