17 先を行く者たちの告解――オーギュストの場合
誰であっても同じだとオーギュストは思っていた。
所詮、男の考えを真に理解してくれる女などはいない。
――重そうなドレスに厚い化粧、濃い香水に中身のない会話。
それが貴族令嬢というものの全てだと思っていた。二十七年前、二十歳のときだ。
だというのに、時間も王族としての責務も待ってはくれない。……いや、待ったところで同じだと思っていたのだから、最初から一切の期待をしないことに決めていた。
どのような女があてがわれようとも、そこに愛情が生まれなくとも、自分に課せられた勤めは果たそうと。
そんな凝り固まった考えを持っていた自分が、どうしてあのとき彼女に目を留めたのだろうかと、今でも不思議に思っている。
ざわめきと大量の華燭の中で、彼女は気負いもない様子でグラスを片手に壁際に立っていた。
焦げ茶の髪は複雑に結い上げられていたが、ドレスはいたって簡素な意匠でただ淡い青一色。宝飾も控え目な水晶の一揃えだけ。だがそれらはけして自らを飾り立てる術を知らないからではなく、どうすれば最も自分が映えるかを知っているからこその装いであるとわかった。
目を凝らした先、友人らしき女性と談笑する彼女の瞳がふいに向けられたとき、それが吸い込まれそうな空色をしていることが、離れた場所からでも何故か理解できた。
オーギュストがどのような身分であるのか、一目でわかったのだろう。それでも狼狽えることも媚びるでもなく、ただ素っ気ないほどにあっさりとした会釈を返し、おまけのような微笑みを浮かべていた。
まるでその空色を求めるように近づいて行ったオーギュストが声をかけると、手本のような礼を見せる。
『ノエミ=イレール・グロジャンと申します』
――お初にお目にかかります、王太子殿下。
聞き飽きたお決まりの挨拶であるそれが、まるで新鮮に聞こえた瞬間に、オーギュストは感じたことのない衝動に包まれた。
その意味も知らないままに、短い会話を交わし、その日は別れた。王城に戻ってから、同名の淑女について近侍に調べるように命じた、自分の行動におかしみを感じながら……。
だがそれが運命であると歓喜したのは、やはり周囲に任せきりにしていた王太子妃候補の筆頭にその名前が連ねられていると知ったときだろう。調べを任せた近侍の詳しい報告の中に、四つ年下の十六歳であると聞き、その意外さに驚愕した。
オーギュストはいい意味でも良くない意味でも、“王太子”という身分が淑女の注目の的であると自覚していた。年嵩の近い年齢の者たちはその隣に空いている椅子を狙って熾烈な足の引っ張り合いをしているし、年若い社交界に出てばかりの令嬢たちからは、いささか夢見がちな憧れというものを向けられる。
しかしノエミ=イレールは、そのどれでもない。少女と言っていい年齢ながら、その空色の奥にオーギュストへの過度な幻想はなく、ぎらついた野心もなかった。ただそこにいる人、と言った感じで会話をしていたのだ。そこらに溢れかえっている貴族の令息と同じであるかのように。
今までに皆無であったはずの女性への初めての興味を携えて、次に再会したのもまた夜会の場だった。
そのときは始めから彼女の姿を探していただけあって、見つけた瞬間に近づいた。舞踏好きな貴族が催した会でもあったから、一曲誘う形で。
どこか困ったように微笑みながらも、控え目に差しのべられた指先の細さに心躍った。軽やかに舞う完璧なダンスにも、その間に交わされる世間話がどこか悪戯っ気を垣間見せることにも、同時に女の艶やかさを感じさせることにも。全てに魅せられた。
……彼女しかいない。
オーギュストがそれを恋であると自覚した瞬間だった。
流れのまま二曲目のダンスも終える間際に、『君に話したいことがある』と耳打ちした。それは二度目に会う男女としてはいささか性急な誘いにも聞こえるが、オーギュストが承知しているように、彼女もまた自分が声掛けられた理由をわかっていたのだろう。
はい、と頷かれたままにバルコニーへと二人で出た。
喧騒を背後に夜風に当たりつつ、王族としては笑えるほど直球に、オーギュストはそれを問うていた。
『君は王太子妃候補に挙がっているが、それは承知しているか』
父から窺っておりますと答えられたそれに、オーギュストは笑みが深まるのを感じていた。
『どう考えている?』
――どう、とおっしゃいますと?
『王太子妃になるかもしれないということを』
何と答えて欲しかったのだろうか。……それはもちろん、肯定の意味で。嬉しいとか、そうであればいいとか。反対に自信がないとか、不安であるとかでも良かった。何にしろ否定でなければ、オーギュストはいかようにも話すことが出来ただろう。
しかし、ノエミ=イレールという人の返答は、少しばかりオーギュストの予想を裏切った。
――今は困ります。
『困る? ……今は、とは』
――わたくし、賭けの最中ですの。
『賭け』
――ええ。待ちたい方がいるのですけれど、永遠に待つと言えるほど健気な女にはなれそうもなくて。
本当は二十歳までと決めていたと言う。そのくらいならばまだ嫁き遅れにはならない。相手に見切りをつけて嫁入り先を探すことも出来るだろうと。
けれどオーギュストが言ったように、王太子妃候補に挙がったからにはそうもいかなくなった。期間は短くなり、せめて今年一杯はと思っていると彼女は語った。
――十四で気持ちを伝えましたら、子供は相手にしないと言われましたわ。
それっきり逃亡されて音沙汰がないのだと言う。
振られた形になったそれを、ノエミは認めないらしい。子供だと言うならば、成人した後はどうなのだ。永遠に子供ではない。年の差のことだってそうだ。縮まらないものをごちゃごちゃと……。このままで後悔するのは相手だ。だから待っている。今年中に戻ってくるならば許そう。戻らないならすっぱり記憶から捨てる。
……どこか傲慢で、けれどその相手について話す口ぶりが愛おしそうで、楽しげで。
オーギュストはそんなノエミに見惚れてしまった。恋敵がいるということの苦さを感じつつも、同じように愛しいという心を持っている彼女をさらに好きになった。
『ならば私も待とう。今年一杯は、君はただの“ノエミ=イレール”だ』
――殿下も待たれるのですか?
可笑しそうに声を上げる様子は、オーギュストがノエミを想っていることをわかっているのか、いないのか。
何にしろ後一年、相手など来なければいいとオーギュストは思った。彼女が十四歳のときから連絡がつかないという男。ならばもう二年は経つ。
『その男は、君が王太子妃候補に挙がっていることは知っているのか』
――さあ。手紙一つない相手にわたくしから伝えるのは無理ですわね。
けれど少しでも気にかけているのならば、調べくらいはつくだろう。内々の話とは言え、その男は宮廷内への顔もずいぶん利くと言う。
ノエミは相手の名前を明かさなかった。
それでいいとオーギュストは思った。彼女にとっての賭けは、自分にとっての賭けにもなる。王太子であるオーギュストが下手にその素性を知ってしまえば、焦りに託けてどんな手段を使ってしまうかもわからない。それで彼女に嫌われてしまえば本末転倒ではないか。
耐えよう。たった一年のことだ。
十四の少女を振った男が、戻ってくるはずもない――。
「だが、来てしまったんだ。よりにもよってあの男が……」
仮に男が戻ってきたとして、王太子妃候補の筆頭にまで挙がっている事実を前にしては、手の出しようがないと思っていた。オーギュストがノエミに対して乗り気であることも、裏では広まることだろう。
賭けに乗るとそう言ったのは、ノエミが自分の気持ちに整理を付ける時間を与えるため。そのくらいの意味でしかなかったというのに。
しかし約束の期間も残り一週間というところで、男は戻ってきた。
妙な意地によって調べを回さなかったノエミの相手は、オーギュストの予測のはるか上を行ったのだ。
王城にオーギュストへの謁見を求めてきたのは、黒髪に灰色の瞳と言う沈んだ色彩ながら、猛禽のように鋭いものを秘めていた、そびえるほどの長身の男。ファサイエル侯爵――当時はまだ次期であったが――ロドルフ=エリク・ランドローだった。
オーギュストの話を聞きつつ、アンジェルも頷く。
「私も、ノエミから想い人の存在は聞いていましたけれど……。実は侯爵の弟君の方だと思っていたのです。年もそちらとの方が近かったですし」
そう、十六歳のノエミの下に戻ってきたロドルフは、当時二十八歳。実に一回りの年の差があった。ちなみに彼の弟はそのとき二十二歳だった。
愛想笑いさえ浮かべないロドルフは、八つ年下のオーギュストに跪いて乞うたのだ。
――どうかお許し願いたく……。
ただ一言それだけを述べるロドルフの姿に、オーギュストは言葉が出なかった。
もっと何か、言い募られるものがあれば別だったかもしれない。今さら惜しくなったのかと言うことも出来たし、今まで放っておいたくせにと詰ることも出来た。なのに何も言わない。ただ許せと、そうして額を深く下げるのみ。
ファサイエル侯爵家は王国の建国史にも名を連ねる、名門中の名門。王家に並ぶ血筋の古さで、興した事業は軒並み上手くいき、財産も申し分ない。
だがロドルフという男は、例えその家柄がなくとも見ないわけにはいかない男だった。貴族令息たちの大半が家庭教師で済ませるその先、王立大学院を主席で卒業した後は、辺境にある私学に研究生として入り直した。
そこで発表された王国の百年計画とでも言うべき論文は、国を飛び越え周辺国でも評価されたのだ。綿密な地理調査から始まり、気象予測、各領地での統計や民の生活水準の変遷、最新の研究成果を組み込んだ圧倒される内容だった。
オーギュストはそれを、教師から教材として読み込まされた経験さえあった。
「まさかと思った。同時にノエミを愛するロドルフを……いや、彼を愛するノエミをどうすることも出来はしないと感じた」
王家の打診を蹴る危険性を十分に知りながら、躊躇いもなく振る舞う二人を見れば……。
「私は王太子妃候補からノエミ=イレールを外すことを約束し、直後に二人は結婚した」
あれは早業だった。貴族の婚姻がそう早く済ませられることなどないはずが、どのような手を使ったのやら――。
いずれにしろ、ノエミが賭けに勝ったことだけは確かなのだ。
「けれど私は初恋を簡単に片づけられなかった。負けを認める潔さに欠け、同時にロドルフへの羨望やら嫉妬やらがない交ぜになってしまった」
もうどうにもならないことを忘れるのに、周囲が推し進めた自分の結婚は好都合だと思った。ノエミともう一人いた最有力候補――アンジェルと顔合わせしたときには、ノエミとはまた違う意味で、オーギュストの考えていた貴族令嬢とは違うということにも安堵した。
……これならば失望することもない。“王太子”の伴侶としては最適であると。
「君には失礼な話だな。私はすっかり失恋に酔う男だった」
献身的な王太子妃であったアンジェルのことは次第に信頼し、様々なことを分かり合える同志のごとく思えるようになった。婚姻から一年後には子が生まれ、それが王子であったことも大きい。母親の顔になるアンジェルのことを愛しく思ったし、生まれた子供も可愛いと感じた。そのさらに翌年にはランベール。祖母の血を感じさせる紫の瞳の子供だった。
「次第に忘れられると思っていたのだよ。君との日々は穏やかで、満ち足りていた」
だがそう、ふとした瞬間に思い出す。
王国に戻って爵位を継ぎ、本格的に土地改良や新事業に着手し始めたロドルフの姿を目にするたびに、その懐にノエミの幻を見た。
――十六歳の初々しさと、大人びた愛を知る顔を。
そんな彼女が長年の悲願の末ついに懐妊したと聞いたとき、何かが決壊した。放置されていた初恋の残滓はいつの間にか澱のようになり、息苦しいほどに溢れかえろうとした。
それを抑えるため。愚かにも女に走ったのだ。ノエミの親友であるアンジェルではなく、その頃に新しく迎えられた若い側室の下に。
無事にノエミが出産したと言う報告を聞き、わかっていたことのはずなのに、彼女が別な男のものであることを実感した。何でもないことのようの公務をこなす傍ら、幸福そのものの自身の家族を見つめる中、何故か焦げ茶の髪と空色の瞳を探した。
「私は馬鹿だ。そうも未練を感じるくらいならば、愛しているとでも言って置けば良かったのに」
言葉遊びのようにノエミを誘ったきり。その後はロドルフに華麗に攫われて。
あのときこうしていれば今はと、昇華出来ないものを抱えたままだった。
――だが側室の下にシャルルが生まれたその二年後、ようやく五歳になるという娘を連れて侯爵夫妻が訪ねてきたとき、オーギュストは目にした。
幼さの中にはっとするほどの美しさの片鱗を覗かせる、黒髪に空色の瞳のオレリア=コンスタンス。娘を抱き上げるロドルフに寄り添う、妻となり母親となり、いまだ少女めいた容貌ながら確かに年を重ねた――三十歳のノエミ。
そんな幸福を絵に描いたような家族の姿を見たことで、オーギュストはようやく悟った。それは日々目にしている光景だった。
あの日に諦めたことは、こうして形になったのだと。
初恋の女性の隣に立ち並べなかった自分は、同じように幸せな家族を別な女性と築けているではないか。己によく似ている息子、自分をよく支えてくれる妻。
「そしてアン、あのとき君に言っておけば良かった。私はつい自分の未練が綺麗に片付いたことに安堵して、君に感じさせていた不安を見ないでしまった。すまない。……愛している。ロドルフとノエミがオレリアを連れてきたあの日に、それまでの時間をかけて君を女性として愛していたことに気付いた。そして今はもっとだ」
だから――国王としては、王太子の今回の行いに責めを問う。その一方で、父親として、男としてはせめてグラシアンを認めてやりたい。褒められないやり方の末であっても、息子は愛する女性と出会えて未来を誓った。自分よりもずっと近い道を使って。
「アン、アンジェル。君は私の誇りで、最も信頼する妻だ。愛するひとだ」
「オーギュスト様……」
――幸福なのだ。男として、夫として、父親として。
「グラシアンのことはもう何も言わないでいよう。だがオレリア嬢のことだけは、これからも見守らなければならない。――君にとっても、大事で仕方がない娘だろう?」
アンジェルがオレリアに対して複雑な愛情を抱いていたことは、オーギュストとて知っていた。けれどその中にはやはり純粋に、自分の娘のように愛しみ、育てる心があるのだ。アンジェルとはそういう女性だった。
もはや王太子の許嫁ではないオレリアに、表立って手を差し延ばすことは出来ない。けれどときに母のように、女性としての先達としてその道行を支えてやることは可能だろう。
少女のように、アンジェルが微笑むのをオーギュストは見た。
そして同時に似通ったぬくもりを早くに失ってしまったロドルフを想う。彼にとってオレリアとは、何に代えても傷つけたくはない存在だったろうに。
息子を愛してやまない心の片側で、沈黙の下に全てを飲み込んだファサイエル侯爵とオレリアに詫びる。何度も、何度でも。
……求められていない。意味のない謝罪でしかないとしても、もはや、それしか――。
似た者夫婦なのです。そして皆様のツッコミが入りそうですよね。「この人たちが一番ロマンスやってんじゃん」と……。
お次は猛禽な鬼侯爵です。