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ロマンスに踊れ  作者: 青生翅
本編
8/30

8  ファールの筋書き――元許嫁の信頼




 オレリアの五歳当時の記憶は朧である。

 ――ただ薄らと覚えているのは、とても美しいお兄さんが自分の手を繋ぎ、いつも遊んでいてくれたことくらい。


 当時存命だったファサイエル侯爵夫人。つまりはオレリアの実母である女性は、王妃殿下が王家に嫁ぐ前からの親友でもあった。

 仲のいい二人は、自分たちの健やかに育つ子供を見ては夢を持っていたのだ。

 それが実現可能で、そして表の舞台――政略的にも適ったことであったのは、彼女たちのとっては幸運なことだった。


 だからオレリア=コンスタンス・ランドローは、物心ついてからのほぼすべてを“王太子の許嫁”として生きてきた。

 そこに女の子の憧れというものが入る余地は……なかったと思う。親友の子供の立場に恥ずかしくない娘に育て上げることを意気込んだ侯爵夫人の手によって、オレリアは一日という時間の限りを学ぶことに当てられていた。

 それは強制的でつらいことではなく、お茶の時間だったりダンスの時間だったり、刺繍や読書だったり、街歩きや慈善活動だったり――あらゆる活動をするにあたって侯爵夫人が体験してきたこと、失敗してきたことの教訓を、ときにはユーモアに語って聞かされた。


『オレリー、素敵な淑女(レディ)になってね』


 死の間際までそう言って微笑んだ母に誓ったのは、そう、言ってみれば夢そのもになること。自分自身の憧れではなく、もっと多くの人々にとっての夢見ることや希望の象徴として王族があるように。その歯車の一つになる覚悟を、その頃に持ったかもしれない。


 オレリアが十歳で儚くなった母の後を引き継ぎ、より実践的なことを教え込んだのは王妃その人だ。

 幼少期は親友同士の気軽な約束だったそれも、周囲が期待した以上にオレリアは聞きわけがよく優秀で、子供らしい素直さと同時に、衝動よりまず先に思考することに慣らされた。見た目以上に年齢を重ねたような大人びた頭のつくり。周囲の思惑や期待の底にあるものを読み取る力。

 社交界に出る十五歳までは子供の気軽さで王城に訪ねさせ、二人目の母親のように接したい自身を抑え込み、あえて厳しく“王妃”の姿でオレリアに教えることを選んだ。

 しかし王妃が何より好んだのは、オレリアの持つ本質そのものだった。


 喜怒哀楽が薄く微笑んでばかりというオレリアは、そこだけ聞けばまるで人形のようだ。自分の意思で立った許嫁という立場ではない。周囲に求められるままに、そうあるべきと刷り込まれたと多くの人が考えた。

 けれど王妃が見出したオレリア=コンスタンス・ランドローというのは、実に興味深い人間なのだ。

 押されて流されることを、たしかに大きく抗う性質ではない。だが流れの中に何が紛れ込んでいるのか、どこに向かってどのように打ち上げられるのか。そういった事柄の一つ一つをいちいち面白がってしまう。他者にとっては苦に感じるかもしれないことも、オレリアにかかれば趣の違う遊戯に早変わりする。

 そういった特性は、ときおり賢君とも呼ばれるような為政者にはありがちなものだった。王妃がそうして気に入ったオレリアの部分は、国王もまた大きな拾いものと目を瞠るほどに、(めずら)かで得難かった。

 何をされても、何も感じないから微笑んでいるのではない。

 何をされても、何もかもを楽しめるから微笑んでいる。本当の意味でオレリアから余裕を剥ぎ取るような事態など、今まで一度だって起こったことがない。ただそれだけのこと。


 ――そうだ。オレリアはいっそ楽しんでいたのだ。

 自分が置かれた境遇を、不運だ不遇だと考え始めればキリがない。

 高価なドレスや靴、宝飾品の数々に身を固め、幸福をそのまま形にしたような姿が王族女性だなどとは夢にも思わない程度には、現実に触れてきた。バルコニーに出て民衆に笑顔で手を振るだけでは王族の未来は守られない。女としての幸せなど二の次で、伴侶となる王族男性に必要となるものを第一に考える。ときには自ら他の女を勧め、逆に望まれぬ女を遠ざける。羨望と嫉妬と、ときには憎悪さえも一心に受け止めて、表の政ではけして処理し切れないものを背負う。

 貴族間の中核を為す婚姻制度は、その利益を追求する者は男であっても、最期に命運を握るのはそうして送り込まれる女である。社交界の花となり、人々の間を優雅に舞っているだけのように見える女たちこそが世の中を、王国を動かす影の部分だ。

 そこでどれだけのことが動かせるか。オレリアは自身を試し続けた。受け流しては絡め取るそれが上手くいき、細くも頑強な糸となって表の舞台に繋がっていく。その末を見ているのが楽しかった。


 ただ一つ。

 ……戸惑うことがあったとすれば、許嫁であるグラシアン王太子その人のことだけだったかもしれない。

 オレリアがどんなに心からの笑みを浮かべても、彼の眼差しにはいつも憐みが籠っていた。『かわいそうな子だ』と。――そう、まるで五歳からその時を止めてしまったかのように、オレリアに育つ大人の女性としての人格には目を向けないまま、中身が空っぽの張りぼてを見るような深緑の目が注がれ続ける。




『何を考えているんだい?』


 ――あなたのことを。


『楽しいかい?』


 ――ええ、とっても。


『望まれるままに振る舞うことだけが、君の人生じゃないだろうに』


 ――その通りです。けれどわたくしはいつだって、自分の望むように振る舞っていますもの。




 時間が経っても、変わらないこと。グラシアン王太子の、その瞳。

 許嫁としての十三年間は、準備だった。求められる期待に応える術を覚え、またそれらを自分の楽しみとして感じることに注いできた。だから、王太子その人を理解していくのはこれから。

 ――まだ長い人生が残っているから。

 ――彼の隣を歩くのはこの先のことだから。

 正式な婚約を発表することが決まったと、父の侯爵伝いに聞かされたときには、新しい段階に来たのだと柄にもなく緊張した。


 本当の意味で王太子の腕を取る。ついに引き返せない場所まで来た。

 それは周囲に望まれるままではない。自分で納得してときには取捨選択してきた、これまでの無数に枝分かれたした道がそこ繋がるということ。ここまでに費やしてすべてが認められる。

 誰に……?

 国王陛下に、王妃殿下に、他の王族の方々に、貴族たちに、そして多くの国民たちに。

 そして誰よりも、グラシアン王太子殿下に。


 ――その腕を取ったら泣いてしまうかもしれない。初めて彼の前で涙を見せてしまうかも。

 十三年とはオレリアにとってそういう長さの時間だった。

 けれど一度流したなら、もう簡単には泣かないだろう。区切りがつけば、今度はそれ以上に長い年月を捧げることになる。

 恋とは。幸福とは。

 そんな形のないものをはっきりと認識したことはない。

 けれどオレリアは思っていた。幼いころのかすかな記憶のまま、繋いだ手をこの先も引いてくれる人のために。そう考えることはけして不幸じゃない。自分が感じていた楽しさを分かち合うことが出来たなら、心を理解してもらえたなら。


『新たな王家の一員を紹介しよう』


 オレリアはきっと王太子を――。






   ***






「――ではリディ様は、孤児院に向かわれる途中、走りすぎるはずだった馬車に引きずり込まれ、そのまま黒ずくめの男たちに拘束されていた。そういうわけですな」


「はい……」


 宰相ロジュロがリディ・サンリークに事の経緯を尋ね、そう締めくくった。

 孤児院に寄付を渡し、子供たちと遊んで来ようと考えたリディ嬢が、攫われたときに気付いたことは多くない。目撃証言が寄せられたという言葉通りにファサイエル侯爵家の家紋を見たわけでもないらしいし――第一彼女は侯爵家の家紋を知らないと思われる――黒ずくめだといういかにもな男たちの顔にも、見覚えはなかったとのこと。


 軽い調書を書くロジュロ以外の人々は、それぞれに表情を浮かべている。

 “拘束”という言葉が出た直後のグラシアン王太子の反応などは、声こそ出さないものの顕著に表情が歪められた。そのまま逞しい腕が隣に腰かける形になったリディ嬢を引き寄せ、彼女は半分膝に乗り上げているようなものだ。

 マクシムは何かを考え込み、セザールは口を挟まないでいるが相変わらずオレリアを睨んでいる。


 さて、とオレリアは少し多めの息を吸った。


「拘束、と申しますが。リディ様、どのような手荒な真似をされたのでしょうか」


「え……」


「何故そんなことを? リディに必要以上につらいことを思い出して欲しくはない」


「必要最低限で構いませんわ」


 ――まさかどのようにでも受け取れる言葉で済ませるとでも?


 オレリアの含んだ意味をグラシアン王太子は正確に読み取ったようだった。苦虫を噛み潰したような顔をし、同時に無理をすることはないとなおもリディ嬢を庇おうとする。しかし強気が常である彼女は、きゅっと顎を上げて、口を開く。


「急に馬車に引っ張り込まれて、誰なのかも名乗らない男が二人いたんです。『暴れるなら酷い目に遭わせる』と言われて大人しくするしかなくて……。王都を抜けた頃に、一人はそのまま降りたみたいで、もう一人は御者の隣に座ったんだと思います。扉に鍵がかけられて、窓からは森に続く道を走っているように見えました」


「当家のセフールにある別邸に続く道です。周囲は森。リディ様はその道を三分の二ほど進んだ位置で、当家の騎士が保護したと報告を受けております」


「そう、です」


 保護という単語に居心地が悪い思いをしているのだろう。目が逃げるように王太子に向けられ、大丈夫だと男らしい微笑みを受けて少し和らぐ。

 

 一方オレリアはさらに踏み込んだ。


「王都を抜けるまで、そしてその後には具体的なことはされたましたか。手足を縛られる、猿轡を噛まされる、乱暴を働かれる、服や靴を脱がされる――」


「オレリア!!」


 我慢がならないと言った様子で大声を出した王太子に、いったい何だという顔でオレリアは首を傾げた。何もおかしなことなど訊いてはいない。具体的に何をされたのか知りたいのであって、その細かな描写まで説明しろとまでは言わないのだから。


 だがかなり激高しているらしい。努めて他人行儀な呼び方に変えていたはずが、ぽろりとオレリアの名を呼んでしまっている。


「君だってリディと同じ女性だろう!?」


「はい、そうですが」


 そうは見えないのだろうか。まさか、とオレリアは微笑む。


「そのようなことがあったとしてこの場で尋ねるなど――」


「けれど基本中の基本ですわ」


 身柄を拘束。そういう風に言うならば、やってないほうがおかしいではないか。特に服や靴を脱がせるというのは、女性には非常に効果的だ。辱める目的がなくとも、そのままの格好で躊躇せずに逃亡しようと思うものは少ないだろう。身分ある女性ならなおさらだ。


「そうね……。オレリア嬢も経験済みのことですもの」


 王妃殿下が過去の記憶をさらってそう言った。その場の人々のほとんどが目を見開き、国王陛下もまた息を吐きつつ首を振る。

 王太子も思い当たることがあると瞬間的に息をつめたが、極力落ち着いた態度を心がけることにしたようだ。


「ああ、そういえば十二歳の頃でしたか。……一度、ありましたね」


「六回です」


「まあ違いますよ! オレリア嬢、七回ですよ」


 情報を付け足したオレリアだったが、すこぶるいいはずの記憶に数えてないものがあったらしい。すかさず言い直した王妃に、そうだったかと首をひねる。


「初めては七歳、次が九歳。十二歳のときというのは、事が大きくなってグラシアンやランベールが捜索に加わったときのことね。その後には十四歳で一回、社交界に出る十五歳で二回。一番最近は去年の冬ね」


「ああ、去年……」


 最近すぎて数え損ねていた。冬だというのに下着姿のような格好にされ、寒さに震えながら馬車に揺られて最終的に救い出されたときには国境にほど近かった。一週間に渡って熱が引かず、そちらの方が危なかったほどだ。義理のように見舞いに訪れた王太子には、酷い風邪をひいたと伝えたのだったか。


「そんな……私は何も」


「殿下がご存じないのも無理ございません。他の六度はすべて侯爵家の内々で済ませることが出来ましたゆえ」


 顔や声まで強張らせる王太子に、それまで彫像のようにオレリアの後ろに立っていたファサイエル侯爵が、感情を排した重い声でそう告げる。

 王妃が承知していたのはもちろんオレリアに関する一切を報告させていたからだ。侯爵家との間の約束事の一つである。


 七歳と九歳というのは身代金目的だった。十二歳はまともに命の危険があった。オレリアと同い年の娘がいる公爵家が企て、子飼いの伯爵家が実行した誘拐。正式な婚約の前に事故死に見せかけてオレリアを消そうとしていたのを、間一髪のところで救い出された。公爵家と伯爵家がともに公で罰せられ、当主の首が落とされた。社交界にデビュタントして淑女となった暁には二度。薬をかがされたらしいが、耐性があったために途中で目を覚まして自力逃亡したのと、その失敗を聞き及んでか、当身を食らわされて館の地下牢に入れられたのと。まあ軽度のうちだ。


 令嬢がこうも誘拐ばかりされるものだから、ファサイエル侯爵家の騎士は実に救出が上手い。

 内々で済ませてきたとあっさり言う侯爵その人もまた、反抗を企てた者に制裁を加える手際は見事なものだ。ここ数年の間に急激に衰退して没落した貴族のうち、いくつかは確実にファサイエル侯爵家の手がかかっている。


「何故、私には伝えなかっんだ……?」


 許嫁と言うならば。婚約がほぼ決まっていたと言うならば。

 どうして当事者のことを最も知るべき人間が知らないのかと、王太子の瞳にはオレリアを責めずにはおれない苦悩が浮かんでいる。結局、信頼などしていなかったではないかと。


 それは違うとオレリアはゆるく首を振る。

 だが喉元まで出かかった言葉は口には出せない。


 ――それでも、あなたの隣に立っていたかった。


 ――腕の中に囲われるのではなく。


 ――同じくらいの力で支え合うために。


 優しく正義感の強いグラシアン王太子は、それらを知れば強固に許嫁を守るためのあれこれを整えただろう。義務はさらに上乗せされ、もともと寄せていた憐憫にさらなる同情と罪悪感が増す。

 そうなればもう、本当に手遅れだった。理解し合うよりも先に小さな鳥籠に鍵をかけられて、背負うはずのものを取り上げられて翼をもがれる。

 心配をかけたくなかったと、可愛い乙女のようなことが言えればいいのに。そうではないのだ。王太子が何を感じどのようにするかをわかった上で、オレリアは自分のために黙っていることにした。


 今、王太子の腕の中にいる人にオレリアを目を向ける。彼女がか弱いだけの甘えた女だとは思わない。でもいつしか王太子が言ったように、何時なんどきも『何も取り繕わない素直な心』で居続けることはできない。


 それが“オレリア”だった。取り繕うことのある心までもを含めて、そんな女がオレリアなのだ。


 だから、オレリアはグラシアン王太子のことも、リディ・サンリークのことも恨んでなどいない。あの日の二人の婚約宣言はたしかに衝撃だった。……けれど仕方のないことなのだ。

 オレリアが捧げてきたと思った十三年間は、本当のところ一欠片だってグラシアン王太子には受け取られることはなかった。一方通行なままに努力してきたオレリアが、気づかないふりでいたのがいけない。無駄に回るはずだった頭は、何故かいつもグラシアン王太子のことに関しては鈍くなった。リディ・サンリークと出会ったころからの王太子は、それまで以上にオレリアに注ぐ憐憫を濃くしていったのに。


 ――愛し合う恋人同士は憎くないのだ。

 けれど、一つだけ。

 報われないものの残骸を片付けるために、一つだけ傷を負ってもらいたい。

 それがオレリアの、王太子に寄せた信頼の証だ。




「リディ様?」


 お答えくださいと促すオレリアに逆らうことなど出来ないとばかりに、リディはただ首を振った。


「いえ……いいえ、あの、オレリアさんが言うようなことは何も、なかったです」


「手足も縛られず、猿轡も噛ませられず?」


「はいっ、乱暴もされてないし、服も靴も無事でした!!」


 そうですか、とオレリアは頷いた。

 ああやはりそうなのだ。推測は正しく、根拠もあり、証言も取れた。


(楽しくは、ないわね)


 この面白くもない喜劇の台本を書いたのは――。


「……ヴァルナ公爵閣下、あなたがリディ様の誘拐を計画なされたのですわね」


 グラシアン王太子殿下の実弟にして、ファール王家の元第二王子。三年前に臣籍に下ることを自ら願い出て、現在のヴァルナ公爵という爵位を賜った。


 ランベール=レミ・ファール。


 金糸のような髪をゆるく結った彼は、どこか悪戯が成功した子供めいて、それは嬉しげに、鮮やかな紫の瞳を細めて笑った。









 ちょっと長くなっちゃいました。

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