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第十六話 優しい世界

 エターナル・マギアにおいて、スライムは最初、テイム出来るモンスターの中でもあまり役に立たないと言われていた。ゴブリンは「盗む」スキルを早く覚えるので有用だし、オークは盾として優秀だし、他にも色々わかりやすく強いモンスターが多かったので、ダメージが通常攻撃の1.2倍の溶解液、持続時間15秒の毒攻撃、装備破壊などしか出来ないスライムは、育成に手間がかかる上に、打撃で簡単にやられてしまう。


 だがスライムは逆に言えば、打撃、炎、氷以外には無敵に近い耐性を持つ。耐性を上げる魔術で「打撃に弱い」は消せないが、炎や氷には強く出来るので、そうすると斬撃・刺突属性の攻撃を持つ敵に対してものすごく硬くなる。というか、まず攻撃が通らない。


「雷神さま~、無理そうだったら早めに呼んでくださいね、私が助けてあげますから~。ヒロトちゃん、グーで叩くくらいなら大丈夫だよね? そのスライムちゃん」

「うん、それくらいなら。メイスで叩いても、二三回ならビクともしないけど」

「と、というか、スライムちゃんというのは何なのだ……っ、なぜ愛着を持って呼ぶのか、理解に苦しむ……っ」

「フィリアネス様、ヒロトちゃんの飼っている大事なスライムさんなんですから、そんな言い方は酷いです」

「だ、だから……なぜスライムに肩入れする! 少しは私の身になって考えてみたらどうだっ!」



 ◆ログ◆


・《フィリアネス》はスライムに怯えている……。

・《フィリアネス》の足元がおぼつかなくなった。



 う、うーん……まだ何もしてないのに、フィリアネスさんがふるふると震えている。内股になってしまっているし、なんだかトイレを我慢してるようにも見えるな……どれだけ極限状態なんだ。


「あ、あの……やっぱり、やめておく? フィリアネスさん、顔が真っ青だし」

「ば、ばかを言うな……私はスライムなどここっ、怖くは……ないのだからなっ……!」

「わー、まだ強がりが言えるんですね~。私、雷神さまのそういうところ、純粋に尊敬します」

「マールさん、あまり毒を吐いていると、あとで騎士団式の懲罰を命じられてもおかしくないかと……」

「雷神さま、頑張ってください! 私、絶対に負けないって信じてますぅ!」


 マールさんの熱い手のひら返しに引きつった笑みを浮かべつつ、フィリアネスさんはそろそろと細剣を抜き、俺のスライムに向けた。ぶよよん、とスライムが震えて臨戦態勢に入る。


「ひぅっ……!」

「雷神さま、とっても可愛い悲鳴が……聞いてるこっちの顔が赤くなっちゃいますよ~」

「いえ、私でもあのスライムさんが相手だったら、悲鳴のひとつは上げてしまうと思いますが……大きすぎます」


 女性が「大きい」と言うだけで反応してしまうのは、男のしょうがない部分だよな……としみじみ思いつつ、俺はあまり引っ張るのも何なので、訓練を始めることにした。


(乗るしかない……このビッグウェーブに!)


「行けっ、ジョゼフィーヌ! きみに決めた!」



◆ログ◆


・《ジョゼフィーヌ》の攻撃!



「く、くぅっ……!」


 つやつやしたゼリーの固まりのようなグレータースライムが、その外見から想像も出来ないスピードで変形し、フィリアネスさんに向けて体の一部を伸ばして体当たりを仕掛ける。もちろん手加減しているが、ちょっと気合いが入っているので、客観的には容赦の無い攻撃に見えるだろう。


「ヒロトちゃん、すっごく生き生きしてる……年上の女の人をいじめる楽しみを、この年で覚えてしまうなんて……っ、だめ、そんなにされたら私、壊れちゃうぅぅ!」

「マールさん、日頃からいやらしい想像をされているのはわかりましたから、ちょっと静かにしててください」

「し、してません~! 欲求不満とか、人聞きの悪いこと言わないでよね! そんなんじゃないんだからね!」

「お、おまえたちっ、他人ごとだと思って気楽なことをっ……きゃぁっ!」



◆ログ◆


・《フィリアネス》は回避した!



 フィリアネスさんは何とかジョゼフィーヌの攻撃をバックステップで避ける。ほう……やるじゃないか。しかしその腰砕けの状態で、いつまで避けきれるかな……? って、なぜ俺は悪役になっているのだろう。


「はぁっ、はぁっ……こ、今度は私の番だ……覚悟しろ……灰も残すつもりはないぞ……っ!」


 きゅいきゅい、とスライムが鳴く。ちなみにこのジョゼフィーヌというのは、テイムした時に既についていた元からの名前である。スライムに性別はないが、たぶん雌なのだろう。どこで性別を見分けるのか分からないが。


 しかしめらめらとフィリアネスさんが闘志を燃やしているが……灰も残さないとは、彼女のスライム嫌いも相当だ。出来れば、俺のスライムは悪いモンスターじゃないと分かってもらいたいのだが。


「はっ……雷神様、もしかしてあの技を使うつもりですかっ!?」

「ヒロトちゃんはまだ見たことがないので、説明しましょう。フィリアネス様は既に上級精霊魔術を習得されています。『雷光麻痺刺突』より、一段階上のダブル魔法剣……いえ、威力的には数倍になる奥義を会得されているのです。以上で説明を終わります」

「た、淡々と実況するな! ますます力が抜けるっ……くぅ……!」



◆ログ◆


・《フィリアネス》はスライムに怯えている……。

・《フィリアネス》の攻撃力が半減した!

・《フィリアネス》の敏捷性が下がった!

・《フィリアネス》の集中が乱れた!



 スライム恐怖症のステータス異常判定は、数分ごとに入るようだ……惜しい。もう数秒早く技を出していれば、マイナス効果がない状態だったのに。


 ぶにょにょん、とジョゼフィーヌが攻撃態勢から元に戻る。そしてぷるるんと震えたところを見て、同時にフィリアネスさんも震え上がった。


「雷神さま、さっきから震えるたびに、一緒におっぱいぷるんぷるんしてますよ~。スライムみたいに」

「す、スライムと一緒にするな! マール、もう絶対に許さんぞ……あとでごめんなさいと、い、言わせてやる!」


 フィリアネスさんはマールさんにレイピアを向ける(危ない)が、マールさんは口笛を吹いている。なんという上司と部下の関係……今ばかりは下克上ということか。


「おっぱいぷるんぷるんとか、ヒロトちゃんの前で何を言ってるんですか……胸が大きい人は、その分頭にデリカシーが回らないんですね。きっとそうです」

「馬鹿じゃないです~、胸が大きくても馬鹿じゃないですぅ~」

「わ、私が小さいことを揶揄してるんですか! 名誉毀損で訴えますよ!」


 マールさんとアレッタさんの争いもヒートアップしているが、いちおう(酷い言い草だが)、フィリアネスさんの奥義で俺のスライムがやられてしまわないよう、防御態勢に移行させておく。



◆ログ◆


・《ジョゼフィーヌ》は防御している。



「なっ……ず、ずるいぞそんな! なぜ盾みたいな形に変わっているのだ、スライムなのに!」

「えーと……スライムも、強くなってくるといろいろ出来るようになるんだ」


 実はレベル1のグリーンスライムにも防御態勢はあるのだが、敵として戦う分には防御が行動選択に入っていない。それゆえに、スライムの「防御」はテイムした場合だけ見られる行動だったりする。


「魔獣使いの才能もあるとは……ヒロトはどこまで私の想像を超えれば気が済むのだ……認めよう、おまえは既に私より強い……ッ!」

「諦めるのはやっ! まだ始まったばかりですよ、雷神さま! しっかりしてください!」

「そうですフィリアネス様、スライム討伐の最中に麻痺してしまったら、もっと大変なことになるんですよ!」

「だ、だって……ではない、しかし、私にはもう……もうっ……」


 もう耐えられない、と言わんばかりのフィリアネスさん。スライムが盾型に変形しただけでこの絶望ぶり……ちょっと俺も慎重にやりすぎただろうか。しかしフィリアネスさんの奥義を素で受けてジョゼフィーヌが無事でいると過信するのも、いささか聖騎士に対して礼を欠いている。たぶん無事なのだが。


「フィリアネスさん……おれも、フィリアネスさんが他のスライムにやられるところは見たくないよ。だから、今のうちに俺のスライムで練習しておこうよ」

「そ、そうか……他のスライムに汚されるくらいなら、おまえの手で……それもそうだな……」

「何か悲壮なお話になってるけど……あ、あれれ~? このままだとエッチなことになりそうな予感が……」

「何を言ってるんですか、これは訓練です。ヒロトちゃんがフィリアネス様に、スライムさんに命令していやらしいことなんてするわけないじゃないですか。そうですよね?」

「お、おれにはちょっと良くわからないっていうか……」


 スライムの特殊攻撃はまだいっぱいあるからな。それを試すうちに、見ている分には大変なことになってしまうかもしれない。でもジョゼフィーヌの意志は、俺の意志でもあるわけだから、俺が大変なことをしていることに……それは確かにダメなのではないか。


「私には分かる……ちゃんと、わかっている。ヒロトが純粋な気持ちで、私のスライム嫌いを治そうとしていることを……その気持ちに、何としても応えたい……!」



 ◆ログ◆


・あなたの存在によって、《フィリアネス》は鼓舞された!

・《フィリアネス》のステータス異常が回復しそうになった!



(回復しないのかよ!)


 好感度が高い相手が近くにいると、まれにステータス異常が回復したり、致死ダメージを踏みとどまったり、クリティカルが出やすくなったりする。支援効果というやつだが、どうやら不発に終わったようだ。

 しかしフィリアネスさんはけなげにも、細剣で突きの構えを取る。そして震える唇を律し、一生懸命声を張って、朗々と詠唱を始めた。


「雷の精霊を束ねる大いなる父よ。天地に轟く雷鳴を、今こそ裁きの鉄槌と変えん……っ! 『轟雷槌サンダーストライク』!」


 フィリアネスさんが振り上げた細剣に、彼女が呼び出した雷が落ちる。雷の精霊の力を帯びた剣は青白い光を放ち、バチバチと閃光を弾けさせる。


「っ……く……これ以上重ねられない……今の私には、これが限界か……!」


 スライムを前にして集中が乱れているから、アクションスキルがうまくいかない。ダブル魔法剣を放とうとしたフィリアネスさんだが、2つ目の魔法を重ねられず、シングルにとどまる――それでも、上級精霊魔術の轟雷槌をエンチャントすれば、『雷光麻痺刺突』以上の威力は得られるはずだ。


「ヒロト……見ていてくれ。私は聖騎士として、恐怖を乗り越えてみせる……!」

「うん、見てるよ……フィリアネスさん」

「あー、雷神様、やっぱり忘れちゃってますね~……知ーらないっと」

「全然効かないってこともないはずです、公国最強の騎士の魔法剣ですよ?」

「っ……だ、だから茶化すなと言っているっ……はぁぁっ! サンダーソニック・スラスト!」


 フィリアネスさんが腰を落とし、細剣を構えて突撃してくる。これは初めて見る技だ……彼女の細剣マスタリーも、すでに50を超えているからな。



◆ログ◆


・《フィリアネス》は「魔法剣」を放った!

・《フィリアネス》は「サンダーストライク」を武器にエンチャントした!

・《フィリアネス》は「ソニックスラスト」を放った! 「轟雷音速衝!」



(すさまじい威力……並のモンスターなら4桁ダメージ叩き出しそうだ。しかし……!)


 雷をまとったレイピアを、今までで最速のスピードで繰り出すフィリアネスさん。その剣先が、盾型に変形した俺のスライムの表面に突き立つ。


 ぷにょんっ。


「なっ……!?」



◆ログ◆


・《ジョゼフィーヌ》は雷を霧散させた。

・《ジョゼフィーヌ》に刺突は通じなかった。

・《フィリアネス》に隙が生じている! 《ジョゼフィーヌ》のスーパーカウンター!



 フィリアネスさんの渾身のサンダーソニック・スラストは、俺のスライムに全く通じず、レイピアが深々とゼリーに突き立っただけでノーダメージだった。そして、フィリアネスさんに完全な隙が生まれる。

 攻撃を無効化された場合、カウンターを取られる。それはどのような戦いにおいても当然の摂理だ。


「悲しいけど、これがスライムなんですよね~。だから言ったのに。パンチした方がまだ良いですよ?」

「フィリアネス様に、素手でスライムを触れっていうんですか? それはちょっと……」

「わ、私の技が……少しくらい効いてもいいではないかっ、ひ、卑怯ものっ!」


 もう完全に泣きが入っているフィリアネスさんに、追い打ちをかけるのは心苦しいが……スーパーカウンターだからな。スーパーカウンターはしょうがないよな、スーパーだしな。


「ジョゼフィーヌ、カウンターだ!」


 きゅぃきゅぃ! とジョゼフィーヌは返事をする。フィリアネスさんのレイピアが絡め取られ、あれよと言う間に遠くに置かれる。投げ出すのは武器の耐久度的に気になるので、丁重に床に置かせてもらった。



◆ログ◆


・《ジョゼフィーヌ》は《フィリアネス》の装備を奪った!

・《フィリアネス》の武器装備が解除された。



「あぁっ……か、返せっ……そのレイピアは、私の騎士の魂がっ……」

「ごめん、フィリアネスさん……でも、装備を外すスライムは、けっこう色んなところで出てくるから」

「溶かすんじゃないんだ……昔、騎士団の男の人たちが、鎧を溶かされて大変なことになったって聞いたよ~」

「それは……あまり見たくはない光景ですね」


 屈強な男たちがスライムに屈する姿か……俺には特に需要はないな。

 そんなことより、武器がなくなったフィリアネスさんはこれからどうするのだろう。このままでは俺のスライムに、為す術もないんじゃないか――いや、一つだけ方法があるか。


「おれのスライムに、武器がなくてもダメージを与える方法はあるよ」

「ど、どうしろというのだ……私は雷の魔術しか使えないし……」

「それに気付かないうちは、訓練は終わらせてあげられませんよ~。ジョゼフィーヌ、やっておしまい!」

「え、ええと……マールさん、そろそろ降格の危機ですから、ほどほどにしておいた方が……」


 ぼよんぼよん、と弾みながら、ジョゼフィーヌがじりじりとフィリアネスさんに近づく。フィリアネスさんは身体をかばうようにしつつ、一歩、また一歩と後ずさる。


「や、やめ……やめろ……それ以上近づいてくるな……っ!」

「……けしかけてみたものの、ちょっと申し訳ない気持ちになってきちゃった。雷神さま、内股になってますよ?」

「マールさんも、ちょっと前まではオークを見ただけでそうなってましたよ」

「そ、そうだな、マールはオークを見ただけで、私よりずっと怯えていたからな」

「ヒロトちゃん、訓練は訓練として、心を鬼にしていこっか。他にどういう技があるの?」

「ちょっ……や、やめろっ、今のは私の失言だった、全面的に謝罪するっ、だから待てっ、待っ……」


 ――訓練は訓練。そうだ、本番ではスライムは溶解液を吐いてくる。治癒術で治るとはいえ、フィリアネスさんに痛い思いをさせるわけにはいかない……!



◆ログ◆


・《ジョゼフィーヌ》の捕縛!

・《フィリアネス》は身動きが取れなくなった!



「……は、はなせっ……くっ、引っ張っても取れない……ひ、卑怯なっ……!」

「いけー、そこだー! 脱がせちゃえー!」

「……ヒロトちゃん、お手柔らかにお願いしますね」


 俺のスライムはフィリアネスさんの腕と足に巻きつき、身動きをほとんど取れなくする。フィリアネスさんは両腕を上げられて、布鎧に覆われた胸を無防備に突き出すような姿勢になっていた。


(まさに捕虜のポーズ……スライムは本能で、このポーズを取らせることを知っているんだな)


 しかしスライム嫌いのフィリアネスさんを、これ以上虐めていいものだろうか。これ以上やると、慣れる以上にトラウマが深くなるのでは……。


「フィリアネスさん、少ししたらスライムが離してくれるから、今日はここまでに……」

「……い、いや……引き伸ばしても意味がない。言っただろう、私は……おまえがここまでしてくれたのなら、絶対に負けられないと」

「フィリアネスさん……」


 完全に捕まっていて身動きも取れないのに、フィリアネスさんの瞳は光を失っていなかった。


「くぅっ……こ、これくらいのぬるぬるなどに、私は……私は負けない……!」



◆ログ◆


・《ジョゼフィーヌ》の毒攻撃!

・《フィリアネス》は毒状態になった!



「ど、毒まで使うのか……そうまでして私を屈服させようというのだな……っ、ま、負けてなるものか……!」


 軽い毒だとはいっても、スライムの接触によってもたらされる毒は、全身を熱っぽく火照らせる。ますますフィリアネスさんは汗びっしょりになって、布鎧の薄い部分が透け始めた。


(さ、さすがに毒はやりすぎかな……でも上位スライムは毒を使うしな。訓練のためには、避けて通れない道だ)


「すごい……雷神さま、こんなに耐えて。私のメイスなら、スライムもワンパンチで倒せるのに……」

「拘束されて毒で責められるなんて、毒の内容によっては、とっくに公国法に抵触してきてますね。青少年の育成上、いいんでしょうか」

「だ、だから、実況をするな……っ、私は訓練をしているのだ……公国法になど触れていないっ!」


 ジョゼフィーヌに悪気はないが、ゼリー状のスライムに捕まっているというだけで、アレッタさんが心配するのも無理はない。だが、ここで諦めてはスライム嫌いが克服できない。


 スライムの捕縛は下手をすると3分くらい継続するのだが、フィリアネスさんには効果時間が二倍以上になりそうな手応えだ。


(耐えてくれ、フィリアネスさん。そしてスライム嫌いを克服するんだ!)


「きゅぃきゅぃっ」

「ひっ……な、鳴くなっ、スライムの声など、聞いただけで寒気がっ……」

「ぴぎー!」


(フィリアネスさん、それはいけない……っ!)



◆ログ◆


・《ジョゼフィーヌ》は怒り状態になった!

・《ジョゼフィーヌ》の「絡みつく」! 《フィリアネス》は麻痺状態になった。



 ここまで育ったスライムには、人間の言葉がわかる。フィリアネスさんの言葉で機嫌を損ねたジョゼフィーヌは、俺の命令なしで、相手を麻痺状態にする「絡みつく」を繰り出した。


「くぅ……う、動けない……っ」


 先ほどまでは多少は身体の自由が効いたのに、フィリアネスさんはぴったりと動けなくなる。麻痺効果が決まってしまったのだ。


「雷神様の動きを完全に止めるなんて……スライムちゃん、恐ろしい子……!」

「……マールさん、フィリアネス様よりスライムの方を応援してませんか? 後で査定に響きますよ」

「アレッタちゃん、そんなこと気にしてちゃだめ! ここは心を鬼にするの!」


 マールさんの声にフィリアネスさんが反応し、ゆらりと彼女の方を見やる。こ、怖い……マールさんは気づいてないけど、これは後で荒れそうだ。


「覚えていろ、マール……好き勝手言ったことは、絶対に後悔させてやる……っ」

「フィリアネスさん、俺は信じてるよ……絶対に、乗りこえられるって!」


 俺は拳を握って応援する。しかしスライムは、自らの役割を忠実に果たす――さらにフィリアネスさんを限界まで追い込もうというのだ。


 ◆ログ◆


・《ジョゼフィーヌ》は《フィリアネス》の頭装備を奪った!

・《ジョゼフィーヌ》は《フィリアネス》の肩装備を奪った!

・《ジョゼフィーヌ》は《フィリアネス》の腰装備を奪った!



「な、なぜそんなにするすると簡単に脱がせられるのだ……っ!」


(待て、ジョゼフィーヌ……すね当てだけは残しておけ!)


「ぴきー!」



◆ログ◆


・《ジョゼフィーヌ》は《フィリアネス》の足装備を奪わなかった。


「ち、ちがう……っ、それだけ残せとは言っていない! 何の意図があるのだっ!」


(俺の趣味です、ごめんなさい)


「雷神さま、髪を降ろすとほんとに色っぽいですね~……汗びっしょりだから、後でお風呂でキレイキレイしてあげますね~」

「マールさん、そろそろちょっとだけ優しくしてあげてください……さすがに後のフォローがしきれません」

「……後で……絶対……沈めてやる……5分間……」


 フィリアネスさんのマールさんへの憎しみがチャージされていく。こうして戦争が起こるのかもしれないと、俺は人間の儚さを思う。こんなことを考えてるとばれたら、俺もフィリアネスさんに雷を落とされそうだ――雷神だけに。



◆ログ◆


・《ジョゼフィーヌ》は《フィリアネス》のクロースアーマーを溶かし始めた!



「ふ、服が……っ!」

「フィリアネスさん、スライムを怖がってばかりいちゃだめだよ。スライムは友達なんだ!」

「う、うわぁ……紙を溶かすみたいに鎧が解けていっちゃう……ヒロトちゃん、これってぱんつも溶けちゃうの?」

「ぱ、ぱんつも溶けるんでしょうか……そんなことになったら、ヒロトちゃんの家まで帰るのが大変ですね」

「な、何の心配をしているのだっ……ひ、ヒロト……っ」

「大丈夫、溶かした服の代わりなら、おれがすぐ持ってきてあげるよ」


 祝福されたクロースアーマーは、特殊な素材は使っていないのでミゼールでも手に入る。そういう問題ではないのはわかっているが、装備破壊もスライムの攻撃の一つだ……避けては通れない。


「……乗り越えろということだな……こんな……こんな試練を……神よ……あなたは私に何をお望みなのですかっ……!」


 ジョゼフィーヌの装備破壊はじわじわと進み、フィリアネスさんの胸を覆っていた布が、蜘蛛の巣のように頼りなく細切れに溶けてしまっている。肌にまったく悪影響がないので、訓練にはうってつけだ。むしろスライムにまとわりつかれると、肌の表面の古い角質が取れてつるつるタマゴ肌になったりする。元からつるつるのフィリアネスさんには、あまり効果はないかもしれないが。


「あ、あの、もうひもみたいな感じになってるんですけど……思わず敬語になってしまう私です」

「足装備だけつけて、あとの部分をじわじわ溶かされるなんて……ヒロトちゃんの将来が楽しみでいて、ちょっと怖くもありますね」


(俺は何と言われようとかまわない。フィリアネスさん、自分の殻を破るんだ……!)


「私は……私は弱い存在だ……スライムの前には、何の抵抗も出来ずに……くっ……殺せ……!」


 あきらめかけているフィリアネスさん。布鎧のほとんどが溶けて、フィリアネスさんの下着が白であり、少女らしい清楚なデザインであることが明らかになった。マールさんはああ見えて紐パンだし、アレッタさんは黒だったりするので、聖騎士の貫禄というか、元男子高校生の純粋なあこがれを叶えてくれたというか、とにかく俺は猛烈に感動している。


 ――どちらにしても訓練は最終盤だ。乗り越えてくれ、フィリアネスさん……!


「お、お母様……フィルは悪い子です……ごめんなさい、ごめんなさい……っ」

「あっ……こ、これは……ヒロトちゃん、ストップ! 雷神さまが少女返りを起こしちゃってる!」

「私からもお願いしますっ、これ以上したら聖騎士の威厳が……!」


 ――マールさんとアレッタさんが止めに入ろうとした、その瞬間だった。



◆ログ◆


・《フィリアネス》はスライムに対する恐怖を一段階克服した!

・《フィリアネス》の「スライムに弱い」が、「スライムに少し弱い」になった!



 耐性が上昇した――これなら致命的なステータス異常は起こらなくなる。しかし、フィリアネスさんの装備の耐久度は風前のともしびだ……!



◆ログ◆


・《フィリアネス》の捕縛が解除された!



「――はぁぁぁっ!」



◆ログ◆


・《フィリアネス》は素手で攻撃した!

・《ジョゼフィーヌ》に3のダメージ!



「ぴきぃぃっ!」

(な、なんとっ……!)


 捕縛が解除された途端、フィリアネスさんはスライムに素手でパンチを繰り出す。恵体に優れているフィリアネスさんのパンチの攻撃力は、格闘スキルを持たなくても、スライムの防御をほんのわずかに上回っていた。


「す、すごい……雷神さま、ついにやったんですね……!」

「おめでとうございます! あぁ、こんなにぼろぼろになって……」

「はぁっ、はぁっ……やった……私は、やったのか……?」


 最後の一線を守りきったフィリアネスさんだが、解放された拍子にほぼ全裸になっていた。しかし全裸だからといって何だと言うのだろう、彼女が成し遂げたことの偉大さの前ではささいなことだ。


「すごいよ、フィリアネスさん。おれのスライムは全部の攻撃を使ったのに、負けなかったね」


 ぺたんと座り込んでいるフィリアネスさんの前に膝をつき、彼女と視線の高さを合わせる。いつも彼女がしてくれていることを、今回は俺が返す形だ。


「……危ないところだった。せ、責任は……取ってくれるのだろうな……こんな姿を見せてしまったら、わ、私は……」

「普通ならお嫁にもらってくれてもいいくらいなんですけどね~……四歳は早すぎですね」

「今から約束しておいたらいいんじゃないですか? それくらい頑張りましたよ、フィリアネス様は……」


 とても大きなことを成し遂げた雰囲気を出している俺たち。ジョゼフィーヌは既に自動回復でライフが満タンになり、元の大きなゼリーのかたまりのような状態に戻ると、奪った装備をひとつずつフィリアネスさんの前に置いた。


「……ぬるぬるべたべたするところ以外は、このスライムにも、一目置くところがあるようだな」

「手加減してくれてましたよね。雷神様が声がきもちわるいって言ったときだけ、ちょっと怒って……」

「ぴきー!」

「あっ、い、今のはちがっ……きゃぁぁっ、堪忍してぇ!」



◆ログ◆


・《ジョゼフィーヌ》の捕縛!

・《マールギット》は身動きが取れなくなった!



「はぅっ、う、動けない……こ、こんな強かったんですね、このスライムちゃん……すごーい」


 マールさんは捕らえられつつも、まだ余裕を残している。フィリアネスさんはゆらりと立ち上がると、胸などの大事な部分を手で隠しながら、ジョゼフィーヌに目配せした。後ろから見ると大変なことに……尻神様とはこのことか。マジマジ見てはいけないので、両手で申し訳程度に顔を覆う。


「さんざん、外野から私をいたぶってくれたな……マールギット。何か申し開きはあるか?」

「え、えっとですね、あの、若気の至りで……ご、ごめんなさい、許してください! なんでもしますから!」

「だから言ったのに……マールさん、反省してください」

「アレッタちゃんの裏切りものぉぉ! ぜ、絶対仕返ししてやるぅ~!」


 こうして復讐は連鎖していくのだ……これも宿命か。いや、アレッタさんには復讐される理由はないわけだけど。俺も手塩にかけて育てたスライムを、いたずらにみんなの服を溶かしたり、じわじわとダメージを与えたりするために使うつもりはないからな。あくまでも今回限りにするつもりだ。


 しかしフィリアネスさんが、そこまでご希望なら……仕方がない。


「マールさんはちょっと、おいたをしすぎちゃったね。ちょっとだけ、反省しようか」

「ひぃぃっ……ヒロトちゃん、そんな笑顔で言われても私っ、こ、心の準備が……っ!」

「私だって心の準備などしていなかった。そんな私をにやにやと笑いながら見ていたマール……私の可愛い部下。おまえにも、私の気持ちを少しでもいいから分かってもらいたい。やれ、ヒロト」


(イエス、マム!)


「ひ、ヒロトちゃんっ、その敬礼は……どこで騎士団式の敬礼なんて覚えたのっ、見よう見真似なのっ!?」

「そこにつっこむ余裕があるのなら、大丈夫そうですね……ヒロトちゃん、どうぞ」

「うむ。せっかくだから、ジョゼフィーヌの好きにさせてやったらどうだ?」

「うん。マールさん、フィリアネスさんがそう言ってるから……ごめんね」

「えっ……こ、ここで謝られると、命とか、女の子の大切なものとかの、色んな危機を感じるんだけどっ……!」



◆ログ◆


・あなたは《ジョゼフィーヌ》に命令を下した。『いろいろやろうぜ!』

・《ジョゼフィーヌ》は分裂した。



(なっ……そ、そうか。普通ならありえない聖騎士との戦闘を有利に進めたことで……スライムスキルが飛躍的に上昇し、70に到達したのか……!)


「いやぁぁっ、増えてる増えてる! 一匹だけでも動けないのに、二匹はちょっと強敵すぎるっていうか……ゆ、許して! なんでもしますから!」

「こんな力を秘めているとは……スライムとは神秘的な生き物なのだな。私が分裂されていたら、もうここには立っていられなかったに違いない」

「フィリアネス様も、人のことになると冷静なんですね……だ、大丈夫ですか? 目にくまが出来てますよ」


 フィリアネスさんはさすがに疲れたようだが、目だけは光り輝いている……ちょ、ちょっと怖い。今の彼女に逆らったら、俺でも大変なことになってしまいそうだ。

 まあ、あれだけ煽られたら一時的に病むのも已む無しだな。『病む』だけにな。審議が入りそうだ。


「ぴきぃぃぃ!」

「きゅいきゅぃ!」

「あっ、ちょっ、あの、フィリアネス様、助けて、助けてください! 死にたくない! 死にたくなーい!」


 フィリアネスさんはほぼ全裸のまま、拘束されているマールさんに近づき、その頬に手を当てる。そしてなぜそんなことをする必要があるのかわからないが、マールさんの三つ編みをほどき始めた。


「……私の倍の苦しみを味わい、そして、同じ気持ちを分かち合おうではないか。マールギット……くくっ」

「く、くくって、初めて聞く笑い方ですよ! 聖騎士様がそんなに黒ずんじゃっていいんですか! 黒ずんだって変な意味じゃなくてっ……や、やめて、よして、触らないで!」



◆ログ◆


・《ジョゼフィーヌA》は《マールギット》を拘束している。

・《ジョゼフィーヌB》は臨戦態勢になった!



「わ、私はちょっとそういうのよくないと思うの! 2体がかりとかね、騎士道の風上にもおけないっていうでしょ!」


 マールさんは騎士道を盾に抵抗するが、フィリアネスさんは全く聞いていない。怖い顔をしてても美人のフィリアネスさん……素敵だ。


「さて……最初は何から始めるのだったか。まずは装備をひとつずつ剥がし、布鎧のみ残してから、身体の自由を奪ったあと、じわじわと残った装備を溶かしてやろう……」

「……ぜ、絶対フィリアネス様を裏切りません、からかったりもしません、ですから、ですからっ……」


 アレッタさんは地面にうずくまって必死に祈っている。俺も息を飲むほど、フィリアネスさんは凄絶な殺気を放っている……よっぽど怒ってたんだな。まるでスライムを統べる魔王みたいだ。聖騎士が闇堕ちすると、こんなことになってしまうんだな……。


(マールさん……大丈夫。棍棒でスライム退治をすれば、いつか恐怖症は治るから)


「こ、この私、マールギット・クレイトンが、スライムちゃんなんかにやられると思ったら大間違いなんですからね! ど、どんとこい!」

「よく言った……では、1つずつ私が受けた責め苦を繰り返してやろう……!」

「きゃぁぁぁっ、うそ、うそです! うそんこです! いやーーーん!」


◆ログ◆


・《ジョゼフィーヌB》は《マールギット》の棍棒を奪った!

・《ジョゼフィーヌB》は《マールギット》の鎧を奪った!

・《ジョゼフィーヌB》は《マールギット》の足甲を奪った!

・《ジョゼフィーヌB》は《マールギット》の小手を奪った!

・《ジョゼフィーヌB》の毒攻撃!

・《マールギット》は毒状態になった!

・《ジョゼフィーヌB》の「絡みつく」! 《マールギット》は麻痺状態になった。


「こ、こんなくらいの責め苦で負けるほど、私はなまっちょろい人生は送ってないんですからね……か、かわいいものじゃないですか……ぷよんぷよんってしてて、ぬいぐるみにしたらさぞ可愛いことでしょうね……」

「ほう……見上げた根性だ。では、あと30分はそうしていろ」

「な、長すぎますぅ! 10分でお願いします、そうじゃないとあの、私もスライム怖くなっちゃうっていうか……じ、自由を返してぇぇぇ!」


 フィリアネスさんは途中で興味をなくしたように(ひどい)、俺の方に歩いてくると、長い髪をかきあげながら俺を見下ろし、じっと見つめてきた。


「あ、あの……まだ、マールさんの訓練が……」

「……そんなことはいい。おまえのスライムのおかげで、こんな格好にされてしまった……訓練とはいえ、責任は取ってもらわなければならない。ヒロトが幼いといえど、それは関係ない。わかるな?」

「う、うん、おれもちょっとやりすぎたかなとは思ってるから……わっ……!」


 謝ろうとしたらがばっ、と正面から抱きつかれた。スライムの表面は水分で潤っているので、フィリアネスさんの胸も潤ってぬるぬるしている。



◆ログ◆


・《ジョゼフィーヌA》は《マールギット》のクロースアーマーを溶かし始めた!



「ふ、服が溶けちゃう……あはっ、あはははっ」

「フィリアネス様、マールさんが笑ってますっ、このままでは……!」

「マールが笑っているのはいつものことではないか……何を焦っている? 私はヒロトに癒してもらわなければならない。後のことは任せたぞ、アレッタ」

「い、いえっ、あの、私もスライムさんたちと意志が疎通できないと言いますか……っ」


 放っておいたら、アレッタさんも訓練の相手だと思って壊されてしまうな……ジョゼフィーヌの分裂は時間で元に戻るだろうけど、アレッタさんも一人ではあっけなくやられてしまうだろう。


「ふぃ、フィリアネスさん……マールさんの訓練は、そろそろ……」



◆ログ◆


・《マールギット》はスライムが怖くなった。

・《マールギット》は「スライムに少し弱い」を手に入れた。



「ふむ……分かった、私も鬼ではないしな。私の二倍の苦しみを味わったのならば、もう終わりにしてやるべきだろう。ヒロト、頼む」

「う、うん……ジョゼフィーヌ、戻れ!」



◆ログ◆


・《ジョゼフィーヌA》と《ジョゼフィーヌB》は合体した!

・《ジョゼフィーヌ》は辺りに伏せた。



 ジョゼフィーヌはまた天井に移動し、屋根の隙間を通り抜けて姿を消した。流動体のスライムは、ちょっとした隙間でも出入りできるのだ。


 解放されたマールさんは、ぱんつも既に溶かされていた。俺は見ないようにして、彼女の腰のあたりに、着ていた服を脱いでかけてあげる。


「ヒロトの服を……な、なぜ私に貸してくれないのだ」

「ぱ、ぱんつまで溶けちゃってるから……ごめんなさい、フィリアネスさん」

「……スライムこわい……スライム強い……」

「スライムってこんなに強いモンスターだったんですね……ヒロトちゃん、勉強になりました」


 唯一被害のないアレッタさんは、一番早く落ち着きを取り戻す。マールさんはちょっと恨めしそうな顔で見ていたが、そのうち力尽きて床に突っ伏してしまった。


 まあ、マールさんがお仕置きされるという予想外の展開はあったが、「スライムに少し弱い」程度なら、あまり戦闘に差支えは出ないだろう。フィリアネスさんの恐怖症克服が出来ただけでも、良しとしておこう。



◇◆◇



 布鎧なしで鎧を着るわけにもいかないので、俺は町に行ってエレナさんの店で服などの装備を買い、フィリアネスさんたちに届けた。スライムのぬるぬるが残っているが、これはゼラチン質を加えただけの水のようなものなので、風呂で落とせば問題はない。


「何をしていたのかという目で見られそうだ……早くヒロトの家に戻らねばな」

「はい……ヒロトちゃんと一緒にお風呂に入って、すみずみまで洗ってもらわないと……」

「たくましいですね、マールさんは……私だってしてもらいたいですよ、そんなこと」

「え、えーと……外ではあまりそういう話はだめだよ、お姉ちゃんたち」


 いたいけな少年っぽく言ってみるが、三人とも撤回はしない。アレッタさんはまだしも、フィリアネスさんとマールさんは俺のスライムにやられたわけだから、まあ洗ってあげてもいいか……役得っぽくて、本当にいいのかと思ってしまうけど。



 家に帰り着くと、お客さんが来ていた。居間にリオナとサラサさんがいて、レミリア母さんがいない。


「ただいまー……」

「確か、サラサ殿……でしたね。ヒロトを連れ出してしまっていましたが、大丈夫だったでしょうか」

「ええ、フィリアネス様と訓練しているというのは、レミリアさんに聞いています。今、町のお医者さんに来てもらっているんです」

「ヒロちゃんのお母さん、ちょっと具合が悪いみたいなの……」

「えっ……か、母さんが?」


 そういえば最近、ちょっと様子が変だったな……風邪でも引いてるのかなと思っていたけど、サラサさんたちがうちに来ているうちに、悪くなってしまったんだろうか。

 心配で、心臓が早まる。そんな俺を見て、フィリアネスさんは優しく肩に手を置いてくれた。


「何も心配することはない。母君は、きっと大丈夫だ……それに、私たちもついている」

「うん、ありがとう、フィリアネスさん」

「はぁ~んっ、雷神さま、その役目私にたまには変わってください。私だったら、ヒロトちゃんを後ろからぎゅって抱きしめてですね~……」

「ヒロちゃんをぎゅーってするのは私だから、大きいお姉ちゃんはしちゃだめ」

「ま、まさか、日頃からぎゅーってしてるの? リオナちゃん、そんなうらやましいことをいつもしてたら、そのうちヒロトちゃんのぬくもりから離れられなくもがっ」

「マール、おまえは少し黙れ」

「もがもが……ぷはっ! ら、雷神さま、本気で怒らないでください、謝りますから~!」

「怒ってなどいない。おまえは騎士団の行事ではしっかりしているが、私の前では気を抜きすぎる」


 それはマールさんが、本当にフィリアネスさんを慕っているからだろうな……と、俺がもう少し成長していたら仲裁してあげられたんだけどな。子供がそれを言うと、さすがに背伸びをしすぎている。


「あっ……レミリアお母さん、だいじょうぶ!?」


 奥の寝室から、レミリア母さんと……あれ、一緒に居る中年の女の人、見たことあるな。


(どこかで……もしかして、俺が生まれた時、取り上げてくれた助産師さんか……?)


 あの時は目がよく見えなかったから、姿はよく覚えてないが……確か、俺が生まれてからも、たびたび家を訪ねてきてくれていた。

 助産師さんが家に来る……それは、つまり。


「リオナちゃん、ありがとう。私は大丈夫……フィリアネス様たちも、お疲れ様でした。いつもヒロトがお世話になって……」

「いえ、こちらこそご子息には大変お世話になっています。今日も、教えられることばかりでした」

「まあ……ヒロトちゃん、聖騎士様にまで認められているんですね。やっぱり、ヒロトちゃんは凄いです」

「うん! ヒロちゃんはね、とってもすごいんだよ! 私やステラちゃんたちも、いつもそう言ってるの!」


 リオナは自分のことみたいに誇らしげに言う。な、なんか照れるな……こんな、ベタ褒めされると。

 それよりも、母さんのことだ。身体の不調は、何が原因だったんだろう……?


「レミリアさん、みんなには今言ってもいいのかしら?」

「はい、私から言います……本当は、夫にも居て欲しかったんですが、仕事中ですから、帰ってから家族でもう一度話したいと思います」


 助産師さんに丁寧に受け答えをしてから、母さんは俺たちに向き直る。そして少し恥ずかしそうにしながら、お腹のあたりをそっと撫でた。


「レミリアさん……お腹に、赤ちゃんが……?」

「わぁっ……おめでとうございます~! ヒロトちゃんに弟か、妹が出来るんですね!」


 サラサさんとマールさんが、真っ先に事情を察する。よくわかっていなかったリオナも、マールさんの「弟か妹」というところで反応して、目をきらきらと輝かせ始めた。


「ふぁぁっ、あ、赤ちゃんがいるの? ヒロちゃん、赤ちゃん! 赤ちゃんだよ!」

「わっ、い、いきなり抱きついてくるなって……赤ちゃんっていっても、まだ生まれてくるのは先だぞ?」

「ふふっ……ヒロトも嬉しいのに、皆の前では抑えているのか。男の子だな」

「おめでとうございます、レミリアさん……若いのに、もう二人めのお母さんなんですね……」


 アレッタさんは感激しきりで、目を潤ませている。優しいんだな……何だか、俺までもらい泣きしそうになる。


「まだ三ヶ月ですから、安定するまでは、出来るだけ安静になさってくださいね」

「はい、ありがとうございます。ヒロトの時も本当にお世話になって……」


 母さんが涙のにじんだ目元を拭く。母さんに赤ちゃんが出来たこと、俺は全然気づいてあげられなかった……嬉しさも不安もあるだろうし、こんな時こそ、俺と父さんで支えてあげたい。



◇◆◇



 レミリア母さんはみんなの祝福を受けて、すごく照れていたけど、とても嬉しそうだった。俺も嬉しくて、いつまでもそわそわと落ち着かなかった。


 母さんはお腹のことを少し気にしながらも、夕食の支度をする。俺は負担がかからないように、いつもはあまり手伝わせてくれない母さんにお願いして、高さが足りないときは踏み台に乗って食事の支度を手伝った。


 そしてフィリアネスさんたちと一緒にお風呂に入る前に、彼女たちはいったん部屋に戻って、リカルド父さんと母さんと三人で、新しい家族のことを話すことになった。テーブルを挟んで、俺は母さんの隣に座り、父さんと向かい合う。


「なにっ……ほ、本当か? レミリア……」

「ええ……もう三ヶ月みたい。最近、少しふらつくことがあると思ったんだけど、貧血だったみたいね」

「そ、そうか……済まない、気づけなくて。これからは足元には、くれぐれも気をつけてな……しかし、そうか。二人目か……!」


 父さんは次第に実感が湧いてきたのか、初めは驚いていたが、だんだんと笑顔に変わっていく。

 そして父さんは席を立つと、母さんの手を取って言った。


「俺は今以上に仕事をして、おまえたちが安心して暮らせるようにする。お腹の子供が幸せになれるように、レミリアと、ヒロトと、三人で頑張っていきたい……ヒロト、こっちにおいで」

「うん!」


 俺は椅子から降りて父さんに近づく。父さんは俺の頭を撫で、そしてもう片方の手で、母さんのお腹に触れていいかとうかがう。


「そっと触ってあげて。この子がびっくりしないように……そう、そっとね……」


 レミリア母さんのお腹は、まだ目に見えて膨らんでいるわけじゃない。しかし、触れた父さんには、そこに確かに命が宿っていることが伝わったようだった。


「……ヒロトの時も思ったが……子供が出来るというのは、本当に、奇跡みたいだ……俺とレミリアの……」


 父さんはすべて言葉にならないみたいで、途中で乱暴に目頭を拭う。そしてしばらく目元を押さえたあと、立ち上がり、照れくさそうに笑った。


「悪いヒロト、父さん、かっこ悪いところ見せたな……男は簡単に泣くなって、いつも言ってるのにな」

「あなたったら……いいのよ、こんな時くらい、そんなに強がらなくても」

「いや、ヒロトが落ち着いてるのに、俺がドンと構えてなくてどうするんだ。本当、どっちが大人か分からんな……ときどき、ヒロトが物凄く頼もしく見えるよ」

「そんなことないよ、父さん。俺は父さんの方こそ、すごく頼りがいがあるって思ってるよ」

「そ、そうか……って、言わせたみたいで悪いな。子供は気なんて使わなくていいんだ」


 父さんは照れて、俺の頭を撫でる。それを見ていた母さんも、口元に手を当てて上品に笑った。


「あなたの二人目の子よ、リカルド。授かることが出来たこと、女神様に感謝しないとね」

「ああ。明日、家族で教会に行こう。ヒロトも教会のセーラさんには、良くしてもらってるみたいだしな」

「うん。セーラさんもきっと喜んでくれるよ」


 三人で笑い合う。ここに四人目が加わったときのことを、俺たち家族は、きっと全員が今から想像している。


 ――前世で弟が生まれた時。俺は今と同じように、家族みんなでその誕生を待ち遠しく思い、心待ちにした。

 その弟が社交的に育ち、俺とは全く違う道を歩んで、両親の期待を一身に受けているのを見ていて、俺は……弟が生まれた時の気持ちを忘れ、妬んでしまうこともあった。今では、俺がいなくなったあと、両親と仲良くやっていてほしいとひたすら願っている。


 この人生では、俺は決して、弟や妹を妬んだりはしない。兄として尊敬されるように生きていきたい。


「あと七ヶ月か……名前を考えておかんとな。ヒロトも考えておくんだぞ」

「俺のときみたいに、神様にもらえばいいよ。それが一番、いいと思う」

「ふふっ……お兄ちゃんらしい顔になっちゃって。ヒロトがお兄ちゃんなら、きっとこの子も安心して生まれてこられるわね」


 俺の名前を神がくれたというのは、女神が授けた――ということになるんだろうか。この世にある全ての名前がそうじゃないのかもしれないが、色んなものに名をつけているなら、女神もなかなかセンスがあるじゃないか、と思わなくもない。


 ――そして、俺は思う、「女神」と言っているが、彼女に名前があるのかどうか――もし会うことができたら、機会をうかがってステータスを見てみたいと。



◇◆◇



 俺の家に、新しい家族ができる。その話を仲間たちに伝えると、彼らも自分のことのように喜んでくれた。

 母さんの妊娠が分かってから、もう二ヶ月――あと、五ヶ月で生まれる。

 一日一日、俺は変わらず充実した日々を過ごしながらも、四六時中待ち焦がれていた。


 家の裏、町を見下ろす丘の上で、俺は仲間たちと一緒に集まっていた。アッシュ、ディーン、ステラ、ミルテ、そしてリオナと俺を入れて、六人だ。


「ヒロト、いいな……兄ちゃんになるんだな。俺も弟か妹が欲しかったよ」


 ディーンには母親がいない。亡くなってしまったのか、それとも別の理由かをはっきり聞けてはいないが、察するには、この世にはもういないのだと言葉の端々から感じ取れた。

 だからこそ、ディーンの母が父に送った帽子を、何としても取り返そうとした。それを知ったとき、俺は『いらないからやる』と言ったことをディーンに謝り、そして受け入れられた。


「ディーンにはお兄さんだっているし、弟も、妹だっているじゃない」

「ん……ま、まあ、そうだけど。そう言われると、なんか恥ずかしいっていうか……」

「僕はディーンさえ良ければ、兄さんみたいな気分でいるよ。僕よりディーンの方が、体力はあるけれどね」

「アッシュ兄……あ、あんがとな。つか、ちょっと言ってみただけだから、あんま気にすんなよ」


 ディーンは笑ってみせる。けれどその目にある、俺に対する憧れが、やはり前世を思い起こさせる。

 俺に弟ができると知った時、一人っ子だった恭介は、羨ましいと言っていた。

 ――そして弟は、社交的で、成績もスポーツも優秀だった恭介に憧れ、同じサッカー部に入って、『弟分』になった。俺に対して、「兄ちゃんもやれば出来るんだから」と何度も言ってくれていた、俺には出来過ぎた弟だ。


「……ミルテも、ヒロトの妹になりたい」

「えっ……そ、それは……」

「リオナもなりたい!」


 ミルテの言うことに、いつもリオナは対抗する。それは仲が悪いわけじゃなくて、仲が良すぎるからだとも言える。俺に対する気持ちも近いものがあるというのは、なんとなく気づいていた。


「私はヒロトの本当のお姉ちゃんになりたいとは、思わないわ」

「えっ……どうして? ステラ姉」


 リオナが聞き返すと、ステラは頬を赤らめる。七歳が近づいた彼女は、俺たちの中で一番背が高い――子供の頃は女の子の成長が早いというから、そういうことなのだろう。


「ヒロトのお姉ちゃんになったら、将来……けっこんできないかもしれないもの」

「あっ……み、ミルテは、ヒロトと……けっこん……けっこん……?」

「……リオナは……」


 ミルテは結婚がよく分かってないみたいで、リオナは……わかっているけど、すごく恥ずかしがってる。

 それでも俺は、リオナがとても懐いてくれていると知りながら、未来まで決めてしまうことはしなかった。


 ――俺は大人になっても、ずっとリオナを守り続ける。そう決めていても、俺たちが結ばれると決まったわけじゃない。


 ミゼールの町に子供はそれほど多くないが、リオナは魅了を封じていても、全ての少年を魅了するほどに容姿が整っている。四歳などということは関係ない、リオナの容姿はあまりに、異性の心を動かしすぎるのだ。


 アッシュとディーンは俺とリオナが常に一緒にいるものだと思っていて、将来も一緒だということを、少しも疑っていない。だからこそリオナを友人としてだけ見られているだけで、もし俺が居なかったら、他の少年たちと同じにならざるを得なかっただろう。


 けれど日ごとに開花に近づいていくリオナを見ていると、俺も心を動かされる瞬間があることを否定出来ない。

 日に日に陽菜に似ていき、けれど陽菜よりもきれいで、可憐な少女。

 俺は、彼女を守りたいと思う。俺にしか、出来ないと思っている……それが驕りであっても、今は……。


「なあ、ヒロト。弟か妹ができて、遊べるようになったら、おれたちの秘密の遊び場、全部教えてやろーな!」

「うん。小さいうちは危ないから、大きくなったらそうしよう」

「ははは……二歳の時から走り回ってたヒロトと似てたら、すぐに一緒に遊べるようになりそうだね」

「私も本を読んで聞かせてあげたいわ。いっぱい勉強して、家庭教師をするの。ヒロト、いいでしょう?」

「リオナもミルテちゃんと一緒におしえたいな……ミルテちゃん、一緒にお勉強しよ?」

「……うん。ヒロトも一緒に、勉強する」


 穏やかに流れていく時の中で、俺は思う。もう、二度と同じ間違いは繰り返さない。

 仲間がいて、信頼し、尊敬する人たちが居て……守りたいと思うものを、守ることのできる力がある。


(……安心して、生まれてきてくれ。この世界は、優しい世界だ)


 丘の上の草原、柔らかな背の低い草に背を預け、俺は目を閉じて静かに思った。





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