リディとグラシアン(1)
お待たせしました。
リディの話となります。全2話。
年頃の女らしく、恋物語に憧れる気持ちは勿論あった。
孤児院にいたときにも、寄付として贈られたものの中には、騎士と王女の話だとか、伯爵と侍女の話だとか、仲間と競い合って読み耽った本がたくさんあったのだから。
それが虚構のものだということを皆知っていても盛り上がれたのは、自分ではない、けれどどこかでは実際に起こっているような、そんな近い話のように想像して楽しめたからだろう。
実際、この国の王子――王太子である男と知り合い、恋仲になったときだって、リディはまさか自分がと思ったのだ。
どこかにはあっても、ここじゃない。そんな風に考えていたというのに。
不思議なほど惹かれた相手だった。
酔った男に絡まれて助けてくれた。そこに深く感謝はすれど、例えば精悍でそこらでは滅多に見ない美丈夫だったとしても、その場限りの出会いで済ませられたはず。
それを、仕事のお使いの合間、または帰りのとき、同じ人影を探してしまっていた。はっきりと自覚していたわけではなくとも、二度目三度目と顔を合わせる度、ああ自分は恋をしているのだと気付かずにはいられなかった。
初恋だ。
冷静でいなくてはと思う反面、優しくて強くて、同時にどこか脆そうな男と触れ合う中で、何か得体の知れない熱が体中を巡る気配を感じていた。
護衛の騎士がいることから、おそらく貴族なのだろうと思っていた相手が、実は遥かに見える王城の住人――次代の王であることを約束された人だなどと、にわかには信じがたかった。
元から身分差なのだと悩んでいたというのに、それでは一体この想いはどうすればいいのかと。
相談相手だった友人には、貴族の愛人になるしかない恋なんてやめてしまえと言われていたが――その程度では済まなかったのだ。
王太子に愛人などいてはいけない。
男には既に立派な身分を持った婚約者がいて、そのうちには慣例として幾人かの側室も持たなければならないのだという。
絶対に側にはいられないというのに――。
泣いて、泣いて、泣いて。
それでも涙は枯れ果てることもなく、泣き痕をどんなふうに隠せばいいのかと思ったりもした。
それでも。
男――グレイは、約束してくれた。
一生涯を捧げると。
どんな困難にも、二人で立ち向かおうと。
その言葉を信じると決めたからには、もう何も疑ってはいけないのだと思った。
王都郊外の、小さな小さな教会。
神様しか見ていないたった二人の場所で、永遠を約束した。
甘えていたと知るのは、自分が男の持つものを奪ってしまった後だった。
二人で乗り越えようと言った言葉を、薄い紙一枚のもののように扱ったのは自分だ。
身分。財産。権力。その他にも多くを兼ね備え、そして行使することが出来るはずだと盲目的に思い込み、相手に全てを依存した。
――まるで物語の中の、救いを待つお姫様のように。
考えることを放棄した自分は、まさに熱病を患った病人も同然で……。
たった一部分を理解した気になって、男の周りを取り巻くものに触れることもなかった。
自分は知っていたはずなのに。
願いを叶えるためには、自分の全てを使うしかない。身体も、心も、全部捧げて初めて叶う可能性を得る。
後ろ盾のない人生を二十年も歩んでいたはずが、たった一人愛しい男が出来ただけで、何も出来ない骨のない生き物に成り下がってしまった。
慣れない世界での明確な敵は、彼女だと思っていたのに――。
それこそ、自ら嵌った幻だった。
***
「そんなのまるで追放じゃないの!」
グレイ――グラシアンが、その地位を退いて王都を出ることを表明して、リディもまた馴染みの人々に挨拶をするために城下に出て来ていた。
元の職場である食堂の店員であるペラジーは、瞬間閑散とした室内に響き渡る声を上げた。同じく隣で果実水を啜るお針子のバルバラはぎょっとした表情を見せる。
定休日である今日訪ねると言っていたために、厨房に女将さんが仕込みをしている以外は誰もいない。ゆえに、少しだけ詳しい話も出来た。二人とも親友で、自分の恋をずっと応援してくれていた。
「そんなんじゃないよ」
「だってまるで罪人みたいな扱いじゃない!」
罪人か……と、一瞬だけリディはその言葉を噛み締めた。
別に罪を犯したわけではないことは、彼女自身だってわかっている。恋心を裁く法などないのだから。
けれど貴族社会の禁忌を犯したことに違いはなく、今回のグラシアンの自主的な廃位やそれに付随するあれやこれやも、贖罪と言えばそうかもしれなかった。……全ては、彼の隣にリディが居るがゆえの結果。
やり方が上手くなかったのだということは、グラシアンの側近である二人から後々かなりの説明を受けた。沢山の謝罪とともに。
それでもあの時、あの場でリディが受けた衝撃は途轍もないものだった。
……全部、自分がわかってないだけのこと。いや、わかろうとしなかっただけだ。
理性的に考えれば、グラシアンだって側近のマクシムだって容易に辿りつけたそれに、いまだにリディが悔しさと自身への不甲斐なさに落ち込むのは、自分に圧倒的に知識も覚悟も備わっていなかったということだ。
あの世界の常識を理解していなかった。必要ないとさえ思っていた。
――彼女の言い方を借りれば、生き方の問題。
よく考えれば彼女に、いつだって少しの恐怖心を抱いていたのは、グラシアンの隣に立っているその姿に何の違和感も感じさせない――それだけのものを備えている自信や、自尊心や窺えたからなのだ。
鏡の前に立つたび、気後れするドレスを身にまとったおどおどした顔の自分の顔。それが嫌で仕方がなく、着慣れた簡素な服を着られないかと足掻いてみても、それで尻込みしてどうするのだと叱責を受ける始末。
その通りだと頭ではわかっていて――わかっている気で、改善なんてしなかった。
あの場での言葉通り、リディが望んだのはただ“グレイ”だけであり、“王太子”ではなかった。
無意識下のうちに恐怖心を抱いていたのは、それではいけないとどこかで察していたからだ。
至らない自分が婚約者となった一方で、彼女はそんな肩書がなくとも完璧に見えた。あの人をあの人たらしめているのは、リディにはない血筋や家柄の要素だけではなく、その心の強さだと――。
だからなおのこと、苦手だと思っていた。
社交界での嫌がらせの裏にその名前を噂されたのとは別に、どうしたって敵わない相手だと判断した。
もしリディがもっと勝気で、無鉄砲だったならば、彼女にこそ勝たなければいけないと奮起しただろう。グラシアンにとっては男女の愛情がなかったとはいえ、元許嫁の女性。ならば彼女を越えてこそ、自分が認められるのだと。
それがどんなに無謀なことだって、一度禁を犯してしまったからには、突き進むことでしか本来ならば贖罪にはならないはずだった。
しかし現実はどうだろう。
“グレイ”しか見ていなかった自分は、王家にも彼女にも二度砂をかけるような真似をしてしまった。
誰より、愛しい男から多くのものを奪うことまでして――。
「まさか、後悔してるの?」
それまで、らしくない苦い笑みを浮かべるばかりだったリディを眺めていたバルバラが、ふぅっと息を吐いてそう口にした。
「後悔……?」
「殿下を好きになったこと」
――グレイへの気持ち……。
リディの青灰色の瞳が、わずかに揺れた。
「……」
「あたし、あんたに言ったわよね。『苦しい恋ならしない方がマシ』って」
同じ孤児院で育ったバルバラとは、もう姉妹のような関係だ。グラシアンへの想いを自覚したときにも、彼が王太子だと告げられたときにも、リディはバルバラに不安な気持ちを相談してきた。
優しい言葉など返されたことはない。いつだってリディの味方だとは言ってくれるバルバラは、だからこそグラシアンへの恋などやめてしまえと言っていた。
「飽きるほど言ったって、でもあんたは聞かなかった。元から頑固だとは思ってたけど、なんだってそんなにと思うほどにね。――でも、ちょっと羨ましい気持ちもあったのよ」
艶のある巻き毛を弄りながら、バルバラはほんの少し笑った。
「男に振り回されるなんて、あたしは絶対にごめんだって思ってた。院でも言われたでしょ。あたしたちみたいに親のいない子供……特に女は、男なんかに頼らず死ぬ気で生きろって」
国から決まった額が援助されると言えど、リディやバルバラが育った孤児院は貧しかった。
寄付金を寄せる貴族も勿論いたものの、それが高貴なる血筋の務めと名誉ためならいざ知らず、ときには多額の金を見せることで、見目のいい子供を連れて行こうという魂胆の者もいた。
里親になる気ではなく、欲望のためだけの話。
二人を育てた孤児院の院長は、そういった話だけには決して頷かない人だった。
そのために幾度か貴族との衝突を起こしたこともあり、寄付の数は他の施設に比べれば少なかったのではないかと思う。
だからこそ院長は、自分一人で立つことを何度も子供たちに説いた。
バルバラが言うように、孤児院でも特に幼い子供や女は気を付けろと言われたものだ。若さや容姿ゆえに誘拐されそうになることは勿論、院を出た後にも女は利用されやすいからと。
甘い言葉に流されるな。
男、特に貴族には注意しろ。
そんな風に言われたことを、リディも思い出す。
「間違ったことじゃないと思う。世の中、貴族なんて避けて通った方が絶対にいいに決まってる。……でもあたし、院長の言葉が強迫観念みたいになっててね。例えば同じ身分の男でも、必ず身構えちゃうのよ。この人、一体あたしに何を求めて近づいてくるのよ、ってね」
恋なんてしたことないの、とバルバラが小さく続けた。
自然な巻き毛、健康的でで豊満な体つき、少し挑戦的な婀娜っぽい顔立ち――孤児院でも一番の美人だったバルバラが、そんな風に考えているとは思っていなかった。
「でもあんたは違うのよね。抜けてるところもたくさんあるけど、ちゃんと誰かを好きになれる。騙されてるんじゃないかって思ってたけど、こうやってどんな形になったとしても、殿下はあんたを選んだ。……見る目あるんだわ」
ふふと笑うバルバラに、リディは困惑した。
「…………でも」
「うん?」
「でもね、」
「なぁに」
「あたしが……グレイを苦しめたのも本当なのよ」
失って初めて、王太子という地位がグラシアンにとってどれだけの大きさを占めていたのかわかった。彼自身であり、ほぼ全てなのかもしれなかった。
――それを台無しにした張本人が、一体どうやって彼の隣で微笑める?
「それだけじゃない。あのときは気にもしなかった――気持ちがないんなら、グレイとあの人の関係が白紙に戻ったって、それは間違いなんかじゃないって。“愛情”を免罪符にしてたの。全部それで許される気になってたの」
オレリア=コンスタンスという女性は、結局最後までリディを責める言葉は言わなかった。……彼女だけが言わなかったのだ。
言う価値がないから? いいや、そうじゃない。
起こしてしまった出来事は、元通りにはならないから。選ばなかった選択肢は消え去り、右に進んだ者を左には戻せない。
それでも修正出来るときは確かにあったのに、その機会をことごとく無視してきたのもまたリディだった。
結果それはリディとグラシアンの現状を招いたが、二人が負う以上のものを周囲の人間に押し付けることになった。何よりも王家に。そして瑕疵のなかった侯爵令嬢その人に。
「迷惑かけたの。ううん、そんな言葉じゃ収まらない……本当に罪を犯しちゃったかもしれないの」
そう言いながらも、ああそうかとリディは気づいた。
こんなに苦しいのは、聞き訳のいい人間のように、周りに対して本心から済まなく思っているからじゃない。
……申し訳なくなる気持ちは存在する。深い場所から、次々沸き起こる淀んだ水のように。
けれど真実、つらく感じるのは別なことなのだ。
「違う。やっぱり自分のことばっかり……」
――これからどうなるだろう。
そればかりを考えている。
「グレイを好きだよ……やっぱり好きなの。大事なもの奪っちゃって、どうしようもないことしたのに、それでも好き。けど好きって気持ちだけは駄目なのも、もうわかる。――もう、わかっちゃうんだもの」
リディにはそれしかなかった。何も持たず、ただグラシアンに甘えていた自分には、その好きだと言う気持ちしか。
だが王太子という地位を失ったとはいえ、グラシアンはまだ王族の身分なのだという。その辺りの説明は、マクシムの言葉を懸命に聞いてもおそらく自分はまだ半分も理解できていないだろう。
だがほっとしたのも事実だ。それだけは残されているという、あまりに小さな希望。
……いや、ただ自分が楽に思いたいだけかもしれない。
何にせよ、いつかは再び責任を果たすことの出来る身分であることを、グラシアンは望んでいた。王太子でなくなっても、国のために生きたいという心をまだ持っている。
それはきっと現実になるだろう。今回のことは王族にとって大きな衝撃を巻き起こしたようだが、何故か王家の兄弟たちは理解を深めたようだった。別れの挨拶に来たグラシアンの二人の弟は、「さよなら」ではなく「待っている」と彼に言った。どこかさっぱりとした顔のグラシアンは、それに謝罪とかすかな笑顔で応えた。あの兄弟の絆は強固なものだ。
ならば自分はどうか。グラシアンにとってのリディとは。
「何も出来ないで足を引っ張るあたしを、もうグレイは待っていてくれないかもしれない。優しいだけじゃなくて、甘いだけじゃなくて、前だけ向いていく厳しいグレイの隣にあたしが必要なのか……怖い。不安なの」
言葉にすれば、自身の愚かしさに涙が出てくる。
好きなだけのくせに。
それだけだったくせに、何故あの人の隣に立てるなんて思っていたのか。
「オレリアさんだったら違うのに。きっとグレイを支えられるのに。あたしは――」




