「百聞は一見にしかずだから」
漆谷梅子回です。
一時限目終了後の休憩時間。春上は化学の教科書とノートを手に持ち第一理科室に向かっていた。二時限目は化学の実験を行うため教室を移動しなければならない。
第一理科室は春上たちのクラス二年二組と同じ階にあるため、三分もあれば教室を移動することはできる。
第一理科室まで後一歩という所で彼の目に漆谷梅子が廊下で現代文教師からノートを受け取る場面が映った。
「この調子で頑張れ」
「ありがとうございます」
漆谷梅子にノートを返した現代文教師は、二年四組の担任であることを春上は思い出す。
その担任の先生からノートを返却されたということは何かの提出物であることは春上にも理解できた。授業開始のチャイムまで五分あったので、春上は漆谷に声を掛けた。
「漆谷さん。そのノートは何ですか」
単刀直入な質問に漆谷梅子は春上にノートを渡した。
「読んでみて。百聞は一見にしかずだから」
漆谷に促されて春上はノートを開いた。
読めない。これが春上の感想だ。そのノートに書かれていたのは、新聞の社説らしき文章。だがどうしても春上はノートに書かれた文字が読めなかった。
「読めないでしょ。担任の山岡先生に字の練習をするための課題を見てもらっているの。字が汚いと就職に不利だからね。これでも少しはきれいに字が書けるようになったんだよ」
「なるほど」
この一言しか春上は出なかった。腕時計で時間を確認すると、授業開始のチャイムが鳴るまで3分しかないことが分かった。
遅刻するわけにはいかないため春上はノートを漆谷に返し、彼女に一言声を掛ける。
「早く戻らないと遅刻するだろう。早く教室に戻った方がいい」
漆谷梅子は頷き足早に教室へと戻って行った。それとは正反対の方向に春上は歩き出した。第一理科室まではもう少しだ。
その頃二年三組では、江角千穂と夏川誠が漆谷梅子について話していた。
「漆谷梅子が手芸部の部長に就任したそうだ。彼女は手芸だけは上手いから、部員の満場一致で部長に推薦されたんだろう」
全く関係なさそうなことを話した夏川の顔を見て江角は目を点にした。
「夏川君。その情報は必要ですか。できればその情報と今回の事件の関連性を説明していただけると助かりますが」
「だからそれだけ彼女は周囲から愛されているということだ。彼女があのラブレターの差出人だとしたら、戦争が起こるかもしれない。一昨日の放課後この学校に通う10人の男子高校生がバイクを奪って爆走した事件を起こした。彼らは現行犯逮捕されたが、全員が彼女に振られたのが悔しかったからと供述したそうだ。もちろんその男子生徒たちは退学処分になったが、漆谷梅子が本当に春上博也のことが好きだとして正式にカップルになるとしたら、この学校で爆弾事件でも起こるかもしれない。それだけ危険だということさ。だが彼女にはあのラブレターを送らなければならないという動機がある」
江角は夏川の推理を聞き、首を傾げた。
「説明してくれますか。その動機というものを」
「漆谷梅子は字が下手だ。ラブレターを書こうにも自分の文字が相手に伝わるかどうかが分からない。そこで新聞を切り抜いた文字を使いラブレターを書くことにしたんだろう」
やっぱりとんちんかんな推理だと江角は思った。
「その推理を全て否定するつもりはありませんが理解できません」
という所で二時限目開始のチャイムが鳴った。この話の続きは二時限目終了後の休憩時間になるだろう。