7 役者は最後まで逃げることは許されない
王国に仕えて四十年余り。
よもや自分の存命中にこのようなことが起きるなど、宰相であるロジュロは思いもしなかった。
――己の頭脳が全盛期よりも硬くなってきたことだけが原因ではあるまい。
もちろん若者の考えというのは年々察しづらくはなってきている。
しかし突飛過ぎる事態にすっかり魂消てしまったことを最近の若者の筆頭――第三王子であるシャルル殿下につい愚痴ってしまったときには、やんわり笑って肯定してくれた。
――安堵した。まだ老害とまではいかないらしい。
とは言え、目の前に広がる光景に頭痛がするのは止めようがない。
国王陛下の執務室に集うのは、ここ三ヶ月の間、社交界で騒がれる話題の渦中の人々である。
室内の中央にしつらえた、卓を囲む長椅子。
上座に並ぶのは国王夫妻。
国王の右手から、グラシアン王太子、側近のマクシム=アントナン・デカルト、同じくセザール・ブロチエ。
左手にはファサイエル侯爵令嬢オレリア、ブロンゾ侯爵令嬢フランシーヌ、キリーシェル伯爵令嬢ナタリー、ライプツ伯爵令嬢ニノン。彼女らの席の後ろには、各家の当主である父親たちが立ち並んでいる。椅子に座るのが娘たちであり、代表権を委ねているというのがはっきりとわかるこの形は、かなり特殊なことだろう。
そして国王夫妻と向かい合う形で、シャルル第三王子と、臣籍に下った元第二王子であるヴァルナ公爵――ランベールが並び合う。
本来ならば有り得ない席順ではあるが、この集いが非公式であることがすべてを許していた。
ロジュロはこの集いの進行役を担うために、国王陛下の右後ろに控えて立っていた。ゆえに国王夫妻以外の顔色がよく見えるのだが、右手側と左手側では何もかもが違う。
王太子を含める右手側の三人は起きている事態に混乱を隠せない様子であるし、右手側の女性たちは、オレリアを除くとその表情には冷めたものが浮かんで冷気を発している。
さてどのように進行するかと考えたとき――執務室の扉を叩く音がし、それに続いて一部の人間が待ちわびた人物の到着を告げる声が聞こえた。
椅子から立ち王太子が立ち上がるのとほぼ同時に、ロジュロは入室の許しを与えると、開いた扉から駆け寄る影。
「グレイ!」
「リディ……! ああ、良かった!」
「ごめんなさい、心配かけて――」
「いいんだ。君が無事ならそれで」
リディ・サンリークを硬く抱き留めるグラシアン王太子。
何も知らずに遠くから眺められるのであれば、涙すら誘う美しい光景だったろう。
非公式な場とは言え国王夫妻の御前であるのだが……。
まあ、恋し合う者同士に何を言っても仕方がないと目をつむるしかない。実際に国王その人が、背中でやれやれと語っているのだ。
ふと各々をロジュロが見渡すと、左手側の側室候補と呼ばれる女性たちから吹き出すのは、もはや凍てつく波動とでもいうべきものに変じている。妙なものを見せるなとでも言うべき刺々しい表情だ。
一人淡々と二人を眺めやり、叶うなら拍手でもしてやろうかというような目をしているオレリア嬢の反応こそが異質で奇妙なのだろう。
自身の兄である王太子とその恋人を見る第三王子は、ロジュロと目が合うと唇の動きだけで『胸焼けだ』と言い、隣のランベールは二人ではなく妙な反応をするオレリアを眺めて笑っている。
「――もうその辺でよろしいでしょう、お二人とも」
意外なことに、いつまでも続きそうな恋人たちの感動の再開を遮ったのは、この三ヶ月でやつれられた王妃殿下だった。
声音には疲れが滲み出て、どこか投げやりな様子さえある。
それもそのはずだ。十三年前に侯爵家当主との間に約束を取り付け、グラシアン王太子とオレリアを許嫁同士に望んだ人である。そして以降、王家には生まれなかったが、実の娘のようにオレリアを可愛がり、また将来の息子嫁として、何より王太子妃としての心得を教え込んできたのだ。
王妃にとって今回の騒動は耐え難く、最期の最期までリディ・サンリークと王太子の正式な婚約に反対していたのだから。
実の母の、誘拐という経験をした直後である恋人への余りの素っ気ない言いように、王太子が不愉快そうに眉間に皺を寄せた。
何かを言い募ろうとした矢先、国王陛下が鷹揚に頷く。
「そうだな……。リディ嬢、無事で何よりだ。しかしここからは遠慮していただこう。疲れているだろうし、湯浴みでもして軽食を取るといい。部屋で休まれよ」
「父上、それはあんまりでは? リディは危険にさらされた当事者だ。彼女こそ、事の次第を聞く権利があります。誰が、いったいどういう理由で、彼女を攫ったのか。そして――」
深緑の目を険しく細めた王太子は、そこでかつての許嫁であるオレリアを見遣る。
「どのような経緯で彼女が保護され、ここにいるのか」
甘やかさの欠片もない視線のやり取りとする王太子とオレリアを見たロジュロは、ああ、と声にならない嘆きの息を吐き出す。
困った。最悪の雰囲気である。
「あの……あたし、いえ私も、何があったかきちんと知りたいです。急なことでわけがわからなくて……」
リディ・サンリーク。
焦げ茶のくせのある髪に青灰色の目の少女は、薄い身体を王太子の腕の中で縮こまらせながらも、国王陛下に訴えた。そしてちらりとオレリアを見る。そこには不信と怯えがない交ぜになった、疑惑の色を浮かべていた。
「恨まれる理由は……わかりますけど、でも、どうしてここまでされるのかは――」
「まあ……」
控え目な声を遮ったのは、思わず漏れ出たにしては鋭すぎる響きを含んだフランシーヌの呟きだった。正しくは『よくもまあ』と言いたかったのだろうが、抑えに抑え込んだ結果なのだろう。
貴族令嬢にあるまじき地を這うようなそれに、リディはびくりと小動物のように軽く震える。それを宥めるように背中をさする王太子殿下は、まるで仇を見るような目でフランシーヌを睨みやった。
今なお自身の側室候補なのだが、この分では話そのものが立ち消えになるだろう。……双方の意思によってだ。
「リディ様」
伸びやかな鈴の音のような声で、微笑むオレリアがやわらかに王太子の婚約者を呼ばわった。
警戒心を強めるように表情を硬くする王太子以下、側近たち。
そして強気にも、涙目でリディはオレリアの瞳を真っ直ぐにとらえる。
「あなた様はわたくしに恨まれる要因をお持ちなのですか?」
「は、い……?」
「記憶が正しければ、あなた様を保護したのは当家の騎士でありました。何かわたくしの把握していない不手際があり、リディ様を不快にさせてしまいましたでしょうか」
「え、あの」
「それでしたら大変申し訳なく思います」
流れるように言い募ったオレリアは、最期に優雅に頭まで下げて見せる。
「オレリア嬢……」
聞きようによっては咎めているかのような王妃の声がそれを静止するが、再び顔を上げたオレリアからは、この程度のことになんの意味もないとはっきり書いてあるかのようだった。
もちろん、王太子が不快感を増して眼光を鋭くしたのでは言うまでもない。
ここにきて、ロジュロは悟る。
――“王太子の許嫁”として微笑み続けたオレリア=コンスタンス・ランドローという人は、たしかに怒りに染まっても恨んでもいないのだろうが、けして負の感情を持ちえない人間でがないのだ。
先ほどから熱い様子の恋人同士に向けるのはほぼ無関心と言っていい感情で、もし抱いているとしたらそう……露ほども興味のない事柄に無駄に煩わされるという、そんな苛立たしさだろうか。
「恐れながら、国王陛下」
思うところの芯を他者になかなか読ませない笑みのまま、オレリアは瞳を伏せて国王陛下に改めて向き直る。
「ふむ。なんだね」
「出過ぎた願いかとは存じますが、リディ様がそれを望むのでしたら、どうぞこの場に列席されることをお許しいただければと」
「ほぉ……?」
「ここに集いし皆様、そして当家の持つ情報はそれぞれです。一繋ぎにしなければ真相はわからず、王太子殿下の仰る通り、リディ様が真実を知る権利を主張されるのであれば、望まれる通りになさるべきです」
重ねて、とオレリアはうっそりと笑みを深めて続けた。
「悲しいことではございますが、わたくしは王太子殿下を始めとする方々に疑惑を向けられる身。出来ますならば当事者であられるリディ様に、状況をいま一度説明していただき、事実を明らかにすることでしか嫌疑を晴らすことが叶いません」
国王その人がリディ・サンリークの同席を躊躇った理由をわからない者はいない。
言葉の通りに消耗したであろう彼女を気遣ったのが一つ。王太子との婚約を認めたとはいえ、王室の人間として心より迎える気持ちが追い付いていない現状が一つ。どのような真実であろうとも彼女が受け止めるだけの気概があるかと疑ったのが一つ。
――しかし何であれ、彼女の婚約者であるグラシアン王太子その人が耐えうると判断したのだ。覚悟があると言う者を弾く理由はない。
そのように、オレリアは国王に言ったのだ。
悲しいと口にしつつ、その美しい顔に悲嘆はなく。
不安の欠片も感じさせない、どこか芝居がかった言い回し。
三ヶ月前に恋愛譚の脇役に追いやられたはずの、元“王太子の許嫁”が、ある意味では二人の主演を逃がさないと宣言した――そんな瞬間だった。
少し流れが悪くなりましたが、この人数を出すとこういう切り方に……