15 デュ・ナ・ファールの決断
あの結末を予想していなかったのはもしかして私だけなのかしらと、ニノンはううむと首を傾げた。
目の前には――ローストビーフにパテ、茹でた海老、スモークサーモン、オイルサーディン、ブルーチーズを始めとする数種のチーズに、鴨のハム、蒸し鶏、ゆで卵、トマトやキュウリ、温野菜のサラダ――色とりどりの具材と、クラッカーに薄切りのパン。
いささか行儀は悪いかもしれないが、それらを自らの手で乗せてカナッペを作り、給仕たちがせっせと注いでいる酒のお供にしている。
ニノンたち貴族令嬢にはあまり見ない光景だが、今日くらいは許されようと笑顔で宣言したのはフランシーヌだった。王城に保管されているどの貴重な酒も好きにしていいと王妃自らのお言葉もある。躊躇するかと思われたオレリアやナタリーでさえ、それならば、と遠慮なしに侍女や侍従たちを侍らせて酒盛りを始めた。
どうせ女同士で気を使う仲でもない、礼儀はどこかに置いておこうとなったのである。
……同時に、四人ともが今日の騒ぎで昼食を抜いていたために、このように豪華な肴まで用意させている。夕餉ではなく酒の肴を、と注文を受けた王城の料理人は目を白黒させたことだろう。
(それにしても酒豪だわ、この三人……!)
酒に弱い自覚のあるニノンでさえ、今日は調子がいいのかいつもより飲んでいる。が、脳内がふわふわし始めてきたころに果実水に切り替えている。それに比べて三人は当初からその飲む速さが異なっていたし、今もそれぞれに好きな味を求めて、グラスに注ぐ手を侍従たちが止められないほどだ。
「あら、このワイン美味しいわ」
「赤がお好き?」
顔がいつもより赤らんでいるはずのフランシーヌだったが、その口調はまだまだしっかりしている。
濃い赤紫の液体を嬉しそうに揺らす様子に、普段よりも少し無邪気な笑顔でオレリアが問うた。
「ええ。領地で作っているのも赤なのよ」
ふうんと声をもらしつつ、ナタリーが年嵩の侍従に声をかける。
先ほどから素晴らしい飲みっぷりを披露する令嬢たちに、顔をしかめるどころか何故か侍従は喜色満面だ。尋ねられる度に原産地やその特徴などを、歌うような口調で披露する。
ニノンもその語り口に釣られて、飲んだことのない異国の酒を口にしてみたくらいだ。
「タダイ産ですって。子爵領だわ」
「あの子爵様、楽しい方よね。ときどき明け透けな言い方をなさるけれど、話題が豊富で飽きないわ」
「隣国に最新の農法を学ぶために留学をなさっていた方ですわ」
記憶を探ったのだろう、一拍おいてからオレリアが言う。
「まあ、お詳しいのね」
「お会いするたびに声掛けしてくださるのです」
「さすが王太子の許嫁だわ」
「“元”です」
「そうでしたわね」
くすくすと笑う三人に、ニノンは少しばかり呆れる。もうそのことを笑い話に出来てしまっているのだろうか……。
けれど実際、フランシーヌの言葉にオレリアが何かを気にした様子はなく、少し気難しいところのあるナタリーでさえ酒の力なのか楽しげに声を上げた。
「オレリア様は何を飲んでいらっしゃるの?」
「……“命の水”です」
恥ずかしそうに少し言いよどむオレリアの姿が新鮮で、思わずニノンやナタリーの年上令嬢たちは微笑ましいと思ってしまった。同時に驚きも混じる。
背の低い武骨なグラスに注がれているのは、シャンデリアの光をとろりと反射する琥珀色の液体だ。普通は酒に強い紳士たちが好むもの、とされているのだ。
「お強いのね。予想以上だわ」
「当家は父とわたくし二人きりですので、自然とそういったお相手もわたくしがするのです。兄か弟がいれば別だったのでしょうけれど、父も家の中でまで慎めとは申しませんし」
女だてらに所領管理の手伝い、事業拡大の構想を練るオレリアのことを、ときに父である侯爵はまるで息子のように扱うこともある、と。周囲が思うほど厳格で保守的な家風ではなく、侯爵家の内側はいたって先進的だという。
淑女は弱い酒を控え目にすすり、早くも酔ったふりをするものだ。特に未婚の令嬢はそうでなくてはならない、と淑女教育の最中に飽きるほど言い含められる。
社交界の花であり、誰しもが認める淑女であるオレリアの意外な一面に、ナタリーは興味をひかれたようだった。
「お酒は父君に教わったの?」
「ええ。後は王妃様です。十五になる前に己の限界を知ることだ、と」
「あらまあ」
「それはまた……」
王太子妃になった折には、そこらの令嬢たちよりも男性に近い位置で夜会やらをこなすことになる。嫁入り先を探す未婚の淑女たちとは違って、酒の席はそのまま公務となり、ときには外交の場にもなるのだ。
長い時間を過ごすのに酒に弱くてはそういった公務では不利になるし、自分の許容量を知っていなければ醜態を演じることにも繋がるが、何より女ゆえの危険にも襲われる。それとなく酔わせてあれこれ、というのは男性にはありがちの手段として、王妃は笑顔の奥にどす黒い何かを浮かべていた。同時にそういった“失敗”を望む輩に付け入る隙を与えない意味でも、王妃はオレリアを鍛えたのだ。
あの淑やかで物静かそうな外見の王妃は、意外にも女傑と評していいかもしれない。
(壮絶だわ!)
自分では耐え切れないだろうと、何度目かもわからないことをニノンは思った。
でもそうやって出来上がった“オレリア”は、たしかに隙がない……ように思う。それこそが彼女を孤高の存在にしている気がしてならない。
美しくて賢くて、強くしなやかな。けれど反対に、醜く愚かしく、弱く凝り固まっているような部分はあるだろうか。それを見せられる相手は、いるだろうか。
「オレリア様は――」
気づいたときには、ニノンは果実水のグラスを持ったまま口に出していた。
「これからどうなさるの……?」
その問いかけに、楽しげにグラスを傾けていた令嬢たちがぴたりと動きを止める。自然とニノン以外の二人も視線をオレリアへと向けた。
リディ・サンリーク誘拐事件から発展した――いや、ニノンたちのように何も知らぬ者の前にも明らかになった、半年に渡る王家の企み……とでも言えばいいのか。
それらに決着がつく形になった今日という日がもうすぐ終わる。
けれど、とニノンは思うのだ。
本当は何も終わってなどいない。受けた傷は癒されず、掘られた溝も埋まらない。
例え、あのような幕引きがなされたのだとしても……。
***
“リディ・サンリーク”という個人を捨て、“王太子妃”として生き直すことが出来るか――。
「あたしは……あたしには――」
それきり何も続かないリディ・サンリークを、誰も責めはしない。
彼女自身、打ちのめされているというよりは、自身の内側へ向ける悔しさを滲ませて唇をかみしめている。青灰色の瞳は燃えていて、涙を流さないように堪える姿を、ニノンは初めて彼女を美しいと感じた。
(出来ると、迷いなく答えられるなんて間違いなんだわ)
――愛だけではどうしようもないことを求めているのだ。
その資質が零か一かは、人によって違う。そしてたった一でも持っている人間が、どんなに稀有な存在か。それを見出し、育てることの難しさはどれほどだろう。
政略結婚が普通である貴族令嬢たちの中であっても、割り切れる者が何人いるか。
オレリアにそうしたように、リディ・サンリークにその資質が欠片でもあるとわかれば、国王夫妻もその息子たちも、彼女が王太子妃に相応しいように教育することを決めただろう。今度こそ逃げは残されず、王太子の伴侶としての道を用意されたはずだ。
だが求めるものはあまりにも厳しく、稀で、ときに“女の幸せ”からは程遠い。誰より愛する人の側にいるのに、誰よりも遠い場所にいるのと同じ。隣同士に見せかけて背中合わせ。一心同体のそれはたしかに運命共同体だけれども、愛し合う者同士であるよりも、戦友であると表現する方が近いほど。
……そんなことが耐えられるか? 本当にただささやかに幸せであることを望んできたに違いない、そんな女性に。
手を繋ぎ、一緒に歩き、働き合って、食事を囲み、子供を産んでともに育て、その成長を愛しみ、最後には隣り合う墓に入ること。長い人生を、二人で向かい合って生きるそれだけを夢見ている彼女にはあまりに酷だ。
(そう、私は側室候補で良かったと思ったのよ……)
ニノンの中にだってそういう女が願う普遍があるからこそ、オレリアの立ち位置ではないことをほっとした。オレリアの幸せを願いつつも、自分ではその場所を耐えることなど出来ないとはっきり思ったのだ。
……今考えれば、なんて勝手で、酷い考えだろうか。
愛する男のためだけならば出来たかもしれないことも、いつか国や民のためにそんな夫を黙って見送らなければならない可能性を考えれば尻込みする。愛されて大事にされることを知ってはいても、何かの事態に己が切り捨てられることだって有り得る。
――“女”であること。“王太子妃”であること。
痛め付け合わないはずがないそれらに耐えて、矛盾を飲み込んで……それは愛だけでは出来ないのだ。
「生きる世界が、違うってことなのかな……これがそうなのかな」
ぽつ、と落とされたその声は震えていた。零さないように踏ん張っているはずの涙腺は限界に近く、眦には熱いものが溜まっている。
誰に問うわけでもないそれが、リディ・サンリークにとって初めて知る絶望なのかもしれない。唯一の想いを手にしたはずが、何故こうも辛い選択が突きつけられるのか……。
何の言葉もかけられない人々の中、ゆるりとオレリアが首を振ったのが見えた。
「いいえ、そうではありませんわ」
オレリアは、笑っていなかった。空色の瞳は蒼穹の高さを思わせて、どこまで澄んでいっそ冷たくも見える。けれどリディ・サンリークに向けられる声の暖かみには、紛れもなく彼女への思い遣りがあった。
「貴女様と殿下が出会い、愛し合ったのですもの。生きる世界はどこまでも同じです。けれどそう――これは生き方の問題なのでしょう。受け入れられないことは何の罪でも、不思議でもありません。貴女様が、誰より、何より、グラシアン殿下を想われている証明です」
誇りとしてくださいませ、とオレリアは言った。何に遮られることもなく、二人は二人でありたいと望むのは、それが純粋すぎるほどの愛情だからだと。
一度たりとも二人の関係を否定したことのないオレリアは、そんな言葉を贈るのだ。まるでそうでいることは出来なかった自分こそが、咎人か何かのように。
(何か、後悔なさっておいでなのかしら)
完璧に許嫁を勤め上げ、今回のことだって何の落ち度もないはずのオレリアが――何故ああも、リディ・サンリークを眩しそうに見るのか。
王太子に想われる彼女が羨ましいからではないだろう。ならば早くに、隠しようもない嫉妬に塗れていたはずなのだから。しかしオレリアは二人の愛し合う様子そのものに、何らかの感想を持っているようには見えなかったのに。
(じゃあ何故?)
心に寄り添えないもどかしさに、ニノンは悲しくなった。友人になれたと、そして同志であると思ってきた。けれどオレリアの気持ちを察するには、あまりにニノンは自分が無知だと感じた。愚かであると。
ついにぽろりと一筋涙を流したリディ・サンリークの肩に、グラシアン王太子がそっと手を乗せた。
それはこれまでのような、何もかもから庇おうとするものではなく、ただその手のぬくもりを分けるためだけの、そんな仕草に見えた。
王太子はその深緑の瞳を一度閉じ、大事そうに一呼吸をしてから、国王夫妻に向き直った。伸びた背筋の美しさに、ニノンは王国の夢を見る。いつからか憧れ続け、そしてあの夜会の晩に失ったはずの……。
「両陛下に願い出たきことがございます」
お聞き届けいただけますか。
そう続けられた言葉に、国王はしっかりと頷く。王妃もまた伏せた瞳の奥で、これから何が申し出られるのかを知っているようだった。
「私たちは神の御前で誓い合うことを望みました」
けして大きくはないけれど、張りのある声はその場を打つ。
「しかし一方で、古の誓約を守るに相応しい人間ではありません」
その言葉は愛しい婚約者すら庇わない。この場が催されてから初めて、“グラシアン王太子”として発せられたものだ。そして自らを糾弾するものでさえある。
――古く王家の始祖が、神と国と民に誓ったこと。王国にとって第一の臣であること。
だが自分たちはその一族の、次代を担う者には値しないと王太子は言った。
ニノンは震えた。
何故こんな場面で、この人はこうも輝いているのか。夜会の晩に衆目の前で愛を叫んだ瞬間よりも、はるかに大きく強い人間に見える。
金糸の髪に、深い緑の瞳。高い背に鍛えられた身体。――王家の男性だと、歴代の肖像画と見比べてもはっきりとわかる特徴。初代国王と同じ色を持つ人だったのだ……。
迷いのない言葉が、表情が――。
そのうち何故か視線は国王夫妻ではなく、かつての許嫁であるオレリアへと注がれた。険悪に交わったことなど思わせない、それは事情を知らない人々から見たならば、まるで愛し合う男女が想いを伝え合うかのようで。綺麗な、一枚の絵にしたいほど。
「私は、“王太子”の地位を返上したく存じます」
声にならない悲鳴を堪えるように、自らの口元を手で覆ったリディ・サンリークの傍らで――元許嫁同士だった二人は、互いにどこか不器用に、痛みを分かち合うように微笑みあっていた。
令嬢たちの女子会(完璧な給仕付き)……