21 同病相憐れめない(3)
「でも結果的に、あの二人にとって一番いいようにまとめてあげたようなものかもしれないね」
それは見て見ぬふりをしてきた自分自身を庇う言葉なのかとも思ったけれど、オレリアは思い出した。
――昨日、王太子の位を返上すると宣言したグラシアンと目が合ったときに、おそらく同じことを考えて、目線の中で会話した。
……気付いてしまったからには、あの優しい王子様はこれから先も苦しみ続けるのだろう。
盛り上がった熱病が落ち着くまでを、周囲は待ってやらなかった。だがそれはある意味では温情だったのかもしれない。
元来生真面目な性格をしているグラシアンが狭まっていた視野を取り戻したとき、目の前にそびえ立っている現実から、当初思い描いていたようにリディ・サンリークを守ることが難しいと思ってしまうに違いなかった。慎重さを欠いた浅慮とも言える行動で、“王太子”が衆目の前で愛を誓ってしまったことは取り消せない。残された道は、早々にリディ・サンリークを説き伏せて後宮を受け入れさせるか、昨日ランベールが言ったように少々の細工をして彼女との別離を選ぶか。そのどちらかだっただろう。
永遠の愛を誓った男が、その柵を自分からは捨てられずに言を曲げれば、女としては耐え難かったに違いない。あれほど燃え上がっている恋人同士の間に、大きな亀裂が入ってしまったかもしれない。
一方で、周囲がお膳立てして今回の結末まで導いたことを、グラシアンは正しい意味でよくよくわかってしまっている。
王家や王国にわずかでも背を向けた形になったグラシアンのことを、誰一人見捨てられなかったということだ。王太子の地位返上についても、本人の口から出るまでは誰もその選択肢を突き付けなかった。親として、弟として、国に仕える臣下として、グラシアン個人を見守ることを皆が選んだ。
そして愛する人とその椅子から降りるグラシアンは、自らが残していくものを片付けることが出来ない。
王国史最大のロマンスは、人々からすれば一応の決着を見るだろう。けれど何も終わってなどはいない。昨日と今日、そして明日からの日々が一繋がりである限り、今回起こったことは、傷として、残り香としてそうそう消えはしないのだ。
恋人である二人にとっては、むしろ余計なものを捨て去ることが出来た最良の終わり方かもしれない。だが生まれてからこれまでずっと背負う側の立場にいたグラシアン一人にとっては、リディ・サンリークとの別れを突き付けられるのと同じくらい重い決断だったはずだ。自らが騒動の種になったことも、それを完全に消せないまま手出しをする力を失うことも。……それはつまり、残された人々がその肩代わりをするということだ。
――だからこそこれは王族の代償と呼ばれるのだろう。
オレリアは目の前の男を見た。
飄々と流されることを嫌って生きているようなランベールもまた、王族の義務は捨ててはいないのだ。
この先、王太子の席を巡り貴族社会は荒れるだろう。オレリアが許嫁の身分を失ったときの比ではない。グラシアンの同母弟でありながらランベールは臣下の身、王子のままであるシャルルは側室の母の生まれ。そしてグラシアンが生きている限りは、例えその立場がどう変動しようとも彼を担ぎに出る人間も後を絶たないだろう。むしろ凝り固まった貴族思考を嫌う一派は、今回のことでもグラシアンを見捨てないに違いない。仲のいい兄弟たちそれぞれの下に、異なる思惑を持つ貴族たちが集まることになる。
もちろん最有力はランベールと目されるだろう。彼が潔く王家に戻ることを選び、早々にどこからか吊り合う令嬢と婚約でもして王太子の椅子に座れば、その速さ次第では荒れる前に事は落ち着くかもしれない。
……だが、オレリアはそれに苦笑しながら首を振る。
「どうしたんだい?」
「……これからのことを考えていたのよ」
「次の王太子のことかな」
察しが良すぎて嫌になる。
臣下の身分であるオレリアが考えるべきことではないのだ。特に、女であるのだから余計に。
けれどランベールはそういった注意もせずに、まるでオレリアが気にするのも当然とばかりに頷いた。
「そうだね。兄上が廃位になると知れるのと同時に、貴族たちが次々接触してくるだろう。国王夫妻のお考えはわからないが、事によっては俺も呼び出される可能性がある」
呼び出しは、つまり王太子への打診だ。王家に戻れということ。
「俺かシャルルのどちらかが椅子に座るまで、兄上はしばらく僻地にでも籠るつもりだろう。リディ・サンリークには悪いが、完全に二人を自由にさせてはあげられない。全ての身分を捨てて逃避行というのが様になるのにね。――俺と同じように空いている公爵位を授けるか……いや、このまま兄上が持っている伯爵位のままかも。その方が王太子への返り咲きを願う輩への権勢になる」
元第二王子であるランベールの下につく形ならば、貴族たちへは今回のことが王太子への処断であるということが強く伝わるだろう。
もっといいのはリディ・サンリークがその血を引くという男爵家を再興し、グラシアンが婿入りするこだ。しかし元王太子が行くにしては家格が低すぎるために、実際には二つほどは引き上げなければいけないだろう。
「本当は王族の名を取ってしまえば確実ではあるけれど。それは俺たちも兄上も望まない。もちろん君も」
「そうね」
甘やかしの意味で、権利を持たせたいわけではない。むしろ死ぬまで義務に縛り付けるための罰のようなものだ。グラシアンにとっては、贖罪としての意識になるだろう。
自らが放ってしまう形になった王太子の責務。王族の名前まで捨ててしまえば、それは過去のものとして記憶も薄れてしまう。けれど度々、自身の名の一部にそれが残っているのを見れば、どんなに苦しくつらくとも忘れることなどは出来ないのだ。
「で、残るは俺か、シャルルか――」
「シャルル殿下は嫌がりそうだわ」
「それはそうだろう。三番目という順番を自分なりに受け入れて生きてきたんだ。何かを諦めざるを得ないこともたくさんある。それは俺が理解してやれるよ」
第一王子と、それ以外の王子たちの間にあるもの。グラシアンが背負う山ほどの重荷や期待の一方で、ランベールやシャルルの立場もまた難しく複雑だ。グラシアンに何かあればこうやって代わりを求められる。それは兄ほどには雁字搦めで苦しくないかもしれないが、一方では一番ではないのだという葛藤もあるだろう。グラシアンには持てて、自分には持てない。そういうものもある。
それが急に、今度は第一位の場所に立てと言われてもすんなり受け入れがたいのも事実だ。何かに折り合いをつけることに慣れているシャルルには、なおさらのことだろう。
「では……あなたが?」
言いながら、耐え切れずにオレリアは笑み崩れる。
そんな姿を目にしたランベールはと言えば、実に嫌そうに眉根をしかめた。
「思ってもいないことを言うものじゃないよ」
「あら、でも弟想いならばと」
「こればっかりは譲れないな。俺のしてきたこと――特にこの三年が無駄になる」
ゆるく結った男にしては長い金糸の髪を、手慰みに弄びつつランベールははっきりと言う。
そしてふと、人の悪い顔でオレリアの空色の瞳を見つめた。
「安心するといい。――国のため王家のために俺は立ち上がるから、君がそれを支えてくれ――なんて、もう一度王太子妃になる道を勧めたりはしないよ。シャルルが交換条件にそれを出すことも阻止する」
実際あいつもいろいろ計算はしているだろうな、とランベールは言った。
どんなに気が進まなくとも、現実として提示されている可能性から目を背けるわけにもいかない。年齢や立場でランベールには劣るシャルルが楽にその地位に就くためには、周囲を納得させられるものを用意するのが一番だ。
彼本人の立場が弱いならば、その対になる者で補うと考えるのが普通。誂えたかのように“王家に裏切られた元許嫁”であるオレリアがいるのだ、その汚名を雪ぐという名目でシャルルが迎えると宣言するのはとても美しい図式だろう。三つ年上の、名門侯爵家の令嬢。将来の王太子妃として誰もが認めていたオレリアなのだ。
個人的なことを言えば、オレリアにとってその提案はもはや嬉しくはない。許嫁の身分が消えて夢を叶えることが難しくなったとはいえ、不可能になったわけではないのだ。将来の王太子妃になった場合の様々な権利はたしかに魅力だが、それは近道をしたいゆえの考えなのだろう。それ以外に想いを馳せるものが見つからない限り、再び同じ道を歩もうとは思わない。今度こそ、オレリアは自分の心で生きる場所を選べるのだ。解かれて初めて知ることもあったということだ。
しかし、綻びの見られない筋書きはランベールも好むところであるだろうに、その手は使わせないと断言している。
「正直、構えていただろう? シャルルはともかく、俺が君にその話を出すんじゃないかって」
「さあ」
――嘘だ。少しは思っていた。
計算高いのはランベールとて同じ。自身のことも、周囲のことも盤上の駒のように扱える非情さもある。いや……むしろその点ならばおそらくグラシアンより上なのだろう。多くのものに優しさを見せられるグラシアンとは別に、ランベールにとっての情を向ける先というものは酷く狭い。
だからこそ国王には向かないなどと自分で言っていたものだが、グラシアンが去ることとなっては、国王夫妻がそういう第二王子の性質を改めて見直す可能性は充分にあるのだ。
王位などに興味はないだろうが、それこそ交換条件としてオレリアの名前出すかもしれないとは思った。放っておくには惜しい駒として。そして思い上がりとは思いたくないが――……三年を無駄にしたくはないと言うのならば、やはりもう一つの理由で。
けれど、ランベールはにやりと笑って首を振るのだ。
「わかってないな。俺の望みは一つの妥協もしないことだ」
「…………ならばやはり、シャルル殿下にと考えているの?」
深く入り込むまいと結論を問えば、そうなるねと言葉が返る。
「安易にリアの名前を出さないように釘をさすとして……でも何の援護もないのじゃかわいそうだからね。進んで後見にはなるつもりだ」
「手があるっていう顔ね」
「まあいろいろと。それにあいつの資質は表にさえ出せば認められるものだ。楽せずにせいぜい兄弟そろって苦労するさ。シャルルがそこまで辿り着ければ、蜜月後の兄上にも仕事を押し付けられる」
「リディ様に愛想尽かされないといいけれど」
「そこまでは面倒見切れないな。甲斐性の問題にまで口を挟むつもりはないよ」
リディ・サンリークを引きずり込んだことへの代償は、グラシアンだけが払えばそれでいい。結ばれた恋を持続させる方が、きっとそれまでの倍以上に苦労するのだろう。グラシアンはいつの日にか王族の義務を果たしに戻るし、そのために周囲は貴族の位を捨てさせない。そんな男に付き合っていかなければいけないリディ・サンリークには、王太子妃にならずともそれなりの覚悟は求められるのだ。
「続くと思うかい?」
兄を気遣う一方で、ランベールにとってはリディ・サンリークという女性はあまり価値がないのだろう。だからそんな残酷な聞き方が出来る。そしてまた、オレリアも――。
「続けばいいとは思うわ」
――幸せにとそう口にしたのは、嘘ではないのだから。
ただ、自分の手から離れた彼の人に、寄せられるのはもはやそうした願い程度であって……。
「ああ、そういえば」
「何か?」
少し前に考えたそれを、この場を借りてランベールに託そうと思いつく。
「グラシアン様への手紙を預かって欲しいの」
「手紙……? 何でまた」
最もな疑問を浮かべて紫の瞳が見開かれる。オレリアはどう言うべきか、それで伝わるのかと思いつつも言葉を紡ぐ。
「あの方、非常に申し訳ないという顔でわたくしを見るから……」
「ああ。まあそれはね」
「真面目に謝罪されそうで嫌なの」
「うん?」
「リディ様のことも、廃位になることも、グラシアン様にとっては大きな問題でしょう? そんな中でわたくしへの罪悪感まで解消しようとされたら、どれほど湿っぽい雰囲気になるかわからないもの」
「それが嫌だと」
「わたくしの答えは決まっているのだから、そこまで重たくなくていいわ」
グラシアンとリディ・サンリークは、近々どこか遠くの領地を賜って王都を離れることになるだろう。ランベールの話からすれば、次の王太子が決まる頃までは戻らない。それはオレリアにとってはいっそ都合がいい。その頃にはお互いの心も状況も落ち着いて、冷静に会話が出来るだろう。
早々に許すという一言を告げてやるのがグラシアンを楽にするとはわかっている。けれど時間が欲しいというのがオレリアの正直な気持ちだった。すっきりした先にグラシアンにはリディが待っているが、オレリアには誰もいないのだ。それは……悔しいではないか。
「またお会いしましょうと、それだけ書くつもり。自分で渡すよりは、あなたに頼みたいわ」
「いいよ。使い走りになろう」
嫌な言い方するのねと目で言ってやれば、喉の奥で低く笑う姿。
「――リア。君がこうも面倒で、本来どこまでも我儘で自尊心が高いということ、兄上はきっと見逃してしまったんだよ」
……楽しげに言うことではないだろうに。
話すべきことは話したのだろうと、オレリアは立ち上がった。
このなかなか掴ませない性格の男を相手にしていたら、らしくもなく自らを嘲笑いたいような気持ちも霧散してしまった。自分はとことん、恋に振り回されることに夢中になれない。これもまた性分なのか。
「あなたはそんなわたくしの自尊心を台無しにするのが得意だわ」
ふと思いついたそれを口に出すと、何故かいっそうランベールが笑う。何の含みも持たせない、子供のような顔だ。ときどきそうやって、奥の方から見せる表情にオレリアは昔から弱いのに。
いいやそれは違うんだなと、ランベールは否定した。
「俺が壊しているのは、リアが無駄に張る意地のことだよ」
「意地……」
「そうさ。まあ、そのことはゆっくり話す機会が来るよ。……きっとね」
肩口から零れる金糸の髪を払いつつ、ランベールそんな風に締めた。
長くなった髪は三年の月日を感じさせる。
同じようにまた、時間は流れていくのだ。それだけが誰にとっても平等なもの。
(また三年後には、どうなっているのかしらね)
一つの恋を主題とする舞台は終わった。
その主演たちから離れることが決まっているというのに、オレリアは早くも次の騒動を予感する。それは恋人たちが残していく問題の後片付けかもしれないし、放って置いていた誰かの想いの奮闘なのかもしれない。
――踊るのも楽じゃない。
かと言って主役に立候補したいとも思えないオレリアに待つ未来は……さてどんなものか。
「片が付くまでは独り身でいてもらわないとなあ……」
「何のことでしょう」
「でなければ頑張っている俺があまりに気の毒だと思わないかい?」
「好きでそうしているのでしょうに…………あ、それとわたくしには、ニノン様がいい殿方を紹介してくださるそうなので」
「はあ?」
「独身令嬢が四人で固まっているのもなんですしね」
「たしかに固まっている必要はないけれども、」
「どうせなら同じ時期にお嫁入りしたいものですね、とみなさんで話が合いました」
「君たち四人のアクの強さを受け入れられる男がどれだけいるかなあ」
「世の中は広いですもの。遊学から戻った従兄からは、二人で侯爵家を守ろうかと誘われましたし」
「…………本当に俺にだけは酷いね、リアは」
「そんなこと」
「面倒事が時間との勝負とは……鬼畜だな」
「淑女に言う言葉ですか」
「まあ見てなよ。だいたい“公爵閣下”の次は“あなた”で通す気かい? 俺は結婚しても愛称で呼ばれたい派なんだよ」
「未来の奥様にお頼みすればいいのでは」
「言ったね? 本当にそうするから。愛称知っているのなんて兄上ともう一人だけだってことを忘れずにね」
――さて未来は、どんな?
笑ってもらえれば幸い。こんな人たちです。
次でエピローグ的な話になるかと。




