第二話:ヴァイオリン演奏会
「ああ、志狼、もう一度氷鉋のお嬢さんに会ってくれないか」
父さんは帰るなり、僕にそう言った。
「『つかみはOK』だそうだ」
「はい?」
何の事だ。
「黒羽さんは、相当に人が苦手らしいのだが、お前を気に入っていたらしくてな」
それは、使用人としてという事だろうか。
「ついては、ここに都合よくチケットが二枚!」
効果音でもつきそうなくらいに勢いよく、父さんは二枚のチケットを取り出した。
「ヴァイオリン演奏会のチケットだ。付き添いとして、氷鉋家のメイドさんも」
しかし、さきほどとは打って変わって真面目な顔になり、声音を低く落として、父さんは一つ、釘を刺した。
「その日ばかりは、事件にならなければいいがな」
*
「クロ、入るぞ」
ノックをしたが、前回と同じように、返事はない。
「ヴァイオリンのコンサートが……」
「知ってる。そのヴァイオリニストは小織さんの知り合いだから。直に会えるわよ」
へえ、会えるのか。
小織さんとは、氷鉋家のメイドさん、小織璋さんの事だ。ずっとクロの世話をしているのだから、きっととても人間の出来た人なのだろう。
「ほら、昨日のリベンジ」
僕は、クロにお菓子の包みを渡した。
中身は、おかきだ。
こういうお菓子は好みらしく、クロはおかきに手を伸ばしたが、一口齧って、顔を顰めた。
「辛い」
一体何が好きなんだ、お前は!
それに、そんなに辛いか?このおかき。
確かに表面に唐辛子が付いているが、ほとんど感じられない程の、辛味だった。
まあ、僕が辛党だからかもしれないけれど。
クロはおかきにはもう、目もくれず、本を読み出した。昨日のハードカバーは読み終えたらしい。
クロが本を読み出して暇なので、コンサートのチケットをじっくり見てみた。
「なになに、若き天才、18才のヴァイオリニスト西川夕希……そりゃすごいな」
僕らは14だから、たった四才しか違わないのだ。
「でも、出た杭は打たれるものよ」
これはまたネガティブな、とその時は思ったが、後になってこの言葉を思い出すと、クロはこの時既に、その後起こることを知っていたのではないかとさえ思えた。
「璋さん!久しぶり」
演奏会当日。僕らは早めに来て、控え室入りする西川夕希と、その友達や付き人の一団を待っていた。
小織さんと夕希さんが知り合いというのは本当らしく、会うなり、朗らかに談笑を始めた。
しかし、小織さんは一体何歳なんだろう。
夕希さんは18歳だが、小織さんはどこぞの有名大学を卒業しているらしく、少なくとも20代だ。
けれど、夕希さんと話す小織さんは、18歳の少女のようにも見えるし、たまに見せる落ち着いた雰囲気は、ずっと年上の女性にも見える。
「紹介するわ、夕希さん。お仕えしている家のお嬢様の、氷鉋黒羽さんと、お友達の立森志狼君」
僕は軽く会釈をする。
クロも頷くように、微かに会釈をしたものの、どこまでもマイペースに、西川さん達を観察している。
今日のクロは、よそ行きの黒いスリーピース姿に、首に小さなベルのついたチョーカーを着けていて、それが何だか猫の首輪のようだった。
「よろしくね。こっちも左から順に、友達の川前良樹さん、薬学部で勉強中よ」
「よろしく」
なかなか気のよさそうな、男の人だった。薬学部らしく、眼鏡をかけている。
「次が、新藤武彦さん。お母さんのお兄さん……叔父さんね」
「どうも」
新藤さんは中年の男性で、煙草を口から離し、挨拶する。ここまでの運転手役を務めていたらしい。
「そして……お母さんであり、マネージャーの西川由衣」
「こんにちは」
何だか、プライドの高そうな女性だった。しわ一つないスカートが、几帳面な性格を現している。
西川さんは、その几帳面な性格から、兄の新藤さんの服装を注意する。
「兄さん、もうちょっと良い格好してきてよ。だらしない」
「うるさいな」
二人はあまり仲が良くないようだ。几帳面な西川さんと、見た目からルーズそうな新藤さんでは、兄妹といえど、確かに相性は悪そうだ。
「あの二人は何時もこうだから気にしないで――それにしても、今日は暑いわね」
夕希さんは、バッグから水色のハンカチを取り出すと、額の汗を拭った。
「そろそろ控室で着替えてくるわ。また後でね」
そう言って、夕希さんは本番用ドレスに着替えに行った。
まだ開演には時間がある。僕はクロと小織さんとで、建物の中を適当にうろつくことにした。
「クロ、随分おとなしいな」
「そう?普段はこんな感じよ」
そういえば、クロは人が苦手なんだったか。僕からはとてもそんな風には見えないが。
「ふざけないでよ、兄さん!」
「ふざけてなんかいない!お前のやり方は横暴過ぎると言っているんだ!」
西川さんと新藤さんの声だ。うわあ、完璧に喧嘩になっている。
「そういえば、小織さんは何処で夕希さんと知り合ったんですか?」
「昔、少しヴァイオリンをたしなんでおりまして。私が先輩で、夕希さんが後輩だったんです」
「そうなんですか。今はやってないんですか?」
小織さんは、何故だか少し哀しそうに微笑んだ。
「ええ、今はあまり。昔、少し腕を怪我してしまって……」
「そうだったんですか……」
その場に訪れた、どこか重たい空気を振り払うように、小織さんは明るい声をだした。
「そうだ、夕希さんの控え室に行ってみませんか?もう本番用のドレスになっていると思いますし」
僕らは夕希さんの控え室に向かったが、人生そう甘くはなかった。
「迷った……」
さっきから、ぐるぐるとずっと同じところを回り続けている。
クロならば場所がわかるのではないかと思ったが、さっきからずっと二ノ宮金次郎スタイルで、本を読みながら歩いているので、助言は期待出来そうに無い。
さっきから何分経っているだろう。もう始まってしまうんじゃ……。
「あ、夕希さん」
その時、ちょうど、女子トイレから夕希さんが出てきた。
手を振って水を切っている。
「良かった……迷ってたんですよ」
「あはは。広いもんね、この建物」
「それが本番用ですか?」
夕希さんは、ノースリーブのシックなドレスを着ていた。後ろにチャックの付いているタイプで、胸のコサージュが洒落ている。
「ええ、そうよ。もうすぐ開演だから。そうだ、終わったら控室に来てくれない?ここで会ったのも何かの縁だし」
「いいんですか!?是非行きます」
「ありがとう。それじゃあね」
そして、開演に向けて、僕らと夕希さんはその場を離れた。
本番の、幕が開けた。
ヴァイオリンを持った夕希さんが、ステージの真ん中へ出てきた。
さっきまで普通に会話していた人が、今ステージの上に立っているとは、何だか変な感じがする。
夕希さんは、ヴァイオリンを左肩で支え、弓を構える。
そして、弓と絃が触れた瞬間、花が開くように、弦楽器の音色が流れ出した。
「すごい……」
僕は驚嘆のため息をついた。
「また腕を上げたみたいだね」
そういったのは、夕希さんの友人である、川前さんだった。
この場にいるのは、僕とクロ、小織さん、川前さんの四人だった。西川さんはマネージャーとしての仕事があるのか、ここには居らず、新藤さんも、クラッシックは苦手なので、外に出ている。
「そうかしら」
クロが、僕と川前さんの感想とは違った意見をもらした。
「あの人、あまり楽しくなさそうだわ」
小織さんも、首を傾げている。
それから、二時間半余りが経ち、夕希さんの演奏会は大成功に終わった。
僕らは早速、夕希さんの控え室へ行く。
「あれ?どうしたんですか」
僕らが見たのは、控え室の前で難儀している、夕希さんの姿だった。
「ああ、皆……控え室の鍵は何時もお母さんが持ってるんだけど、見つからなくって……」
「どうしたんだろう。守衛室で合い鍵を借りてきます。
言うやいなや、川前さんは守衛室へ向かった。
「もう、お母さんったらどこ行っちゃったのかしら」
僕はドアノブを押してみた。確かに鍵がかかっている。
三分ほどして、川前さんが戻ってきた。
「借りてきましたよ」
鍵を、鍵穴に差し込む。
「!!」
そこには、夕希さんのお母さん――西川由衣さん、いや、西川さんだった死体が倒れていた。