16 先を行く者たちの告解――アンジェルの場合
※お呼びじゃないとわかっていながら、すいません、ここから親世代の話です。
――知っていて? あなたも私も王太子妃候補なのですってよ。
『あら、そうなの』
――そうなのって……他に何かないの?
『何かって例えば?』
――話ではあなたと私が一番の候補なのよ。
『そう。血筋も家格も財産も、まあ似たようなものですもの』
――あなたと私で争うことになるわ。
『争う?』
――そういうことになるでしょう。
『選ぶのは王太子なのでしょ?』
――……そうね。
『選ばれたければ努力すればいい。逆なら何もしない。あなたはあなた、わたくしはわたくしよ』
――あなたが言うとずいぶん簡単に聞こえるわ。
『世の中、それほど複雑なことはないように思うのよ。全ての始まりは単純なことばかり。そこに余計なものを付けたがるから難しくなるの』
――達観しているのね。
『どうしたの。腹を立てているみたい』
――……ごめんなさい。八つ当たりね、こんなの。
『いいのよ。わたくしに怒っているの?』
――いいえ。結局は自分なの。
『話したくなったら話してちょうだい。待っているから』
――あなたって嫌になるほどかっこいいわ。
『ふふ、ありがとう』
――彼とはどうしているの?
『どうって?』
――仮に王太子妃に指名されてからでは遅いのよ。
『そうねえ』
――叶えたいのではないの?
『あなたは?』
――え……。
『叶えたいのでしょう。ならばわたくしのことなど振り返っては駄目よ。そこにはたった一人しか座れないの。望むなら今を逃してはいけないわ』
***
「アン……アンジェル、寝ているのかい?」
「…………ああ、陛下」
王妃――アンジェルは、つい薄暗い室内の中をぼんやりとしていた。湯を浴びてさっぱりとした身体は適度に温かく、ソファにもたれてつい記憶を遡ってしまうほどに心地よかったのだ。
「起きていましたわ」
「そうか……いろいろあった。疲れただろう?」
小皺の目立つ目元をやわらかく気遣いの色に染めているのが、ささやかな月明かりの中でもアンジェルには良くわかった。
……いつからだろう。こんな目をしていると気付くようになったのは。
「陛下こそ、お疲れ様でございました。……あの子のこと、待つ時間を下さって――」
「その先は言わない約束だ。君は責任を感じているようだが」
謝罪も感謝も必要はないのだと、国王である夫は言う。
けれど、とアンジェルは思うのだ。王妃であり、母である限りは考えずにはおられなかった。
「私が産んだ息子ですのに」
「…………」
「陛下は責めませんのね。――私の育て方が悪かったのだと」
二人の王子に恵まれた。王妃として何よりも尊い仕事をやりのけたと思っていたはずが……何故こうなったのだろうか。
二番目の王子であるランベールは、三年前に突如臣籍に下った。その詳しい理由を両親にさえ言うことはなく、王家の外に出る準備のほとんどを自分でそろえて有無を言わせなかった。……だがまあ、第二王子の奔放さ、少しばかりつかみどころのない性格は承知していたのだ。だが王太子は――グラシアンのことは、予想もしなかった。
「何故そんなことを?」
仕方がない人だと、国王は息を吐く。そしてまるで婚儀を挙げた当初の、まだ少女の時分であったアンジェルを相手するように、頭を撫でてくる。
「それを言うならば、私が君に産んでもらった息子じゃないか。そして同じ男であり、同じように王位に立つべき息子に、その生き方を私が伝え損なったと君は責めてもいいんだ」
「そんな……!」
「口さがない者が何かを言ったんだろう。君が気にすべきことではない」
半年前の出来事から、自ら腹を痛めて産んだ王子たちの育ちようを、悪しざまに言う者も少なからずいた。それは産んだ母がいけないのだと。
馬鹿げたことを言うと国王は思った。こういうとき、矢面に立たされるのが女性であることを歯がゆく思う。国王である自身に言うことのできないものはすべて、王妃である妻に降りかかってきた。
しかし宥めようとしたその言葉に、アンジェルは酷く痛いような顔をする。
「アン?」
「それでも陛下……いえ、オーギュスト様! 私は考えるのです。もし私でなかったら――ノエミだったなら、こうはならなかったのではと!」
「ノエミ……」
思い出の中に、鮮やかに生き続ける親友。色褪せない笑顔は心の支えでもあり、ときにアンジェルを苦しめる。愛しい友、けれど苦い想いを向けてしまう友。
ノエミ=イレール・ランドロー。ファサイエル侯爵夫人にして、あのオレリアの実母だ。
「侯爵夫人がなんだ?」
「私とノエミは、同じ王太子妃候補でしたわ」
長く伴侶を決めずにいたオーギュスト――王太子であった二十七年前に、アンジェルとノエミは同時期に候補に挙げられた。
血筋、家格、財産。何を取っても同じほどの伯爵家の令嬢であった二人。そして幼い頃からの親友同士。家同士は競い合う意識が強かったように思う。それを娘たちにまで強要する家風ではなかったが、社交界に出る頃になるとアンジェルの方が一方的にノエミを意識し始めることになった。
ノエミは美しく、聡明で、何か透き通るような魅力を持つ少女だった。それに比べると自分がはるかにつまらない人間であるように思えたのだ。外見は流行のドレスと化粧で飾られたものでしかなく、身に着けた知識は小賢しい女になっているようで、自分は他とは違うのだという自尊心すらあった。
それが十六歳になったときに、王太子妃候補の話を内々に聞いたのだ。中央に入り込みたかった父は嬉々としてそれを語り、母もまた成立すれば家の誉れであるとアンジェルを励ました。一方で、対立候補に挙げられた親友の名にアンジェルの心はざわついたのだ。
……彼女が相手では無理だ。
権力欲よりは、己が認められることを夢見ていたように思う。女としての最高位につく実力が、自分にはあると信じたかった。厳しい淑女教育にも耐え、そこらの令嬢よりずっと賢い自負がある。ただ貴族のお飾りの妻になるのではなく、自身の手腕で何かを動かしたい気持ちがあった。一つの歯車の中に組み込まれたい。
それは思えば、男性優位の社会に対する考えが、少し変わった形で表わされていたのかもしれない。
けれど――。
そんな浅はかにも聞こえる欲望を持つ自分だからこそ、ノエミが輝いて見えた。何にも囚われている様子のない彼女はあまりに自由で、自分が男なら迷いなく選ぶだろうと思った。そして実際、いつかの夜に……。
「オーギュスト様は、ノエミがお好きでしたでしょう?」
「なに……」
「ずっとノエミを見ていらしたわ。まだ候補であったときから。そして私がお側に上がると決まっても、王太子妃になっても、オーギュスト様の目はノエミに向いていらっしゃった」
気づかないはずがない。
いつしか、つまらない自尊心を満たしたいという欲求以上に、見つめる先の偉丈夫を恋しく思い始めたアンジェルにはわかっていた。自分の注ぐ視線と同じような熱を持って、オーギュスト王太子の瞳はノエミに向けられていると。
王太子妃の座にアンジェルが着いたのは、別にノエミに勝る部分を周囲から認められたわけでも、オーギュストに選ばれたからでもない。諸国遊学に勤しんでいたはずのファサイエル侯爵家の次代であった男が帰国し、電撃とも言える速さで彼女が結婚してしまったからだ。同時に爵位を継いだ男の隣で、ノエミはあっさりと侯爵夫人になった。
内々とは言え王家から打診されていたはずの王太子妃候補の話を、それはもう見事に蹴った形だ。
にわかに騒ぎ立てそうになった者を黙らせたのが、他ならぬオーギュストだったと言う。
二人の結婚の後にアンジェルは正式に王太子妃に選出され、半年後には結婚、一年後にはグラシアンを、さらに次の年にはランベールを生んだ。
王太子妃としての最大の義務を果たし、国王に即位した夫の隣で今度は王妃の冠を頂いた。
そして日々の公務に忙殺される中で、アンジェルはオーギュストの想いの先を考えないようにしていたのだ。“公”の妻である自分を、これでもかと大事にしてくれる。思い遣りがあり、優しく穏やかな夫。……けれど熱くたぎるような視線は、人妻になったはずの親友へ。
唯一のアンジェルの慰めは、自分よりも半年前に結婚したノエミには子が出来なかったことだ。王子を二人産むという大役を果たした自分とは違い、愛し合う親友夫妻には懐妊の報が訪れなかった。
それは暗い愉悦だ。親友を案じ、授かりものなのだからと労わる一方で、自分がオーギュストの妃になった価値を感じた。ノエミではなくアンジェルだからこそ、王家と王国の未来は安泰なのだと信じたかった。
だが長男のグラシアンが七歳になった頃、ノエミは子供を生んだ。ファサイエル侯爵の黒髪と、貴族令嬢たちが羨んで仕方がなかったノエミの空色の瞳を受け継いだ女児だという。侯爵領で生まれたその女の子を直接見ることは叶わなくとも、嬉しさの踊るような手紙を受け取ったとき、その子の愛らしさが目に浮かぶようだった。
そして同じ頃だろう。新しく迎えた若い側室――どことなく、少女時代のノエミに似た女性のところに、オーギュストが通うようになったのは……。
「ああ、アン……」
参ったなと、オーギュストが呟く声をアンジェルは聞いた。そこには気まずさと、何故か恥じらうような雰囲気が漂う。
「オーギュスト様?」
「そうか、君は……だがなあ」
まるで若いころのように、頭を白いものが混じり始めた金糸の髪をくしゃくしゃと掻きまわす国王の様子に、アンジェルは感じていたはずの不安や哀しみを一瞬忘れて瞠目する。
……何だっていうのだろうか。
そしてアンジェルの夫は、『確かに』と言ったのだ。
「侯爵夫人……ノエミ=イレールに寄せる気持ちは、あった。一目惚れに近かっただろう。彼女が私の初恋の相手であり、長年思い続けた女性だ。君の言う通りに」
ああやはり、とアンジェルは目を閉じる。直接尋ねる勇気は、当時のまだ若かった自分にはなかった。親友が早逝してしまってからはなおのこと。
ノエミが体調を崩し、あっという間に亡くなったときには、長い間に募らせていた彼女へのどこか暗い感情の全てが灰になってしまった。
何故、と思ったのだ。自分が王太子妃になっても、王妃になっても、ただ唯一と言っていい心からの友人に、何故あんな歪んだ気持ちを向けたりしたのだと。その身を労わり、子供の誕生を喜び、彼女の永い幸福をどうして祈ってやれなかったのか。
――失ってしまってから後悔した。それは今でも消えない。
だからこそ、オレリアに対してあんなにも懸命になったのかもしれない。素直で賢い少女のことをまるで実の娘のように想ってきたが、そこには親友への罪悪感もあったと今になって気づく。
早くにこの世を去らねばならなかった親友に、生きている自分がしてやれることだと思い込もうとした。ゆえにグラシアンの仕出かしたことが、こんなにまで打撃となったのかもしれない。
……ノエミの娘は――オレリアはあんなに素晴らしく育ったのに、また自分が、自分の息子が、愚かな真似をするのだと思った。いや、自分の息子だからこそ、そうなったのだと。
せめて夫に糾弾されたならと思っても、三十年弱も寄り添ったオーギュストはそれは違うと言う。
アンジェルの内心を読んだわけでもないだろうに、同じだけ年を取った夫は、彼女の薄い身体を包み込む。湯上りで火照っていたはずが、いつの間にか人肌以下に冷めてしまっていることに気付いた。
そんな妻に体温を分けるように、オーギュストは穏やかな声で懺悔し始める。
「だがアン、許してほしい。こんなことを頼める身じゃないが、それでも聞いてくれ。……私は愚かな男だ。愛のなんたるかを知らないまま、幼さを何年も引きずって君を傷つけた。アンジェル、すまない」
「オーギュスト、さま……」
「王太子妃候補に二人の令嬢が挙がっていたことは、もちろん知っていた。だが当時の私は結婚に興味は持てず、王族の義務であるという考えばかりが強かった。選定は周囲が行うものだとして、私は令嬢たちの名前すら聞かなかったんだよ」
――二十歳を過ぎた自分には早いことではないはずが、まだ妻などという存在を必要だとは思わなかった。慣れない身の上を公務に連れ回すことも想像するだけで面倒になったし、夜会の度にかしましく囲んでくる令嬢たちの姿には辟易していた。
だがある夜、やはり仕事の一環として出席したどこぞの夜会の場で、オーギュストの目は自然とその女性に吸い寄せられたと言う。壁際に立って談笑している二人の妙齢の女性のうち、ノエミ=イレール――当時はグロジャンという姓だった――の名を持つ人に。
夫が語り始めるそれを、アンジェルは心して聞こうと思った。
息子が……例えその若さゆえに起こした過ちがあったとしても、二十五歳の彼が立ち向かい答えを出した現実に、自分は倍以上の年数をかけて向かい合うのだ。
――見ないふりをしていた。
グラシアンは愛の名に代償を払ったが、アンジェルは贖うことを恐れて愛など見ないことにした。オーギュストに向ける想いも、何もかもを。強く鈍い女の仮面を被った。
けれど今日という日は、アンジェルにとってはまだ終わっていない……。