2 終幕に向けて――フランシーヌの場合
フランシーヌ=アラベル・ルシエは血筋だけは正しい侯爵令嬢だった。
三代前には時の王女が降嫁したブロンゾ侯爵家だったが、先代当主が散財した挙句に領地の不作も続き、はっきり言えば家名だけの貧乏貴族だった。
フランシーヌが生まれた当初、父と母は頭を抱えたと言う。
貴族の家と家を繋ぐ人材として、女児誕生は喜ばしい。しかし、このままでは成長した娘に持参金すら持たせてやれなさそうだ――と。
フランシーヌが十五歳になり、社交界にデビューしたとき、ファサイエル侯爵令嬢を見た瞬間は素直に悔しいと思った。
オレリアというその少女は五歳のときに、七つ年上の王太子殿下の許嫁になった社交界一の花だった。まだ婚約まではしてないとは言え、ファサイエル侯爵家の権勢からしても彼女自身の美しさからしても、次期王太子妃は決まったも同然というのが常識だった。
そう、オレリアは美しい少女だったのだ。
艶めく漆黒の髪に空色の瞳。透けるように白い肌は滑らかで、均整のとれた体つきは十五歳当時で早くも女らしかった。けれど控え目な露出で抑えているドレスや、何よりもその楚々とした所作が一目引く生粋の淑女だった。
同い年の侯爵令嬢でありながら、自分とは天と地ほどの差が開いた相手。噂以上に完璧な淑女。
初めの悔しさは長引かず、そのうち素直に負けを認めるようになった。
フランシーヌとてそこそこの顔立ちだという自覚があった。財は無い代わりに母の教育は厳しく、人一倍に淑女の嗜みを身に着けるのに奮闘したとも思う。
けれどわずか五歳から未来が決定づけられたオレリアとは、その立ち方からして何かが違った。次期王太子妃という存在に向けられる嫉妬や羨望の嵐にも負けず、取り入ろうとする貴族たちを上手く捌き、その立場に奢ることなくいつも王太子から一歩引いた位置にいた。
そんな彼女と道が交わることなどないのだと、そう思っていたのが覆されたのはデビューから半年後。
そろそろ次代に向けて王太子殿下の後宮作りが噂される頃だった。
歴代の国王には王妃ただ一人を置いた者も居れば、何十という側室を侍らせた者もいる。ここ百年ほどの慣例では、王妃の他に数人の貴族令嬢を後宮に置くというのが普通で、だいたい二,三人ほどの側室が後宮作りの前に選定されるのだ。
選ばれた側室に手を付けるか付けないかは王の自由であるが、何にしろ王太子妃の地位が埋まったも同然なのだから、必然とその噂に飛びついた貴族たちは多かった。
そしてその選定にこそ、フランシーヌは引っかかったのだ。
考えてみれば変に財があるよりも、力がなくとも血筋だけは正しいブロンゾ侯爵家は側室候補筆頭だった。同じ時期に秘密裏に選ばれて内々の打診をされた二家、キリーシェル伯爵家とライプツ伯爵家の令嬢もまた、面倒な後ろ盾もいない、将来の外戚となっても間違いのない、そういう観点で選ばれたのだろう。
遠巻きに見るばかりだったオレリアと頻繁に会話をするようになったのは、やはりその頃からだった。
早い段階での後宮作りには、将来の王太子妃、または王妃になる者の心づくりのためとも言われている。政の分野に出るのはもちろん国王や王太子だが、王家そのものを守るのは女である王妃や王太子妃だ。国で女性としては一、二を争う権力を持つ一方で、つつがなく次代に王家の血を残すために、ときには自ら国王や王太子に女性を勧める必要もある。
ただ家格や血筋で選ばれる側室以上の責任と義務を負うオレリアは、嫌でも側室候補たちを早い段階でまとめ上げなければならなかったのだろう。
とは言え、オレリアは見た目よりも付き合いやすい令嬢だった。押し付けがましいところのない気遣いはささやかで、他の縮こまりがちな二家の伯爵令嬢たちのことも上手く社交界でリードしていたように思う。冗談も言わなそうな硬質な美貌から近寄りがたかったが、時にはユーモアも織り交ぜた会話は非常に博識さをうかがわせて、本当にこの少女は一心に王太子殿下の隣に立つための努力をしてきたのだと感心した。
そして内密に――おそらく王太子殿下も知らないことだ――王妃様に呼ばれた茶会では、非公式ではあるが『息子をよろしく』という一言を全員が頂いた。それは王家の総意であるとして、フランシーヌはほっとしたものだ。
当初の持参金さえも危ぶまれる貧乏な実家は、側室候補に挙がった時点で風向きが変わった。オレリアを介して各方面への口利きもあり、小さな事業がそこそこの成功を収めたのだ。仮にも側室に上がろうという家があまりにも貧乏ではという配慮なのかもしれあいが、感謝してもし切れない。
王太子の側に上がると言う大役よりも、一人でその多くの荷物を抱えねばならないオレリアの力でありたいとフランシーヌは思うようになった。
誰がどのような寵愛を得るかはわからない。
けれど何があろうとも、第一の夫人はオレリアであり、フランシーヌたちの一番の味方もまたオレリアであるということは忘れないでいようと思ったのだ。
後は王太子とオレリアの正式な婚約が発表され、後宮発足を待つばかり――。
……そのはずだった。あの、悪夢のような夜会の日が来るまでは、そのように楽しみにしていられたと言うのに。
十五歳でデビューしてその年に側室候補に挙がってから三年、フランシーヌとオレリアは十八歳になり、いわゆる適齢期の真っただ中にいた。二家の伯爵令嬢は二人よりも年上だったが、側室候補に挙がっている段階で嫁ぐことは諦めている。残り少ない独身生活を、なるだけ地味に過ごす毎日だとぼやいていたが、それでも穏やかな日々だったろう。
王城主催の夜会の招待状が貴族たちに届いたとき、これもまた王城の方から、ついに王太子殿下の婚約発表が成されるという話も流れた。そういった噂の場合は出所がしっかりしているもので、言うなれば公式の噂とでも表現すべきだろうか。
何にしろ酷く信憑性の高い話であるからして、どの家も普段より緊張した面持ちで夜会の場に集まった。
多くの人々の予想通り、王家の人々よりも先に現れたオレリアは、王太子殿下の瞳の色である深緑のドレスを着こなし、精緻な銀細工の髪飾りが普段よりも華やかに彼女を演出していた。
少し離れたところからその姿を見ていたフランシーヌもまた、自分のことのように鼓動が早くなったものだ。
最後に会場入りした国王夫妻の顔色は明るく、逆に強張った顔をする王太子殿下は柄にもなく緊張していらっしゃるのだと微笑ましかった。
名目上は普段通りの年二回ある王城の夜会であり、その通りの開始の仕方をした。そして国王陛下の臣下を労う言葉の後に、ついにそのときが来たのだ。王家に新たな一員が加わるめでたき日であると――。
しかし、快哉に包まれる会場の中、国王陛下がオレリアの名前を呼び王太子殿下の隣に誘導しようとしたそのとき――誰もが予想もしなかったことが起こった。『お待ちください』と硬い声で会場に呼びかけた王太子を誰もが訝しげに見る中、彼は国王陛下に向かう人ごみに分け入って行き、一人の華奢な少女の腕を取って声を張り上げた。
『ここにいるリディ・サンリーク嬢こそが、私が神の御前で誓うことを願う相手です』
――彼女は末席とはいえ貴族の血を引いており、王族に嫁することに問題はない。何より自分は彼女を心より愛し、彼女もまた同じように愛してくれている。自分が妻に望むのは彼女であり、今日この日を持って宣言する。
そんなようなことを真剣な面持ちで語っているであろう王太子殿下よりも、フランシーヌはオレリアから目が離せなかった。
衝撃の告白を聞かされた瞬間にはまさか知っていたのかと目を向けたが、フランシーヌが見たこともないほどに蒼白になったオレリアは、表情にこそ出ていないものの十分に目の前の事態に翻弄されていた。
ひとしきり愛を語った王太子殿下が、何が嬉しいのか悲しいのか、涙目で頬を薄紅に染めた少女――リディ・サンリークを伴って国王夫妻の前に歩み出た。その近くにはもちろんオレリアも居り、酷いことに王太子殿下が用意したであろうリディ・サンリークのドレスもまた深緑だった。
愛らしさはあるもののいまだ幼さが抜けきらない様子のリディ・サンリークより、社交界の花であるオレリアの方が美しい顔立ちをしている。そのはずなのに、喜色満面の少女と対比されては、オレリアの美貌もどこか色が霞んでいるようだった。
普段は温厚な国王陛下が罵倒に近い叱責を飛ばし、王妃殿下もまた今にも倒れそうな様子だった。だと言うのにそれらに頓着もせず、王太子殿下はオレリアに向き直ると、先にリディ・サンリークにオレリアを紹介し、強張った顔で相対する彼女にリディ・サンリークを紹介した。
社交界の基本である紹介の手順からして――もはや誰の目にも、王太子だけはリディ・サンリークを既に王太子妃として扱っているということがわかった。そしてその隣に立つものと誰もが思っていたオレリアのことは、露ほども気にかけていなかったということを。
あまりの腹立たしさに踏み出しかけたフランシーヌの足は、続いてオレリアにかけられた王太子の言葉に固まった。
――君のことは好きだった。でもリディが私の運命の相手なんだ。彼女の素直で何も取り繕わない心が私の救いだ。君ならわかってくれるだろう。だからもう君も立場に縛られることはない。お互いに義務でしかなかった関係だったのだから、もう何も気にせずに思うように生きてくれればいい。十三年間も君を縛り付けて本当に悪かったと思っている。
リディ・サンリークの手を愛しげに握ったそのままに、『君にも愛する人が現れるように祈っている』というのを最後に締めくくった王太子殿下に向かって、優雅に頭を垂れたオレリアの心などきっと誰もわかってはやれない。
『はい殿下。どうぞ愛する方とお幸せに』
微笑んでさえ見せたオレリアは、あの日以来、社交界では腫物扱いだ。
本当に婚約まで漕ぎ着けてしまった王太子殿下とリディ・サンリークに祝いの言葉を形ばかり述べても、高位貴族であるファサイエル侯爵家に憚って貴族たちの間は実に重苦しい空気に包まれていた。
そして誰もが思ったはずだ。このままで済むのかと。
フランシーヌは思った。このままでは済まされないと。
――済まされるべきでは、決してない。
オレリアやフランシーヌを始め、出てくる王侯貴族たちの名前は長たらしいです。一般庶民上りのリディとの区別のためだったんですが……凝るべきじゃなかったですかね(汗) すみませんが、この後には面倒な名前が続きます。爵位と姓は別物設定←(これが余計だった)




