11 ファールの筋書き――第三王子の憂鬱
生真面目で堅物なところは利点で、ときに驚くほど不器用な一面を見せることはあっても、致命的じゃない。王太子としては非常に有能で、冷静沈着さの裏は、心優しく情が深い。
そんな異母兄のグラシアンを、シャルルは王国の理想だと思っていた。
長兄の隣に立つことを望まれるオレリアもまた、それに足るものと認めていたし、もしかしたら兄以上に尊敬していたかもしれない。
五歳で背負わされた重荷を放ることなく、奢ることなく、むしろ楽しみながら相応しいだけの己をたゆまぬ努力で作り上げてきた。
鋼の心――そう、騎士のような忠義の女性。
シャルルにはオレリアが、グラシアンを守護する騎士に見えていた。
だからこそ長兄は、ああまで揺るがぬ風情で王太子の務めを果たしている。
――二人は、王族の誇りで……人々の夢だ。
だから、半年前の夜会の場で兄がオレリアではなく、どこからか連れてきた見知らぬ女の手を取って、愛だ、恋だ、運命だと言ったときには――湧き上がってくる弾けそうな笑いを堪えるので必死になった。
腹がよじ切れるかと思ったのだ。笑うしかないとはあのことではないか。
(兄上、うわ兄上!! なんてことだっ!)
激高する父王にも、倒れそうな義母である王妃にも悪いが、これは何を言っても聞かないだろうと言うことも瞬時に悟った。
何故なら十三年も側にいたオレリアに抱かなかった恋情を、道端で肩がすれ違ったような女に抱き、そこから四ヶ月で婚約すると宣言したのだ。
平民――いやどこかの貴族の血を引いているのだったか――なんでもいいが、その精神のありようなど理解できるはずもない周囲の人間から見れば、誰からしてもオレリアに劣る女を、未来の王太子妃に望むという。
よりにもよって自分に一番忠実な騎士を、衆目の前で剣を折って打ち殴ったようなものだ。長兄の側近である騎士に同じことをすれば、間違いなく憤死するだろう。
でなくとも、オレリアの神経がそうまで頑健でなかったら、その場で泣き崩れて命を絶たれていてもおかしくなかった。
そんな未来図を少しも予想しなかった長兄がオレリアをよく知っていたと言えば聞こえはいいが、ただ単に彼女に甘えっぱなしだった上に、恋に燃え上がってさらに脳内が単純化していただけのことだ。おめでたい。
……おめでたいというグラシアンのことこそを、オレリアがやけに理解していたから許されたに過ぎない。
巷に溢れる恋の病の罹患者だ……それもかなり重篤な。
大人になってかかる初恋とは麻疹より厄介だと、シャルルは心の底からそう学んだ。
……運命やら愛やらを持ち出されたら仕方がない――とはなるはずもなく。
かつてない大騒ぎが、シャルルの目前で始まった。
良い意味で生真面目な兄は、悪く言えば融通が利かないというやつだ。
心優しく情が深い一面のすべては、ぽっと出てきたどこぞの女に傾けられた。
それらの騒ぎを、義姉になると楽しみにしていたオレリアのように、何もかもを楽しく思える余裕はシャルルにはなく……。
強いて言えば、なぜか次兄のランベールがこれまで以上にその手腕を発揮したことくらいだろうか。
***
「まず先ほどの言葉で察せられると思いますが、我々がした三つ目の賭けの内容は、リディ嬢の誘拐事件の顛末です」
もったいぶった話しぶりは実に次兄らしいとシャルルは思う。
(こういうところが意地が悪いというか、イイ性格をしているというか)
事件などと言うが、それを計画して指示した本人が使うと何かが違う気がしてならない。
「……つまりはなんだ。リディを誘拐することを自分たちで計画しておきながら、賭けのコインを投げる役は私たちに充てた――と」
「上手いことをおっしゃいますね」
王太子の比喩に、その通りとランベールは頷く。
そう。賭けの内容は知らなくとも、コインの表と裏のどちらが出るかは、王太子とその婚約者であるリディ・サンリークにかかっていた。三度の賭けすべてがそうだ。
「まず誘拐そのものを成功させるためには、リディ嬢に迂闊なことをしていただく必要があった。侍女や護衛騎士を撒いて、王城の端の方で一人にでもなってくれればと思っていましたが……まさか期待以上のことをやらかしてくれるとは。いい協力者でしたね」
ランベールの言葉に、リディ・サンリークは当然ながら非常にバツの悪そうな顔をする。
シャルルもまた、今日の昼前に彼女がほいほいと町娘の服装で王城を抜け出すところをこの目で目撃したときには――呆気にとられた。まさか。そんなまさか、である。
侍女や護衛騎士が簡単に撒かれた事実も眩暈がすることながら、偶然にもそれを見つける自分の奇妙な運にも首を傾げるしかない。こそこそと不審者の鏡であるかのような動きで、よくすんなりと出れたものだ。王城内の警備を見直さなければいけないと思う。
何より驚くのは、本当にリディ・サンリークは、自身に起こるかもしれない危機の可能性など露ほども考えていなかったということだ。いくら王太子や側近が、(過保護すぎて誰のためにもならなかったが)いらぬ怯えを招かないために黙っていたとしても、予想くらいつくだろう。
何故こうまで軟禁されているのか。
王太子や側近たちが側にべったりしているのはどうしてか。
……まさか貴族とはこういうものだと勘違いしたわけでもないだろうに。
わかりやすい悪意の目線にだって晒されたはずだ。自分が良く思われていない感情に触れれば、必然と警戒心やら何やらが高まるはず――。
市井育ちで孤児の割には、飼い慣らされたウサギのような女性だ。間違いなく野生ではない。一人で生きてこられたのが不思議でならないとシャルルは思う。
おそらく稀に見る強運の持ち主なのだろう。見てくればかりが華々しく、実際は国一番の硬派(奥手)で知られた王太子殿下を落とすほどだ。
「正式な婚約発表以降、オレリア嬢の名前を使ってリディ嬢に嫌がらせが起こっているということを利用させてもらい、誘拐犯はファサイエル侯爵家の者であるという風に仕立て上げました」
もちろん種明かしは早々に行われ、侯爵家には謝罪するつもりだったとランベールは続ける。
「ちなみにオレリア嬢。私が計画者であると予想がついたのはどのあたりかな」
自身と生家に寄せられる疑惑を晴らしたオレリアは、語り手の立場を完全にランベールに渡していたが、ふいに振られた話にも慌てた様子はなく、落ち着いた声で応える。
「虚偽を証言したのが五人という人数、やけに念を入れるとは思っていましたの。ここ来る前に彼らの顔を確かめに行ったら、ヴァルナ公爵閣下の屋敷で見かけた顔でしたので」
まるで良い生徒を持った教師のように――距離さえなければ実際に頭でも撫でそうなランベールが、オレリアにそれはもう甘く微笑む。
「なるほど。もし殿下や側近が直接彼らに会っていれば、同じようにわかってしまったかもしれないな。……もっと早い段階に、ね」
もちろん、他家の使用人の顔を覚えているオレリアが少し特殊ではある。
けれど違和感を感じるきっかけにはなっただろうと、シャルルも思う。
公爵家に仕える使用人ならば、平民のそれよりは身のこなしも整然と鍛えられているはずだ。街中で疾走する馬車に家紋を見たと証言する人間が、一様に同じ雰囲気を持っていたならば、何かがおかしいと感じたかもしれない。
言葉を失う王太子に、ランベールは今さら仕方がないことだと肩をすくめる。
「リディ嬢がまんまと誘拐された時点でほぼ決定ですが、最期の賭けだけあって判定は緩めに設定してあったんですよ。見事に我々の偽装を看破してリディ嬢を自ら救い出すことが叶えば、コインは表。全敗は免れたはずでした」
それだけと言えば、それだけだ。
ここ三ヶ月のありがちな嫉妬を抱いた女たちの小ずるい策に翻弄され、オレリアへの不信感を募らせた王太子側は、寄せられた目撃証言をそのまま信じた。
リディ・サンリークに対する嫌がらせの根本をきちんと調べて対処するつもりがあれば、それらを指示したのがオレリアであるはずがないとわかっただろう。冷静な判断能力が残っていれば裏を取ることを怠らず、無実のオレリアや側室候補たちを追求することに無駄な時間も人材も使わずに済んだ。
――結局は、男の考えなのだ。
ドレスに飲み物をこぼされる、足を引っ掛けられる、集団に囲まれて嫌味を言われ続ける、手の早い貴族をバルコニーでけしかける。一つ一つは気にするのも面倒な嫌がらせを愛する女性が受け、イライラさせられた挙句、これを示唆したのは自ら手を下さない高位貴族の令嬢なのだと聞けばなるほどと簡単に納得する。
馬鹿馬鹿しいと真剣に取り合うのを忌避する心がそうさせるのだ。
いつだったか、オレリアがシャルルに説明したことがある。
――女など、貴族の令嬢など、浅はかな生き物である。そのように本能的に判断を下す男というものは、例えばその高位貴族の令嬢がつまらぬ嫌がらせなど指示しそうもない……やるなら徹底的に容赦なくやる頭脳があるとわかっているにも関わらず、『女は恐ろしい』の一言で済ませ、ときには衝動的にもなるとして、疑うことを止める。本当の意味で頭が空っぽで衝動的な女たちの、少し立場に困っただけで飛び出る虚言に気付かない。後に真実を知ったとき、勝手に踊らされた事実を忘れたように『女は怖い』とまたそう言う。
永遠にそこから抜け出せず、同じ過ちを繰り返す。『女は怖い』が男の定説になる。
オレリアが笑って締めくくった言葉は、女からすれば『そんな愚かな男が怖い』だ。
「実際にリディ嬢を救出したのは、オレリア嬢を始めとする王太子殿下たちが仮想していた敵方でした。まあ、まさか私も令嬢方がこうまで迅速に動かれるとはいささか予定外でしてね。おかげで筋書きがさらに複雑化して、読み物にでもしたら受けそうですよ」
――三つ目のこの賭けに勝利した者を挙げるとしたら。
(間違いなく、オレリーや側室候補たちだよな……)
だからシャルルは、言いたいことを最後とばかりに言ったオレリアに『勝利宣言』という言葉を充てた。
王太子その人から、運命の愛の前には用のない人間だとお払い箱にされた形のオレリアが、真っ向から競い合って手に入れた勝ち星とも言える。
――あなたが捨てた女はこれほどまでに優秀だったと、最期に見せつけるかのように。
(出だしが明らかに不利だったはずなんだけど)
あらぬ疑いをかけられていた時点で、オレリア側は劣勢だった。いざ事件が始まれば途中で屋敷には乱入される目に合う。もはや詰めの段階だったから邪魔もされなかったが、その瞬間がさらに早まっていれば、動きづらさは増したに違いない。
冴えわたったオレリアの感は、王太子たちよりも数段早い段階で作戦を考え、準備を整えていた。そこが唯一無二の勝因である。
だがオレリアも側室候補たちも、勝ち負けなどに興味はないだろう。
オレリアはもともと、王太子もリディ・サンリークのことも恨んではいない。逆に側室候補たちはオレリアを想うあまり、二人を憎く感じているに違いない。それならこの程度の鬱憤晴らしで済むはずがない。むしろ手際の悪い男共の様子を見て、なおさらに苦い思いを募らせているかもしれない。
女性とは、実に難しい。
「……で、残り二つの賭けの内容は何だったんだ」
冷静さが足りなかったというランベールの指摘そのままに、オレリアに向かって詰っていた姿が嘘のように王太子は静かな声を出した。
こうなれば、ありのままを受け止めるしかないと思っているのかもしれない。
(んー、兄上。やっぱりそれは後の祭りというか、さ)
賭けには全敗している。
既に提示されているその情報から、どうしてもシャルルはそう評価してしまうのだ。