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(プロトタイプ)大陸記 人と竜の物語 序章―始まりの地

作者: 天満

剣と魔法の世界観。王道ファンタジーです。

大陸記シリーズ一作目、「始まり」の物語。

 眼下には過去の「物」となった都が広がっていた。

 物。命ある物は何一つとして残されてはいない。

 緑流れ風に水唄う、と讃えられていたヤマトの都。夜の(かいな)が抱く薄闇の中、今はただその残骸を(さら)し、見渡す限り暗く重く冷たく沈黙していた。



 * 伝承 *


 王の記した歴史録には、このように在る。



 …――初めて歴史がこの地に刻まれたその時には既に、陸人は陸竜という存在を、恐怖と憧れから成る畏れと、幾許(いくばく)かの(うらや)みで()って捉えていた。空、陸、海に在る六大陸に住まう人と竜は、あるところでは手を取り合い、またあるところでは命を奪い合い、数千年を生きてきた。


 ロディニア大陸の一部、大陸に準ずる隔たれた地。亜大陸ジパングに位置するこの美しき王国ヤマトは、その混沌の中にいて極めて穏やかな地である。

 我は揺るぎない忠義により支えられている。それこそが我の誇りであり民の誇りである。

 国王である我は決して(おご)ってはならず争ってはならず、しかし屈することがあってはならない。住まう民もまた、外大陸に取り込まれることがあってはならない。

 竜を滅ぼさんとする外大陸の野蛮な思想に、この国は飲まれてはならぬのだ。


 数日前、我が国に外大陸パンゲアから使者が訪れた。使者は陸人の王と名乗る者からの手紙を携えていた。大海を隔てた外大陸パンゲアでは、陸人と陸竜との酷たらしい争いが日々繰り返されていると聞く。陸人の王の率いる部隊に、我が民を貸せと言うのだ。

 我が国の優れたチカラは、確かに外大陸のそれを上回るだろう。しかし、このチカラは何かを奪い傷付けるためにあるチカラではない。陸人と陸竜は何故争わねばならぬのか。

 使者には、我が国のチカラを貸すことはできぬと伝えた。

 亜大陸ジパングにも陸竜、空竜、海竜が生きている。我は彼らと争いたくはないのだ――…



 王の記録は、不自然にここで途切れていた。

 そして、空白の後突然に、走り書きとも叫びともつかぬ頁が現れる。



 …――何故争わねばならぬのか!

 陸人の王よ、陸竜の王よ、我が民を、何故あの者を憎むのか!


 望まぬ争いに向かうそなたを我のチカラでは止められぬ。

 そなたは哀しいほど強く弱い。

 我は祈る、そなたが力尽きようと、そなたの想いはチカラとなり永久に残るようにと――…!



 それから百余年を経た今、かつての王の祈りはヤマトの国に確かに息づいていた。陸人と陸竜は協定を結び、大陸パンゲアに人と竜が初めて協力し築いた王国は豊かであるようだった。

 平穏な安寧を()む六大陸に、人と竜をその生命をもって繋いだ「その者」の存在は消えつつあった。その名だけが伝承として残るのみである…

 その名は、水蓮花(みずはな)の紋章と共に刻まれている。




 ―キリタチ―




 * 序章―始まりの地 *


 いつもと変わらぬ一日が続くはずだった。

いつもと変わらぬ穏やかな風に緑が流れ、暖かな風に水が唄う、そんな一日となるはずだった。



 張り巡らされた水路には水草がたゆたい、浮かび、花を清らかな水に濡らしていた。水路には多くの橋が回廊のように架けられ、それは無限に続くかと思われた。橋も街も朱赤に塗られ、木をしならせた曲線を随所に取り入れた街並みは、堅牢にしてしかし優美と称される。

 誉れ高い、ヤマトの都。


 アサカゼは周りを見ることなく前へ、倒れるように城へ向かい疾走(はし)っていた。いや、周りを見ることは出来なかった。一瞬でも立ち止まれば、城は消えてしまうのではないかと思われた。

 アサカゼが(かけ)る美しい街…都は、鮮やかな朱赤が痛々しいほどに、見るかげなく崩れ落ちていた。


 逃げ惑う人々。燃え盛る城は恐怖でしかない。国王の名を叫ぶ者もいた。

 強大な力にひしゃげ半分になった屋根、粉々に砕かれた瓦の上を、アサカゼは止まることなく炎を見据え(かけ)ていった。

 一際大きく跳んだ時に、がしゃり、と背の双剣が音を立てた。落ちる心配はないが、其処に在ることを確かめるように柄に手を掛ける。女性というよりは少女という外見の小柄なアサカゼには、いささか似合わない武骨な剣であった。柄に刻まれた鳥羽(とりはね)の紋章は、城に仕える護国の士の証である。

「国王…」

 不安に揺れそうになる瞳を制して、アサカゼは城へ続く最後の橋へ向かった。

 火の手は城の西から上がったようだ。西の祭殿は崩れ、炎は東へ赤い舌を伸ばし始めていた。

「国王…!」

 城門を越え間近で見る城。

 アサカゼは初めて立ち止まった。走り続け苦しい(はず)なのに、呼吸ができない。


 …――これが、あの美しかった城なのか…


 到底信じられる光景ではなかった。国王はおろか人らしき姿は何一つとして見えなかった。眼を()かれるような熱を感じ、数歩下がる。火の粉を乗せた熱風が、アサカゼの高く結われた黒髪を乱していった。まだ焼かれていない東側へ廻り、見渡すアサカゼ。

 残骸。瓦礫。城にはただただ破壊の文字のみが溢れていた。

 と、その時、揺らぐその眼に突如、映り込んだものが在った。

 それは、元凶。城を踏み潰し(そび)える巨大な影。見紛うはずはない、猛く荒々しい()(ガシラ)の竜…陸竜、オロチだった。



 東の天守は火の粉の中その荘厳な姿を恐ろしく赤く浮かび上がらせていた。火を(まと)うオロチは長い首をうねらせ、八ツ頭の牙を舞わせ、灼熱の唸りを上げ、苛立ちを表すかのように尾を打っていた。

 オロチの八ツ頭に眼はない。一つ、巨大な眼が首の付け根に開いているのみである。その一ツ眼が東の天守を向いていた。喰い入るように、いや、挑むように。八ツ頭は全て一点を囲み、今にも飛びかからんと、噛み千切り引き裂かんと欲しているようだった。

 その先に。ヤマトの国王が、アサカゼの仕えるべき主が、居た。

 強大な暴力の前に、臆さず、退かず、屈せず。毅然とした王の姿だった。

「国王…ムラクモ様!」

 アサカゼは迷いなく、八ツ揃えの牙の最中に飛び込んでいった。


「塔を寄越せ!」

 割れ鐘のような声が辺りを震わせた。他の七ツ頭より一回り大きい頭が、炎の息を吐きながらヤマトの国王、ムラクモに迫っていた。

「塔のチカラは何かを奪い傷付けるためにあるチカラではない。」

 ムラクモは火の粉を払うこともなく、真っ直ぐにオロチを射抜くように見据えていた。

「…忘れたか、陸竜オロチよ。『キリタチ』が(のこ)したのは塔だけではなかった筈だ。」

 炎すらはねのけるような気迫で、国王は続けた。

「『キリタチ』が遺した世界で、争うことなく、我らは百年、生きてきたのだろう!」

「黙れ!」

 炎を吐き、尾を打ち、吼えるオロチ。

「陸竜は陸人を許してはいない!ヤマトの王よ、貴様の継ぐ塔を、塔を開く鍵を寄越せ。我が牙と炎の届く前に!」

「…彼のチカラは世界を統べるに価する…再び使われてはならぬ物だ。」

 ムラクモの言葉は、自身の心に自身で言い聞かせているかのようだった。

「『キリタチ』の塔は渡さぬ!」


「黙れ王よ!」

 オロチは牙を見せつけるように頭を振り、炎を撒き散らした。

 怒りのままその頭をムラクモへ向け、突くように襲いかかる。狙いは右腕だ。

「く…!」

 ムラクモがゆったりとした服の袖から取り出したのは、法陣の描かれた掌ほどの丸鏡だった。朱赤の房飾り。日輪を抱く鳥羽の紋章が刻まれた、国王の法具。

「させぬ!」

 堅いものが割れるような高く澄んだ音と共に、両の手の間に浮かんだ鏡から光が放たれる。光はムラクモをオロチの炎から護るように、弧を描いた壁を作った。

「ぬ?」

 動きを鈍らせたオロチに向かい、光の弧壁は一気に加速していった。オロチの鱗に触れた光は澄んだ音を響かせ砕け、鋭利な刃物となり突き刺さりながら一瞬の内にオロチを通過していく。光は直ぐに消えたが、同時にオロチの纏う炎も消されていた。

「ふん…くだらぬ!」

 炎を封じられたとて、陸竜であるオロチにはその強靭な身体と岩すら噛み砕く牙がある。それ故、陸竜との争いは苛烈な物であったと、歴代の王の歴史録には記されている。しなりをつけた首に飛ばされるような勢いで、オロチの頭は再びムラクモに襲いかかろうとしていた。ムラクモも宙に浮く鏡を構える。


 と、その時だった。

「国王!」

 人の声。

 次の瞬間、ムラクモの眼前に在ったオロチの頭は、その眉間に二振りの刃を生やし、地響きと共に地面に伏していた。その刃は片刃の双剣。飾り気の無い、無骨な双剣であった。刃を引き抜き、噴き出す血をそのままに、ムラクモの前に降り立つ人影。

「アサカゼ!」

 八ツ頭の内の一つを潰されたオロチは、天を仰ぎ高く低く吼え、地を力任せに引っ掻き引き裂き、痛みと怒りに悶えていた。

 アサカゼは双剣を構え、国王を背に護るように立ち、オロチの残りの七ツ頭を(にら)みていた。

「お逃げください!」

 一歩も引かぬと。覚悟などと言う言葉では生温い決意を抱き、アサカゼは双剣を握りしめた。



「…何故…此処へ戻ったのだ、アサカゼ。護国の士には民を逃がすよう命じたはずだ。」

 ムラクモが穏やかに問う。意識はオロチへ向けたまま、アサカゼは答えた。

「…申し訳ありません…。しかし、」

 オロチの七ツ頭は牙を鳴らして、二人を取り囲もうとしていた。全ての頭に備えつつ、オロチの一眼に挑むように続ける。

「失いたくはないのです!」



 アサカゼの背を見つめるムラクモの脳裏に、遠き日の光景が射し込む光のように思い出された。視界に重なるように浮かぶ、双剣を携えた人物。若かりし頃の国王を、護り、そして戻らなかったその士。アサカゼの後ろ姿は、記憶をなぞるかのようだった。

「…親父殿と、よく似ているな。お前の強さは。」

 我が娘を見るような眼差しで、ムラクモはどこか遠くへ呟いた。哀しいまでの愛おしさ。

 しかしそんな感傷に構わず、オロチの牙は迫っていた。アサカゼが飛びかからんとする。が。再び、高く澄んだ音…ムラクモの光壁が、アサカゼを阻んだ。


「国王ッ?」

「まだ足掻くのか!ヤマトの王よ!」

 二人を囲む半円球となった光壁の外で、オロチが七ツ揃えの牙を構えた。七方から光壁を貫かんと牙を突いてきたが、光壁には傷一つ付かず、牙は跳ね返された。

「貴様…!」

 その内側で、ムラクモは日輪の鳥羽が刻まれた鏡を宙に浮かせ、その鏡に手をかざしていた。そっと呟く。

「…塔は、今、開かれるときなのだろう…」

 鏡の表面に、紋章が現れた。それは、睡蓮花みずはな

 アサカゼが振り向くより先に、ムラクモはアサカゼに歩み寄った。

「アサカゼ。」

 アサカゼの肩に手を置く。アサカゼははっとしたが、その優しい温もりに動けずに居た。

「囚われず、優しく、貴女は生きなさい。」

 穏やかに言うムラクモ。

「国王?」

 振り返るアサカゼ…だが、振り返るより早く、国王の持つ鏡から光が放たれた。光は帯となり、山紫水明の色を呈して、高原の風が通り抜けるようにアサカゼを包んだ。アサカゼの視界は光の帯に消されるように、白く消え始める。

 空間を操る術。ヤマトに伝わるチカラの一つだ。

「ムラクモ様…!」

 ムラクモは、優しさ、悲しさ、寂しさ、そして慈しみ、全てを含んだ瞳で、アサカゼを見ていた。アサカゼの眼に映る、その姿。ムラクモは何も言わず、アサカゼを見つめていた。

 その背後、垣間見える牙、爪、尾の堅い鱗。地を震わせ怒る巨大な陸竜は、全ての力で光壁を壊そうとしていた。アサカゼは叫んだが、距離はどんどん遠くなっていくようだった。


 アサカゼには、抗う(すべ)は無かった。上下、左右といった感覚が無くなっていく。アサカゼの視界は、光に切り取られるように、白へと変わっていった。

 そして。(せば)まった僅かな視界から聞こえてきた、砕ける音。破られた光壁の欠片がムラクモに降り注ぐのが見えた。

「ムラクモ様!」

 ムラクモは穏やかに微笑んでいた。

 その笑顔がアサカゼの視界から切り取られる直前。ヤマトの国王の背後に見えた物。それはオロチの牙であったような気がした。

「ムラクモ…様…!」


 幻であってほしい。

 信じられる訳がない。



 そのまま、そして何時(いつ)の間にか、唐突に。アサカゼの視界は白に埋め尽くされていた。足は地であるべき何かを踏みしめてはいたが、実感は酷く薄いものに感じられた。

 白…光が存在している、空間。

 アサカゼは独り、何処かに放り出されていた。



「国王!」

叫んだ声は空間に霧散し、失われるように消えた。

「国王…ムラクモ様…ッ!」

 広大な空間。薄ら寒い水で飽和した空気が満ちている。霧はアサカゼから全ての感覚を奪っていくようだった。掌から双剣が滑り落ちていた。剣の感覚が消えているという、アサカゼには既にその事実を感じることすら出来なくなっていた。


 ひたすら遠く、ただ明るい薄紫の霧。

 果ては在るのか。いや、そもそもこの空間には果てという概念すら存在していないようだった。何処でもない場所。

 チカラ有る者は、空間と空間とを繋ぐ道となる、新たな空間を創ることができる。しかし、この空間は何かが違っていた。大自然の脅威に対抗せんがために鍛えられた、数多あるヤマトの法の中にも、法壁も法陣もなく大空間を創りあげる術は無い。

 見たことも無い空間に、アサカゼは居た。



 幾度も叫び続けた国王の名は、震え、掠れ、遂には音にすることすら叶わなくなった。ひきつるように吸う息は、吐く度に身体の中心を震わせた。最後に見た国王の姿は、都の最期は、今、揺るぎようもない事実なのだ…アサカゼは水に沈むようにじわじわと、ひたひたと、理解を迫られていた。

 ぐるぐると廻る。国王…ムラクモは居ない、と。これは誰の言葉なのか、誰の考えなのか、思考は惑い意志は薄れていく。


 アサカゼは動けずにいた。茫然と。何も出来なかった。何も出来ることが無かった。

「…あ…」

 言葉には成らなかった。成すことが出来なかった。

 やがて。

「…―――!」

 慟哭(どうこく)に似た叫びが放たれた。

 抑しきれない激情に流される。獣のような剥き出しの感情。しかし放たれた憤る想いにはこだますら返ってこなかった。

 無。只管(ひたすら)の。



 荒ぶる息の中、

「…何故」

 ただ空虚だった。

「何故、…どうして、」

 呟きが無情に霧に消えていく。


 足の下は確かに霧でもなく水でもなかったが、アサカゼには感じることはできなかった。ゆらゆらと揺れ動いている何か得体の知れない物の上に居るかのような錯覚、それが真実であるのかないのか、それすらも明瞭ではないそんな脆弱な感覚しか、もう残ってはいない。

 廻る、巡る思考と視界にアサカゼはぐらりと傾いだが、転びはしなかった。定まらない重心を引き連れ歩き始める。あては無い。虚ろな思考に入り込んでくるこの広大な空間には前だけへ続く一筋の道があって、アサカゼは意志ではなくしかし意志のようにそれを辿っていた。

 地響きのような音が聞こえていた。だがこの創られた空間には天井も壁も更には土もなかった。霧の湖沼に居るように、何処までも水面が広がっていた。

 一面の青い水には、淡い紅のようでいて紫の、透き通るような水蓮花(みずはな)が咲き乱れていた。その花に埋もれるようにして水面ぎりぎりに道はあった。正確には橋である。折れ曲がりながら何処かへ続く回廊のような朱赤の橋は、ヤマトの都と同様、いやそれ以上に伝統的な、格式在る古い様式の造りとなっていた。



 空のまま。引き寄せられるように橋を辿っていたアサカゼに、橋の終わりが近づいていた。

 唐突に途切れているのかと思われたが、近づくにつれ何かが在ることが解ってきた…現れたのは、塔だった。朧な白い塔は、霧との境界を曖昧に(ぼか)し、その存在を幻のように見せていた。しかし、確かに其処に存在していた。


 水中に建てられた柱に支えられ、水蓮花みずはなに囲まれ(そび)える塔。ヤマトの城の五重塔よりは一回り小さいが、各階に屋根を備えた六角柱型の造りはヤマトのもの。古くからの造りだった。ただ、全く別の種の物であると思わせる大きな差異があった。

 ヤマトの建築は、朱赤の柱と朱赤の瓦屋根を基とした木造である。対して、この塔には白しかなかった。

 薄く透けるような質感。木材ではない、石の美しさ。白亜だ。どのように加工したのか知らない、いや、到底不可能であるはずだが、継ぎ目の痕はなく、閉ざされた窓から屋根瓦に至るまで塔は一つの塊であった。まるでこの空間を満たす霧から削り出されたかのようだった。


 奇妙なことはもう一つ有った。橋の正面、入り口が在るはずの壁は、壁だった。一階に当たる部分には、窓すら存在していない。石の壁は触れるとひやりと冷たく、狂いなく平らに磨きあげられていた。


 全てを拒むかのような白亜の塔。

 この空間と同様に、見たことの無い存在であった。



アサカゼは塔に触れたまま立ち尽くしていた。触れている手は、重みに引きずられるように意識無く僅かずつ下にずれていく。と、その指先が何か凹凸を捉えた。彫り込まれている…何かが浮き彫りにされているようだった。

 虚ろな動作のまま屈み、指先と眼でそれを見る。模様だった。花弁のようだ。

 ゆっくりと把握し、そして確信に変わった理解は、雷を含んだ冷水のようだった。

「…!」

 声にはならなかった。

 刻まれていた物は紋章。水蓮花の紋章であった。

 白亜の壁に刻まれた蓮。それは百年前に竜と人との間にたち、その身を犠牲に争いを収めた『キリタチ』の物だった。



 失われていた感情は、火を噴く山のように抑えられぬ凶器へと姿を変えた。

「…う…あぁっ!」

 堅く握られた拳は、蓮の紋章に叩きつけられた。

「何故…ッ!」

 叫ぶ。

「何故、貴方は!」

 叫びながら、

「何故、貴方は、この国を、国王を、ムラクモ様を救ってくれないのですかッ!」

 際限なく、石に拳はぶつけられた。やがて呼ぶ、百年も前に在った名前。


「『キリタチ』…!」

 …――彼が居たならば、王は…


 百年の歳月が憎い。

 死んだ『キリタチ』が憎い。



 ひたすら叫び続ける、白亜の壁。目の前が紅くなっていた。

 叩きつける度、手は意志を離れていく。骨が痺れていた。

「何故…救ってくれないのですか…」

 言葉は震え始めた。手は握られたまま、熱い血にまみれ止まっていた。

 理解がまた訪れる。解っていたはずの、絶望。


『キリタチ』は居ない。そして、国王も。


 力が抜けていく。自分の身体がとてつもなく無意味に重たく感じられた。(すが)るものは無かった。支えてくれるものも無かった。

 アサカゼは、紅い水蓮花の紋章の前に、壊れるように崩れ落ちた。



 呼吸が音を伴っていた。身体が震え、吐く息は細切れにされていた。何も見えない。手は熱いのか冷たいのか、判らなくなっていた。

 アサカゼには今、全てが恐怖だった。

 国王の居ない世界が。

 国王の居ない世界に生きている自分が。


 初めて涙が落ちた。雨のように、堅く握った拳を濡らし、滴る。止まらなくなっていた。

 嗚咽に言葉を無くし、うずくまる。酷く自分の存在が遠いものに感じられた。



 幼い子供の頃、アサカゼは一度だけ、今のように泣いたことがあった。護国の士であった父の死を知らされたときだ。その時は、死などという意味も解らず、ただ喪失のみを憂て泣いていたんだろう、と、突如沸き上がってきた自身の過去を傍観し、アサカゼは思った。記憶の中で、若き日の国王は幼いアサカゼを抱きしめ、泣いていた。


 ―あぁ、謝らないで下さい、ムラクモ様…。

 貴方が居たから、私は生きてこられたのです。―


 暖かい記憶に包まれ、その暖かさが辛くて、アサカゼは眼をきつく閉じた。



 眼が熱い。

 やがて、熱さは涙と共に冷めていった。暖かさを望んでも、それは叶うことはない虚しい願いだと、理解をしている自分が許し難かった。

 今。恐怖ではない感情が、アサカゼに訪れていた。それは水に似ていた。止め処なく流れてきて、重くひたすら溜まっていく。他の全ては失われ、それだけが残されていた。

逃げられもせず、ただ、止め処なく。どうにもできず。

 どうしようもない悲しさだけが一つ、残されていた。



 その時突然に、そのうずくまる肩に、そっと誰かの手が触れた。思考は止まったままだったが、得体の知れない感覚に対し反射的に身を堅くする。

 人など、此処に居るはずはない…しかし、触れる手は暖かく、優しかった。

「囚われず、貴女は生きなくては。」

 アサカゼはムラクモと同じ言葉を聞いた。幻を見るように顔を上げるアサカゼに、ムラクモによく似た穏やかな笑みが返された。


 滲む眼で見れば、塔の壁には、四角い入り口が開いていた。アサカゼが叩いていた時には、継ぎ目も溝も何もかも、水蓮花みずはなの紋章以外には何も無かったはずだ。しかし、入り口は其処に始めから在ったかのように、確かに開いていた。入り口に扉は無かったが、その四角な枠には控え目に彫刻が施されている。そして、その入り口の前に。誰かが居た。穏やかな風のように。

 人が立っていた。

「……」

 言葉は出てこなかった。余りにも、信じられなかった。


 視線がはっきりと重なった。薄青の柔らかい瞳。アサカゼより小さな子供が其処に立っていた。

 少年と言うより、ずっと幼い。薄紫の髪に、鳥を模した大きな長杖(ロッド)。朱赤の房飾りはヤマトで使われる法具に似ていたが、見たことのない物だった。子供の耳はとがっている。チカラの強い証だ。術の発達したヤマトでも、これほどまではっきりと外見上の特徴を備えている者は珍しい。澄んだ清流の淵のような色をした服を着ていた。襟に留め具をあしらう、典型的なヤマトの服装だ。だが、アサカゼの眼はそこに在ってはならないものを見た。

 留め具の紋章は、先ほどまで在った壁の紋章と同じ物。


 水蓮花みずはなの紋章であった。



 水蓮花みずはなは、その紋章の持つ意味の重さから、ヤマトでは家紋や装飾として用いることは禁じられている。

 ならばこれは一体どういうことなのか…?



 と、突然、アサカゼの鈍い思考を遮って、破壊を表す大音響が降ってきた。有るのか無いのか判らない天井から岩や石や瓦礫のような物が降り注ぎだしていた。橋は岩と石の雨に晒されて、崩壊の音を奏でている。

 空間が壊れ始めていた。


 朱赤の橋を目掛け岩が落ちていく。ぶつかる…、アサカゼは引きずられるように見ていた。だが岩は橋に触れることはなかった。寸前に、橋が消えていた。水音すら無く、落ちてきた岩の周囲は、ぐるりと消えていた。水の碧も、橋の朱赤も無く、其処は地の果てのように、漆黒が岩を囲んでいる。岩は取り込まれるように黒に沈んでいった。

 橋だけではなかった。空間のあちこちに、漆黒の穴が幾つも染み出すように静かに生まれ広がっていた。

 橋も、水面も、花も、霧も、そして塔も。岩に壊されながら、侵されるようにじわりと黒に消えてゆく。


 訳も分からず言葉を発せず、音の中ただ見ることしかできないアサカゼを庇うように、子供はアサカゼの前に立った。長杖を構える子供。

 そこへ、声が届いた。

「何処だ…塔は何処にある?」

 割れ鐘のような声。オロチの声だった。

 呼吸が止まるような苦しさがアサカゼを硬直させる。オロチの声は響くように遠くから聞こえていた。

「王め、…小娘に塔を託すとは馬鹿な老いぼれが…

塔が…塔が手に入れば…この世は竜族のものになる…」

 オロチの声に呼応するように、空間の崩壊は激しくなっていた。しかし、白く淡く紅に紫に咲き誇る花により、二人は護られていた。細工のように美しく、しかし暖かい水蓮花みずはなの花。花は二人の周囲から、塔の前の白亜の床から直接生えているようだったが、その境は透けるように曖昧だった。

 花は、この子供のチカラにより創られたモノだった。



 突然、子供が弾かれたように長杖ごと身体を空間の一点へ向けた。身構えるその瞳は強く、揺るぎなく、到底幼い子供の物とは思えなかった。

 ただ何もない空間の一点。しかし、子供は其処に何かを感じたようだった。アサカゼもつられて其処を見る…突如、(まさ)しく其処から、岩や瓦礫と共に、燃え盛る炎が現れた。

「ここかァ!」

 叫びと共に、撒き散らされる炎。陸竜オロチの頭が空間を破り向かって来た。ヤマトの国王の最期と刺し違えたのか、裂け傷付いた頭が五つ、そして頭の無い首が二つ見えた。

 まだ距離はある。牙は到底届きはしない。が、血を滴らせた頭から、二人に向け五つの炎弾が放たれた。


 子供は全く退かなかった。

「退け!」

 見た目通りの幼い声。しかし、言葉に色が有るとするならば、それは深い渓流の色を呈していた。澄んだ水流の揺るぎない力強さに満ちていた。

 子供が長杖を振る。アサカゼの眼に白い羽が舞うのが見えた。子供の手首辺りから腕にかけ羽が現れ光っている。溢れるチカラが成したモノだった。薄く透き通る羽は、護りの花と同様に暖かい。

 長杖からはその軌跡をなぞるように、巨大な翼が現れていた。雷を纏った白い翼は宙を疾走り、五つに裂けそして炎弾にぶつかった。しかし雷翼の勢いが殺されることはなく、翼はそのまま炎を巻き込み勢いを増し、オロチの頭に襲いかかった。雷と炎とが頭を貫き首を切り裂く。

 敗北、その恐怖でしかない絶叫が響いた。オロチの頭は、自らの炎に灼かれ倒れた。オロチを射抜いた翼、そして子供のチカラが成していた羽は、砕けるように散り、宙に溶けるように消えていった。



 空間は、オロチの死により崩壊を加速したようだった。

 倒れるその瞬間から、オロチの姿は、黒に消えていった。染みのように現れる空間の崩壊に飲まれ、オロチの頭と首は漆黒に切り取られていく。

 茫然とその光景を見ていたアサカゼのすぐ脇に、二抱えもありそうな岩が落ちてきた。アサカゼと子供を護る花は、飛散する細かな塔の欠片すら二人に触れることを許さなかったが、音と振動にアサカゼは感情を思い出した。



 その傍ら。

「此処はもう保たない…」

 短い呟き。子供は右手を長杖から放した。その手は立ち上がることを忘れていたアサカゼに差し伸べられた。怯えた息づかいのまま固まっているアサカゼには、その小さい手は見えていない。

 子供はアサカゼの心が見えたかのように僅かに苦し気な顔をしたが、それを振り払うようにアサカゼの腕を取った。

 意味のない悲鳴を上げるアサカゼ。今、アサカゼに見えているのは、恐怖だけだった。焦点が合わない……

「アサカゼ!」

 と、突然名を呼ばれ、アサカゼの眼に光が戻る。叱るでも頼むでもなく、ただ呼び戻す声。

 腕から離れ、眼前に差し出された手。アサカゼは自分の物ではないような、虚ろに鈍い感覚で震える手を伸ばした。繋がる。

 と、再び羽が現れた。現れた羽は大きさと輝きを増し、辺りを舞う水蓮花みずはなの花と共に二人を包み込んだ。


 水蓮花みずはなと羽。この子供が使うチカラは、伝承に残る古のチカラと酷似していた。いや、似ているのではない、伝承を思い返す限り、同一だ。

 それは、竜と人とを繋いだ存在である、『キリタチ』のチカラそのもの。



 まさか、という思い。だが、それでも、という思い。

「『キリタチ』…様?」

 立ち上がれぬまま、見上げそう呟いたアサカゼに、もの悲しさを含んだ笑みが返された。



 羽は光となり、光を巻き込んで風が渦を描く。美しい術だった。

 強い光。閉じた眼を、再びアサカゼが開いたときには、空間は跡形もなく消えていた。





 眼下には過去の「物」となった都が広がっていた。

物。命ある物は何一つとして残されてはいない。

緑流れ風に水唄う、と讃えられていたヤマトの都。夜の(かいな)が抱く薄闇の中、今はただその残骸を晒し、見渡す限り暗く重く冷たく沈黙していた。



 空に仄かに残る茜…闇に浮かぶ岩山に、二人は居た。都の入り口に当たる山。其処からは、三方を山に囲まれ、日の沈む海を城の背とするヤマトの都の全てが見えた。瓦礫の荒野は、表すべき言葉を拒絶するようだった。

 濃くなりゆく影の中、ふらりと立ち上がるアサカゼに、崩れた城が僅かに見えた。遠くから見るそれは夢幻に薄く、まるで朽ちゆく紙細工のようだった。


 棄てられ忘れられゆくもの…主を失った城。

 最期に国王が居た、東の天守すら無く。


「むら…くも…さ…ま…」

 アサカゼは眼下の都の方へ、遠き城の方へ、憑かれたように引き寄せられていた。数歩先は崖になっていたが、アサカゼには見えていない。

「…ああぁぁぁぁ!」

 都へ。いや、城へ。

 駆け出そうとするアサカゼを、傍らの子供が制する。

「アサカゼ!」

 アサカゼには届かなかった。腕を掴まれ、アサカゼは振り解こうともがく。力の入れ方は滅茶苦茶で、取り押さえるのは容易に見えた。しかし子供の幼い身体では敵わない。

「アサカゼ!」

 子供の姿は、アサカゼの視界に入ってはいない。


 城に触れたい。


 アサカゼにはそれしかなかった。城が在ることを確かめたい、幻であってほしいという思い。城に行けば、またいつもの日々が待っているかもしれない、とも思われた。護国の士として、国王に仕える日々が―…



「…囚われるな!」

 夢を祓うように、強く、深く、響くような言葉が、突然にアサカゼに届いた。

 はっとして、アサカゼは立ち止まる。(うつつ)に呼び戻され、力は零れるように抜けていった。子供…いや、キリタチが、アサカゼを見上げている。

 アサカゼを正面から見つめる優しさ、悲しさ、寂しさ、そして慈しみ、全てを含んだ泣きそうなその瞳は、今は失われた国王の瞳に似ていた。


 アサカゼに込み上げる、暖かすぎて痛い想い。キリタチは僅かに離れ、闇に消えゆく都を背に、アサカゼの正面に立っていた。

 どこかで見た光景。


 …――そうだ、あの日も夜が迫っていたのだ。ムラクモ様の涙を見た、あの幼き日…


 堪えきれず倒れそうになるアサカゼを、支える手が在った。小さな(てのひら)の温かさ。視界は熱い水に満ちていく。膝をつき、キリタチにすがるようにして、アサカゼは泣き出した。キリタチは何も言わず、ただ受け止めていた。



 山も、海も、都も、そして城も、隔てなく染める藍は、やがて夜の静寂(しじま)へと変わっていった。









 浮かび瞬く星を背に、

「悲しみにより、塔は開かれた。」

 謡うような独り言。

 少し離れた岩場に、巨大な影があった。二人を見下ろすそれは、巨鳥。流れる五ツ筋の飾り羽、そして赤い目を持つ鳥だった。暗い夜空にも判る、羽は燻した金の色。その姿は、キリタチの持つ長杖を連想させる。

 墜ちた都と二人の姿を遠くから眺めつつ、巨鳥は謡った。

「歴史はまた、動き始めた。」

 微かな羽音すらたてず、静かに飛び立つ鳥は愉しげだった。


「竜よ、人よ、百年の時を越えし再び廻る歴史よ、何処までも行き行くが良い…」

 どこへともなく飛びゆく鳥は、夜の彼方に消えていった。





 そして、歴史は廻り出すのだ。

 これは、序章である。


ここから、キリタチとアサカゼという主従コンビが始まります。

アサカゼは完全に物理(とんでもない剣)で、キリタチは強大な魔法。

睡蓮花みずはなは、ハスの花とスイレンの花の中間のようなイメージです。シルエットはハスに近いです。

ダークファンタジーながらも救いのある物語が好きなので、そういうのを目指したいところであります。

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