第四十一話 後編・1 水面に映る月
「……あれが、フィリアネスさんの家か」
やがて見えてきたのは、グールドのいた屋敷と同じくらいの規模の広い邸宅だった。
正面から行くと、こんな夜更けに男が訪ねてくるとは、と騒ぎになってしまうかもしれない。奇しくもグールドの時と同じように、俺は隠密スキルを使うことになった。
◆ログ◆
・あなたは「忍び足」を使用した。あなたの気配が消えた。
屋敷の前に立つ門兵の横を通りすぎても、全く気づかれない。俺はそのまま屋敷の裏手に回る。
シュレーゼ邸の裏には庭があって、立派な枝ぶりの木があり、小さな池があって、石造りの橋が渡されている。こんな立派な庭園があるとは……。
――そのとき、雲に隠れていた満月が姿を現し、池に写り込む。
そして橋の上から池を覗きこんでいる彼女の姿に、俺は遅れて気がついた。
金色の髪を結い上げたまま。彼女の女性としての魅力を際立たせる、清楚な白いドレスも、身につけたまま。
祝祭の宴から出て行ったあと、少しも時間が流れていないようにすら思えた。実際は、もう半日も過ぎているのに。
彼女は物憂げな様子で、橋の欄干に手をかけて、水面を見つめていた。
その唇がかすかに動き、ささやくような声が耳に届いたとき、俺は、自分が今どこにいるのか、何をしようとしているのかさえも、忘れてしまいそうになった。
「……ヒロト」
――聞き間違いじゃない。紛れもなく、俺の名前だった。
心臓が高鳴り始める。俺のことを待っていてくれたのなら、会いたいと思ってくれたなら。
ここに来たことが間違いじゃなかったんだと、直ぐにでも確かめさせてほしい。
◆ログ◆
・あなたは「忍び足」を終えた。隠密状態が解除された。
・《フィリアネス》があなたに気づいた。
フィリアネスさんは顔を上げて、こちらを見た。
裏庭の木の影から姿を見せても、ただ、何も言わずに俺を見ていた。
一歩ずつ歩いていく。屋敷の明かりはついているが、誰かが出てくる気配はない。
俺とフィリアネスさんの、二人だけ。俺は橋のほとりに立って、フィリアネスさんと向き合う。
――何から話せばいいのか。言葉が、出てこない。
ディアストラさんとは何もなかった。彼女はフィリアネスさんを嫌ってなんていない。
それよりも先に伝えたいことがあるのに、喉が引き攣れるみたいで、声を出せない。
フィリアネスさんの瞳が、まるでずっと泣いていたように、赤くなっていたから。
「……なんて顔をしている。皆の前で立派に話してみせたおまえは、どこに行ったのだ?」
そんな状態なのに。
強がっているって、誰にでも分かるくらいなのに。
何でもないとでも言うかのように、彼女は笑った。何でもないなんて、とても俺には思えなかった。
一瞬、俺は何も考えられなくなった。ただひとつの気持ちに突き動かされ、身体はひとりでに動いて――。
俺は、フィリアネスさんを抱きしめていた。そうする以外の選択は、なかった。
「……ヒロト」
「俺はあの時、フィルを追いかけなかった……一人で居させたくなかったのに、体裁ばかり気にして……」
腕の中に彼女がいる。ヴェレニスの村で過ごした夜が、昨日のことのように脳裏を巡る。
――おまえがいれば、どんな困難も乗り越えられる。
――心から、そう思える……ありがとう、私の可愛いヒロト。
「俺は……俺にとって大事なのは、フィルで……フィルを傷つけたディアストラさんを、許せないと思った。でも、違ったんだ……彼女はフィルの母親だった。紛れも無く、フィルを大事に思っていたんだ」
「……母が、そう言ったのか? 私のことを……」
フィルは俺の胸に手を置いて、そっと身体を離す。その目は不安げに俺を見つめている――嘘をついていないかどうか、確かめるように。
「ああ……でも、すぐに本当の気持ちは言えないとも言ってた。ただ、お母さんとして、フィルに危ない目に遭って欲しくないだけだったんだよ」
「……本当に……? 本当に、母は、私を憎んでいないのか……?」
俺は頷く。フィルの瞳が潤んで、その頬に涙が伝う。
「俺は、どうして実の娘にひどいことが出来るのかって思った。でも、信じたくなかったんだ。フィルの母さんが、そんな酷い人のわけがないって。意味もなくそんなことをするとは思えないって……」
「……わたしは……母に、憎まれていると……父の遺志を継ごうとする私を、そんな資格はないと疎んでいるとばかり思って……っ、もっと、強くなろうと……決めてっ……」
聖騎士フィリアネス。彼女が何故、若くしてあれほどの強さを手に入れたのか。
――天賦の才能だけでは、そこまで強くはなれない。彼女は、母親に認められたかった。
俺がもし父さんと母さんに冷たくされたら、どうだっただろう。子供の頃、笑えていたかどうかも分からない。
いつも、甘えてばかりだ。自分の周りが優しい世界だと信じられたのは、周りにいてくれる人が優しいからだ。
フィルは最も欲しいと思う人の愛情を得られなかった。これまでどれだけ辛い思いをしてきたかと思うと、胸がつぶれそうになる。
「……違うんだ。娘が魔王と戦うことを止めたくて、でも、出来なかったんだよ。フィルの気持ちが、痛いほど分かっているから」
「それなら……それなら、どうして……私と一緒に戦おうと、言って欲しかったのに……っ!」
その言葉をディアストラさんが言える日は、すぐには訪れないのかもしれない。
けれど、少しずつ。春が訪れて雪が溶けるように、わだかまりは消える。すれ違っても、ずっと歩く道が交差しないわけじゃない。
フィルの目からは大粒の涙がとめどなくあふれる。初めて会った時よりも幼い少女のように、袖を濡らして涙を拭いても、止まることがない。
今までも泣いていたのに。俺がここに来るまでも、ずっと、一人で。
「ふぅっ……ひっく……ぐすっ……ヒロト……済まない、こんな……情けない、姿を……」
「いいんだよ。母さんに冷たくされたら、それは悲しいよ。俺がレミリア母さんにあんなふうにぶたれたら、どうやって許してもらえばいいのかもわからなくなる」
「ひぐっ……うっ、うぅっ……レミリア殿はそんなことはしない……レミリア殿は優しくて、温かい方だ……私の母とは……」
「そんなことない……本当は、いつでも優しくしたいんだよ。今は俺の言うことが信じられなくても、俺が魔王を倒しさえすれば、きっとディアストラさんも本当の気持ちを話してくれる。大丈夫だよ、俺がついてるから」
「……わぁぁぁぁっ……!」
思いつく限りの言葉で慰めようとしても、彼女の感情が溢れ出すことは止められなかった。
俺はその背中に手を回して抱き寄せながら、胸に縋りついて泣く彼女の髪を撫でて、その心の痛みを思った。
公国最強の聖騎士。父親の仇を取るために、魔王と戦う力を手に入れようとした少女。
けれど、どれだけ強くなれても、傷つかない心を持っているわけじゃない。
今のフィリアネスさんは、俺の腕の中で泣く彼女こそが、ずっと見せなかった本当の姿だった。
母親に突き放された時のまま、寂しさを抱えたままで、その辛さを見せもしないで。
「……俺は、何を見てたんだろう。フィルの優しさに甘えて、色々なものをもらったのに、少しも返せてない。今だって、こんなにフィルを泣かせてる」
彼女はしばらく何も答えず、ただ肩を震わせて泣いていた。
しかし少しずつ落ち着いて、恐る恐るというように顔を上げる。恥じらいと、戸惑いに瞳が揺れる。俺の前で泣いたことを恥じているのだろう。
「……ヒロトは悪くない。私が、ヒロトの前に居ると……抑えることが、出来なくなってしまう。感情的な女ほど、面倒なものはないと分かっているのに……私は、聖騎士失格だ」
いくつかの言葉が頭のなかに浮かんで、そして消えていく。
そんなことはない、聖騎士だって泣くことはある。泣けないくらい強くならなくたっていい。
でも、そんなことは、今言うべきことだとは感じられなかった。
いつかの光景が、頭を過ぎた。それは俺が初めて、誰かに好意を持った時の記憶だった。
記憶の中の陽菜は、無茶をして膝を擦りむいた俺に、絆創膏を差し出してくれた。
それを貼り付けたあと、「痛いの痛いの飛んでけ」と言って、泣きながら笑った。
それを思い出しても、俺は立ち止まろうとは思わなかった。これ以上先に進むことを、一秒も躊躇ってはいられなかった。
――こうしていると、満たされた気持ちになる。おまえがこの気持ちを教えてくれた……。
――私は神のため、公国のため……そしてお前のために、この剣を捧げよう。
――剣だけでなく……すべてを……
その言葉を聞いたとき、まだ俺は、自分の犯した罪を、罪だとも思っていなかった。
これ以上先に進みたければ、それを避けるわけにはいかない。例えそれが、彼女の信頼を無にすることであっても。
「……フィル……いや、フィリアネスさん。面倒なんて、そんなことないよ。辛いことがあったらいつでも言ってほしいし、打ち明けてほしい。そうじゃなきゃ、傍にいる意味がないから」
「……ヒロト……しかし、それでは、あまりにも、釣り合いがとれていない。私がおまえに寄りかかるばかりで、私は何も……」
心は静かだった。俺は、どんな結末をも覚悟していた。
それだけのことを重ねてきた。人の心を操るようなことを繰り返して、力を手に入れた。
――これはその報いだ。いつかは、言わなくてはならなかったんだ。
「……俺の方こそ。本当は、フィリアネスさんに、そこまで思ってもらえるような人間じゃない」
「……それは……なぜ、そんなことを……」
フィリアネスさんは俺が何を言うのか分からず、戸惑いの表情を浮かべ、鳶色の瞳で俺を見つめる。
「俺は……赤ん坊の頃、フィリアネスさんに振り向いてもらえるように、力を使った。そういう力が、俺にはあるんだ。あなたが俺に向けてくれた思いの始まりは……俺が、力を使って得たものなんだ」
「……力……私に、力を使って、干渉した……そう言うのだな」
驚きながらも、静かな表情で彼女は言った。その瞳は、俺を捉えて離さない――逃してはくれない。
――その片手が、上がる。俺は頬を打たれることを覚悟して、目を閉じた。
しかしいつまでも、頬に痛みは訪れなかった。
痛みの代わりに、ひんやりとした手のひらが、優しく頬を包み込んだ。
目を開けると、フィリアネスさんは俺のことを、赤らんだ目で見上げていた。
なぜ、打たなかったのか。そう目で問う俺を見て、彼女は朗らかに笑った。
「おまえは、ひとつ勘違いをしている。お腹をすかせた赤ん坊がご飯を欲しがるのは、何も悪いことではない」
「っ……い、いや。俺は、本当は、お腹なんて……」
「……私の力をおまえに与える機会があったとしたら、考えられるのは、おっぱいをあげたことだけだ。それも、数えきれないほどな。そう考えれば、おまえが求めていたのは、私の強さなのだろう。そうではないのか?」
「……かなわないな、フィリアネスさんには。やっぱり、フィルなんて呼ぶのは、俺にはまだ早かったよ」
俺は苦笑するしかない。彼女の笑顔を見て安心した途端に心臓が早まり出して、顔が熱くて仕方なくなる。
本当のことを言っても、嫌われずに済んだ。何も、失わなかった――そのことと、彼女の優しさへの感謝で、もうどうしていいのか分からなくなる。
「ふふっ……なんだ、顔を真っ赤にして。私が怒ると思ったのか? だとしたら、おまえはもうひとつ、大きな勘違いをしていることになるな」
「えっ……もう一つ……?」
「……私はおまえと離れている間も、おまえのことを考えていた。しかしそれは、おまえの目の光に、ただの赤ん坊とは違うものを感じたからだ。初めは少し無愛想にされて、可愛くない赤ん坊だと思ってしまったものだが、私は見ていたのだ。おまえがレミリア殿の背中で、強い眼差しをごろつきに向けていたのを」
赤ん坊なのに、母さんに絡んできた連中を睨んでいた――それは正直いって、俺がフィリアネスさんの立場だったら、驚いてしまいそうなものだが。
「私は……母に対して、守るなどと決してできる立場にはない。しかし魔王と戦う理由に、私が戦えば、母を死地から遠ざけることになるという思いもある。おまえがレミリア殿をどれだけ大切に思っているのかは、あの竜の巣でも確かめることができた……おまえは、私が求めてやまないものを持っている。憧れるほどの、輝きを」
――そんなこと、夢にも思っていなかった。
俺が彼女に憧れることがあっても、憧れられることがあるなんて思わなかった。
「私もおまえのように、母と過ごすことができていたら。ミゼールに行くたび、そう思っていた。私はお前たちを見守ることで、母の心を安らげられなかった自分の罪を、濯ごうとしていたのかもしれない……」
「……俺はただ、フィリアネスさんが来てくれるのを、喜んでただけだ。あなたの神聖剣技が、どうしても欲しかった。俺は、強くなりたかったから」
「守りたいもののために強くなる。それを否定するのならば、私はそれこそ聖騎士失格だ。私はおまえの横に並べるよう、これからも自分を磨いていく。おまえが憧れてくれた神聖剣技を、極めてみせる。おまえがくれた印の力で、限界を越えて」
これからも、ずっと一緒に、横に並んでいる。
――それ以上、言葉を尽くす必要はなかった。フィリアネスさんは何も言わずに、瞳を潤ませて俺を見つめた。
水面に浮かぶ月の中で、俺と彼女の影が近づき――そして、重なる。
もっと、難しいものだと思っていた。距離がつかめなくて、歯がぶつかり合ったりして、台無しになってしまうなんて話を見て、自分も気をつけないとな、でも相手なんているわけない、そう思っていた。
しかし、唇を触れ合わせると、俺はただフィリアネスさんを求めることしか考えられなくなっていた。
細い腰に片手を回し、もう片方の手を背中に回す。すると、彼女の手もそれに応じるように、俺の背中に回される。
こうして身体が大きくなっていなければ、抱きしめることなんて叶わなかった。まして、彼女を抱き寄せてキスをすることだってできはしなかった。
「……す、すまない」
「どうして謝るの?」
「あまり、うまくできていないように思う……私のほうが大人なのに……」
抱き合ったままの距離で、フィリアネスさんは顔を真っ赤にして恥じらっている。息をすることさえためらう、彼女はそういう奥ゆかしい人だ。キスよりも距離の近いことを何度もしてきたけど、それとは意味合いが全く違っている。
夢中になっていて、忘れてしまっていた。そういうことも、ちゃんと気遣わないと。
「遠慮しなくてもいいよ。苦しくなるくらい、我慢しなくてもいいから」
「……わ、わかった。ヒロトも、遠慮しなくていいのだぞ……」
逃げ出したいくらい恥ずかしくて、照れくさくて、それでも続けていたい。きっとその思いは俺も彼女も同じで、年齢の差など関係ない。
もう一度キスをして、そして離れる。今度は息継ぎがうまくいったので、一度目より長く触れていられた。
少し不安げに視線を伏せていた彼女が、俺と恐る恐る目を合わせる。
「あまり、顔を見ないでほしい……とても、見せられるような顔は、していないはずだ」
「分かった。次の時は、俺も目を閉じるよ」
「……閉じたあとに開けるというのは、反則だぞ? 騎士道の精神に、反している」
そんな冗談を言って、彼女がいたずらっぽく笑う。
その顔を知っているのは、きっと俺だけだ。他の誰にも見せたくない――渡したくない。だから、もう一度キスをする。
柔らかい服の下で息づく豊かな胸が、俺の胸板に惜しみなく押し当てられて、その弾力が伝わってくる。生命の温かさを感じる鼓動に、今までどこにもなかった狂おしいものが生まれて、俺はより強く彼女を抱きしめる。
屋敷の方から、見ている人がいるかもしれない。そんなことも今は気にすることをしないで、初めてのキスが少しでも長く続くように、俺たちは橋のほとりで、静かに抱き合い続けた。




