第三十六話 祝祭の街/鐘つき塔にて
俺が寝かせられていた宿は、首都に来た旅人たちが主に利用するような目立つ場所ではなく、酒場や食事の出来る店の集まったところの裏路地にひっそりと看板を出していた。
宿の外に走り出て、広い通りに出ると、頭上の空は晴れ上がり、白い雲が流れている。太陽が雲に隠れているのは幸いだった。今の俺にはどうも、眩しすぎる光は目に毒のようだ。リリムに血を吸われて吸血鬼になった、ということでもないと思いたいが。
それにしても人が多い。人混みをかいくぐるようにして走っていく――陽射しを避けるために外套を羽織り、フードを被っている人が多いので、一見すると砂漠の真ん中の町にでもやってきてしまったかのようだ。
(すっかり暑くなったな……そういえば、夏が近いのか)
季節を意識したことは今まであまりなかった。今は6月の半ば――前世においては初夏と呼ばれていて、異世界においてもぐんぐんと暑くなってくるころだ。ジュネガン公国に梅雨などはないので、空気はからっと乾いており、不快な暑さというわけでもない。
「おわっ……ひ、ヒロト、どこ行くんだっ!?」
「良かった、元気になったんだね!」
市場通りの雑踏の中で、覚えのある声が聞こえた――ディーン、そしてアッシュ兄。どうやら、祝祭見物に出る前に町の下見をしていたらしい。
「ディーン兄ちゃん、アッシュ……ッ、ごめん、今は急いでるんだ、人を探してて!」
「よ、よくわかんないけど、みんなが言ってた黒尽くめの人ってやつか!?」
「ヒロト、ぼくたちに出来ることはあるかな!?」
「大丈夫、俺がなんとかする!」
「おおっ……なんかカッコイイぞ、ヒロト! よくわかんねーけど、がんばれよ! ていうかお前、すげえでっかくなっちゃったな!」
「無理はしちゃだめだよ! それと、ありがとうっ! ヒロトのおかげで、初仕事はうまくいったよ!」
「それは良かった! 二人とも、また後でっ!」
俺は二人に向けて親指を立てる。二人はよくわからないながらも、笑顔でそれに応えてくれた。
――俺が成長してしまったことは、二人も聞いていたのだろう。年齢自体も、身体の大きさも逆転してしまったのに、彼らは変わらずにいてくれた。
眠っている間に、俺の事情をうまく話してくれた人がいる――フィリアネスさんだろうか。リオナとミルテが頑張ってくれたのか。いずれにしても、感謝は尽きない。
そして俺は、彼女にも感謝している。もしそこを彼女が勝手に決めつけてしまっているなら、それは間違いだと伝えなくてはならない。
伝えたいことはもう一つある――俺のパーティに入るというのが、どういうことか。
彼女がそれを忘れているのならば、思い出してもらわないといけない。
(なんて言っておいて……見つからなかったら、ミコトさんを探す旅に出なきゃならなくなるな)
◆ログ◆
・あなたの身体がきしみを上げている。
・あなたの恵体値が3ポイント上昇した! あなたは身体を思うように操れるようになった。
「痛てっ……!」
いきなり身体が大きくなるというのは、骨などにも負担がかかってるということだ。年齢に合うように身体が急成長する負荷を、エリクシールが吸収してくれた――そう考えられる。
そして身体が大きくなっただけ、それに対応したスキルが上昇する。それとも俺が、八歳の限界を超えるほど鍛えていた反動だろうか。俺の恵体値は既に153、さっきのログのような恵体上昇が、寝ている間に何度も起きていたということになる。
死にかけてから超回復することで、一気に強くなる――なんて設定は、エターナル・マギアにはもちろんなかった。俺が前世で好きだった漫画の幾つかにも見られた設定だが、自分で経験してみるとまた、爽快というか、こんなに強くなっていいのか、という思いさえある。
今の俺なら、リリムとの再戦で遅れを取ることはない。届かなかったリーチも目に見えて伸びていて、今は違和感があるものの、こうして身体を動かしていればすぐに慣れるだろう。
(リリムは途中で身体を『分割して』逃げた。そうされると、倒しきるには苦労する。ひとつでも分割した身体が残ると、そこから再生できる)
ユィシアの声が聞こえてくる――人々の視界に入らないように、雲の影に隠れるほどの遥か上空にいるようだが、この距離でも念話は可能ということだろう。
(どんなふうに戦ったのか、後でまた聞かせてくれるか。いつか、決着をつけなきゃならない相手だ)
(わかった。私がこうして傍にいるうちは、力を回復するまでは攻めてこないと思う。敵がリリムと分かっていれば、対策のしようはある。母竜の知識があるから)
ユィシアの母親は、魔王のことを知っている――あるいは、密接に関わっているということか。
リオナを見た時、ユィシアが涙を流した理由が分からずにいたが、『そういうこと』なのかもしれない。幼いリオナと、ユィシアが知り合う余地は無かったということならば、リオナを知っていたのは別の誰かだ。つまり、ユィシアの母親が――、
(そう。リオナ……魔王リリスが転生したあの子は、私の母と戦ったことがある。私はそれを自分のことのように感じてしまった。思い出した、と言ってもいい)
(……そうか。そのことは、ユィシアが話したいと思ったときに話してくれ)
(マスターが知りたいことは、すべて話す。遠慮はいらない)
魔王リリスのことをリリムは姉と呼んだ。そしてユィシアは、リリスの転生体であるリオナに対してこう言った。
――生まれ変わっても、人間を守るなんて。
リリスとは魔王の中でも異端の存在だったのだろうか。リリムもリリスに対しては、複雑な思いがあるようだった。魔王たち全てが一枚岩ではなく、関係性もさまざまということか……。
(それより、黒い人を探すことに集中したほうがいい。すべてはそのあと)
「そうだな……黒い人っていうか、ミコトさんって言うんだ。覚えておいてあげてくれ」
(……ミコトとの関係について質問したい)
関係と言われて、俺はミコトさんのことをどう考えているだろう、とふと思う。
前世のことを知っているパーティメンバー。気の合う仲間で、彼女でしか共有できない感覚がある。あれだけ楽しんだ、いわば憧れの世界に転生した同志――つまりは。
(俺にとって、大事な仲間だ。これからも一緒に、冒険したいと思ってる)
ユィシアからはしばらく答えが返ってこない。彼女は俺の言葉を吟味しているようだった。
(私は、雄と雌のあいだに、友情は成立しにくいと思う。戦うか、無関心か、つがいになるか、そのいずれか)
「そいつは極端だな……じゃあ傍にいるには、つがいになるしかないのか?」
(……それくらいしないと、繋ぎとめられないということ。人の心は離れやすいものだから。私の場合は違う。竜は一度選んだ主人を、絶対変えない。裏切らない)
そこまでのユィシアの献身に、俺はありがとうと言うほかない。出来るなら人化したユィシアに、直接会ってお礼を言いたいものだ。
(……それはもう少し待って欲しい。大きくなったマスターは、外見が大きく変化して……周りの人間の反応が大きかった。私も、それは例外ではない)
「え……あ、やっぱりそうだよな。こんなに急にデカくなると、怖いよな」
(体格自体は、私より少し大きい程度。でも、抱えられるくらい小さかったから、変化がとても大きい。そして身体の機能が成熟するということは……私がお願いしたことが、実現出来るということ)
「お願い……あ、ああ。解ってるぞ、解ってるから、いつまでも誤魔化すつもりはないからな」
ユィシアは竜の巣を守らせるために、子供を作りたいと言っていた。今の俺は、それに協力することについて不可能ということがない。幼さという殻を脱ぎ捨て、ぐっと大人に近づいた今となっては。
(……誤魔化し続けられたら、捕獲する。繁殖期がくると、本能を抑えられなくなる。私を止めたいなら、倒してでも止めるしかない。今のマスターなら出来るかもしれないけど、おすすめはしない)
恵体153となった俺は、ユィシアを組み伏せることすら可能だろう。しかし俺は、女の子にそんなストロングスタイルで打って出ることはまずない――と思っていたが。スーさんとは手合わせすることになっているし、ミコトさんだって、いつもの彼女なら俺とトレーニングしてみたいと言うところだろう。
――そう、いつもの彼女なら。そうでなくなっている今、一刻も早く彼女の所に行かなければならない。
◇◆◇
エターナル・マギアをプレイしていた頃、一度ユーザー同士の連絡機能が死んでしまい、ギルドハウスにも入れなくなって、仲間と連絡がつかなくなったことがあった。
そのとき俺は、ギルドのメンバーとあるゲームをした。誰とも連絡のつかない状態で、5つの場所からひとつを選んで集合し、今日はそのメンバーで行動するのはどうかという提案だ。いつも固定メンバーで行動することの多かったギルドメンバーも、その時だけはお祭り気分で、いつもと違うパーティで遊んだという。伝聞系なのは、そのときの他のパーティのことは、俺も把握していなかったからだ。
そして、集合場所の一つとして選ばれたのが、ジュネガン公国の名所・首都の高台にある、『旧鐘つき塔』の下だった。その名のとおり、首都の中心部に新しく時計塔が出来たため、時間を告げるための鐘は使われなくなったという設定だった。
そこに集まったのは、俺と他に二人だけだった。ミコトさんと、麻呂眉さんの二人だけだ。
そもそも連絡機能が死んでいるということで、ログインしていたメンバーも一部だけだったのだが、それでも千人のギルドで三人しか集まらなかったことを、俺たちは物好きなんだろうかと笑いあった。ジュネガンのダンジョンに大して旨みはないと言われていたから、他のメンバーは、レベルキャップを要求する高難度ダンジョンの近くにある集合場所を選んだのである。
町の中心部から離れて、高台を目指す。祝祭においてもこの界隈が利用されることはないようで、あれだけ騒がしかったのに人の姿は全くなくなり、俺は高台の上に続く長くゆるやかな丸石の階段を、一段飛ばしで駆け上がっていく。八歳の歩幅では出来なかった芸当がたやすく出来ることを、改めて便利だと思いながら。
旧時計塔は苔むしていて、白い外壁に蔦が伝っている。見上げると首が痛くなるほどの高さ――30メーティアはあるだろうか。中は七階構造のダンジョンになっているが、モンスターはイベントが起きた時しか湧かないため、あたりは静まり返っている。
◆ログ◆
・《ミコト》は「香木の簪」の装備を解除した。
(っ……いる。この近くに、ミコトさんが……)
その時俺の視界で、ふわりと何かが揺れた気がした――自分の感覚を信じるならば、それはミコトさんの姿だった。
彼女は塔の上にいる。そう確信した俺は、鍵のかけられた正面扉ではなく、裏にある隠し通路から中に入った。石壁に良く見ると分かる小さなくぼみがあって、そこを押すと開くようになっている。
閉鎖された時計塔の中は真っ暗だったが、どこからか細い隙間から光が差し込み、埃の粒子が舞っているのが見える。ここを抜けて、ミコトさんも上に上がったんだろうか――どんな気持ちで、歩いたんだろうか。
円形の塔の内壁に沿うように作られた階段を上がっていく。もし落ちれば自由落下だ――安全に配慮した手すりなんてものはない。特に高所を恐れない俺には問題なく、ミコトさんは楽しみながら、麻呂眉さんは慎重に一段ずつ登っていた。ゲームなのに高所恐怖症なんて、と笑ったものだが、こうしてみるとあの時の麻呂眉さんの気持ちがわかる。
壁に手を突き、上に上がっていく。そして、ようやく頂上に辿り着く。
屋根がなくなり、頭上には青い空が広がる。四方を見渡すと、使われなくなった青銅の鐘楼の影に、果たして彼女の姿はあった。
「……ミコトさん」
出来るだけ慎重に、声をかけた。それでもまだ自分の声に慣れない。八歳の頃より低くなった声に、驚かせてしまわないかと心配になる――しかし。
簪を外し、長い髪をおろしたミコトさんは、その髪を微風になびかせながら、俺の方を振り返った。
彼女は微笑んでいた。俺が思っていたよりも、ずっと穏やかな様子だった。
「……もう、お身体には差し障りありませんか? こんなところまで来てしまって、皆さん心配しますわよ」
「ああ……そうだな。でも、ミコトさんのことだって、皆心配してるよ。もちろん俺もな」
俺はゆっくり歩いて、ミコトさんに近づく。彼女は逃げることもなく、その場に留まっていてくれた。
それでもある程度近づくと、拒絶する様子を見せる。少しだけ彼女の足が動いて、後ろに下がりそうになる。
「心配なんて……私はまだ彼女たちとは、会ったばかりです。それに、私があなたにしたことは……」
「……やっぱり、気にしてたのか。リリムに操られてた時のこと」
リリムの血を浴び、操られ、俺を刺したこと。彼女がリリムの呪縛から解放されたあと、どう思ったのか――それは、想像するにあまりあった。
「……私は、これ以上あなたの傍にいる資格はありません。ギルマス、ここでお別れですわ」
――そう言うだろうとも、分かっていた。
彼女が何のために強くなったのか。俺ともう一度パーティを組んで、どうしたいと思っていたのか。
「私は、自分のことを強いと思っていました。海を渡ってこの国に来てからも、ずっとそう思っていた。あなたのステータスを見てもなお、戦闘という分野においては、私が一部ですぐれていると思っていました」
「……そうだな。俺も、そう思った。今でもそうだと思ってるよ」
「……あなたを手にかけようとするために、その力を使ってしまった。絶対に、そんなことはしたくなかったのに……私は、取り返しのつかないことを……っ」
それが限界だった。努めて冷静に話そうとしていた彼女の頬に、涙が伝っていく。
「まだ、この手に残っています……あなたを殺めようと、この手で刺し貫いたときの感触が……一度死んでしまえば、この世界では、それで終わりなのに……それなのに、私は、あなたを……あなたを、殺そうとした……っ!」
敵に操られていたことは、彼女にとって、自分を許す理由にはならない。
血を浴びせることで呪いをかける敵は、ゲーム時代にも存在した――そのこともきっと、彼女の自責の念に拍車をかけている。
しかし俺は思う、常に間違えず、全てに対策を打てる人間など居ない。
それが出来る完璧な人間は尊敬もされるが、俺はそこまでの完璧を求めたりはしない。
もし自分が死んでたら、こんなことも考えられなかったわけだが――でも。
「いいじゃないか、そんなこと」
「っ……そんな……そんなことって……」
「俺はこうして生きてる。もし俺が後悔するとしたら、俺を刺したことを悔やんで、ミコトさんが離れていくことだよ。忘れたとは言わせない……ミコトさんは、俺の右腕だ。右腕がなくなったら、それこそ生きていけないだろ?」
詭弁に聞こえるかもしれないが、俺にとってはそれが揺るぎない事実だ。仲間の中でも、彼女の存在が大きかったのは確かで――この世界で会えたことを、心から喜んだ。
そんな相手が離れていったら、それこそ長いこと引きずることになる。それこそ、リリムの思う壺でもある――何より。
「俺のパーティに入った人は、簡単には出してやれない。問題があったら、俺が解決する方法を考える。ウザいと言われようが何だろうが、俺はそうする。欠けたメンバーが一人でも居たら、攻略できないダンジョンだってあるんだからな」
「……私が自分でリリムを攻撃して、血を浴びて……すべて、私の落ち度だったのに……どうして……」
ミコトさんの口調が少し幼くなっているように感じる。自分が大きくなったから、そう思うのかもしれない。
――元々の俺たちの関係に近づいたから、という気もする。ミコトさんは、俺より年下だったのだから。
「俺は仲間がしたミスは、だいたい許すよ。許さないとしたら、そのミスを反省しない場合だけだ。そして大前提だけど、敵の状態異常攻撃を受けるのはミスでもなんでもない。じゃあ、ミコトさんは泣くことない。そう思わないか?」
気がつけば俺はもう、ミコトさんに触れられる距離まで近づいていた。
こうしてみて分かる、俺の方が背が高くなっている。ミコトさんはうさぎのように赤くなった目で、戸惑いながら俺を見つめていた。
「……そうやって丸め込んでしまうのも、交渉術ということですか?」
「そうかもしれないな。いや、今は自分で必死になってるだけなんだけど……ミコトさんが抜けたら、正直痛手だからな」
照れくさくなって頬をかくと、ミコトさんはつられるようにくすっと笑った。そして、微笑んだままで俺をじっと見つめる。
「……私は、怒られて、嫌われてしまうと思って、逃げていたんです。子供っぽくて、自分がいやになってしまいますわ」
「怒られる……か。俺は仲間には怒ったりはしないな。唯一怒るとしたら、自分を粗末にしようとしたりとか、そういうことに関してかな」
ミコトさんの頬に伝う涙を見ているうちに、俺は居ても立ってもいられなくなる。誰が入れてくれたのか、服の胸ポケットにハンカチが入っていた――こうなる事態を想定していたとしたら、かなりの策士だ。
そんなことを思いながら、俺はミコトさんの涙をハンカチで拭いた。途中から彼女は自分で受け取って、恥ずかしそうに涙を拭く。
「ああ……簡単に説得されてしまって、何だか、ますます子供みたいですわね。私、ギルマスより年上で、お姉さん気分を味わっていましたのよ。それはそれで、楽しかったのですけれど……」
ミコトさんは手を伸ばして、俺の頭に触れた。そして長く伸びた髪に手櫛を通し、今までにない目をする。
――これまでも、何度か見てきた。それは、女性が心を許してくれた時の瞳。ミコトさんはもちろん、これまで一度もそんな目をしたことはなかった。
つまり、今、この瞬間に。彼女の中で、決定的に何かが変わったということだ。
「……ギルマスが眠っている間にも少しずつ大きくなっていくのを見て、みんな驚いていましたわ。気付いていましたか? ギルマスがうわごとを言いながら震えているので、みんないても立ってもいられなくて、交代で添い寝をしていましたのよ」
「えっ……そ、添い寝? そんなこと、みんな言ってなかったけど」
「無理もありませんわ。だって、誰が言い出したのか忘れましたけど……あ、あの、ここから先は、言うのが差し支えるというか、その……何といえば良いのでしょう……」
ミコトさんが目をそらして困っている。い、一体何が……そんな素振りを見せられたら、聞かずにいられない。
俺はミコトさんのタイミングを待つ。彼女が自分から言ってくれる気分になるまで、ドキドキしながらじっと待ち続ける。するとようやく、ミコトさんがちら、と俺の方を見てくれた。
「……は、肌を合わせると、きっと落ち着くということになって……服を脱いで、寄り添っていたんですの」
「ふっ……服を……全裸で……!?」
「そ、そうですわ……服を脱がないと裸にはなれませんから、仕方がありません。一時的に防御力は下がりますが、そんなことは言っていられませんし……」
(この口ぶりだと……ミコトさんも俺に、全裸添い寝を……?)
想像した瞬間、俺の視線という名の走査線が、眼前にいる人物のデータを光速で読み取る。
「……エッチなことを考えている顔ですわね。八歳ならごまかせますが、今の……今の年齢は、いくつですの? おそらく、ステータス欄も変わっていますわよね」
困ったような顔で俺を咎めようとしたミコトさんが、途中で思い立ったように質問してくる。俺は左手の指を一本、もう片方の手の指を四本立てた。
「……五歳ですの? こんなに大きい五歳もなかなかいないですわね」
「いいボケだ、座布団をあげよう。まあ、14歳だけどな」
「14歳……何だか、大型ロボットを動かせそうな年齢ですわね。少年と大人の中間は、何と言えばいいのでしょう」
「それは俺にとっても難しい問題だな……ミコトさんは、どう思う? こんな、急に大きくなって、気味が悪いと思ったりしないか。俺は正直、最初は自分でそう思ったんだけど……」
もし気味が悪いと思っていても、ミコトさんが正直に言うこともないだろう――というのは、俺の心配しすぎだった。
「あなたが大きくなってしまったのは、私の責任もありますもの……それに、誰も気味が悪いなんて言ってませんでしたわ。無事に目覚めてほしい、その一心でしたから」
「……そうか。いや、責任もなにもないけどな。リリムに取られた若さを取り返したら、また六歳若返るのかな……」
「そうかもしれませんわね。ギルマスがそれを望むなら、私は命に代えても……」
「いや、もしそうするとしたら、それは俺の仕事だ。それに……父さんや母さん、故郷の人たちに会うのは、ちょっと怖かったりするけど。大きくなったこと自体は、俺が望んでたことなんだ」
リリムが、俺の欲しいものをくれると言ったのは、あながち間違いではなかったのかもしれない。
彼女に首をつかまれ、反撃もままならなかった俺は、身体が大きくなっていれば、もっと成長していればと渇望していたからだ。
俺を愛してるなんて言葉にほだされたわけじゃないし、リリムは本当に俺を不死者に変えようとしただけだったかもしれない――だが、99%は悪人でも、1%はそうでもないのかもしれないと思う自分がいる。
それはリリスを宿したリオナが現れたときの、リリムの人間味のある反応を見てしまったからかもしれない。ただ残酷なだけでなく、心に揺らぎがある存在なのだと分かってしまったから。
「……望んでいたというのは、色々な意味で、責任を取るためですか? 皆さんを待たせていたら、適齢期を過ぎてしまう方もいらっしゃいますし」
「ま、まあ、それはその……大きくなったからすぐにってわけじゃないけどな。十四歳でもまだ、大人とは言えないわけで……」
まごついてしまう俺を見て、ミコトさんはむっとする。そして、俺の耳をつまんできた。
「そんな優柔不断なことを言っていたら、私も言い出しにくくなりますわ。もっと、腰を落ち着けてどっしりと構えてくださいませ」
「……言い出しにくいって……あ」
――ええ。特に戦闘のスリルと……今はもうひとつ。どんなタイミングで、ギルマスに授乳をしてさしあげることになるのか、という……。
――そうですわ。この戦いで生き残ったら、というのはいかがですか?
(わ、忘れてたわけじゃないけど……この身体になった今となっては、色々と問題が……っ)
ミコトさんは俺の内心の葛藤を知らず、じっと見つめてくる。そんな潤んだ目をされると、俺は意志が弱いから、勘違いをしてしまう。
「……ギルマスを大事に思っている人は、数えきれないほど居ますわ。ですから、二人になれる時間は、とても貴重だと思いますの……」
「……み、ミコトさん。いいのか? 俺、もうこんなだけど……」
「こ、こんなというのは、男性的な……い、いえ、そうではなくて……大きくなったので、紳士と淑女として良いことかどうかということですわね。それは私も、とても難しい問題だと思いますわ」
そうだ、今の俺の姿では、幼い子が甘えて授乳されているのです、という言い訳が通じない。
十四歳と十七歳がそういうことをしたら、前世においてはまだそんなことに興味を持っちゃいけません、と言われてしまうところだ。エッチなのはいけないと思います、なんて可愛らしい注意だけじゃすまないだろう。
――しかし、そういった方面に興味を持っていないわけではない。世間的に駄目なので、みんなそういう気持ちは胸にしまっているのだ。そういうことは恥ずかしいので、表に出さないだけなのだ。
そして俺は、一つの言い訳――もとい、結論に行き着いてしまう。
「……スキルを与える手段は他にありますが、私は効率を重視するほうですわ。そして、分別のつく年齢でもあります。流されているわけでも、ただ若者としての勢いにまかせているわけでも……」
(……前向きな答え……つまり全てを理解した上で、挑むというのか……!)
ミコトさんの言葉は途中から聞こえていなかった。なぜか今の俺は、とても喉が乾いていたのである。
リリムに吸われたことで、吸われるつらさを知った俺は、簡単に吸ってはいけないと分かっている。だが、吸うことは俺のアイデンティティなのだ。吸わなくなったら俺が俺でなくなってしまう。吸われっぱなしで黙っているわけにはいかないのである。じゃあリリムに仕返ししろ、という理屈には耳は貸さない。
「忍術スキルが、ギルマスに必ずしも必要かどうか分かりませんが。スキルをコンプしたいという気持ちは、私にもとても良くわかります……そうです、ギルマス。これはスキルコンプリートの一環なのですわ」
自分で言っているうちに勇気づけられてきたのか、ミコトさんは誇らしげですらあった。しかし俺がすぐに返事を出来ないでいると、胸元を押さえて目をそらす。
「……大きくなったギルマスとの初めてが、私と……というのは、本当にいいのでしょうか。何か、ギルマスをここに誘い込んでしまったみたいで、少し……あっ……」
子供の頃は、俺はひたすら受け身だった。今でもその精神自体が、殻を破ったとは言いがたい。
しかし相手に迷いがあるなら、それを消してあげるのも、今は大きくなった俺の責任じゃないだろうか。
――だからといって、いきなり鐘楼を囲う壁で、ミコトさんに壁ドンするのもどうかと思うんだけど。やってしまったものは仕方ない、後にはひけない。
「……こんなことに憧れるなんて、日本の女性は平和ですわね……なんて、他人ごとのように思っていましたのに。実際にされてみると……意見が、変わってしまいそうですわ」
「祝祭が終わった後に……っていうのも、いいけどな。こういうことを後回しにするのは、俺の作法が許さないんだ」
「……分かりましたわ。はからずも、思い出の場所で……ということになりましたわね」
決定的なことは言っていない。しかしミコトさんもまた、それ以上の言葉を求めてはいなかった。
祝祭の始まりを待ち望む人々の喧騒は遠く、青空はどこまでも澄み渡っている。
しゅる、しゅるっと衣擦れの音がする。俺に迫られたままで、ミコトさんは服をはだけていく――まず、真っ白な肩があらわになる。シノビの修行を経てもなお、彼女の肌には傷がついていない。どれだけ注意を払って研鑽してきたのか、それがよく分かる身体だった。
「……あまり見ないでくださいませ。鷹の目みたいになっていますわよ」
「ご、ごめん……」
「見ないわけにもいきませんものね……控えめに、お願いしますわ」
やはり彼女の鎖帷子は、胸の部分まで覆ってはいなかった。鎖帷子を固定するために、胸の谷間で十字に交差した紐が、その膨らみの形を強調している。
フィリアネスさんの発育は飛び抜けているが、彼女にはるかに及ばないわけでもない。今の俺の手のひらにちょうどおさまりそうな、それでも少し足りなさそうな。紐に乗ってたっぷりと柔らかく変形したその形を見ていると、俺は前世でもそれほど味わったことのない、気が遠くなるような感覚を覚える。
――言葉にできない。
普通に考えて、こんなことが出来る相手じゃない。前世を知っていて、魅了にもかかっていなくて。
素のままで、こんなことが起こりうるのか。ミコトさんは恥じらい、頬を朱に染めながら、先端の部分を手で隠している。
鐘楼が光を遮って、薄暗い物陰で肌を見せている彼女を前にして、俺は今更に、とてもいけないことをしているのではないかと思い始める。
そして俺はもう、準備が整ったことを悟る。ミコトさんは何も言わず、俺をじっと見ている――俺が動くのを、待ってくれているのだ。
「……隠さずに、見せてもらえるかな。恥ずかしかったら、少しずつでいい」
「少しずつのほうが、恥ずかしいと思うのですが……」
ミコトさんは咎めるように言いながら、手を片方ずつ下にずらす。ひとつずつ露わになった豊かな膨らみを目にすると、俺はまばたきもできなくなっていた。
「……ログは、あとで確かめてくださいませ。スキルが上がったことだけ、確かめてください。そうすれば……」
「あ、ああ……本当にいいのか、ミコトさん」
「……約束しましたから。言ったはずですわ……どのタイミングで、あげることになるのか想像していると」
話しているうちに、肌が桜色になるほど緊張していたミコトさんが、少しずつ落ち着いてくる。
そして俺は、他の雑念の全てを捨てて、スキルログだけを見ると誓う。
「でも……きっと、どんな場所であっても、忘れることはありませんわ。だって、私は……」
彼女の言葉がとぎれた。壁に手をつき、彼女に迫るような姿勢だった俺は、ゆっくりと身をかがめる。
最後の意志を確かめるために見上げると、ミコトさんはこく、と頷く。
大きくなった手のひらで、初めて女性の胸に触れる。俺は邪念を捨て、意識を手のひらに集中させる――すると、ミコトさんの胸も反応して、眩しい光を放ち始める。彼女らしく、静謐ながら研ぎ澄まされたオーラだった。
手のひらを、下から支えるように添える。紐からはみだした部分が親指に乗って、柔らかな弾力が伝わってくる。
「……思っていたよりも、落ち着いた気持ちでいられますわ。すごく緊張しているのに……私の力を、こうするだけで、ヒロトさんにあげられるんですのね……」
彼女が許してくれる。きっと俺のしていることをユィシアも見ているのに、静かに見守ってくれている。
俺は気が多いんだろうか、と思う。ミコトさんの様子を上目遣いに確かめると、彼女は微笑みを返してくれる。責めもせず、俺との触れ合いを、ただ喜んでくれている。
(……これ以上先に、いつか進めるんだろうか。今はただ、スキルをもらえるまで触れられれば十分だ……だけど、いずれは……)
「……もっとすごい想像をしていましたけれど。こういった場所ではなく、落ち着いて向き合える場所で……できれば、夜のヒロトさんの部屋がいいですわ」
「っ……そ、それって……」
ミコトさんははっきり返事をしない。そして何度目か、俺はミコトさんの胸を通してエネルギーをもらい、ついにスキル上昇のログが流れた。
◆ログ◆
・あなたは「忍術」スキルを取得した! 長く険しい忍びの道が、今開けた。
「……こんなに穏やかな行為なら、何もない日の昼下がりにでも、お付き合いしてさしあげたいですわ」
「ほ、ほんとに……? それは助かるけど、ミコトさんもスキルを上げたいよな」
「いいえ、それだけが全てでもありませんわ。攻略が命だと言っていた頃の私からすると、信じられないかもしれませんけれど……」
胸に手をあてがうだけ。そこから先には進まないことを互いにルールとして決めていれば、緊張したり、駆け引きをしたりということもない。
しかし、今となっては、俺ばかりスキルをもらうだけではない。そのために、女神から「授印」を与えられたのだから。
「ミコトさんにも、お返しをあげるよ。強くなるために、どんなスキルが欲しい?」
まだ続きがあることを告げるようで、答えを先送りにしているようで。そのどちらともつかない俺の言葉を、ミコトさんは黙って聞いていた――そして。
「……強くなりたいですわ。あのとき、限界を超えたフィリアネスさんのように、私も……」
答えはそれだけで十分だった。与えられたなら、同じだけ俺も与え返す。まして彼女が強くなりたいと願っているのなら、なおさらそれを躊躇う理由はない。
◆ログ◆
・あなたは「授印」を発動した!
「っ……これは……ギルマス、こんなスキルを、どこで……」
ミコトさんの身体のどこに着印点が出るのか――光っている部分は、彼女の身体の前面にはないようだった。
――いや、違う。鎖帷子に覆われたお腹の部分が光っているのだ。それに気付いたミコトさんは、どういうことか、と俺に答えを求めてくる。
「ミコトさん……鎖帷子も、外してもらえるかな。そうしないと、俺のスキルをあげられないんだ」
「……そ、そんなことをしたら……本当に……その……でも……」
戸惑うのもわかる、そんなところまで見られると思っていなかっただろう。
しかし彼女は光っている部分を見つめると、顔を上げて微笑んだ。分かりました、というように。
「未知のスキルがどのように働くか……ギルマスに、こうして実演してもらえるのですから。恥ずかしがっている場合では、ありませんわね」
ミコトさんが鎖帷子の装備を外し始める。その間も、ダイアログに授印の準備が完了したという文字が、消えずに残り続けていた――急がなければ消えてしまうとせかすように。




