第八十五話 リオナ/??? 後編
翌朝、俺はリオナより早く支度を終えて、家の裏にある丘に向かった。
子供の頃はここで本を読んでいると、よくリオナが探しに来たものだ。他にも、日頃は姿が見えないように伏せているジョゼフィーヌと過ごす場所でもあった。
「きゅいきゅい!」
俺だけでなく、ジョゼフィーヌもこの場所を覚えていてくれたようだ。ぽよん、ぽよんと跳ねてきて、俺の近くで待機する。この状態を、俺は『おすわり』と呼んでいた。
グレータースライムになっても身体の大きさは変えられるので、今は昔と同じくらいの、子供が抱えられるくらいの大きさになっていた。大きいと目立つので、という配慮だろうか――やはりこの世界のスライムは、レベルが上がると知能が高くなるらしい。
「久しぶりだな。ジョゼフィーヌ、お前も来るか?」
「きゅん!」
「そうか、留守番してるか。なんだ、気を回してくれてるのか」
「きゅんきゅん」
その通り、と言わんばかりに鳴くジョゼフィーヌ。ヒルメルダさんの前でテイムしたときから友好度は変わることなくカンストしていて、スライムとは言え俺のピンチを何度も救ってくれた忠義者だ。
そういえば、俺の初代護衛獣であるところのジョゼフィーヌは、もうすぐスライムスキルがカンストしてしまう。現在のステータスはこんな感じだ。
◆ステータス◆
名前 ジョゼフィーヌ
スライム ? 6歳 レベル45
ジョブ:グレータースライム
ライフ:700/700 マナ:24/24
スキル:
スライム 99 恵体 55
アクションスキル:
溶解液(スライム10)
毒攻撃(スライム20)
装備破壊(スライム30)
捕縛(スライム40)
絡みつく(スライム50)
装備を奪う(スライム60)
催眠(スライム70)
吸収(スライム80)
自爆(スライム90)
パッシブスキル:
自動回復中 物理無効 炎無効
氷無効 雷無効
毒無効 麻痺無効
(ルシオラさんの護衛獣のスライム、クローディアはスライムスキルが100になったところで、『形態模写』を獲得していた。つまり、あと1でジョゼフィーヌも人化できるようになるってことだ)
ルシオラさんの姿を真似ていたクローディア。ジョゼフィーヌは誰の姿を真似るのだろうか――オリジナルか、それとも。
「帰ってきたら、ちょっと訓練してみるか。自然に強くなるかもしれないけどな」
「きゅーん!」
「よしよし。じゃあ、また後でな」
俺はジョゼフィーヌに、インベントリーから出した『経験のポーション』を与える。俺が飲んでも経験値の上昇量は体感できない量だが、ジョゼフィーヌなら多少は経験が入るだろう。
ジョゼフィーヌが立ち去ったあと、家からユィシアに連れられ、リオナがやってきた。
その姿を見て、俺は目を見開く――素材や仕立てこそ異世界のものだが、着ている服の色が、前世での陽菜の姿を想起させるものだったからだ。
伸びてきた髪を編み込み、おしゃれをしている。俺の前まで来ると、恥ずかしいようでそわそわとしていた。
「……あ、あの……ヒロちゃん、待った?」
「そうでもないよ。さっきまで、ジョゼフィーヌと話をしてたんだ」
「ジョゼちゃんと? 私もしばらく遊んでないけど、おっきくなった?」
「……ご主人様より大きかったり、これくらい小さかったりする」
「本当? わあ、昔みたいにぽよんぽよんってして遊びたいな」
ジョゼフィーヌの外見からするとバランスボール的な遊び方も良いのではないかと思うが、高い知性を考えるとおもちゃ扱いは良くないか。
「さて、そろそろ行くか」
「……ご主人様」
ユィシアが俺を呼んで、じっと見てくる。そんな目で見なくても分かっているのだが、どうにも照れてしまう。
「今日はなんか、いつもと違って……新鮮な感じがするよ」
「っ……う、うん……大事なときは、お母さんが、おめかししなさいって……レミリアお母さんが、私のために服を作ってくれてたの」
「母さんが? そうか……みんなに服をプレゼントするの、好きだもんな」
母さんは俺が知らないところで、幼馴染みたちに自作の服をよくプレゼントしていた。ミゼール一の織り手の母さんが作る服の品質は店売りのものより高く、エレナさんの店に納入しているものの中でも高級品として扱われている。母さんの希望で、値段は抑えめになっているそうだが。
「そ、それで……レミリアお母さんが、こうやって見せるといいって……」
リオナは緊張しながら、くるっとその場で回ってみせる。サラサラの髪と膝上の長さのスカートがふわりと翻り、陽射しの中で光の粒を纏うように見える。
「……ど、どう……ですか?」
「ははは、何で敬語になってるんだ。すごく似合ってると思うぞ」
「あっ……」
何も誤魔化したりすることはない。リオナの緊張が和らぐように、俺は笑って言う。
――素直な言葉が出てくるのは、交渉術のおかげか、俺が変わったからなのか。
どちらにせよ、今日は変な意地を張ったりせず、ありのままの俺でリオナと話がしたい。
「ご主人様……」
「ユィシアも似合ってるよ。ちょっと前から衣装が透けないようにしてるけど、それも落ち着いてていいと思う」
「……二人の時と、外に出る時は、変えてる。ご主人様以外には肌は見せない」
「わ、私は……もうちょっと大きくなったら、そうしようかな……」
リオナはユィシアの発言に触発されているのだと思うが、それは将来的にも、俺と一緒に――と思っていいのだろうか。
そう言われているけど、どうも八歳のリオナと将来を約束するというのは、源氏物語的な感じがしてならない。俺は昔、あの物語を少女をさらうのはどうかと思って読んだものだった。時代の違いというのもあるのだろうが。
考えていると、ユィシアが俺たちから少し離れたところまで歩いて行く。
「竜に変化するのか?」
「そう。少し離れて……」
◆ログ◆
・《ユィシア》は竜形態に変化した。
ユィシアの身体が光を放ち、みるみるうちに皇竜の姿に変わる。
「ユィシアお姉ちゃんに乗せてもらうの、久しぶりだね」
『今日は、ご主人様とリオナを案内する係。二人でゆっくり話すといい』
「あ、ありがとう……」
遠慮がちに言いつつも、リオナは俺を見て微笑む。照れくさい空気だが、俺はこれからもっと照れることをしなくてはならない。
「リオナ、抱えてもいいか?」
「えっ……」
『鱗でこすれると服が痛みやすい。ご主人様に抱えてもらって乗ればいい』
「う、うん……あっ……」
「しっかり捕まってろよ。よっ……!」
俺はリオナを片手で担ぎ上げたまま、ユィシアの背に乗る。そして慎重にリオナを前に降ろした。
◆ログ◆
・あなたは《ユィシア》に対して『騎乗』を行った。
・あなたと同乗者の姿勢が安定した。
『高度が上がるまでは、身を低くすること』
「だそうだ。ちょっと暑いかもしれないけど……」
「っ……」
後ろからリオナに覆いかぶさるようにする。必要なこととはいえ、リオナの緊張が目に見えて伝わってくる。
「お、落ち着けリオナ。この姿勢で鼓動が伝わるって、相当すごいぞ」
「だ、だって……ヒロちゃんとくっついてるから……」
『仲が良いのはいいこと。私にも心臓の音が伝わってくる』
「……は、はずかしい……ユィシアお姉ちゃん、言っちゃだめ」
リオナに背中を撫でられながら言われて、ユィシアがかすかに笑った気配がした。
リリスのことがあって、ユィシアはやはりリオナに対しては、友情に類する感情を抱いているように思える。
◆ログ◆
・《ユィシア》は竜煌気を使って飛行を開始した。
・あなたと《リオナ》は竜煌気の防風結界に包まれた。
翼を使っても飛べるが、ユィシアは彼女専用の魔力ともいえる『竜煌気』を使って静かに浮上すると、気圧や風の影響を俺たちが受けないように結界で包み、ぐんぐんと高度を上げ、加速していく。
「や、やっぱり、ユィシアお姉ちゃんすっごくはやい……っ」
「落ちることはないけど、しっかりつかまってろよ。うわ、もうミゼールがあんなに小さい」
振り返ると、ミゼールの街が豆粒のような大きさになっていた。森を抜け、山に入り、悠久の古城を横目に見ながらさらに飛んでいく。
――しかし、その時だった。
『……雲……ちがう、あれは……っ』
「ユィシア、どうした?」
『分からない……大丈夫だと思う、でも……っ』
前方の空に広がっていた白い雲が瞬く間に迫ってきて、俺たちはその中に飲まれる。
ゆっくり流れていた空から見渡せる遠景が見えなくなると、進んでいるのかどうかも分からなくなる。ユィシアも何が起きているのか分からずに当惑していたが、俺は加速して雲を抜けることを選択した。いざとなれば『神威』で雲を吹き飛ばすという手もある。
「リオナ、心配するな。俺がついてるからな」
「……この声……」
「リオナ……?」
リオナが何事かを呟く。それに耳を傾けて、俺はようやく、彼女の声を聞き取ることができた。
「……なつかしい声……ずっと前に聞いた……」
――予定よりは少し早いけれど。魔王リリムとイグニスを御したあなたには、それなりのご褒美をあげなくてはね。
(この声……間違いない……!)
頭の中に響いてきたのは、女神の声だった。
◆ログ◆
・《???》はあなたを転移させた。
ユィシアの背に乗って、空を飛んでいたはずだった――しかしログが流れたあと、俺は抵抗する間もなく、別の場所に飛ばされていた。
「……ここは……」
花の咲き乱れる平原。俺が立っているのは、花の群れを貫く一本の道の上だった。
色とりどりの花が咲き乱れた野原が、見渡す限りどこまでも広がっている。
地形は平坦ではなく、なだらかな傾斜があり、丘がある。丘の上に辿りつくには、歩いて数十分ほどはかかりそうだ。
「リオナ……ユィシア。どこだ……?」
◆ログ◆
・あなたはパーティメンバー《リオナ》《ユィシア》の状態を確認した。
・《リオナ》:状態が関知できない
・《ユィシア》:異常なし 現在地:ジュネガン公国北西部上空
(っ……関知できないって……まさか、また女神が何か……)
俺だけがこの場所に転移させられた――おそらく女神によって。リオナも何らかの干渉を受けているのは間違いない。
(ユィシア、聞こえるか?)
(ご主人様っ……!)
(良かった、念話は通じるな。どういったわけか、違う場所に飛ばされた。俺が自分で『転移』を使えば戻ることはできるみたいだが、少し様子を見てみる)
(……分かった。リオナは無事でいる?)
(いや……今は姿が見えない。だけど、俺が知っているあいつが干渉してきたのなら、リオナの命を脅かすようなことはしないと思う)
女神はリオナに『不幸』のスキルを与えたが、それは俺が気づきさえすれば封じられるもので、確実に死の危険をもたらすようなものではなかった。
命を落とした後に転生するのではなく、生きながら転生を選ぶ者に、女神はペナルティを与える。名無しさんがそうであったように。
(おそらくリオナはこっちにいる。必ず連れて戻るよ)
(……待ってる。くれぐれも、気をつけて)
不安はあるのだろうが、ユィシアは俺を信頼してくれた。念話が遠のき、俺は改めて周囲の風景を見渡し、現状を把握する。
見回した四方の全て、どこまでも花が続いていた。青と水色、そして白と、どこか落ち着く色で統一されていて、風が吹き抜けると青い波が起こるように見える。
その光景から俺が連想したのは天国という言葉だった。空は青く、先程まで広がっていた雲はどこにも見えない。 ここにあるのは空と太陽、そして花だけだ。
いや、もう一つ。どこからか、川の流れる音がかすかに聞こえてくる。
俺は水音が聞こえる方角に進む。この先のなだらかな上り坂の向こうから聞こえてくるようだ。
その坂を登り、向こう側が見えるところまで来る。思った通りに、川が流れている。
川のほとりに、人の後ろ姿が見える。
白く長い髪と、羊のような角と――黒い翼を持つ、十代半ばほどの少女。
◆ログ◆
・「カリスマ」が発動!《魔王リリス》があなたに注目した。
(っ……!?)
ログの表示に思考が止まる。簡単に信じられるわけがない、しかしログが俺に間違った情報を教えたことは、今までに一度もなかった。
リオナの姿が見えなくなり、代わりに魔王リリスが俺の前に姿を現した。
女神は俺を転移させた時に、リオナを魔王として覚醒させたのか。リリムとイグニスを倒した褒美をくれるというのは、油断させるための方便だったのか。
(いや…‥そんな嘘をつく意味がない。これが、女神の言う『褒美』なんだ)
俺の姿に気づいたリリスが、ゆっくりと振り返る。
――その姿は、髪の色や瞳の色、魔王の角と翼を除けば、陽菜そのものと言っても良かった。
最後に見たのは、雨の中の後ろ姿。もう、八年も前のことなのに。
そしてリリスは俺の姿を見るなり、右手をこちらにかざし、膨大な魔力を集め始める。
「――待て、リリス! 俺は、お前に聞きたいことがあるんだ!」
この距離でも声は届いている。リリスの赤い唇が小さく動いて、答えを確かに紡いだ。
◆ログ◆
・《魔王リリス》は魔王の力で、【禁呪】の封印を解こうとしている……。
・《魔王リリス》は『夜の背信者』の詠唱を始めた。
確かに、何かを言ったはずなのに。ログはリリスが攻撃の準備を始めていると伝えてくる。
(戦うしかないのか……禁呪なんてものの発動を許したら、何が起こるか分からない……!)
「――我が手に宿る力は、神にも届く……!」
『神威』を発動させ、『山崩し』を撃つ。
リリスの詠唱を中断させる方法は、それしかない。
しかし、本当にそうなのか。
リリスの手の先に生じた魔法陣が、爆発的に展開される――それは禁呪の脅威を知らしめるには十分なほど複雑で、他の魔術とは比べ物にならない規模を持つ紋様だった。
「くぅっ……うぅ……あぁぁっ……!」
◆ログ◆
・《魔王リリス》は自らのライフをマナに変換している……。
発動の寸前を迎え、魔力を充溢させた魔法陣が赤く輝く。リリスが膨大な魔力を吸われ、苦しそうに声を上げる――禁呪の消費マナが大きすぎて、ライフを代償として消費してしまっているのだ。
(そんな魔術を発動させたら、俺もリリスもただじゃ済まない……!)
命を削るような魔術を発動させるわけにはいかない。あの『リリス』は、リオナそのものである可能性もあるのだから。
◆ログ◆
・あなたは『転移』を詠唱した!
「っ……!?」
リリスが驚愕するのが分かる。俺は一瞬でリリスの裏を取り、彼女に後ろから組み付いたのだ。
「負荷は俺も受け止めてやる! 詠唱を止めろ、リリス……!」
「そんな……ことは……魔王の専用魔法は、一度始まれば、止めることなんて……っ」
「――理屈なんてどうでもいい! 俺はもう、何も失いたくないんだっ!」
母さんの病気が治ったときも、俺自身が命を落としかけた時も――強く願えば、叶わないことは何もなかった。
リリスとこうして会うことができたというのに、なぜ問答無用で敵対しなくてはならないのか。そんな理不尽に流されて殺し合っても、俺はずっと後悔する。
(頼む……何でもいい。禁呪の詠唱をキャンセルさせられるのなら……!)
そう強く思った時、腕の中のリリスの抵抗する力が、ほんの少しだけ緩められた。
◆ログ◆
・《魔王リリス》は状態異常抵抗を解除した。
・あなたの『【対異性】魅了』が発動! 《魔王リリス》は魅了状態になった。
・《魔王リリス》との関係が『友好的』となり、詠唱がキャンセルされた。
・《魔王リリス》は消耗したマナの一部を取り戻した。
リリスの身体からふっと力が抜ける。展開されていた魔法陣は粉々に弾け飛んで、魔力の残滓を残して消え去った。
抱きとめたリリスの相貌を間近で見る。転生する前、近くで見ることのなかった陽菜と彼女がどれくらい似ているのか、情けないことに俺には判別がつかなかった。
――けれど、リオナが成長すればこんな姿になるのだろうと想像はつく。
リリスが薄く目を開ける。意識はあるようだが、身体は上手く動かせないようで、彼女は俺の腕の中から逃れようとはしなかった。
「……聞きたいことは山ほどあるが、まず教えてくれないか。リオナはどこにいるんだ?」
「リオナ……私の生まれ変わり……そこに……」
『リオナ』と『リリス』が、分かれて存在している。それを目の前に示されると、事実を受け入れる他はなかった。
◆ログ◆
・《魔王リリス》は《リオナ》を『召喚』した。
転移で別の場所に送られていたリオナが、この場に呼び出される。彼女は気を失い、川のほとりの草むらにうずくまっている――外傷などはなく、穏やかに胸が上下していて、俺は少なからず安堵を覚える。
「リオナは、魔王の転生体だったはずだ。どうして二人に分かれてるんだ……?」
「……リオナは……『私』の魂を同居させていただけだから……時が来れば、私は分離する定めにあるのよ。『魔王』は、そういう存在で……何度死んでも、この世界で蘇ってしまう……人を憎み、滅ぼすという役目を与えられて……」
「それは……女神が、魔王をそういう存在として作ったからなのか?」
俺の問いかけに、リリスは答えない。もう意識を留めていることができず、彼女の目が閉じられていく。
◆ログ◆
・《魔王リリス》は『昏睡』状態になった。
――また、同じことになるのか。
リオナが陽菜としての記憶を蘇らせたあと、『凶星』によって記憶を封じられたように。
リリスが復活し、話すことができたというのに、ほんの少し話しただけで彼女は眠ってしまった。
女神は俺に本当のことを明かすつもりなどないのか。彼女がいる場所に辿りつくまでは、俺たちは女神の手のひらの上で踊らされ続けなくてはならないのか。
「……そうしてあげてもいいのだけど。あまり憎まれるのは、本意ではないわね」
後ろから、声がした。
リオナは懐かしいと言ったが、それは俺にとっても同じだった。
懐かしく、そして憎らしい。けれど心底から憎むこともできない――そんな存在。
銀色の髪と、エルフのような長い耳。転生した時、魂だけの姿で会った女神は、変わらぬ姿で俺の目の前に現れた。
「リリスがあなたに攻撃しようとしたのは、私が命じたことではないわ。リリスはあなたと戦わなければならないと思った……あなたの姿を見てしまったからでしょうね」
「俺の姿……?」
「……かつてリリスが命を投げ出して守った、なりそこないの勇者。ヒューム・ジークリッド……」
――ルシオラさんが言っていた。勇者ヒューリッド、武門の家であるジークリッドの名を名乗ることを許された者。
なりそこないというのは、ヒューリッドに魔剣の適性がなかったことを言っているのだろう。剣の選定者は、奇しくも俺の妹のソニアだった――選定者でなければ、例えどれだけ強くても、魔王を討つことはできない。
「ヒュームは魔王を討つことを、自分の力を世に示すための方法だと思っていた。けれど選定者でない彼は、リリスに何度挑んでも勝つことはできなかった。それでも諦めきれず、ヒュームは別の魔王ならばあるいはと考えて、始皇竜レティシアに戦いを挑んだ……結果は、あなたも知っての通りよ。リリスはヒュームを庇い、レティシアの炎に焼かれて命を落とした。ヒュームは彼女を失ったことに耐えきれず、壊れてしまったわ」
「……それじゃ……ヒュームが、まるで……」
「彼女が死ぬまでは、人間の宿敵だと思っていたでしょうね。魔王は人を滅ぼすために存在している。リリスはその唯一の例外として行動したのよ」
この世界を作った女神の理解を超えた出来事。それを起こしたリリスは、今俺の腕の中で眠っている。
「ヒュームは絶望し、扱うことのできなかった魔剣を、弟子として途中まで育てたアンナマリーに預けて姿を消した。いえ、もう死んでしまったと言っていいでしょうね。彼は二度と戦いの舞台には現れない。この大陸にすらいないのだから」
「……そうか。俺がジークリッドの血を引く人間だから、リリスは……」
「いえ……リリスはあなたに、自分を倒して欲しかったんでしょうね。あなたは魔剣の選定者ではないから、ヒュームと同じことになるだけなのに」
だが、俺は魔剣を聖剣に変えられる人物を知っている。
――俺の妹、ソニア・ジークリッド。彼女は剣の選定者であり、それはリリスを封じることができるということでもあると、今わかった。
「……だが、リリスはもう俺に敵対しない。自分の意志でそうしたんだ」
俺の『魅了』を受け入れ、禁呪の詠唱を中断した。リリスはヒュームに対してそうしたのと同じように、今回も女神の想像を裏切ったのだ。
女神はすぐには何も答えなかった。この世界の全てを創ったはずの少女がリリスに向ける感情は、俺には簡単に汲み取れるものではない。
――しかし、あえて推測するならば。女神は、リリスを羨んでいるようにも見えた。
「魔王リリスはいずれ覚醒し、リオナから分離する定めにあった。彼女は魔王の魂魄の力で受肉している……もう、リオナと同一存在に戻ることはできないわ」
「……それなら、リオナは……」
「彼女の『不幸』は消えている。あなたは彼女の隷属化を解除してもいいし、そうしなくてもいい。けれどリリスが持つ『不幸』は、宿命として消えないまま」
「おまえは……っ、リリスはその『不幸』のせいで、一度命を落としたんじゃないのか? それを、ずっとそうやって、神の目線で眺めてたのか……っ!」
女神なら、何かをしてやれたはずなのに。
いつも彼女は戯れのように、人を苦しませる。陽菜を魔王の転生体にして、名無しさんに仮面を着けて転生させて――。
だが、全ての悲劇が女神のせいだと言っても、今さら何にもならない。
「……どうしたらいいって言うの?」
「……何が……この世界は、自分で創ったものなんじゃないのか? どうしたらいいなんて、俺に聞くことじゃ……」
「私はこの世界を管理するために残されただけ……魔王の宿命も、それを討つための武器を用意したのも、全てそうするように定められていたから。その役目を終えたあとに私たちは自我を得たのよ」
――違和感は、初めから感じていた。
「……なんて、泣き言でしかないわね。私たちがどのような存在かを証明できないことは、自分が一番よく分かっているわ」
女神が全てを創り、仕組んだのではないか――その推論には疑問の余地がある。
なぜ、俺を転生させるときに望んだ力を与えたりしたのか。
リオナに放っておけば死に至りかねないような宿命を課しながら、俺のスキルという抜け道を塞いだりはしなかった。
運命を操ることができて、悪意を持っているのなら、女神は俺に抗う余地も与えなかったはずだ。
ならば、なぜ俺はリオナを救うことができたのか。
なぜリリスは魔王に課せられた宿命に抗って、ヒュームを庇うことができたのか――。
「……女神の力が及ばない部分が、この世界にはある。そういうことなのか……?」
俺の問いかけに女神はすぐには答えなかった。
また、はぐらかされるかもしれない。そんな考えは杞憂に終わり、女神は俺の目を真っ直ぐに見つめたまま、話し始めた。
「転生する人間を仲介したり、世界に干渉することはできる。けれど私は、この世界の全てを思い通りにできるわけじゃない。私は女神の枢軸……あなたが出会ったクロトは、私の半身と言える存在なのよ」
「っ……!」
クロトさんの顔の半分は火傷でただれていたが、見えている半分を見て、俺は女神のことを想起した。
銀色の髪に、長い耳。クロトさんは、女神の半身――女神そのものが、成長した姿をしていたのだ。
「私の半身はもう一つ存在する。クロト、アトルフォス、そして私……この世界において神と呼ばれる存在は、それで全て。私たちを創った存在については、今はどこにも観測することはできないわ」
「……運命の三女神……っていうやつなのか」
「人間は過去、現在、未来という概念と、時を司る存在とを結びつけて神と呼ぶことがある。モイラというのは、そういった定義の中の一つなのでしょうね」
つまりは――自らを枢軸と呼ぶ女神は、現在を司る存在。名前もそこに由来しているはずだ。
しかし、何だったか思い出せない。エターナル・マギアの内容に関連付けられていた神話などは興味があって調べたことがあるが、『運命の三女神』が深く関係していたことは、今ここで初めて知った。
「……私は何でも知っていて、思い通りにできるという顔をしていて、そうではなかった。軽蔑してもいいのよ、それくらいは覚悟しているわ」
「いや……言いたいことは山ほどあるけど。あんたが俺に力を貸してくれたことは事実だ。だが、あまり肩入れをしないようにもしてたんだろう……魔王にも、人間にも」
「どちらかといえば、人間に肩入れしているように見えるでしょうね。人間は、私たちの創った武器がなければ魔王を倒せない。魔王は自分の力だけで、この世界を焦土に変えられる。そうならなかったのは、私たちが勇者を導いたから……ヒュームも、その一人だった。けれど彼は、自分の武器を見つけるには至らなかった」
「らしいな……もし答えられないなら、それでもいい。ヒュームに適性のある武器はなんだったんだ?」
女神は何も言わず、俺を見返す。それが意味することを、遅れて理解する――。
「……斧……だったんだな」
「そう……魔斧ディスペア。またの名を、聖斧エルピス。始皇竜レティシアを封印することができる、唯一の武器よ」
「始皇竜……ユィシアの母親も、魔王の一人だったのか」
「ええ。けれど『あれ』は、もう魔王と呼べる次元の存在ですらないわ。皇竜が限界突破を所持していることは知っているでしょう。始皇竜の限界突破は100……限界突破のマスタースキルを得ている。私たちですら、限界突破の値は90で止められているの」
女神の能力値の限界は、限界突破を含めて190。
100からは人間の領域を離れると感じていた。150ならば魔王すらも凌ぐ。200ならば、神さえも――。
その領域におそらく、この世界で唯一達している存在こそが、始皇竜。
「……女神に攻撃が通じる相手なんて限られてる。クロトさんの顔の火傷も、レティシアの炎によるものなのか」
「ええ……レティシアは『黄昏の炎』というものを行使して、相手の魂に直接被害を与えることができる。クロトが回復していないのは、魂魄を補完していないから。彼女は自分を有限のものとして考えているから、傷を治さなかったんでしょうね」
人間が望んでも手に入らない永遠を手に入れているはずの神が、それを当たり前のものとして受け入れていない。
(いや……神に近くても、神ではないんだ。女神が言っているのは、そういうことなんだ)
自分を傷つけ、殺すことのできる存在がいる。レティシア――つまり、ユィシアが成長しても、神殺しの力を手にする。
そして、その可能性があるのは俺も同じだ。『神威』ですら、すでに女神に通じる技なのではないかと思える。
だが、それは可能性であって、俺が女神と敵対しない限りは、考えても意味のないことだ。
「……ヒュームでなければ、魔斧は扱えないのか?」
「ヒュームはもう勇者にはなりえない。この世界で最高の斧使いになりうるのは、あなたしかいない。そしてあなたは、『聖剣マスタリー』を保持している。それが意味することはもう分かるでしょう」
俺は『斧の選定者』であり、魔斧を手にすれば、レティシアと戦うことができる。
しかし魔王であっても、ユィシアの母親だ。今はまだ情報も少なく、人間に悪意を持っているかすら定かではない。
「レティシアは、魔王として人間を滅ぼそうとしているのか? 今まで何の情報も得られなかったが……」
「彼女にとって、人間はいつでも滅ぼせるくらい脆いものなのよ。彼女は『黄昏の時』が来るまでは、気まぐれに遭遇した相手と戦うだけでしょうね」
ユィシアを初めて見た時のことを思い出す。
本能に基づき、宝に近づく者を排除する。それがユィシアの思考のほとんどを占めていて、感情の起伏が極端に少なかった。
レティシアはあの頃のユィシアと同じなのかもしれない。人と関わらなければ、竜は竜のまま、人の心を解さない存在のままということなのだろう。
「……黄昏の時ってのは、レティシアが世界を滅ぼすまでの刻限ってことか」
「彼女が決めたわけではないけれど……この世界の暦は、そこで終わることになっている。貴方たちがいれば、その暦は変化するかもしれない。けれどレティシアが動いたら、誰も止められずに終わってしまうかもね」
「その時くらいは、女神も力を貸してくれたっていいんじゃないのか」
「……そうできたら苦労しないわ。クロトはレティシアと戦ったけれど、クロトからは一度も攻撃していない」
それはクロトさんにとって、不本意な戦いであったからか――いや、それとも違う。
「……女神は、魔王に攻撃できないのか。それでも魔王を倒さなければ世界が滅ぶから、勇者に武器を与えた」
昔見た絵本。人間に、八つの武器を与える女神。
しかし武器は勇者だけのものではなく、魔王が持つこともできる。
勇者と魔王のどちらにも、女神は完全に味方することはできない。助力にも限界があり、神の力でどちらかを勝たせることはできない。
「私たちは傍観しているだけ。そうでなければ、きっと世界を思うとおりに作り変えたくなってしまうから」
「……そうできたら、楽しいだろうな。でもあんたは、ずっと楽しくなさそうってわけじゃなかった。笑ってることも、あったじゃないか」
「……それは、あなたがこの世界に転生したからよ。それまではきっと、笑うことなんて無かったわ」
初めからずっと、掴みどころがなく、女神らしく微笑みを浮かべている姿ばかりを見てきた。
しかし、俺は分かっていたはずだ――女神が感情を露わにすること、怒ることもあった。
俺が『看破』を使おうとしたとき。彼女は強制的に別の選択を選ばせ、俺の看破を封じてみせた。
「……まだ、正体を明かす気にはなれないか?」
「あなたはもう、私と戦うためのすべを手に入れている。『神威』……それは数ある条件の一つよ。私のスキルの限界をあなたに示すこと、倒すことのできる存在だと明かすのはね」
「そうじゃない。名前を、教えてほしいんだ」
「……私の名前は、ラケシス。人間に私の名前を明かしたのは、あなたが初めてよ」
ラケシス――現在を司る女神の名。
銀色の髪を持つエルフ。彼女は天女のような羽衣を身につけ、今は俺が触れられる存在として、そこに立っていた。
「……どうして今あなたの前に現れたのか、話してもいい?」
「い、いや……その。俺は今から、凄く大事なことをリオナと話すはずだったんだ。でも、同じくらいラケシスの話も大事だから、ちょっと困ってる」
「私が何を言おうとしているか、想像がついているのね。私も交渉術なんてスキルを取ったことがないから、あなたの感覚は分からないけれど……少し恥ずかしいわね」
恥ずかしいなんて顔はしていない。微笑んでいるじゃないか――そう言おうとして。
ラケシスの瞳から、ひとしずくの涙が伝った。
竜の涙のように、宝石に変わったりはしない。女神の涙はただ光の粒になって、消えてゆく。
「……結婚、おめでとう。それを言っておかなければと思ったのだけど……なぜ、こんなものが出てくるのかしら。格好がつかないわ」
女神は笑うが、涙は止まらなかった。彼女はそれをあろうことか、白い衣の袖で拭ってしまう。
「これから式を挙げるんだけどな。それに、まだプロポーズの途中だ」
「ええ……一人くらいは、あなたを独占できないから離れていってもいいかと思ったのだけど。そんなことにはならなかったわね。あんなふうに親睦を深めるから、離れがたくなってしまったんでしょう」
「ま、まあ……そうかもしれない。ラケシス……っていうのもまだ慣れないな」
「女神でも構わないわよ。私も自分の名前にそれほど愛着を持っていないから」
少し考えたが、やはり名前が判明したのだから、女神というのも違うだろう。『名無し』が通名でもある名無しさんとはまた事情が違う。
「女神が三人いるんだから、ラケシスって呼ぶべきだろうな。それぞれ、三人は別の存在だから」
「っ……!」
――特に考えず、思ったままを口にした。そのはずが、女神は驚いたように目を見開く。
◆ログ◆
・あなたは《女神ラケシス》の名を呼び、唯一の存在として認めた。
・《女神ラケシス》の封印の一部が解けた。
「……封印が解けたって、ラケシス、一体何が……」
「……何でもないわ。今見たログのことは忘れて」
「何でもないってことはないだろ、もしおまえが何か封じられてるっていうなら……」
その封印は、解いた方がいいんじゃないのか。そう言い終える前に、ラケシスは一歩、二歩と後ずさっていく。
「お、おい……どうした?」
「……どうもしていないわ」
「そう言われても、まだ話があるんだ。逃げないでくれ」
「に、逃げてなんて……もう話すことは済んだし、リオナたちとも話があるんでしょう。私はいなくなるから、後は自由に……」
◆ログ◆
・《女神ラケシス》のあなたに対する好感度補正が解除された。
「っ……だ、だめ、これ以上は……ヒロト、あなたにはしばらく近づかないから」
「だ、だから待ってくれ! まだ聞きたいことが山ほど……っ」
「何でも話してあげると思ったら、それは間違っていると言わざるを得ないわね。結婚式なら千里眼で見ていてあげるわ……せいぜい楽しませてちょうだい」
◆ログ◆
・《女神ラケシス》は転移した。
やはり女神――ラケシスは、現れるときも去るときも、こちらの事情を考えてはくれない。
(……ご主人様、女神と仲が良かったのに、最後は喧嘩してるみたいだった)
(喧嘩ってわけでもないけどな……女神のことは、未だに分からないところだらけだ)
(分かっている部分があるだけでも、普通じゃない。ご主人様はやっぱりすごい)
(ありがとう。ユィシア……お前の母さんのことだけど)
レティシアとは、戦わなければならなくなるかもしれない。しかし俺はユィシアが望むなら、戦いを避ける方法を探すつもりでいた。
(……母と言っても、育てられたわけではない。宝を守るために産み落とされただけ。レティシアも、私のことを娘と思ってはいないと思う)
(そうか。でも問答無用で戦うんじゃなくて、何を考えてるのかは聞いてみたい。そんな余裕のある相手かはわからないけどな)
(……分かった。私はご主人様の意志に従う。それで戦うことになっても、かまわない)
ユィシアの声から、母である存在――自分より強いと認めている相手への畏怖を感じる。それはそうだろう、女神の話を聞く限りでは、間違いなく世界最強だ。
間違いなく、他の魔王とすら比較にならない力を持っている。気まぐれを起こせば、すでに世界を滅ぼしていただろう。
だからこそ、ラケシスはエターナル・マギアに精通し、レティシアを倒せる可能性を持つ者として、俺に期待して転生させたのか。
――それはどちらでもいい。このまま行けば必ずぶつかる壁で、乗り越えるか、交渉で戦いを回避するかは、出会ってからでしか決められない。
「ん……」
「……起きたか。身体は大丈夫か? 何ともないか」
やはりリリスは陽菜によく似ている。こうやって抱き上げていると、正直を言って冷静ではいられない――前世では陽菜にこんなに近づいたことはなかった。
「っ……」
リリスは俺を見るなり、何かを言いたげにする。その赤い瞳が潤んで、涙がこぼれるところを見たときには、俺は抱きしめられていた。
「っ……リ、リリス……?」
「……ヒロちゃん……ヒロちゃんだ。もう一回会えた……やっと……」
こんなことが、起こりうるのか。
凶星によって封じられた陽菜の記憶。それが、魔王として覚醒した今、リリスの中に戻っている。
「……ごめんね……やっぱり私、魔王になっちゃったね……」
「……心配するな。今の俺には、魔王に勝てる力もある。リリスの妹のリリムにも従ってもらってるし、もうひとりの炎の魔王だって何とかなった。全部、みんなの力があってのことだけどな」
俺に抱きついていたリリスはそっと離れ、しかしまだ自分で立つことはできずにいる。俺は無理しなくていいと言うように、支えたままの背中を撫でた。人ひとり支えていることくらい、今の俺にはどれほどの負担でもなかった。
「……でも、リオナちゃんも、私であることには違いないの」
「そうか……陽菜の記憶が、二人に別れたってことなのか?」
「ううん。リオナとしての私と、陽菜の私は同じだから……リリスさんの中にいると、向こうにいる身体は、ずっと目覚められない」
「っ……」
リオナと陽菜は同一の存在。つまり魂を、リリスが新たに作った身体に惹きつけられてしまっているのだ。
「……リリスさんは、また眠ってもいいって言ってくれてる。ソニアちゃんが大きくなって、魔剣で封じてもらえるときまで、眠り続ける……そう、言って……」
「……わかった。それほど待たせはしないって伝えてくれ」
「うん。じゃあ、ヒロちゃん……『リオナちゃん』の時は、私は、子供らしくしなきゃ」
リリスの身体で、陽菜が微笑む。しかし、彼女が子供の姿に戻ることをどう思っているのかなんて、顔を見れば分かることだった。
――こんな時、昔の俺なら。何も言えないで、彼女の心のわだかまりを和らげてやることもできずに、後悔したんだろう。
しかし今ならわかる。思い上がりと言われたとしても、俺はリオナの、陽菜の気持ちを知っているから。
「俺……もうすぐ、結婚するんだ」
「……うん。おめでとう、ヒロちゃん。私もお祝いしなきゃ」
そう言うと思っていた。そう言われても俺は……。
「『リオナ』はまだ小さいから、こんな話は早いけど。でも、時間が流れるのはそんなに遅くない。だから……」
喉の奥が痛んで、声が出なくなる。それでも俺は前に進む。
「……こんなこと、急に言われても困るかもしれないけど。俺と婚約してくれないか」
「こん……やく……」
本当に思ってもしなかったみたいな顔で彼女は言う。
やはり決定的な言葉は避けられない。これを避ければ気がつかない、陽菜はそれくらい、物凄く真面目で、堅物すぎる女の子だったから。
「……ずっと好きだったんだ。いつからかなんて分からないほど前から」
明確にいつからだとたどれば、それは前世の幼い頃だとも言える。
けれど本当に大切だと思ったのは、竜の巣で俺を助けてくれたあの時から。
お互いに子供の姿であっても関係はなかった。俺に会うために転生してくれて、俺を守ってくれた陽菜を、心から大切だと思った。
――俺はもう、必ず手に入れたいと思う相手に出会っていた。それなのに俺は、リオナが誰かと結ばれることを想像もしたくなかった。
自分を強欲だと言うたび、罪悪感はあった。それでも欲しいものは欲しい。誰に何を言われようと、譲ることができない人ばかりだから。
「……ヒ、ヒロちゃんが……私のこと……そ、そんなこと……」
「一度も言わなかったし、言えなかったよ。おまえがしてくれたことが、大きすぎて、それを返せる気がしなかった……でも、そんなこと言ってても始まらないから」
「……あ、あの……あのね……わ、私は……私はね……」
リリスの生気を感じないほど白かった肌が、見る間に紅潮していく。
魔王としてのリリスは、自分の身体でこんなことをされると思っていただろうか。それは仕方ない、俺にとって今腕の中にいるのは、紛れもなく陽菜だから。
「……ヒロちゃんが学校に行ってくれたら、私もいつかお母さん……じゃなくて、奥さんになれるかなって……だ、だめだよね、そんなこと考えてるの、現実主義すぎて……」
「い、いや……俺は全然駄目だとは思わないけど。やっぱり将来とか心配するよな。俺は陽菜の言うことを聞いてたら、いっぱしの何かになれてたのかな」
お母さんという大胆な発言は聞かなかったことにした。聞いたらとても正気を保っていられる気がしない。
ユィシアや、それにみんなとも子供を作るだろうというのに、こんなに動揺するのも変だ。だが相手が相手で、異世界のルール以外を知っている陽菜だと、本当にいいのかという気持ちがまた湧き上がってくる。
「……本当はね、ヒロちゃんが出てきてくれたら、私が何とかしてあげようと思ってた。学校を卒業したら、お仕事もできると思うし」
「そんなこと、陽菜の両親に申し訳なさすぎてできないよ。家にいるどころか、どこか別のとこに行かなきゃいけなくなる」
それができたら、俺ももっと違う生き方をできていたのかもしれない。
――その『かもしれない』は、もう考えることはないだろう。
「それなら私は……ヒロちゃんを追いかけてきて、良かった。本当は、少し不安だった……ヒロちゃんが、私を置いていっちゃうかもしれないって思って……」
「……連れていけるものなら連れていくよ。そうしていいのか、分からなかったんだ」
「じゃあ……もし私が、リリスさんと一緒に眠っている間、起きられなくても。私が言ったこと、忘れないでね……」
そして陽菜は、俺のプロポーズに、声を震わせながら返事をした。
「……私のことを、ヒロちゃんの奥さんにしてください」
一面を埋め尽くした花畑に、風が吹いた。
俺は陽菜に、言葉以外のことで返事をすると――リリスの身体は光の粒となり、もう一度リオナの中に戻っていく。
もう少しで、この花の埋め尽くした平原から離れることになるだろう。そしてユィシアの背に戻り、たどり着くのは、現実の花畑だ。
俺は小さなリオナの身体を抱き上げ、空を見上げた。舞い上がった花びらが太陽に向けて吸い込まれ、そしていつしか目に映る全てが、白い光に包まれていった。
◆ログ◆
・あなたは《リオナ》に『求婚』を行った。
・《リオナ》はあなたの求婚を受け入れ、関係が『婚約者』に変化した。
※大変更新が遅くなって申し訳ありません! これから婚約編も終盤に差し掛かって参ります。
また、5月30日に書籍版4巻が発売予定となっております!
カバーなど公開準備ができましたら、ご報告できればと思っております。
なにとぞよろしくお願いいたしますm(_ _)m




