再路
自分が未熟な人間であるということを、理解しているようで理解していなかった。
同時に、人の心がなんたるかということも――。
***
王宮に出仕する貴族は下級から中級貴族ではあるものの、マクシムは己が出世する未来を最初から夢見ていたわけではない。
実家は地方の小領地を運営していたが、領民たちとの間に垣根のない、貴族らしからぬ家だった。
勉強が好きだったこともあり、マクシムは長男であるのにも関わらず学院へ進学し、将来的には弟が爵位を継いでもいいとさえ思っていたのだ。
それが少しばかり方向を変えたのは、学院を卒業し、王宮に出仕してグラシアン王太子に目を留められたときだ。
官吏となるのは下級から中級貴族出身である者が多いとはいえ、重要部署に所属したり官位を上げるのは上級出身者。大臣たちはもれなく公爵家や侯爵家、あるいは王族関係の人間であり、マクシムもまた一生を平の官吏として細々と生きていくものと思っていた。
王都には学術施設も多いことだし、隣国に興味のあるマクシムにとって、実家の領地に戻るという選択肢が薄いだけのことだったのだ。
各領地から治められる税を管理する者として、山ほどの帳簿と格闘する日々の中で、つい疑問に思う数字を見かけたことが始まり。
見咎めるにはささやかで曖昧ながら、見過ごすには何かが引っかかるものだった。
それをある日、勇気を出して王太子の執務室を尋ねたことが、側近として召集されるきっかけになった。
上司に言えども無視されていたそれは、グラシアンの一言で正式に調査する人間が派遣され、地方領主の税の誤魔化しが明るみに出た。
それほど大きな事件ではなかったが、グラシアンの脳にマクシムの名前が刻まれるのには充分だったのだろう。
王太子の補佐として声がかかったそこで、同時期に警護として連れられていたセザールとも出会った。
実家には幸運にも王太子に目を留めていただいているとの連絡を送り、何かとあって困るものではないと、父は早めに老後生活をするとして、マクシムは子爵位を相続した。
下級貴族としては異例の、王太子の側近という立場に寄せられる目は好意的なものの方が少なかったが、他ならぬグラシアンの信頼は変わることなく、また仕事については元の部署よりはるかに多岐にわたる案件に関わるやりがいに夢中になった。
仕える相手であるグラシアンもまた、いかなるときも冷静で怜悧な判断をする最良の上司であった。
――その全てを、マクシムは見ていた。
見ていただけだったのだ。
リディ・サンリークという女性の出現から始まる半年に決着がついたあの日、マクシムは自分の愚かさに直面した。
目にしていたはずの光景は全て、ただの情報でしかなかった。真実あったこと、噂でしかなかったことも。
一枚の紙にそれらの情報をまとめていくような作業は出来ていても、その行間や背景にある見えない部分を想像することはただの一度もなかったのだ。
リディ・サンリークも。
グラシアン王太子も。
オレリア=コンスタンス・ランドローという女性も。
または臣籍に下った第二王子のことも。
相関図の中にどんな精神が潜んでいるかなど、マクシムは考えなかった。
もう一人の側近であるセザールの場合は、単純で正直すぎるほどにグラシアン王太子の心に添おうとしていたというのに、マクシムに限ってはそれさえしていない。
グラシアンという人にとって伴侶とは、せいぜい日常への彩りだと思っていた。
彼は彼だけで過不足のない王族であり、己の上司であり、そういう人間だと。
だからこそファサイエル侯爵令嬢では心休まることがなく、リディ・サンリークがそれを担えるのならば彼女を伴侶とすることに疑問も持たず――。
忠節のあまり視野を狭めたもう一人の側近とも違い、マクシムは始まりから自分が間違っていたようにしか思えなかった。
――そもそも、一人の人間に仕えるということが、事務処理の延長であるはずがないのに。
自らの器を見誤っていただけでなく、その中身が空っぽであることを知らなかった。
燃えたぎるような忠誠心もなければ、深い沼のような野心もない。
誰かに心を預けきることも出来ず、または疑いぬくことも出来ない。
国を動かす場所、あるいは人を支えるには、あまりにマクシムは中途半端である自分を自覚せざるを得なかった。
***
子爵領の自室を整理しても、たいした荷物は出なかった。
それも当然だ。学院へ進学し官吏になり、爵位を継いだ後にもまともに領地へは帰って来なかった。
実質的な管理は弟が担い、自分は下級とはいえ爵位の恩恵を得るばかりだったのだ。
「兄さん……本当にいいのかい?」
少ない荷物の中身は精々置いていた書物の類だった。
がらんどうの室内に入ることを躊躇するように、扉に寄り掛かった弟の控え目な声に、マクシムは頷く。
「ああ。最初からこうするべきだった」
「でも――」
戸惑うような弟は、二十歳を迎えたばかりだ。
マクシムは、コンサス子爵の位を弟に明け渡すことを決めた。同時に実家からは、自分の部屋を完全に片づけてしまうことも。
――帰ってくることはない。
あったとして、次に迎え入れられるのは客間であり、この家で甘えられる立場はどこにもないのだ。他ならぬマクシムがそう望む。
「いいんだ」
まだ何かを言いたそうで、けれど言葉の続かない弟に、今度こそマクシムは微笑みかけた。
何を不安に思うことがあるだろう。若いとはいえ弟はこの数年をきちんと領地管理し、何より領民を想う心というものがあるのだ。自分とは違う。
「幸いにも仕事は続けられる。住居だって今までどおりに官舎を使うんだ」
兄であるマクシムが、グラシアン王太子がその身分を返上したのと同時に、側近の地位から離れたことは弟ももちろん承知している。それ以外にも、家族に仔細を離さないとはいえ、兄が何かしらの壁に突き当たったということも察しているだろう。
マクシムは、官吏としては降格されたも同然だった。元王太子の側近として、その後に重役に就くわけでもなく、むしろ待遇は側近になる前よりも下になるはずだ。
表立って処分されるような事実は、実のところ一つもない。罪を働いたわけでも、それを助けたわけでもないのだ。
けれど、あの場で明るみに出た個人の資質や能力について、誰も何も言わずにいることは出来ない。王族も。またマクシム自身もだ。
だから降格されることには、マクシムは嘆いても悲しくもなかった。当然のことだと受け止められる。
誰しも欠ける部分を持ち、だからこそ別な誰かと補い合う。
伴侶も、友人も、主従も。
だから――。
マクシムは王都を出て行くグラシアンとリディ・サンリークに付き従う道は選ばなかった。
セザールは剣を捧げた主に、騎士として随行して行った。武官として出世することを期待していた男爵家の意向から外れたために、養子入りした縁を切る形になっても後悔の色は微塵も浮かんでいなかった。
今のマクシムには、グラシアンを生涯の主と仰ぐことも、セザールと隣り合うことも出来ない。
彼らの欠けたる部分を補うものが、自分の中にないからだ。
本当は官吏を辞することさえ一瞬考えた。
だがそうだとして、中身のない己に行き先はやはりどこにもない。このままでは誰と出会ってもまた同じことを繰り返すだけだと、マクシムは逃げたくなる己を立たせた。
だから王都へ戻る。
今度こそ何かを見つけなければならない。
誰かと向かい合い、隣り合い、背中合わせになる。
「寂しいですよ、兄さん」
「はは。いい嫁さんでも迎えるんだな」
泣きそうな顔の弟の頭をいささか乱暴に撫で、マクシムは空っぽになった部屋から出た。
彼自身はまずは一人から始める。
けれどいつの日か、再会する人々を支えられる人間になりたいと思うのだ。
側近その1
真面目に反省させてしまった……
とはいえ、シャルルあたりが悪戯心を発揮して拾ったりするんじゃないのかなーとか。その場合はしばらく、意味不明なおつかいばかりさせられそうですが。




