3 終幕に向けて――ナタリーの場合
ファサイエル侯爵家からの伝令がキリーシェル伯爵家にもたらされたとき、正午が近づく気怠い雰囲気の中でお茶を楽しんでいたナタリーは、ああやはりそうなったかと呆れ半分で嘆息した。
一方で使用人を呼びつける声は実に淡々としており、事前の打ち合わせ通りに伯爵家の騎士たちが動くよう指示を出した。
(実に図太くなってしまったわね)
嫁き遅れな上に可愛げのない性格。
間違っても感情の高まりで涙も流れなければ、混乱の極みで気をやることもない。
少女の時分からそういった部分が見え隠れしていたことを両親は嘆いていたものだが、そう言った小娘らしくない性格を理解する者がいたからこそ、三年前には王太子殿下の側室候補に内々とはいえ推挙されることになった。
それを打診された両親は狂喜乱舞という言葉が相応しいほどに舞い上がり、一方でナタリーは面倒だとただそう思った。
後宮などと女同士に争いが日夜行われるような場所に、自分ほど似つかわしくない女はいない。社交界にデビューした当初から異性に興味が持てず、もっぱら読書と観劇に日々を費やす変わり者と見られていた。それなのに、下手に絡まれたとしてどう対処する――。
しかしその杞憂は、王太子殿下の許嫁であるオレリアを筆頭とする令嬢たちとの交流で霧散した。
元々社交界の注目の的だったオレリアについては、以前から興味深い人物であるとは思っていた。社交界では人間観察くらいしか楽しみのないナタリーにとって、鋼の心を持っているとしか思えないほどに“完璧な王太子の許嫁”を演じるオレリアがいったいどんな人間であるのか。機会があればぜひ話したいと珍しく思っていた相手だった。
それがどうだろう。いざ向かい合ってみれば、その知識の豊富さに舌を巻く。ナタリーは本ばかりは人よりたくさん読んでいるという自負があった。恥じない程度の淑女教育の後は、上は王立学院の学者が書いた論文、下は市井の女流作家が書いた有り得ない恋愛小説まで。幅広く仕入れてきたそれのほとんどに、オレリアは自身の感想を交えつつ話の相手をしてくれた。
一方でナタリーが侍女任せにしているドレスや宝飾品の流行にも詳しく、それらの話にブロンゾ侯爵令嬢やライプツ伯爵令嬢の興味を上手に引く。夜会で出会う貴族男性たちとは各領地に適した事業について熱論をかわし、一方で途切れることのないダンスの誘いを優雅にこなしていく。日中の空いた時間には侯爵家の資金繰りについて当主の手伝いをし、少なくない金額を王都や地方の救貧院や孤児院への寄付に回している。実際にその施設に出資者として視察に巡ることもあり、いったいいつ睡眠を取っているのだろうかと驚愕させられた。
ナタリーの生家であるキリーシェル伯爵家は、建国当初からある歴史だけは無駄に長い家だった。しかし戦乱時の目立った戦功もなく、近年になって起こした事業も細々としたもので、存在感から何からすべてにおいて中の中という、ある意味で徹底した位置にいた。
異性に興味があまりなかったとはいえ、そのうち手頃な家格の令息とお見合い結婚でもするのだろうと、ナタリー本人や両親も思っていたのだ。
しかしオレリアという人物は、ナタリーがそのように自身の趣味ばかりに打ち込んできた年数以上の期間を“王太子の許嫁”として生きてきた。楽しみのためではなく、何を求められてもいいようにと端から知識を吸収してきた。家にあっても自分の時間ではなく、どこに誰の目があるかもわからないことを、もはや当然のものとして振る舞うことが出来る。
そこに葛藤がなかったとはナタリーは思わない。いかに鋼の心を持っているようでも、まさか許嫁に指名された五歳当初からそうではなかっただろう。年を重ねるごとに美しく女の鎧を纏うのと同時に、鉄壁の意志で自らの心を叩き上げた。
おとぎ話や恋物語に憧れた時期はなかっただろうか。普通の恋愛を夢見たことや、せめて一般的な貴族令嬢のように夜会に憧れを持つことは……。
王家は実に幸運だと、オレリアに出会ってナタリーは思った。
五歳の侯爵令嬢と、十二歳の王太子の約束をどこまで期待を持っていたかはわからない。けれどオレリアは何に奢ることもなく、周囲に求められる理想の――それ以上の淑女になるための努力を欠かすことはなかったのだ。
それを支えてきた実直な侯爵家と、折れることなく邁進してきた少女を手に入れることの出来る王太子の、いずれ来る治世に楽しみが持てた。最高の立ち位置で、ナタリー自身がそれを見守れることもまた、自分は運が良かったと思ったのだ。
だが若さに逸ることはあれど、才気あふれる男性であると思っていた王太子だけは、おそらくその幸運をわかっていなかった。
巷に溢れる、民衆が好む安い恋愛小説のようなことが目の前で、まさかこの国の王家で起こるなどナタリーは想像したことがなかったし、出来れば嘘であってほしかったとその後も思った。
そして何より、あのオレリアの身に降りかかるべき事件ではなかったと、天を仰ぐこともあったほどに。
正式に婚約を交わしていなかった――という建前が一応は通ってしまう乱暴さで、王太子がリディ・サンリークというどこから連れてきたのか知らない女と誓い合ってしばらく。オレリアに呼び集められたのは、かつての側室候補であるナタリーたち三人だった。
貴族たちの前で、王族の筆頭でもある王太子に裏切られて恥をかかされたと言ってもいいはずの彼女とその生家である侯爵家は、大多数の憐憫の声にも、一部の嘲笑の声にも、すべての沈黙を貫き通していた。
もはや王家に対する義理は少しもないはずのオレリアだというのに、ナタリーたちに告げた言葉は紛れもなく王家に今も二心なく仕える臣下のものだった。
『近いうちに騒動が起こるでしょう。わたくしたちはそれに備えねばなりません』
リディ・サンリークを真綿で包むように守ろうとする王太子やその側近連中では、おそらく回避できない問題。ようするに、望外の身に躍り出たはずの自分を理解することなく、進んで危険に飛び込んでいくであろうリディ・サンリークの身に何かがあったとき、元許嫁のオレリアや側室候補であったナタリーたちにかけられる嫌疑を避けるために、打っておくべき手を打とうという話であった。
実際は甘すぎる王太子の手をすり抜けるウサギを、王家と国の威信のために事前に捕獲してやろうという、親切すぎる計画だった。
――しかしそれこそ、何の義理があってオレリアがやる必要がある?
鋼の心の下に、過ぎるほどに優しい部分を隠してきたオレリアに、そう叫んでやりたいのをこらえてナタリーは頷いたのだ。
社交界で友人の多いライプツ侯爵令嬢の耳には、王太子と婚約して後に、彼に伴われてお披露目として夜会を周るリディ・サンリークには、陳腐な嫌がらせが横行していると言う話が届いていた。
そして恥知らずにもそれを行う令嬢たちは、声高に“ファサイエル侯爵令嬢”の名前を出して見せると言う。すべては元許嫁であったオレリアの指示であり、故にリディ・サンリークは排除されるべきであると。
頭の軽い令嬢たちがそういう知恵を持っているわけはない。その指示を出したのは、同じく小賢しい程度の彼女らの親たち。リディ・サンリークという庶民とそう変わらない出自の女でも王家に入れるならば、彼女を排せば自分たちに家にも機会は回ってくると勘違いをしている。そんな人々。
彼らがオレリアやその生家の侯爵家を出すのは、王太子妃になる道が閉ざされたとはいえ、高位貴族の中でも頭一つ抜きんでたその立場が邪魔だからだ。オレリアを切っ掛けに罪に問うことが出来ればと、浅知恵にもそう思ったのだろう。
そしてオレリアは、そのわかりやすい図式に、恋に病んだ王太子とその周囲は見事に踊らされると踏んだのだ。
ある意味では長年の奉仕精神をきっぱり返上し、王太子を冷徹な目線で値踏みしたようなオレリアは、まるで老獪な為政者のように頭を働かせてナタリーたち三家に協力を求めた。
もちろん謂れのない罪の連座に問われるかもしれない予想を前に、躊躇う者などいない。それに上乗せするように、ナタリーたち側室候補たちにはオレリアへの信頼があった。将来の夫であったはずの、そして次期国王である王太子に向けるものより、何倍、何十倍もの信頼である。
そうは言えど、ナタリーは珍しくも希望的観測を捨てきれなかった。
――起こるな。ウサギを脱走させるなど馬鹿馬鹿しいことなど、頼むから起こってくれるな。
しかし実際にはオレリアの予想通り、婚約を宣言されて三ヶ月の後にそれは起きた。
軟禁状態だった王城からリディ・サンリークは町娘の姿で抜け出し、自分の持っていた宝飾品の類を換金して、自らの世話になっていた孤児院へ持って行こうとした。
そこを疾走する馬車に連れ込まれ、行方をくらませたと――。
(何を考えているのかしら……)
ナタリーは実働する伯爵家の騎士たちや、市井に紛れ込ませている使用人たちからの報告を、熱い茶を入れ直させつつ待ちながらそう思った。
いくら王太子や側近たちから大事にされ過ぎているとはいえ、自分が貴族社会でどれほど恨まれる身になったか、どれほど邪魔な人間であるか少しもわかっていなかったというのか。
いや、このために準備をすると宣言したオレリアに同じことを尋ねたことがあった。まさかそこまで迂闊な娘だろうかと。だが彼女は頷いたのだ。
――リディ・サンリークにどのような血が流れていようと、生まれてから今までの二十年を市井の庶民として暮らしてきたのだ。人は血が心を作るのではなく、生き方が心を作る。
貴族社会で考え得るあらゆる思惑や危険性は、オレリアやナタリーにとっては当然のことであっても、未知の世界に来たに等しいリディ・サンリークにとっては思いもつかないことなのだ。
そして何より、将来の王太子妃になることがどういうことかと自覚しているならともかく、愛する男の側に居る幸せだけを勝ち得たと思っている彼女には、どう望んだところで慎重になるはずもないと。
そう――それこそ十三年も“王太子の許嫁”としてあるべき生き方を選び、そのために必要とされることを身に着けてきたオレリアが、人々の理想の王太子妃を体現しつつあったのと同じように……。リディ・サンリークはさらに長い二十年という期間を、一庶民の娘として育ったのだ。流れる血が何であれ、同じだけの期間を今から貴族令嬢として過ごしたところで、その価値観などが改まるかわからない。
オレリアは自らを裏切った王太子が愛してやまない女のそれを理解し、王太子たちは愛する女のその部分を理解していなかった。
寄せられる報告の数々の中には、リディ・サンリークが連れ去られた馬車の目撃情報の中に、そこにファサイエル侯爵家の家紋があったというものもあり、それを受けた王太子たちが侯爵家に詰めかけたという。
同じく王太子直属の騎士三名がキリーシェル伯爵家に訪れ、オレリア一派の女として何か知らないかと誰何しに来るほどで。
そのような事実は知らない、加担もしていないとはっきり告げてなお、監視のために居座る騎士たちを横目にナタリーは嘲笑を抑えるので必死だった。
詰めかける騎士たちでさえこんなにも腹立たしいというのに。
かつての許嫁本人に乗り込まれ、有りもしない罪を追及されるオレリアはどんな気持ちがするだろう。
例えそこに男女の愛がなかったとして――。
だからと言って何の償いもされないことは、正しいのか。
事件の発生から数時間後。
王城へ虚偽の目撃情報をもたらした人間が見つかり、キリーシェル伯爵家でも二人の身柄を拘束することになった。同じくブロンゾ侯爵家とライプツ侯爵家が捕えた者を合わせると五人。浅知恵の割には徹底された人数に違和感を覚えたが、本気になったオレリアの謎解きが王城で聞ければ、すべてはすっきりするだろう。当のリディ・サンリークは無事に保護されたと言うし、ナタリーたちの憂慮は過ぎ去ったと判断していい。
ファサイエル侯爵家へ向けた伝令が折って返され、オレリアの登城に合わせて三家の代表者も集まってほしいとの伝言に、ナタリーはもちろん侍女に自らの支度を命じた。同時に、目を白黒させる三人の騎士にさっさと帰れとやんわりと言う。
むさくるしい男に今からエスコートされるなど、絶対にごめんだ。
ナタリーが腕を組むとしたら、この馬鹿げた事態に立ち向かった仲間たちでしか有り得ないのだ。




