19 同病相憐れめない(1)
若人ターンに戻ってまいりました。
明け方の冴えた空気の中、侍女や騎士たちが日常を営み始めるそれを眺めつつ、オレリアは王城の庭園を歩いていた。
時刻はまだ早く、貴人たちはいまだ夢見の中だろう。
昨晩は国王夫妻からそれぞれ部屋をあてがわれ、一泊することが許された。事態が解決したこともあって、不謹慎かとも思ったのだが、普段は嗜む程度であるはずの酒類をずいぶんと空けてしまった。
側室候補である令嬢方がそれなりに強かったのも計算外だが、何より明け透けのない言葉がいくつも飛び交ったのには驚かされた。
『これからどうなさるの……?』
問われたそれに、何を返せばいいのかわからなかった。
――どうもしない。これまでと同じ日々を過ごすだけ。
そんな風に言おうとして、言えないことに気付いたのだ。
オレリアが過ごしてきたこれまでの時間、特にこの十三年間に身に着けたことはけして無駄にはならない。この先どの家に嫁ごうとも、相手方に満足してもらえるだけのものはあるだろう。屋敷の女主人としての采配も、社交界で泳ぐ術だって、自分が苦労するとは思わない。
そして、貴族の夫人に公務はないだろう。外交に携わることもない。これまでランドロー家で許されていた孤児院や救貧院へ自ら視察に行くことも、新事業立ち上げの構想や領地経営への意見を求められることもない。いや、このあたりはむしろ許されないと表現した方が正しいか。男性社会において、女性が表に出ることは嫌われるのだから。
ゆえに、オレリアはこれまで通りに生きていくことが出来ないことくらいはわかっているのだ。
求められてきた素養や仕事の多さに目が回る思いだったこともある。だがその中の一つだって嫌だと感じたことはないし、嬉々として携わっていたところもある。世の中の女性の多くに許されないことを、オレリアは手出しが出来た。それを楽しみにすることで、王太子妃になるという未来を受け入れていたと言ってもいい。
無欲な許嫁などではけしてなかった。純心とも言えない。
多大な責任と義務の裏にある特権をオレリアは正しく理解していたし、それを手に入れて行使する未来に躊躇したことはなかった。
……夫を癒すこと、子供を生むことはいっそ自分でなくても出来る。そのために後宮は作られ、数人の令嬢たちが置かれるのだから。だが公務や外交の場で隣に立ち、ときに政に進言さえ出来る王太子妃と王妃は一つずつしかいないのだ。王国で男性社会に意見を言っていい女性は、ただ二人だけ。その片方の位置に自分が座るのならば、オレリアは出来る限りの権利を主張するつもりだった。
けれど、もうそんな未来は来ないのだ。
そのうちオレリアも、どこかの貴族のただ一人の妻として嫁ぐ日が来るだろう。そこでは癒しになること、子供を作ることが最大にして唯一の仕事になると言ってもいい。それさえこなせば他に何も求められない……いや、それだけをすることを望まれる。男性と同じ目線に立つなど許されないのだ。ときには例外の男性だっているだろうが、そんな人に政略結婚で当たるかどうかなどわからない。過度な期待は持たないことだ。
ならばオレリアに出来ることと言ったら、相手を愛する努力をするくらいのことだろうか……。
必死に恋だの愛だのというものを切り離してきたというのに、今度は真逆の方向に歩かなくてはいけない。ままならないものだと思ってしまう。
(けれどこれだって、自分で選んだのだもの)
半年前の夜会、笑ってグラシアンとリディ・サンリークを見送ることにしたあの瞬間に、オレリアは自らそれまでのものを手放した。
皆が言うように、優しいからだとか、人が好いからだとかではない。一度だって弱音を吐かずに責任と向き合ってきたグラシアンが、愛を選んだというのならば誰にも手出しが出来ないだけのこと。
思い浮かぶ限りでも、いくつもの方法でオレリアはリディを排除することが出来た。グラシアンに気取らせないように、協力者とて見つかっただろう。
……けれどそれが何になる?
至上の相手を見つけて、まるで幼い頃のように屈託なく笑うグラシアンを目にしてもなお、力づくで側に留め置こうなどとは思えなかった。そこでオレリアが密かに抱いてきた夢が潰えるとしても、それこそ一生自分には諦観しか抱かない相手と連れ添うなど……。
あの真剣さと笑顔さえ見なければ可能だっただろう。憐憫の目線を向けられるようになっても、本当に夫婦にさえなればだんだんと分かり合えるものだと思っていた。親愛や、友愛や。そういうもので代替が出来ると考えていたのだ。――二人の間に芽生えずとも、恋や愛などをお互いに考えなければそれで。
だがグラシアンは他者にそれを見つけてしまい、オレリアは誰にもそれを抱かないよう封印していた。もはやどうにもならない。例えグラシアンの行く先が王太子として相応しくない道だろうとも、せっかくの彼の光を無残に奪えるほどにはオレリアは残酷にはなれなかった。そうならないように執着しないことを選んでいたのだから、当たり前とも言える。
だが結局はそんな風に割り切ってしまえる自分こそが、グラシアンを離れさせた原因なのだと知っていた。
恋情など抱かないと決めた時点で、オレリアはグラシアンからも執着されないことを望んでしまったから。互いに一定の距離を稼いでいれば、期待して傷つくこともないと。
「我ながら歪んでいるわね……」
今になってそう思える。やっと、と言うべきか。
十五歳のあのときには、おそらく本能的に回避しただけなのだ。それが年々、付随させる理屈や何やらも増えて行った。頭で納得させようとしてきたのだ。
けれどもオレリアは、自分が思うよりもいろんなことを頭の中で処理できない人間だったのだろう。不器用で、きっと愚かなのだ。
だから……。
いつの間にか庭園の隅で立ち尽くしていた身体を、くるりと反転させる。
靄がかった視界の中でも、その色彩ははっきりとオレリアの目に映った。金糸の髪に、高い身長の――。
「あなた様の言う通りだったのかもしれませんわね、公爵閣下」
どのような顔をして相対すればいいのかもわからず、オレリアは珍しく微笑み損なった。
見つめる先、背の高い花木にもたれかかっていたヴァルナ公爵ランベールは、まるで怒られるのを怖がる子供を見るような――仕方のない、とでも言いたそうな顔で鮮やかな紫の瞳を細めた。
そのくせ、口に出す言葉は違うものだ。
「二日酔いではありませんか、お嬢さん」
揶揄するようなそれは、前夜の酒宴が遅くまで続いたことを知っているからだろう。
「少々眠い程度です」
「そう、相変わらず強いね。私も令嬢方とぜひ飲んでみたかった」
「お越しくださればよろしかったのに」
ゆったりとした動きで隣に並んだランベールは、今度こそ何かを嗜めるようにやや粗い手つきでオレリアの頭を撫でた。簡単に櫛で梳かしたのみの黒髪をくしゃりとさせられ、なおかつ淑女を相手取る紳士らしからぬ行動に、オレリアは瞳を大きくしてランベールを見遣った。
「――下手な社交辞令だね、リア。そんなに落ち込んでいるのか?」
言葉遊びすらする余裕がないのかと、責めるよりは慰めるような目で言うものだから、オレリアはどうすればいいのかわからない。
(それに、その呼び名は……)
「一緒にお茶でも飲もう。――それとね、いい加減に当てつけのように“公爵閣下”と呼ぶのはよさないか? 俺だって三年前のことは反省してるさ……。だからいろいろと、性に合わない我慢をしてきたことだってある」
選ぶ言葉は鋭いくせに、もうエスコート役をしてもうるさく言われないんだな、と言葉を続けて、オレリアの手を自らの腕に絡ませた所作は優しかった。
連れて行かれたのは、さらに庭園を奥に進んで行った先の、池に面した東屋だった。茶器の類はすでに用意されていて、元からこの場所に誘うつもりだったことがわかる。
備え付けられた椅子に腰かけるのと同時に、厚い生地のストールを肩に羽織らされた。薄紅のそれはいかにも若い女性に向けたもので、何故持っているかとオレリアは首を傾げる。
「早くに目が覚めて散歩でもと思ったら、リアが出歩いているのを見つけてね。朝はまだ冷えるだろうに、何でそう薄着なのか……」
君はどこか抜けているな、と言いながらランベールは自ら茶を入れ始める。早朝の冷気に晒されるオレリアを見て、侍女に茶の用意と上着を持ってくるよう申し付けたらしい。
その侍女が控えていなかったから、オレリアが給仕役を務めるものと思っていたのに、ランベールの手つきはかなり慣れたものだった。
意外なことだと見つめていれば、それに気づいて説明がされる。
「王族の男子は、成人と同時に騎士団に所属するだろ? 身分の関係で短期間ではあるけれど、一番初めは下級騎士として上級騎士の従者的なことをするんだよ。その中に武具の管理や馬の世話の他に、食事の給仕も仕事に入ってる」
慣れれば人を呼ぶよりも楽だと思い、臣籍に下って後は屋敷ではほとんど自分で用意しているらしい。公爵家だと言ってもランベールただ一人だけの家名なので、屋敷にそれほど使用人も置いていないからうるさく言われないのだそうだ。
それもおそらく妻を迎えるまでのことだろうと、オレリアは心中で呟いておく。
けれど常に身軽さを好んでいた第二王子は、今もその性質のままなのだと思えば少しばかりおかしかった。
「どうぞ」
勧められるまま、白磁に青い蔦花の茶器に口を付ける。琥珀色の茶は、いつも飲むものよりも濃いめに淹れてあった。
……おそらくは、夜遅くまで酒を飲んでいたオレリアを気遣ってのものだろう。腹に染みるような温かさに、思わずほっと息をもらす。
しばらく、朝靄の煙る湖や庭師自慢の薔薇を眺めながら茶を啜った。
こんな風にただお茶を飲むことさえ、この王城では久々かもしれない。成人してからは気軽に訪ねることなど出来なかったし、来ればそれは社交場の役目のうち。気を緩めていい場ではなかった。
そしてオレリアにとっては、目の前にランベールがいることもまた新鮮だ。兄王子の許嫁であるオレリアとはいわゆる幼馴染の関係にあたるはずだが、ゆえあってランベールが臣籍に下ってからは他人行儀な距離感を保っていた。指摘されたように、呼びかける必要があれば“公爵閣下”と言い、相手にも周囲にいる令嬢たちと同じ扱いを望んだ。
それが、そんな居心地の悪いことなどなかったかのように、数年前を覆わせる態度でランベールがいる。……いや、むしろその頃よりも落ち着いているかもしれない。 三年の月日はオレリアにとっても、二十四歳になるランベールにとってもそれなりの時間だったのだろう。
「……で、リア」
――この呼び名もまた、懐かしい。
ファール王家に多い緑ではなく、先王の王妃であった祖母方の色味である紫の瞳をやわらげて、ランベールは……。
「いまさら、君の何が歪んでるって?」
「………………あなたって、そういう方でしたわ」
昨日のように、他人を追い詰める間合いの会話が出てこないことからすっかり気を抜いていたが、生来ランベールとはこういう人間だった。
甘い顔立ちなど、相手を油断させるための装備でしかない気がする。色や蜜や香りで虫を寄せ、ばくりと食べてしまう花のようだ。しかも過分に毒もはらんでいる。ぐずぐずに身内を甘やかす毒であり、敵と認識した相手をいたぶる毒。
この場合、別にオレリアを敵と認識しているのではなく、ランベールなりの優しさの表現であると理解している。……いや、したくもないが。
それこそ出会った当初、十一歳やそこらから、この元第二王子様は大人の前ではどこか憎めない子供を演じつつ、オレリアやグラシアンの前では実に厄介で面倒で――苦手だった。
そんな内心のオレリアの引き腰な心など見通しているだろうに、先を促す視線は変わらない。
はぁ、とオレリアは息を吐いた。
絶対の味方である父にさえ話さなかったこと。でもたしかに、目の前のこの男はいつだってオレリアにとっては異質な括りの人で、だからこそ相手とするのに相応しいのかもしれなかった。甘い言葉が出るか、辛い言葉が出るか、まったく予想もつかないのがちょうどいい。
昔からオレリアの取り繕う心を踏みにじるのが得意な人だった。ならば余計な装飾は無意味であると、ランベールの態度に合わせることにした。庭園を歩いてくるとき、彼が呟いたように、もううるさく言われる立場ではなくなったのだ。お互いに。
「先ほど言ったでしょう? あなたの言う通りだったのかも、と」
「ああ、聞いたよ」
「三年前、あなたがわたくしに言ったことを覚えている?」
忘れているはずもないと思いつつ問うたそれに、やはりランベールはもちろんと頷いて笑った。
「社交界の花、オレリア=コンスタンス・ランドローに派手にぶたれた経験だしね」
「……あれ以降の経験はわたくしにもないわ」
「それは光栄だ。じゃあ俺が君の唯一の男か」
奇妙な言い回しで遊ぶランベールを、オレリアは思わず呆れた目で見てしまった。ぶたれる……女に頬を張られたことを、何故こうも嬉しそうなんだろうか。怖いではないか。
三年前、忘れるはずもない共通の記憶を鮮明に引っ張り出すようにランベールは一呼吸置き、そしてあの日のままに言の葉に乗せた。
「『リア。君は王太子妃には向いていない』」