5 あるべき裁きに向けて――セザールの場合
オレリア=コンスタンス・ランドローというその定められた令嬢が成人の十五歳を迎えた頃から、グラシアン王太子の口から“義務”という言葉が頻出するようになったことにセザールは気づいていた。
元々は地方でそれなりの規模を扱う商家の次男坊であるセザールは、幼少期からの夢であった騎士になることを叶え、若手の中で出世頭になるとある男爵家に請われて養子入りした。対外的には貴族の一員だが、根っからの庶民である。
その分、グラシアン王太子の側仕えになって後は、王侯貴族というのは本当に難儀なものであると思わされたのだ。
同時に身分制度に凝り固まった貴族という生き物は、そろそろ新しい風によって変わるべきではないかとも考えるようになった。グラシアン王太子自身が堅苦しいことを好まずに、市井へお忍びをするような人物だったことが大きい。
自由闊達な心を時には押し込めて王太子と言う重圧と戦うグラシアンを、単に騎士という立場ではなく、自らの剣を唯一捧げる主として見始めたのはいつだろうか。
何にしろ、グラシアン王太子にとってもっと生きやすい道があればと願っていた。
侯爵令嬢オレリアを許嫁としているのはただ王族として、そして次代の国王であるという立場がそうさせるものだと、もちろん大きな声でグラシアン王太子がそういうことはなかった。
だが定期的な彼女への贈り物を側近のマクシムに一任し、同じようにオレリアから返される物をどこか悲しそうに眺める姿を見ていれば、それは何よりの証拠に思えた。
いつだったか。ぽろりとこんなことを言っていたことがある。
『五歳と十二歳の子供同士に、何かが芽生えると思うか? 第一そんな年齢で将来が決定づけられたようなオレリアに、自分の意思を持てるはずがない。私のせいで彼女は人形になってしまったようなものだ』
普段は冷静なグラシアン王太子だったが、こと許嫁のことになると、憐みと自嘲の入り混じった複雑な表情を見せた。美しく成長した許嫁の令嬢を、ただ王家の名前で縛り付けることが年々つらくなっていったのだろう。
それは侯爵令嬢が成人し、婚約も間近になりつつあるという雰囲気が流れるにしたがって顕著になっていったのだ。将来的に発足される後宮に置かれる側室候補たちの選定も最終段階に入り、有力な三名がほぼ本決定であると知らされたこともあった。
セザールからしてみれば信じがたいほどに、グラシアン王太子と同じく側室候補の存在を明らかにされているであとう侯爵令嬢は、それまでと変わることのない態度を貫いていた。
側室候補たちに嫉妬することもなく、グラシアン王太子に何を言うこともない。
いくら義務とはいえ許嫁であるというのに、そこまで王太子に関心がないのだろうか。
王太子自身は、侯爵令嬢はそういう人間だと理解しているようだった。
――十三年もの付き合いがあるんだ、彼女のことは私が一番わかっている。
しかし迫るそのときを前に、何かを紛らわすかのように市井に出る回数を増やすグラシアン王太子を、セザールもマクシムも止められるはずがない。
護衛としてグラシアン王太子に従っていたある日、その出会いはあった。
王都の城下町を一日巡り歩き、日が落ちかけるからと城へと帰途についているときだった。
町娘の一人が早くも酔った男に絡まれているところに遭遇し、セザールが止める間もなく、グラシアン王太子自らがその間に割って入ったのだ。
少しばかり痛い目を見た男はさっさとどこかで失せ、溌剌と礼を言う娘に何かを感じたのか、一人で帰らせるのは危ないと送っていくことになった。
その道中、娘は自分のことを少し語った。
生まれてすぐのところを教会の前に捨てられており、そこに併設されている孤児院で育ったこと。貧しいそこで十六歳まで育ち、食堂での仕事を得てからは少ない給金から恩返しとして少しばかりの金銭を寄付していること。今でも仕事が空いたときには、弟や妹のように思っている孤児院の子供のたちと遊んだりしていること。
暗さを感じさせずに、小さな出来事をとびきりの幸せとして語る様子を、グラシアン王太子は眩しそうに眺めていた。貴族社会には転がっていない話だ。感じ入ることがあっても不思議ではない。
娘はリディと名乗った。
同じく名前を尋ねられたグラシアン王太子は『グレイ』という偽名を告げ、その日はそこで別れた。
以後、何度か町でリディと遭うことが続き、偶然に笑い合う二人は気安そうで、離れた場所からそれを見守るセザールもまた微笑んでしまうほどだった。
グラシアン王太子がただの男『グレイ』としてリディに惹かれていくのは、必然だったのかもしれない。
『リディは将来、自分の店を持ちたいそうだ』
『夢を持っている姿は美しいな』
『自分というものがはっきりとある。彼女を見習わなければいけない』
町娘のリディを通して、グラシアン王太子は自らを省みる部分があったようだ。女性としての彼女を愛し、同時に人間的に尊敬できるのだと。
ときにはグラシアン王太子の素性を知らないリディが、思わずセザールが慌てるほどはっきりと喜怒哀楽を示し、軽く手まで挙げることもあったが、王太子はそのいちいちの反応すべて新鮮なようだった。
それはそうだ。侯爵令嬢が同じようなことをするなど、想像上でも出来ない。
リディと出会い四ヶ月ほどが経った頃、ついに王太子と侯爵令嬢の婚約発表を兼ねた夜会を開くと、国王陛下直々の言葉が下ったと聞いた。
硬い表情で唇を噛むグラシアン王太子の様子に、セザールもマクシムも決断のときを感じたのだ。
愛なき結婚ほど不幸なものはないだろう。
王家の安泰は国家の安泰だ。幸せな王太子夫妻の姿こそを、民は見続けていたいのだ。それが希望となり、日々の糧となる。
どのように国王夫妻を説得するかと頭を悩ませる中、リディこそがすべての鍵を握っていた。
彼女が教会前に捨てられていたそのとき、手に握らされたペンダントがあるというのをグラシアン王太子が何気なく目にしたことが、明るい道を開くきっかけになった。
王太子の記憶の片隅をつつくと言う、そのペンダントに描かれた図案の出所を調べたのはマクシムだ。
貴族名鑑を開き辿っていけば、三十年ほど前に没約した男爵家の家紋だという。その家が断絶する数年前には、跡取りの争いの末に家を出た末息子が居り、おそらく彼の持ち物であったペンダントがまさしくリディのそれであろうということだ。
人を使ってその足取りを追えば、市井に下ったその末息子はやがてリディの母となる庶民の娘と出会うが、結婚を前に病死。その直後に彼の子を孕んでいることがわかった娘だったが、貧しさゆえに育てることが出来ず、ペンダントを持たせてやむを得ず教会に捨てる道を選んだ。リディの母であるその女性も数年後には亡くなっていることが判明した。
その話を聞いたリディは初めて涙し、グラシアン王太子はその心を固めたようだった。 真に天涯孤独の身の上であるリディに、自らこそが伴侶となって家族の存在を与えてやるのだ、と。
王太子としての素性を明かされたリディは驚愕したようだったが、セザールやマクシムの懸念を払拭するように、『グレイは誰であってもグレイでしょう?』と変わらぬ態度で有り続けた。
素直に自分に許嫁が居ること、しかしその侯爵令嬢とは義務だけの関係性で、きっとリディとの未来を祝福してくれること。そういった説明をした王太子に、リディは何があっても愛する人を信じると宣言した。
互いを何よりも至上とする二人を前に、それを阻むものは有り得なかった。
迎えた婚約発表の夜会。
高らかに愛と誓いを宣言したグラシアン王太子とリディの後ろで、セザールは許嫁である侯爵令嬢を注視していた。
――何かがあってからでは遅い。
関心がないようにしていた令嬢も、将来の王太子妃という立場が失われるという事実を前にすれば、錯乱してリディを害するかもしれない。
事前にそのように注意を促したセザールに、グラシアン王太子は有り得ないと令嬢を慮る言葉を言ったが、リディのためにとすべてを飲み込んでくれたようだった。
実際、恐れてい事態にはならずに済んだ。
王太子がリディに説明したように、まるでこれほど喜ばしいことはないとばかりに微笑んで、侯爵令嬢は二人の未来を寿いだ。
これで王太子が憂慮していたように、王家の鎖に令嬢が縛られることもない。
結果的には誰もが自由を掴めたのだと、セザールはやり遂げた気持ちでいっぱいになった。主君とその愛する女性の並ぶ姿は、何よりも美しかった。
――だが、安心するべきではなかったのだ。
女とは恐ろしい。
あれが演技だったなどとは信じがたいことだが、侯爵令嬢はグラシアン王太子とリディが正式に婚約した後、つまらない嫌がらせを取り巻きの令嬢たちにさせるようになった。
出席した夜会で王太子が少しばかり側を離れた隙に、ドレスに飲み物をかけられたり、数人に囲まれて嫌味を浴びせかけられたり、はたまた手の早い貴族をけしかけてバルコニーで絡ませたり。
悪い噂が今までに一つも上がらなかったのは、計画するだけで実行犯を別に持っていたゆえだったのかと、侯爵令嬢の本性にぞっとした。こうまであからさまなことはなかったようだが、婚約者の立場をリディに奪われ、女として敗北したことで余裕がなくなったのだろう。
初めて浴びる露骨な悪意に怯えるリディを慰めながら、王太子自身も衝撃を受けていた。
それもそうだ。十三年間にも渡って隣に立っていた相手に、こんな形で裏切られるとは――。
悪意と、何よりも侯爵令嬢からリディを守るため、王太子は一時も彼女を側から離さなくなった。王城の中にある離宮にとどめ置き、彼女を守るために万全の対策を練ろうとした。
しかし市井で育った彼女の自由さを、まるで籠の鳥のように雁字搦めにしてしまったことがあだとなった。
すぐに戻ると言う書置きを残し、侍女や護衛騎士の目を盗んで王城を脱したリディは、向かっていた孤児院を目の前に誘拐されたのだ。
彼女の不在に気づいた騎士たちが走り回っているさなか、王城にもたらされた目撃情報は、あってほしくはない『侯爵家の紋章が入った馬車に引きずり込まれた』というもの。
愛はなくとも、人として大切にしてきた侯爵令嬢に対する情を、今度こそ王太子は切り捨てる覚悟を持ったようだった。
報告を聞き、硬く目を閉じた後に立ち上がったグラシアン王太子からは、見たこともないような怒りが炎となって立ち上っているかのようだった。
愚かな侯爵令嬢だ。
高望みなどせず、貴族令嬢としての道を歩み直せばよかっただけだろうに。
おそらく容赦などない沙汰を下されるそのときのために、セザールは愛用の剣をしっかりと腰に納め、侯爵家に急ぐ王太子の後ろに従った。
――裏切りには、代償が必要なのである。
はい、喜劇の所以です。
馬鹿なんじゃない、素直すぎるんです!
けれど令嬢たちが散々こき下ろした“失敗”の裏側はこんな感じ。