13 愛を謳う婚約者に問われるものは、
(あきれたことだわ)
ナタリーは詰めていた息を吐き出しつつそう思った。
結局、長々と続けられた話を統合してみれば、恋人たちの幸福の反対側で天秤にかけられた国の問題を、王族たちは直接の指摘をせずに、二人がどうするのかを淡々と判定してきたわけだ。
コインを投げる権利――すべての取捨選択を王太子とリディ・サンリークに預けた時点で、彼らはいかなる結果をも受け止める覚悟を持った。けれどそうした手段を取り、直接の介入をしないことを決めたのは、親心であり兄弟心、肉親の情がこれでもかと込められていたからだろう。
一方で、すべての結果が出そろい、後戻りは一歩たりとも出来ないこの状況になってから、彼らは王太子に種明かしをすることにした。
(残酷で、傲慢な……)
切り離せない情を見せる一方で、王国の頂点に居続ける王家の非情さをも忘れない。
王侯貴族と一括りにされていても、高位貴族と下位貴族の間にある明確な差は埋められず、またその上の王族とはさらに別種の生き物のようなものだ。そんなわかっていたはずの事実に、ナタリーは薄ら寒さを感じる。
そんな特殊すぎる場所に、オレリアは単身嫁ごうとしていたのか――。相応しくなるために心を鍛えて、必要な鎧を用意して。
(けれど、あなたはどうかしら)
王子たちの言葉の応酬の中で、いつしか顔色を失くして黙り込んだリディ・サンリークにナタリーは目を向けた。
焦げ茶の髪に、青灰色の瞳。華やかさよりは朴訥さを感じさせ、美しさよりは可愛さの方に傾く……それでも平凡な容姿。中肉中背の身体つきは正直に言えば胸がほとんどないが、健康的でのびのびしている。
それでも、見た目はただ見た目だ。磨き上げることに心血を注げば、今よりも輝く可能性は十分にある。数年後には豪奢なドレスにも負けない、化粧や香水にも慣れた淑女の姿があるかもしれない。だがやはり見た目は見た目、それだけのことが繰り返される。
ゆえに……。
「だったらグレイは、何に対してなら自由に振る舞えるんですか? ……あたしが駄目だってことは、もうよくわかりました。王族のみなさんも、貴族のみなさんも、オレリアさんを望んでるんですよね。それを台無しにしてしまったことは、本当に申し訳ないって――。でも、それはあたしが悪いんです。グレイのせいじゃないです。だってグレイは戻ってきました。『王太子の責任を捨てるわけにはいかない』って。苦しんでいるグレイを助けてあげたいっていう身勝手な考えで、あたしが連れて行けと頼んだんです」
――だからこうまで王太子を責めてくれるな。
――やり直す機会を与えてくれ。
神妙な顔に涙を浮かべて、それでも青灰色の瞳には決意を滲ませてリディ・サンリークは言葉を発した。
その場の人々が、それぞれに抱く彼女への感情のままにそこを注視する。
「あたし…………あたしは、ここを出て行きますっ! 婚約は解消してください、あたしはここに相応しくない。もうグレイとも会いません。王都も出ます。ずっと遠くに行きます! だからせめて……グレイには、彼にだけは少しの自由をください!! 王太子である前に、グレイは“グレイ”という一人の人間なんです!」
沈黙が。
もう何度目かはわからないが、おそらくこれまでで一番の長い空白の瞬間が訪れた。
最後に、お願いしますと頭を下げたリディ・サンリークに、王太子ですら声を忘れたように。
初めに我慢が利かなくなったのは、この場が始まってからずっと怒り続けているナタリーの同志である。
「――……まだおわかりになりませんの? あなたの理解で得られる答えなど、もう誰も求めておりませんのよ」
煮えたぎる湯のような激情を、表面上だけは必死にこらえようとするフランシーヌだったが、その努力は誰の目から見ても悲しい結果に終わっている。強気そうな双眸は眦を吊り上げ、瞳の奥にはリディ・サンリークよりなお強い感情の嵐が渦巻いている。頬を紅潮させ、噛み締めた唇が切れていないかと不安になるほどだ。
王族としての話が始まった時点でオレリアが一歩引いたように、この場で本来フランシーヌがこんな言葉を出すのは不敬に当たる。まさか咎められるかとナタリーは身を固めたが、静かに座る国王陛下は、かすかに頷くことで彼女を許した。
「わかりきった事実を何度も繰り返し言葉にするのも、取り返せない事柄に謝罪するのも、取るべきときに取らなかった行動も――無意味というものです。あなたに出来ることで、いま必要とされるものなど何一つございませんわ」
貴族令嬢としての、標準として備わっていた婉曲さを取り払ったフランシーヌの言葉は、向けられている相手が自分ではないにしても、あまりに辛辣で的を射すぎているとナタリーは目を覆いたくなった。
気持ちはわかる。同意もしたい、よくやったと言ってやりたい。……けれどフランシーヌは本当に容赦がない。
オレリアへ寄せられていた期待の事実。
沸き起こったすべての原因だという謝罪。
王太子との別離宣言。
(本当に、意味がないわ)
今さらオレリアの立場を戻せるはずもなく、彼女に付いて回る不名誉をリディ・サンリークは払拭できない。その要因となった自分自身の存在を謝罪したところで、何の慰めにもならない。死んで詫びてみても、そこに死体が転がるだけ。だいたいそこまでの手段は取らないだろう。
――市井で生きてきた彼女にとって、謝罪が受け取られない、万一にもやり直しが出来ない事態などそうそうなかったことだろう。せいぜい人の死がある程度で、それは万人の上に降りかかる唯一の平等だ。
しかし貴族社会は違う。軽々しく口に出した一言が、言質を取られて後にどんな結果を生み出すのかわからない。立場ある者ほど言い回しは婉曲に、そして遠回しになり、真相を薄絹で覆うのが普通になる。会話、文字。それらを使う状況、場所。すべてに気を回すものだ。怒り狂っているフランシーヌが言葉を差し挟んだことも、国王が一言咎めれば不敬という罪になる。
貴族は滅多に謝罪しない。取り返せる言葉や行動があるならば、まずもってするなというのが普通である。慎重さを失った者に挽回の機会は与えないのだ。
そしてリディ・サンリークが決死の想いで告げたであろう、愛の放棄もまた、この場の人間たちにとっては価値にならない。
(むしろ本当にそうなってしまったならば、)
「面倒が増えるから、君には何もしないでもらいたいな。リディ・サンリーク」
……誰の、と一瞬思うほど冷たい物言いは、微笑みすら浮かべて兄の王太子に状況を詳らかにしていた表情を一変させた、ヴァルナ公爵ランベールだった。
そのあまりの激変に、ナタリーたち側室候補や王太子の側に控える二人の側近、そしてリディ・サンリークは骨の芯まで震えた。無表情になっただけではない。紫の瞳には、本当に面倒だというそれしか浮かんでいない。
――リディ・サンリークを見る目に、同じ人間に対する興味の一切が込められていないのだ。ただそこにある事柄の、面倒さだけを説明するのみ。相手に対して心がない。ナタリーたちが思う厭わしさも、側近たちがなおも向ける慕わしさも。侮蔑や思いやりも何もかもがない。
ヴァルナ公爵にとってリディ・サンリークが“どうでもいい”人間であることが誰にもわかる――それを秘める気遣いすらもなくなった光景を、恐ろしいと言わずになんと言おう。
「君が殿下の側を離れるべきだったのは、夜会をぶち壊す直前までのことだ。出会ってからの四ヶ月間に豊富にあった機会を逃した時点で、君に逃げる権利はなくなった」
「逃げるなんて、あたしは……!」
「フランシーヌ嬢が言ったろう? 君が考え付くあらゆるものを、つまり私たちは否定する。言葉も、考えも、行動もね。だがまあ、黙っていられないなら説明しようか。例えば今から、君が殿下の側から離れたとする」
そこでヴァルナ公爵は形だけの冷えた笑みを、その美貌に浮かべた。優男風であるはずが、刃物の切っ先を常に相手に突きつけているに等しいものを感じる。
「殿下との婚約を解消すると一筆書いて王城を出た途端――君は死ぬ」
「え……」
「正しくは、私が君を殺す」
言われている意味がわからないと、今度こそリディ・サンリークは錯乱に近いほど首を横に振った。
それを宥めるように王太子は腕に囲うが、弟の公爵が発した言葉に否を唱えない。その顔は苦いものを含んでいるが、ヴァルナ公爵への非難はなかった。
側近のうち、武官のセザール・ブロチエが体の筋肉を張りつめさせるのがわかる。騎士の性分で、本気の籠った殺気を前にする無意識のものだろう。
……身分あるものほど容易に言葉は使わない。『殺す』という引き下げられない言葉を使ったヴァルナ公爵は、冗談だなどと欠片も思ってはいないのだ。
「なら僕は後方支援かなあ。『慣れない貴族社会ですっかり精神が摩耗した婚約者を、王太子殿下は苦渋の決断で自由にし、王城を去った彼女は国を出ることにしたらしい』……とでも世間一般には話を流布させる」
――遺体は隠し、リディ・サンリークの身代わりを用意して、必要ならば彼女のふりで数年国外で生活させるのだ。
いかにも慎ましやかな日常に戻った“元婚約者”の出来上がりだと、第三王子のシャルルはへにゃりと笑って続けた。
「何故なら、僕らは“王太子の元婚約者”に煩わされるわけにはいかないからね」
「その通り。我々がやらなければ、似たようなことを他者がやる。命は奪われないだろうね。むしろ甘い言葉を囁かれて丸め込まれ、王太子や王家への駒の一つとして大事に飼われる」
元、と名がついた時点で関わりのすべてが切れるわけではない。一度でも婚約者という正式な名前がついてしまったリディ・サンリークは、例え王城を去ったところで、王太子や王家にあだなすことを考える者たちにとっては、多大な利用価値があるのだ。
取られた人質を、もう関係がないのだからと言って切り捨てることは出来ない。そうした事実もまた、王太子や王家の名を貶めるために有効活用されるだろう。
「実際に命を奪わず、君が死んだことに偽装する手段もある」
病死でも事故死でもいいが、不運にも急に亡くなったとして、別人として秘密裏に国外脱出させたり、山奥の修道院にでも匿うことは可能だ。王家の力、ヴァルナ公爵の手腕があればそう難しいことではない。
ならば何故と、リディ・サンリークは目を見開いた。
「だったら――」
「でもそれを私たちが君にしてやる義理はなくなるだろう? ……王太子の婚約者でなくなるのならば、リディ・サンリークという女性を庇護する義務が王家から失われる」
王家は王国の民を守る。そして平等に扱う。そこに特権は与えないのが普通だ。将来的に王太子妃という王族の一員になる人間だから、リディ・サンリークは王城への居住と、国の騎士を配してその身を守る権利を得た。
けれどそうでなくなるならば、少しの火種も残さない手段を選ぶに決まっている。実は生存しているその事実を押し隠すよりも、実は死んでいるという事実を隠す方がよほど簡単なのだ。
利を追求する人間は、足取りを追ってリディ・サンリークが実は死んでいるのだと悟った段階で、その興味を失くすだろう。
――残酷で、傲慢な。
ナタリーが思う通り、王家とは、王族とはそういうものだった。一を切り捨て、千や万を救う。
けして純粋な正義を追求する人間たちではないのだ。正道に見せかけ、どれほどの血を流して憎悪を受けようとも、古に誓約した国と民を守るために生きる。
虚飾の舞台だと人々には気づかせない一流の役者たち。その手段や発想は狡猾極まりなくとも、真の王族とはその心根になんの不純も抱かない――ただ国のため、民のために生きているからなお性質が悪いのかもしれない。彼らの、終わりなき舞台での好演が、そのまま王国の歴史になっている。その下で、人々は生きてきた。
国王夫妻が何も言わないのも肯定の証だ。
そしておそらく、念には念を入れ、実際にリディ・サンリークを殺さなければならなくなったときには、国王夫妻は知らぬ存ぜぬの立場を貫くことだろう。計画と実行はヴァルナ公爵と第三王子で行われる。いかなる場合でも、国民を国王夫妻が害したという事実を作らないために、感知はしていても関わらないということにする。
既に王位にあっては出来ないことを、信頼する息子たち――王子たちは何も言わずとも確実にやり遂げると信じて。
そして有り得ないことではあるが、リディ・サンリークが本当に側を離れるということを許可した時点で、王太子もまたそこに名を連ねることになる。三人の兄弟たちは国のために、“王太子の元婚約者”の存在を消すだろう。
「一度上がった場所から、そんなに簡単に逃げられるとは思わないことだ。君は“王太子”との未来を望んだんだよ。つまり自ら王太子妃になりたいと言ったんだ」
対価のない望みなどはない。そのように、ヴァルナ公爵は言うのだ。
(初めて彼女が気の毒だと思うわ)
ナタリーも、その他の誰もが、リディ・サンリークがそんな欲望を持っていたなどとは思わない。
ただ愛する男と一緒になりたくて、その側にいたくて、その一心だった。その付随する余計なものとして“王太子妃”という立場を捉えていたであろうことも、わかっている。付いてくるならば仕方がない。どうにか努力してそれを受け入れよう。……そんな風に思っていたことも予想がつく。
だが異質な場所に踏み入るとき、自らの価値観や常識を持ち込む危険性には気づくべきだった。まるで通用しないそれらに、こうなってから気づいても遅すぎる。
突きつけられる重すぎるものの前に、リディ・サンリークはそれでもと言い募ろうとした。
お前は何も出来はしない。何もかもが面倒を生み出す存在でしかない。そんな風に言われて黙っているのは難しいだろう。
「ならどうすれば……? あたしはグレイのために何が出来るんですか!」
愛する男を支えたいと望んだ女の叫びとして、それは妥当だった――。
けれどここは……この場所では。
「――ねえ、リディ・サンリーク。僕は前から思ってたんだけど、その“グレイ”っていうのは誰のことを言っているの?」
シャルル第三王子のとぼけたような声に、リディ・サンリークは何を言っているんだと盛大に眉根をしかめた。
だが第三王子として、いまさら脳の疲労に飲まれたわけではない。
頑是ない子供を見るような目で――リディ・サンリークより五つも年下の、ようやく成人したばかりであるはずのその人は、ひどく悲しそうな声で誰も教えなかったことを告げた。
「自分で気づいて欲しかったんだ。『存在しない人間を作り上げて愛する』なんていう、そんな倒錯にひたっていることの愚かさに、さ……」
あまりに過激だと非難轟々の予感……