12 ファールの筋書き――賭けと試練とその代償
残りの二つの賭けの内容は、思い返せばそこが大きな分岐点だったという代物だ。三つ目の賭けのように、ランベールや誰かが設定したものではない。ただコインを振る役割の、グラシアンとリディ・サンリークに、より比重がかかっていたのは間違いのない事柄だった。
内容に介入できないということは、賭けをする側に分の悪いことだ。
シャルルはランベールに代わり、言葉を引き継いだ。
「この悪趣味な計画をランベール兄上が立てたきっかけになったんだけど……。まあ一つは、グラシアン兄上がリディ・サンリークと恋に落ちた時点で始まってるよね。その想いにどう決着をつけるか。それが最初の賭けになっちゃった。まあ、僕らも負けてから気づいたようなものだけど」
――恋愛をするのは悪じゃない。想う相手と結ばれたいと思うのは自然なことだ。
けれど“グラシアン”という個人とは別に、長兄はまず“グラシアン王太子”だった。生まれながらの王家の嫡男で、十二歳でオレリアと許嫁同士になったのと時期を同じくして王太子の位に就いた。
市井の人間のように、婚姻を結ぶ相手を選択する自由を周囲は王子に与えていない。
王家の婚姻は、王国にとっての婚姻だ。その下には数多の貴族たちと、それより多くの民が生きている。
貴族社会に上層を占められ、下部へ命令と資金が巡る仕組みのこの国では、その逆三角形型の頂点に位置する王族の婚姻は、巡り巡って庶民の懐さえ左右する。特に王族男子の嫁の生家がどれほどの家格と財産を持ち、どのような関係図を横に広げているかはいたって重要だ。
もちろん、王族とて心はある。シャルルだってそれは否定しない。
だからどうしても叶えたい望みがあるならば、考え抜いた策を必要とするのだ。
三年前、突如として王家から出ることを願い出て、王子の称号を返上したランベール。そのときもまた派手な騒ぎになったものだ。
正嫡の第二王子の身分はそう簡単には手放せない。だが、ランベールは自ら落としどころを用意していた。
――王家からは出る。しかし王族の義務には応じる。
その名称一つ持っているのと持っていないのとでは、認められる権利も、求められる義務も天と地ほども違う。
一見正式な王家の人間に比べて公務もなく、内実を知らぬ人間からすれば王家の外にいる王族は気楽そのものだが、実際は役職のない大臣級の立場であって、給与の出ない働きを半永久的に求められる。儀礼や式典のたびに駆り出され、もしもの場合があればわずかに手に入れたその半縛の立場から、再び王家に戻らなければならない。
条件付きのそれを自身で提示することで、ランベールは国王夫妻と貴族たちを説き伏せ、王家の外に出た。
そうまで王家を出たかった理由はついぞ打ち明けなかったランベールではあるが、能力や性格から考えても、またそれらの義務を放棄しなかったことからしても、王家の人間でいることの不安感やら何やらに襲われて……などという、可愛げのある理由であるはずはないだろう。
けれど長兄グラシアンは、オレリアとの正式な婚約の日時が差し迫っていたことに加えて、初恋の熱病ですっかり逆上せているような状態だった。
余裕や冷静さの欠片もなく、ほぼ無計画のままにあの夜会の日を迎えたようなものだ。
「兄上がオレリーとの婚約延期を求めるなら、まだ可能性はあったんだけどねー。いきなりあんな大勢の前で“ぶち壊し”に走ったんだから。取った手段は最悪? ファサイエル侯爵家の名前に泥を塗って砂をかけて、叩き割って踏みにじったようなものじゃないかな」
「……そこまで落ちてませんわ」
シャルルの過剰な表現に、思わずオレリアがそう言った。
同時に理解していたはずの――正しくは恐ろしさのあまりそう思い込むようにしていた事実の掘り返しに、王太子は顔を歪め、リディ・サンリークはまるで初めて気づいたような驚愕の顔をする。
(まあ彼女は本当に初めて思い至ったのかもしれない)
貴族がどれほど体面を大事にするか。それがすべてであると、リディ・サンリークにはわからない。……そんな常識の中では育っていないのだから。
だが実際に、十三年の月日をかけて不動のものしていたオレリアの貴族令嬢としての地位は台無しにされ、高位貴族のファサイエル侯爵家の名前自体も貶められたのは間違いない。あの後、リディ・サンリークに擦り寄る輩がいたのと同時に、掌を返すようにオレリアやファサイエル侯爵家を嘲笑する者も湧き出た。
……あれほどの屈辱を、それも忠義を誓う王族に味わわされてなお、ランベールがした依頼に応えてくれた侯爵は奇跡の人である。同じく、誰のことも恨んでいないオレリアはもはや神の域だ。
「兄上やリディ・サンリークは、真正面から二人を阻む壁に立ち向かったつもりだったかもしれない。堂々と愛の力で乗り越えたと思っていた。けれどね、大多数の人間はあれを奇襲攻撃だと捉えたよ。闇討ちだね。気づかない間に忍び寄ってバッサリ。あ、しかもオレリーは友軍に切られた扱いだから、なお酷い」
時間稼ぎをしつつ、周囲が折れるほどの立場や後ろ盾を用意してリディ・サンリークを仕立て上げ、徐々にその協力者を増やすことが出来ていたら。それこそが正面突破、堂々の勝利というものを得られたかもしれない。
貴族の末端の血を引いているうんぬんという、事実であったとしても胡散臭いそれだけではなく。もっと目に見える形で誰にも口出しの出来ない手段――大貴族の養女にしてしまうとか、人のいいオレリアの心根に付け込んで、誑し込んだ彼女の口からその場所を譲る旨を宣言させるとか――そのくらいしなければ。
というか、そんな力技くらいしか手はないのだ、本当は。
だが実際は誰にも文句のつけようがないオレリアという女性の前に、取って付けたような血筋の身分を付与した程度の女を、愛の名の下に押し出した。その上でオレリアに向かって、『お前はこの女に劣るから用無しだ』と大衆の晒し者にすることで、余所から連れてきた女の存在を有耶無耶にして内側に入り込ませた。
(うん、どう考えても奇襲だ……)
至極乱暴だが、それは力技ではなく誤魔化しの部類だ。
「王太子――王家そのものに裏切られた形になったオレリーは、例えばの話だけど、兄上が考え直したところで二度と王太子妃になる道には戻れなくなった。有り得ないけれど国王陛下がオレリーに直接頭を下げたって無理だ」
事はオレリアとファサイエル侯爵家を貶めただけでは済まない。
高位貴族筆頭の家との約束事をあっさりと放り投げ、そして一人の貴族令嬢が捧げた十三年間を無に帰した。それはいわば、王家にとっての相手がファサイエル侯爵家でなくとも、今後も同じことがあり得るということだ。
――悪しき前例を作ること。
これこそを誰もが恐れるのだ。
特に臣下にとって、不利益になるそれを主家が率先的に行ったという事実は忠心の失墜に繋がる。容易く裏切る臣下もいらなければ、使い捨ての駒のように臣下を扱う主家はさらにいらない。
約束事そのものが正式な効力を持たない――“許嫁”と“婚約者”の間には歴然とした差がある――という乱暴な理由を通すことでグラシアンは場を凌いだと思っているが、実際は何呼吸かの差で国王に先んじて声を張り上げただけであり、第一あの“公式な噂”というものが出回った夜会が開催された時点で、本来は手遅れだった。
追及されずに済んだのは、運が良かったからでも、息子可愛さに国王が見逃したわけでもなく、ただオレリアの人がよすぎただけである。権力欲が薄いことも、男女の愛でなかったゆえの執着心のなさもこの場合は関係がない。愛する人と幸せにとかけたその声のまま、オレリアはただ王太子の未来を守る手助けを馬鹿親切にもしてやったのだ。
騒ぎ立てる周囲の声にオレリアと侯爵が沈黙を保ったことで、この件について王家に追求するつもりはないと言う意思表示になった。誰の目にも落ち度が明白なものを、見て見ぬふりをすると言うのだ。王家のファサイエル侯爵家への借りは、限りなく大きなものとなった。
「最初の賭けは、私がリディを妻に望んだ時点で勝敗が決したということか」
「――少し違いますね」
苦く呟いたグラシアンのそれに、ランベールが訂正する。
「殿下がリディ嬢との間に正式な婚約ではなく、側室にする約束を交わせば問題は最小にとどまりましたよ。賭けそのものが必要なく、二つ目も三つ目も起こり得なかった。馬鹿げた筋書きを用意して我々が芝居を打つこともなく、今頃殿下はオレリア嬢と公務に勤しみながら、まあ夜はこっそり婚約者公認の恋人のところに通っていたんじゃないですか。来年になれば正式にオレリア嬢が王太子妃になり、後宮が発足。みんな仲良く殿下の妻です」
一人を愛するという誓いの尊さは誰もが認める。それを貫こうとした長兄の心根はランベールもシャルルも好ましいと思っているのだ。
だが自身が世の中の特例を許される身――いやそれに縛られる身であることを、グラシアンは己とリディ・サンリークに刻み込まなければならなかった。
賭けが行われたのは、王太子が出自の怪しい女を愛したからではなく、その女に将来の王太子妃の地位を許そうとしたからだ。瑕疵のないファサイエル侯爵令嬢オレリアを排するという暴挙と合わせて、国が定めるものを歪めようとした。
「最初の賭けが起きてしまい、その時点で僕らは負けた。そこからの二つ目は連動性があるんだよ。切り離せないから、正直に言えば連敗することは予想済みだった」
激高したグラシアンがオレリアに暴言を吐いたとき――皮肉にも答えに一度辿りついている。
「もうオレリーを引き戻すことはどうやっても出来ないから、周りは物凄く譲歩してリディ・サンリークとの正式な婚約を認める形になった。まあ折れるべきじゃなかったかもしれないけど……。で、兄上がそれはもうリディ・サンリークを愛しちゃってるから、出るだろうなぁとは思ってたんだ――……後宮廃止案、あれね」
今度ばかりはグラシアンも、察することが出来ていたらしい。やはりという顔で、そこには後悔ではないが、自分が引き起こした諸々のことを思い返す複雑な表情が浮かんでいた。
――愛する女に、自分が与えられる一番の立場を。
そう望んだ王太子が、後宮発足を黙って見過ごすわけはないだろうとは予期していた。
「一番の妻、唯一の妻。似ているようで、本当は違うんだよね」
順番は、ただの順番だ。王太子妃に付随する権力と寵愛が比例しないように、最も愛されるのが側室の一人あるなどざらなことだ。だからこそ寵姫という言葉がある。
そして王太子妃や王妃という椅子に座る女性とは、“公”での妻の頂点。しかし王太子や国王の私的空間である後宮においては、その順番が側室たちと入れ替わることがある。
政に夢中になるのと同時に、その疲れを癒すために女を求めるのは、王族の男性にとってはごく普通の性である。そこに侍る女性は出来るだけそれらの仕事には縁遠く、ただ癒しと快楽を与えることが望まれるものだ。
どんな女性を好み、選び取るのか。
当の王族男性よりも綿密にそれらを考えて配する手腕が、王太子妃や王妃には求められる。ときには国にとって毒となる女性を遠ざけるため、ときには国が取り込みたい貴族から差し出された娘を近づけるために、上手く王族男性の心を動かすのが仕事だ。王太子や国王にとっては私的空間と位置づけられる後宮こそが、王太子妃や王妃にとって夜会や茶会の最上位に位置する“公”の仕事場であり、国の未来を賭けた戦場である。
賢君と呼ばれた王の時代には、それ以上に評価されるべき賢妻とでもいうべき王妃の存在が付き物だ。表の世界である政に、裏の世界である後宮の内実は、けして切り離せない強力を持って結びついている。
――政を動かすのは男。だが男を動かすのは女。
しかし“公”と“私”の折り合いを、それほどまでに上手くグラシアンがつけられるようだったら、そもそもリディ・サンリークが長兄に惚れ込んだかが怪しくなる。男女一人ずつの関係性が普通で健全で清廉だという常識のリディ・サンリークが、王家の常識を適用させる男に身分差を克服する勇気を持ったとまでは思わないのだ。
……つまり、二人が出会って恋に落ちたときから、何もかもがこうなる要素はあった。
先ほどランベールがわざわざグラシアンの言葉を訂正したが、あれはただ理屈であって、次兄とてそれが長兄に可能だったとは微塵も思ってないのだ。
欲が深いから後宮を持てというのではない。……逆だ。愛だけで、国で最も高貴で責任ある女性の立場を個人の欲望で決めてはいけないからこそ、せめて後宮を持てとそういう話だった。
けれど生真面目で心優しく、情に深くときに不器用……そんなグラシアンに、求めることが酷だとは家族の誰もがわかっていた。
だから、シャルルの言う通り一番始めに折れるべきではなかった。例えオレリアに再び隣に戻ってもらうことが出来なくとも、どのようにでもして最初の賭けを潰していれば――。
――だが、現実に『もしも』は存在しない。
三つの賭けは、そのまま試練とも言い換えられる。
半年間の、表の舞台の主役は愛し合う二人。立ちはだかる“愛の試練”に挑み、正式な婚約を結び、後宮廃止案を打ち立て、危機に陥った愛する女は無事に男の腕の中に戻った。……結果はすべてに勝ち続けた、それと同義。
だが裏で同時に行われたのは“王族の試練”。
グラシアン王太子とリディ・サンリークの正式な婚約を許し、後宮廃止案を口に出させ、予想された通りに王太子の婚約者は危機回避能力の低さを見せつけた。すべてに負けた結果だ。
――賭けと試練。共通するのは負けた場合の代償である。
自覚しないままに二つの舞台で主演を勤めてきたグラシアン王太子とリディ・サンリークに、終幕の宣言をしてもらわなければならない。
そのために真実を告げる役どころの者たちを集めた。賭けと試練の勝敗を明らかにし、負けた側が何を代償として払うのかを、二人こそが決めることで終幕宣言とする。
これこそが、今日という日のために用意された――王族の筋書き。
町娘と王太子の恋物語が、「王太子妃じゃなくて側室になってね!」っていう終わり方だったらイヤですよねー……。
表の舞台、グラシアンとリディは愛の試練に勝ちまくった正道な恋人同士です。逆に裏の舞台では、オレリアという最強に育った駒を失った王族が、なんとかして「パワーゲームの舵取りはその女には無理だから!」と恋人たちに気づかせようとしたという……。